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第5章 宣戦布告

「聞いたか?」

「ああ、校内戦争だってよ」

「久しぶりだな。今回はあの高原と梓川だろ? 派手になるぜ」

「猫野センパイが高原についたんだろ? こりゃあ、カツカレー派だな」

「バカ。梓川んとこは煉武会の荒木先輩と兄江だぜ? 桜稜最強の空手部だろ」


 司が登校した頃には、校内戦争の話題があちこちで囁かれるようになっていた。

 廊下を歩きながら、生徒たちのヒソヒソ話を聞いた司は、まっすぐに山倉の席へと歩いていき、授業の準備をする彼に声をかけた。


「よう」

「ああ」


 教科書を出している山倉は落ち着いた視線で、司を見上げる。司は周囲で校内戦争をウワサしている生徒たちをチラリと見てから、山倉へ視線を戻した。


「どういうこった?」


 山倉から校内戦争のウワサを聞いたのはつい昨日である。まさか翌日に学校中にウワサが広がってるとは思わなかった。新聞部のリークを疑っている司は、剣呑な表情で山倉を見下ろす。


「知らんよ」

「知らんてな……」


 桜稜の情報ソースを一手に引き受けているのは新聞部である。ここまで情報が広がるならば、彼らが動いていないほうがおかしい。

 だが、山倉はじっと司の眼を見つめた後、首を左右に振る。その様子にウソはついてないと感じ、司は怪訝そうな顔になる。


「うちは一切流していない。すでに部員全員に確認はとっている。そもそも、アレはオレと鮎川さんしか知らない」

「じゃあ、誰が……」


 その時、廊下のほうで生徒がさざなみのようにざわついた。見ると武装風紀の腕章をつけた一団が歩いていくのが見えた。


「生徒会か……」

「武装風紀には二つの顔がある。風間のような腕に覚えのある連中が集まっている武装風紀は表の顔だ」


 山倉の声が小さくなる。生徒会の実行部隊である武装風紀には謎が多い。桜稜では武装風紀は生徒会長が変わるたびに組織が一新されるため、全容がやたらつかみづらい。メンバーはすべて生徒会長が任命するし、その活動内容も会長によって変化するのだ。

 しかも、現在の生徒会長は歴代でもっとも腹の読めない会長と言われる遠山シオンである。そのくわしい組織構成は、新聞部でさえ把握していない。


「裏の武装風紀……存在は未確認だが、あるのかもしれん」

「そんなもん、都市伝説だろ?」


 裏の武装風紀のウワサは司も知っている。生徒会長から命令を受け、さまざまな活動を行うもう1つの武装風紀があるというウワサだった。普段は一般生徒として、武装風紀とは縁のない生活を送り、命令があれば任務を行うというスパイ組織か忍者のような存在だという。


