第2章 学食情勢は複雑怪奇<前編>
通りすがりの生徒から祥子の居場所を聞いた司は、彼女がいるという剣道場へと走っていった。
桜稜の剣道部は総部員五十名近い大所帯である。祥子の全国大会優勝で勢いにのっており、剣道場をこの春に改築したばかりであった。
「カツ丼の勝利を願ってぇ!」
「えいえいおー!」
奇怪な掛け声が剣道場から聞こえてくる。祥子がいることを確信し、司は玄関で靴を脱ぎ捨て、道場の扉を開けた。
「おい、祥子!」
「あ、司!」
司の姿を見て、祥子の顔が一瞬ほころぶ。だが、すぐにいつもの厳粛な女剣士の顔に戻り、部員たちへ視線を戻した。
「諸君! 私の目的はカツ丼の死守存続である。私はあれを食べて全国優勝を成し遂げたといっても過言ではない!」
絶対過言だろと思いながら、司はバカ騒ぎをやめさせるべく祥子のほうへ歩いていく。
「?」
司の腹部に身に覚えのある感触が伝わる。イヤな予感がして、視線を落とすと竹刀の柄部分が当たっている。
「お姉さまがお話してます。お静かに、先輩」
言葉の内容から敬意のかけらもない口調まで、風間とそっくりである。見ると栗色の髪を祥子と同じポニーテールに結った小柄な剣道少女が微笑んでいた。
「小林……虎美……」
小林虎美は祥子率いる桜稜女子剣道部の一年生である。一年生ながらその剣の腕は天才的で、すばやい身のこなしから桜稜の小天狗とあだ名されるほどだ。
顔立ちもいい。丸い瞳は切れ長の祥子とは対照的で、ロリな魅力に満ちている。妹にしたい新入生という怪しげなランキングで圧倒的票数を集めたのも当然のかわいさだ。
だが、今の虎美を見て、かわいいとか萌えとか言う人間はいないだろう。敵意を氷の中に隠したような視線で司を見すえている姿は、まさに桜稜の小天狗の異名にふさわしい。
簡単に言ってしまうと、この小林虎美は司を嫌っている。あわよくば殺してしまえないかと考えたことも一度や二度ではない。人生修行が足りないため、その嫌悪感が肌から飛び出て、彼に会うとハリネズミのようにトゲトゲしくなるのだ。
「久しぶり……だな」
「二度とお会いしたくないんですけどね。あと、久しぶりではありません。残念ながら一昨日会っています」
取り繕いの挨拶をにべもない態度で返してくる。返答に窮する司は、祥子へ助けを求めようとするが、その視線を虎美がさえぎった。
「ここは剣道部の道場です。部外者はお引取り願えますか?」
「でもさ……オレ、祥子に用事が……」
祥子の名前を口にした瞬間、虎美の殺気が物理的質量をもって司に叩きつけられる。バクステップで反射的にそれをかわし、距離をとることができたのは、剣道を祥子と一緒に習っていた日々の賜物だろう。
「ちっ!」
少女とは思えない軽捷さで虎美が距離を詰めようとする。すでに竹刀は中段に構えられていた。司は手近にあった竹刀をとり、防御の体勢をとろうとした。
「やめないか! 虎美!」
「あ、お姉さま」
背後から響く祥子の声に虎美の殺気が急速にしぼむ。そして、彼女はさっきの様子がウソのように愛らしい姿となって、クネクネと祥子へ駆け寄っていく。
「天道先輩がお姉さまの訓示を邪魔しようとしたので、注意してたんです」
頬を赤らめた虎美が殊勝げなことを言う。さっきのはどう見ても注意ではなく襲撃だと考えながら、司は持っていた竹刀を元の場所へ片付ける。
「危ないことはするんじゃない」
「はぁい、お姉さまったらお優しい」
年齢相応のかわいらしさで虎美が返事をする。とんだネコかぶりである。祥子もそのことに気づいているので、何とも微妙な表情をしていた。
虎美は男に興味が無い。いや、女にも興味が無い。入学したときの部活見学で祥子を見て以来、祥子のことだけを一途に思う恋する乙女なのだ。