「情報の伝播が早すぎる。新聞部以外にこんなことができるのは連中くらいだ」

「マジかよ……」


 山倉の顔はどう見ても冗談を言っているようには見えない。だが、その裏の組織がなぜウワサを流したのか? 当然の疑問が司の脳裏に浮かぶ。


「顔ぶれを考えてみろ。煉武会のトップに科学部に猫野センパイだぞ。生徒会にとって眼の上のタンコブが潰しあってくれるんだ。ありがたいと思わないか?」

「まあ……でもよ」


 司は言葉を濁す。まだ、校内戦争が決まったわけではない。生徒投票で決着がつくという道がまだ残されている。

 そのことを司が口にすると、山倉は薄く笑みを浮かべて首を横に振った。


「この空気だぞ? ほとんどの生徒が校内戦争を期待している。こんな状況で梓川の単細胞が乗ってこないと思うか?」

「誰が単細胞だ?」


 司のすぐ後ろで声がした。驚いて振り向くといつの間にやってきたのか、祥子が椅子に座って、授業の準備をしている。


「お、おはよう、祥子……あのな」

「昨日も言ったが受けて立つぞ。校内戦争」


 朝の挨拶をさえぎって、祥子が静かにつぶやいた。当事者の言動を聞こうと耳をそばだてていた生徒たちからざわめきがもれる。


「やっぱ校内戦争だってよ」

「梓川と高原か。二年最強の美少女が決まるな」

「猫野センパイと青樹先輩もいるらしいぜ」

「荒木先輩や松田先輩もやるんだろ? 三年オールスターじゃん」

「鮎川先輩は?」

「いつも通り、中立だろ。いいんだよ。あの人は別格だから」


 好き勝手なウワサが飛び交っている。司は大きくため息をつき、祥子へ翻意を促すべく声をかけようとした。

 だが、祥子はこちらを見ようともしない。黙々と準備を続ける姿は、司からのいかなるアプローチも拒絶しているように見える。


「おい、何かやったな?」


 変化を察した山倉が小声で司に声をかけた。司はしばし無言でいたが、意を決して祥子へ声をかけるために口を開く。


「さ……」

「オラ、ホームルームの時間だぞ。お前らさっさと席に着け。ほら、ほかのクラスのヤツは自分のクラスへ戻れ」


 担任の宮崎がいつも通りの緩いノリで現れる。生徒たちはぶつくさ言いながらそれぞれの席へと戻っていく。タイミングを完全に逃した司は、渋々自分の席へと戻った。


「梓川祥子!」


 静まりかけた教室に怒りに震えた声が響いた。驚いて振り向いた生徒たちの視線は、教室の入り口に立つ小柄な少女へ注がれる。

 高原香織である。


「少しは見どころのある人間かと思っていましたが、見下げ果てた人でしたわね!」


 地響きでも起こしそうなほど強い足取りで、香織は祥子の席まで歩いていく。祥子は沈黙したまま、背筋を伸ばして香織の怒りに満ちた視線を受け止める。


「おーい、高原。ホームルームの……」

「黙っていてください! すぐ済みます!」

「……はい」


 宮崎の注意を一喝で黙らせると、香織は両拳を腰にあてて胸を張る。祥子を見下ろす香織の顔は、司が見たこともないほど厳しかった。


「どういうことなんだよ、香織」

「司は黙ってて! これは梓川さんと私の問題です!」


 司の言葉さえ拒絶し、香織は祥子をにらみつける。祥子は表情ひとつ変えずにゆっくりと口を開いた。


「私が何をしたというのだ?」


 事務的に聞こえる抑揚のない声だった。祥子のこんな声は今まで聞いたことがなかった司は、驚いて彼女を凝視する。

 祥子の瞳がじっと香織を見上げる。いつもなら勝気な光が生き生きと輝くのだが、今日は暗く虚無的な色合いを湛えた瞳だった。


「とぼけるのですか! うちの部長を襲撃しておいて!」

「玲川さんが?」


 先日の玲川の温顔を思い出し、司は声をあげる。すると香織が振り向き、大きくうなずいた。

 その瞳がキラリと光っている。涙であることは誰でもわかった。


「昨日の夜に寮へ帰る途中の玲川部長が何者かに襲われました。襲撃者は木刀を使い、かなりの腕前だそうです」


 香織の言葉にクラス全体がざわつく。木刀を武器とするのは誰でも、剣術に秀でているとなれば剣道部への疑いが真っ先に集まる。

 その上、襲撃は寮への途中で起きたという。桜稜の寮は学校敷地内にある。外部から侵入して襲撃するのはかなり難しい。

 クラス中の疑いの目が祥子へ集まる。だが、祥子はその事実を聞いても沈黙し、微動だにしない。


「どうなんですか! あなたがやったのですか! それともやってないのですか!」


 激高した香織の言葉も祥子の無表情を崩すことはできなかった。祥子は彼女を見つめている司へ視線をかすかに移す。

 数秒間、二人の視線が合った。司は彼女の視線に耐え切れずに、そっと眼をそらしてしまう。


「……もしも、我々がやったならどうだというのだ?」

「戦争です! 校内戦争を宣戦します!」


 ざわめくクラスが一気に静まり返る。さきほどからウワサされていたことが目の前で決定したのである。誰だって唖然としてしまう。

 どうすればいいかわからずに司は山倉のほうを見る。すると、山倉は司を非難するような目で視線を跳ね返し、我関せずといった顔で教科書へ視線を落とす。


「やっと、ふんぎりがついたようだな。いいぞ、こちらに異存はない」

「!」


 祥子が冷たく笑う。幼い頃から彼女と一緒だった司だったが、祥子のこんな表情を見たのは初めてである。

 彼女を知らない人間が見れば、その顔は美しいと見えるのかもしれない。整った顔を冷たく研ぎ澄まし、生来の凛然とした雰囲気が加わった表情は氷を思わせた。

 しかし、司にはその表情がひどく寂しく、不似合いに見えた。


「じょーとーですわ!」


 一瞬、祥子の冷笑にひるんだ香織だったが、すぐに態勢を立て直す。人差し指をまっすぐに祥子へ伸ばし、顔を真っ赤にして香織は叫んでいた。

 校内戦争勃発はこれで決定的となった。自分の無力さを感じながら、司は襲撃を受けたという玲川のことを気にしていた。



「そこまで重傷じゃないんだけどね」


 包帯を頭に巻いた玲川が、少し困った様子で答える。

 放課後、桜稜付属病院の一室に玲川を訪ねた司は、ベッドの上の彼が思いのほか元気なのでホッと息をついた。


「軽い脳震盪と打ち身が何ヶ所かあるだけだから」

「十分重傷ですよ。それは」


 湿布をはった腕を見せながら玲川が苦笑する。湿布の間から見える青いアザは確かに細長い何かで殴ったように見えた。


「三日も寝れば大丈夫だってさ。今日の午後に退院して寮での療養に入るんだ。あ、リンゴ食べるかい?」


 玲川はベッドのサイドボードに置いてあるリンゴをとって、司に差し出す。山盛りの果物カゴには「部長へ」のネームプレートがある。おそらく香織の差し入れだろう。


「校内戦争ね……」


 息をつきながら玲川がポツリをつぶやく。司は置いてあったナイフを取って、リンゴをむきだした。剣道の稽古と同じく、祖父から刃物一通りの扱いは仕込まれている。


「ええ、香織のヤツがはりきってます。まだ祥子が声をかけてない文化部系の物騒な連中に声をかけまくってますよ」


 サラサラと皮をむきながら司が疲れた声で報告する。今日も一日、なんとか香織を思いとどまらせようと説得したが、彼の努力は徒労に終わっていた。

 もちろん、もう一方の当事者たる祥子にも先日の件の謝罪をかねて接触しようとしたのだが、祥子は徹底的に司を避ける態度に出ており、虎美や兄江のガードもあって接触は失敗に終わっている。


「文化部で物騒なのと言うと……歴史研究会と特撮同好会だね」


 歴史研究会はもともと歴史をより深く学ぶための学術クラブだったのだが、いつしか無類の戦国マニアと三国志マニアの巣窟となり、実戦剣術やら鉄砲術などを研究する恐るべき武闘集団と変わり果てている。

 特撮同好会も似たようなもので、特撮ヒーローの自主制作映画を取るサークルだったものが、アクションスタントを重視するあまりに下手な武道部よりも厳しい練習を行う格闘技集団となっている。


「どっちも味方にしちまったみたいです」


 司はため息まじりに言いながら、皿の上にリンゴを並べて楊枝を突き刺す。そのうちひとつを口にくわえ、玲川へと差し出した。


「あ、ごめんね」

「ひや、ひひっす」


 リンゴをくわえたままで司が首を振る。玲川はリンゴをひとつ取ると、小気味いい音をたてて噛み砕く。


「で、先輩をやったのは間違いなく剣道部なんですか?」

「うーん、それはわからないよ。暗がりだったし、覆面をしていたからね」


 玲川が首をかしげる。香織の言ったようにかなりの手練れの剣術使いということなら剣道部以外には考えづらい。


「あ……」


 司はさっきの会話を思い出す。確か歴史研究会の中には剣術を磨いている人間が何人かいたはずである。そして、特撮同好会にも剣戟アクションの訓練をしているヤツがいるかもしれない。