髪型がポニーテールなのも、稽古に熱心なのもすべて祥子のためである。行動ベクトルのほとんどが祥子を中心にしているため、祥子と仲のよい司を蛇蝎のように嫌っている。
「何の用だ? 私たちはカツ丼派への勧誘で忙しいんだが」
「それだよ。それ」
バカ騒ぎになる前にやめさせないといけない。コイツらが本気になれば全校に波及してしまうのだ。校内を二分する大戦争にでもなれば取り返しがつかない。
「だから、お前らこういうことは話し合いで仲良く……」
「で、お前はどっちにつくのだ?」
司の言葉をさえぎって祥子が聞いてくる。剣道部全員の視線が司に集まる。全員が竹刀を持っているので、ぶっそうなことこの上ない。
「え……あ……そういうことはさ」
「中立は認めません。お姉さまにつくか、お姉さまの敵になるかです」
虎美が周囲の険悪な空気を煽る。どう見ても敵に回ってほしそうな顔で司を見ている。祥子が間にいなければ十回ほど切りかかってきそうな雰囲気だった。
「お前は子供の頃からカツ丼が好きだったろう? 当然カツ丼だな?」
「そりゃあ、カツ丼は嫌いじゃないけどよ。そういうことじゃ……」
背中が壁にぶつかる。いつの間にか後退していたらしい。じりじりと距離を詰めてくる祥子と虎美に、司の背筋が寒くなる。
「ねえ、ちょっと……冷静に……」
「祥子ぉぉぉぉぉ!」
剣道場を震わせるほどの大音声であった。何事が起きたかと司は首を伸ばして声がした玄関付近を見る。
そこには身長二メートル近い巨漢が立っていた。甲冑でも着ているのかと思うほど分厚い胸筋と鋼を束ねたような太い腕を持った男子生徒で、太く黒い眉毛と金色に染められた髪がちぐはぐだった。
「お、お客さんだぞ……」
司が指摘すると、祥子と虎美がさもイヤそうな顔でため息をつく。
「司。ああいうのは客とは言わないのだ」
「病原体。もしくは迷い込んできたゴリラです」
どうやら招かれざる相手らしい。だが、追い詰められていた司にとっては時の氏神のようにも思えた。妙に暑苦しい氏神ではあったが。
「大雪山の修行より、ただいま帰還! 今日こそはお前を落として見せる! 勝負だ!」
巨漢はそう叫んでボロボロのナップザックを放り出す。そして、圧倒的な説得力を持つ筋肉を誇示するように身構えた。
「はあ……いい加減諦めてくれ兄江」
ため息をついて祥子は竹刀を置くと、立てかけてある黒い木刀を取る。何度か振って握り具合を確かめると、男の前に相対した。
「わかっているだろうな」
「ああ、さっさとこい」
男の問いをめんどくさそうに祥子が答える。いつの間にか観客の一人になった司は隣に立つ虎美に質問をしてみた。
「ねえ、アイツって誰?」
虎美は司のほうをジロリと見上げ、そして苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てるように答える。
「兄江総一郎。桜稜高校空手部所属の二年生です」
「へえ、同級生か。で、空手部がなんで剣道部の祥子に勝負を挑んでくる?」
司の言葉に虎美は明らかに聞こえる大きさで舌打ちをする。そこまで嫌うことはないと思いつつ、司は大人の態度で答えを待った。
「あの筋肉ゴリラは身の程知らずにお姉さまへ交際を申し込んでいるのです。で、あまりにもしつこいのでお姉さまが……」
「自分に勝ったら交際してやるってか」
「……そういうことです」
虎美がプイッとそっぽを向く。司はそんな彼女に苦笑すると改めて対峙する両者を見比べる。
兄江の迫力はすさまじい。全身をみっしりと筋肉が覆い、構えにも乱れが無い。パワーだけではなく、かなりの技の持ち主だというのがよくわかった。
対する祥子は悠然と構えている。油断ではなく全身をリラックスさせ、どんな攻撃に対応できるようにしているのだ。だが、表情は厳しい。祥子ほどの技量でも楽な相手ではないらしい。
「いざ!」