 すぐに司はそのことを玲川に話す。しかし、玲川は眉をひそめて首を横に振った。


「もし、彼らが犯人だとして、メリットはどこにあるんだろうね? ボクを襲撃しても彼らにメリットはないんじゃないか?」

「あ、そうですね」


 動機というのを考えてなかった。司はまた考え込み、病室に沈黙が流れる。そんな後輩の姿を見かねたのか、玲川が優しい声をかける。


「まあ、犯人探しは新聞部や鮎川くんにお願いしようじゃないか」

「あ、それですが……」


 山倉の話によると鮎川は今日から数日どこかへ出かけるのだという。理由はわからないが、校内戦争の日には帰ってくると言っていたらしいが、有力な先輩の助けを借りられなくなったことは司にとって大きな痛手である。


「そうか……鮎川くんが」


 窓の向こうに視線を転じ、玲川がつぶやく。司はその顔を覗き見ようとしたが、玲川はすぐに顔をこちらへと戻した。


「とにかく双方が同意した以上、校内戦争は始まってしまうよね」

「ええ、もう俺の力じゃどうしようも……」


 意気消沈して弱音を吐く司の肩を玲川が叩く。顔を上げるといつもの優しい顔が笑っている。


「まだ終わったわけじゃない。最後の最後まであがこうじゃないか。ボクも影ながら応援している」

「玲川さん……」


 司の胸に熱いものがこみ上げる。一瞬、目頭から涙があふれそうになり、あわてて天井を仰ぐ司を玲川は穏やかな顔で見つめていた。



「さすがは裏武装。見事な手並みだね」


 満足そうにシオンがうなずく。彼の前に座る人物はその賞賛に何の反応も示さない。


 異様な外見であった。男子にしては小柄な体を学生服に包んでいるのは別段おかしくはないが、その顔には黒布で作られた頭巾がかぶせてある。頭巾は眼以外のすべてを隠しており、まるで時代劇の忍者のような風貌であった。


 同席している風間もこの男の正体は知らない。裏武装の一員であるこの男の正体を知っているのは、生徒会長であるシオンだけである。


 この男に会うたびに風間は不気味なものを感じる。本物の忍者のように物音ひとつさせない動きから、かなりの腕前であることはわかるが、それ以上に得体が知れないのだ。

 シオンの猟犬の異名通り、風間は犬のごとくにシオンの身辺近くにいる。だが、その風間でさえ、この男が生徒会室に入っていく姿を見たことがない。彼が生徒会室ドアの前に立っていた時でさえ、この男は忽然とシオンの前に姿を見せた。


「カツカレー派は玲川襲撃がカツ丼派の仕業だと思っています」

「まあ、木刀での攻撃である上に、襲撃者はかなりの腕前の持ち主だとわかるケガのさせ方だからね。この学校でもあれだけの腕を持っているのは梓川と小林……あと剣道部に数人しかいない」

「オレを除けばですが」


 覆面の奥が笑う。風間はその時、男の学生服の腰辺りから鈴がぶら下がっている事に気づいた。

 何の変哲もない銀色の鈴が揺れている。しかし、驚くべきことに音がなっていない。


「気になるか風間?」


 風間の視線に気づいた男が笑い混じりの声をかける。すると、鈴がリンと音を響かせる。


「忍術の基本だ。鈴を鳴らさぬように歩く。クセになっていて、気を抜けば音がしなくなるのだ」


 男の言葉の意味を知り、風間は背筋が寒くなる。男は体重移動をほぼ完璧にコントロールしているのだ。それがどれだけ困難なことかは、西洋と東洋の違いがあるとはいえ、自らも剣を操る風間にはよくわかっている。