剣道場の床を踏み抜かんばかりの勢いで兄江が動く。しっかり狙いを定めた拳が祥子のボディへと伸びる。祥子はそれを読み、カウンターで突きを放った。
「しぃ!」
兄江が首をひねって突きを間一髪でかわす。すれ違いざまに下段蹴りを放つが、祥子はそれを飛鳥のように飛んで交わした。
「先月のオレと同じだと思うなよ!」
空中では身動きがとれない。着地の瞬間に一撃を入れれば兄江の勝ちである。勝利を確信し、兄江は追撃の拳をふるった。
「祥子!」
「お姉さま!」
兄江の剛拳が細身の祥子の体を捉える。あまりの威力に、祥子の体は空を舞った。
「なに?」
一撃をいれたはずの兄江の顔がゆがむ。攻撃を受けたはずの祥子はバランスをとると、ふわりと床に降り立った。その顔にはダメージの影は無い。
「どうした? お前の拳はこの程度か?」
余裕の笑みを祥子が浮かべる。部員たちは何が起きたかわからずに顔を見合わせる。虎美でさえ、事態が理解できない様子だった。
「なるほどな」
「わかるんですか?」
司は祥子がやった離れ業を理解した。もちろん、推測の段階を出ないが祥子ならやりかねないと確信している。
「吹っ飛ばされたんじゃない。自分から飛んだんだよ。兄江の拳が当たった瞬間にアイツの腕を踏み台にして後方へダメージを逃したんだ」
「はあ?」
司の説明に虎美や部員たちが驚愕する。マンガのキャラじゃあるまいし、そんな離れ業ができる人間がいるとは思えなかったのだ。
だが、目の前に祥子は立っている。ちなみに兄江の拳は空手界でも有名な剛拳で、「ゴリラハンマー」の異名を持つ。そんなものをまともに食らってスレンダーな祥子が立っていられるはずがない。ダメージを我慢したというよりは納得ができる。
「す、すごいですわ! お姉さま!」
熱っぽい濡れた声で虎美が歓声をあげる。部員たちも感嘆の声を思わずもらす。祥子はその声も耳に入らないかのように落ち着いた動きで、兄江と距離を詰める。
「さすがだぜ……さすがオレの嫁!」
「誰が嫁だ……嫁が欲しいなら抱き枕とでも結婚してくれ」
あまりの妙技に感嘆する兄江の言葉に祥子は眉をひそめる。正眼に構えたまま、ゆっくりと前進する。攻撃に転じるつもりだ。
「ちぇぇぇぇ!」
裂帛の気合とともに上段から木刀が振り下ろされる。すぐさま兄江がガードのために腕をあげるが、何の衝撃もこない。
「ぐ!」
わき腹に強烈な衝撃。祥子の木刀が軌道を変えて横から襲ったのだ。次々と変化していく剣の軌道に、兄江のガードが間に合わない。
攻撃がさらなる攻撃の伏線となり、防御がまったく機能しない。兄江の動きは完全の祥子の掌握するところなり、木偶の坊かマリオネットのように攻撃を受け続けるだけだった。
「すげえ……」
圧倒的な試合内容に司も吐息をつく。考えてみれば祥子の本気を見るのは数年ぶりだ。まさかここまで強くなっているとは思わなかった。
「見ていなさい。百式が出ます」
「百式?」
虎美の言葉を聞き返した瞬間、観客たちの視界から祥子の剣が消えた。いや、虚実取り混ぜた剣の動きに目がついていかなくなったのだ。
そして、兄江の体に機関銃のような打突が突き刺さる。相手の視界を幻惑してからの、目にも留まらぬ連続攻撃。公式戦でも滅多に使うことのない祥子の必殺技・百式であった。
「ま、まいったぁぁぁぁ!」
全身にアザを作った兄江がたまらずヒザをつく。あれだけの打撃を受けてまだ動けるこの男のタフネスもたいしたものだと司は感心する。
兄江の降参を聞いた祥子は、距離をとって残心をとる。降参を申し出てから奇襲を受ける可能性を考えての行動だ。梓川祥子という剣士は心の隅々まで武人であった。
「なかなか腕をあげたな。お前相手に百式を使うとは思わなかったぞ」
「そ、そうか……では!」
祥子が自分を認めてくれたことに喜び、兄江の顔が輝く。だが、祥子はまた冷たい顔に戻って、兄江の熱視線を跳ね返す。
「お前の言った条件は私に勝ったら付き合ってくれだろう。いや、勝っても絶対に付き合わないが」
「そんなぁ」
兄江の顔が涙にゆがむ。無邪気というか単純というか。やり方はムチャクチャだが、間違いなく面白いのは確かだ。司はこの巨漢に好感を持った。
「あ、そうですよ。空手部にも協力してもらいましょう」
虎美がいらないことをつぶやく。すると、祥子もポンと相槌を打つ。司は事態がどんどん大規模になっている現場の目撃者となっていた。
「おい、兄江。お前のところの荒木は煉武会の代表だな」
「は? 荒木部長は煉武会の代表をやっとるのか?」
キョトンとした顔で兄江が聞き返す。祥子は顔をしかめて、虎美のほうを見やった。
「こいつ、修行に行きまくっててロクに部活へ顔を出してないみたいだ」
「お姉さまに負けるたびに山ごもりするんですから、仕方ありませんよ」
ちなみに煉武会は桜稜にある武道系部活動を束ねる組織であった。空手部、柔道部、剣道部を中心に大小二十ほどの部や同好会が参加しており、総会員数は五百人近い。
そして、現在の煉武会を率いているのは空手部の荒木熊助。「空手の鉱脈を掘りつくした男」とか「カラテマスター」「リアル大山培達」と呼ばれる男である。大山培達先生は実在の人物だと思うのだが、そこは誰もつっこまない。
「まあ、いい。お前は荒木に気に入られていたはずだな」
「そうなのか? 会う度に死ぬほど稽古をつけられるぞ」
それは期待されているということではないかと司は思う。ウワサでは荒木は目をかけた後輩へは特に厳しく指導するらしい。いい先輩である。
「あれは気に入っているということなのか……まさか、荒木部長はオレのことを!」
「ええい! いいから黙って聞け! 話が進まない! 正座!」
勘違いの多い兄江に祥子が堪忍袋を爆発させた。その剣幕にさしもの兄江も驚き、巨体を小さくして正座する。
「実は煉武会を使って、カツ丼派の支持者を増やしたいのだ」
「カツ丼派?」
状況が飲み込まない兄江はひどく間抜けな顔でポケッと祥子を見上げる。体もゴリラ並みだが、頭もゴリラ並みなのだろうかと司は思った。
しかし、煉武会がカツ丼派に回るとなれば一大事である。もちろん、煉武会の中にはカツカレー派もいると思うが、縦社会がしみこんでいる集団だけに代表の荒木がカツ丼支持に回れば、全員がカツ丼を支持する可能性は高い。校内最強の武力集団が結束してしまえば、もはや誰も止められないかもしれない。
「よくわからんぞ」
「ええい! まだるっこしい!」
ピンとこない様子の兄江に祥子が腹を立てる。すると、虎美が音もなく祥子の横に立つ。
「私にお任せください」
「え? 何?」
祥子が戸惑うのを無視して、虎美はするすると兄江の前に立つ。そして、アメフトのショルダーアーマーのような兄江の肩をポンと叩き、こう言った。
「お姉さまは兄江先輩を男と見込んでお願いしているのです。荒木先輩がカツ丼派へ協力してくれるように頼んでくれと」
「何!」
虎美の言葉に兄江は決然と立ち上がる。そして、感極まった顔で祥子へと近づいてきた。身の危険を感じたのか、祥子は木刀の柄を握る。
「オレを頼りにしてくれるのか! うれしい、うれしいぞ祥子」
兄江の頬を涙が伝った。ほれている祥子から協力を求められたことがよほどうれしかったらしく、すがりつくように祥子の手をつかんで泣き崩れる。祥子に触れた瞬間、虎美が目をむいて竹刀を握るが、祥子が目でそれを制した。
「あ、う、うん……頼む兄江! お前の力が必要なのだ!」
「承知した! 男・兄江総一郎の命をかけて空手部を、いや煉武会すべてをカツ丼派へ変えてやる」
男泣きの見本のように兄江が泣く。全員の注目が集まっているのを好機だと思った司は、そっと剣道場から抜け出した。