「次の役目は何でしょうか?」


 覆面の問いを聞いたシオンは手に持っていたココアの香ばしい匂いを楽しみながら、焦らすかのような仕草を見せた。


「これで連中は校内戦争へ突入する。僕らはそれをのんびり眺めた後に、生き残った連中を刈ればいい。楽な仕事だよ」

「ですが、鮎川が動いているようです」


 覆面の言葉にシオンの目が光る。この戦争に関わっていない要注意人物の中で、もっとも警戒すべきは鮎川浪漫であることはシオンも熟知していた。

 その鮎川が独自の行動をとっている。放っておける事態ではない。


「分かった。そちらはほかの裏武装に任せる。キミは表の顔で彼らと行動をともにし、対立を煽り続けてくれ」

「了解しました」


 裏武装風紀は男を含めてわずか七人の精鋭部隊である。普段は一般学生として生活しており、メンバー同士でさえ表の顔を知らないという超機密集団だった。

 実力は煉武会の幹部にもひけをとらない猛者ばかりであり、シオンにとっては大きな戦力であるが、少人数ゆえに使いどころが難しいのが欠点である。


「では、失礼します」

「ああ、頼んだ」


 一礼した男は、風間の横を通り過ぎる。ちらりと彼を見る眼光の底冷えのする鋭さに、風間は身震いする。


「!」


 視線を離したのは一瞬であった。まばたき一つか二つの間である。

 だが、そのわずかな時間のうちに男の姿は煙のように消えた。あまりのことに呆気にとられる風間をシオンは愉しげな顔で眺めていた。



 翌日の昼休み、祥子と香織はそれぞれ数名の人間をともなって生徒会長室を訪れていた。


「さて、双方ともこれでルールは理解してくれたかな?」

「ああ」

「完璧です」


 シオンの言葉に二人がうなずく。香織の後ろには松田と新たに加わった歴史研究会の会長である屋形。祥子の後ろには兄江と虎美がついている。


「ちょうど明日は創立記念日だから、校内戦争はその日に開催だね」


 校内戦争は校舎を丸ごと使う。一般の生徒を退去させて行う必要があるため、基本的に土日や祝日を利用するのが常である。


「土建部にも手配しておく。校舎が損壊された場合は、彼らが補修してくれることになっている。存分に暴れてくれ」


 土建部とは、土木工事を部活動にする集団である。下手な建築会社よりも腕のいい部員がそろっているため、桜稜では彼らが設備の補修や改築を行っている。

 調印書のサインを確認したシオンがパタンとファイルを閉じる。応接セットの机を挟んでまっすぐににらみ合う祥子と香織は微動だにしない。


「じゃあ、当日に屋上で待ってるからね。どちらが来るのか楽しみにしているよ」


 今回の校内戦争では、どちらかの大将が屋上にいるシオンが持つ「学食メニュー廃止届け」にサインすることが勝利条件となっていた。そこにサインできなかったほうのメニューが翌週に学食から消えるのだ。


「長年の付き合いですが、いよいよ決着のとき、来るですわね」

「……」


 香織が口角を上げて挑発する。だが、祥子は静かな雰囲気でその言葉を受け止め、無言を貫いている。


 いつもの短気で勝気な祥子とは様子が違うことに虎美も兄江も戸惑っている。部外者である風間でさえ、彼女の変化に奇妙なものを感じていた。

 この場で原因を知るのは香織だけである。当の香織は今ひとつノリの悪い祥子の態度に、どこか居心地の悪さを感じ、それ以上言葉をぶつけることをためらってしまう。


 しばしの沈黙が流れる。その気まずさに耐え切れずに香織が口を開こうとした瞬間、祥子が重い口を開いた。


「そうだな香織。これが最後だ……」

「サッチン……」


 幼なじみの冷たい言葉に香織は返す言葉を失う。威圧感があるわけではない。その言葉には寂しさしか感じられなかった。


 静かに祥子が立ち上がる。そして、生徒会長室を出て行こうとする彼女を香織はただ見送ることしかできない。


 祥子の様子がおかしいのは司とのことが原因であることを香織は知っている。だが、いざ祥子と面と向かうと、プライドと対抗心が邪魔をして祥子へかける言葉が出てこないのだ。


 ドアが閉じられる。完全にタイミングを逸したことを後悔しながら、香織は自分の下唇をかみ締めていた。



 天道司は校舎屋上で大の字になっていた。


 昼休み終了の予鈴が鳴っているが、教室に行く気にならない。司は朝からこの屋上でこうしたままであった。


「バカどもが」


 自分の言葉は最後まで祥子と香織を翻意させることができなかった。たかがカツカレーとカツ丼ではないか。どんなに思い入れがあるものにしても、それは単なる食べ物でしかない。学食から無くなっても別に死ぬわけじゃないと司は考える。

 だが、二人はそんなたかが食べ物のことで学校中を巻き込んだ大騒動を起こしてしまった。彼女たちの愚かさを冷笑しようとしたが、司はなぜか笑うことができなかった。


「オレのせいなのかなぁ……」

「そうかもしんないニャ」

「!」


 頭上で声がした。驚いて飛び起きると給水塔の上で脚をブラブラさせながら、女生徒がニンマリと笑っている。


「猫野センパイ……」

「なかなか青春してるようニャ。感心感心ニャ」


 いつものサイドテールをピョコピョコ揺らして猫野センパイが笑っている。司はばつが悪そうに頭をかいて、その場にあぐらをかく。


「いつから見てたんですか。恥ずかしいな」

「センパイはいつも後輩を見ているニャ。何でもお見通しニャ」


 敵わないなと思い、司は苦笑いを浮かべる。猫野センパイはネコのように音もなく給水塔から飛び降りると、司の横にチョコンと体育座りで並ぶ。


「サッチーとカオルンのことで揺れる男心って感じかニャ」

「……うー。正解っすな」


 隠していても仕方がない。正直に答える司に猫野センパイはニンマリと笑う。その笑顔を見て、司は『不思議の国のアリス』に出てきた奇妙なネコを思い起こした。


「で、司はどうしたいニャ?」

「戦争を辞めさせたいっす」


 猫野センパイがフフンと鼻から息を吐く。香織陣営にいる彼女から見れば、戦争をとめるという発想はナンセンスなのかもしれないと司はため息をついた。


「辞めさせるにはどうすればいいニャ?」

「アイツらに話を聞いてもらうことっすね。でも、アイツら話聞かないんですよ」


 意外なことに猫野センパイは司の相談に乗ってくれるつもりらしい。司は半ば諦めつつも自分の考えを彼女に吐露していく。


「戦争は明日でしょ? もう、アイツらを止める手段なんてねえっすよ。オレってダメだー!」


 自分の無力感がイヤになって、司はまた大の字に寝転がる。すると、猫野センパイはコロコロとのどを鳴らして笑った。まるでネコそのものだなと司はこの奇妙なセンパイの仕草を眺めていた。


「なかなかの根性なしっぷりニャ。こんなのに惚れるサッチーとカオルンも物好きニャ」

「へ?」


 猫野センパイはいたずらっぽい表情で司の顔を覗きこむ。つりあがった丸い眼が不思議な色を帯びて、司の顔を映している。


「いいかニャ? 戦争は確かに明日始まるニャ。でも、まだ終わってはいないニャ」

「はい?」


 言っている意味が分からずに猫野センパイを見つめる。彼女は口をアヒルのようにしながら、ニッコリと笑いかける。年長者のはずだが、愛嬌があってかわいらしかった。


「センパイはもちろんカオルンのためにがんばるニャ。でも、実のところどっちが勝とうが別に興味はないんニャ。引き分けっていう選択肢も悪くないニャ」

「引き分けって、そんなの……」


 そこまで言って司が目を見開く。青い空をまっすぐに見上げ、彼はある考えを頭の中に巡らせる。


「そうか!」


 ばね仕掛けのように司が飛び起きる。あまりの速さにさすがの猫野センパイも驚いてしりもちをついてしまう。だが、そのことをまるで無視して、司は立ち上がると屋上出入り口へと歩いていった。


「分かりましたよセンパイ。オレにそれをやれってんですね」


 キョトンとした顔の猫野センパイは、司の言葉を聞いてまたニンマリと笑う。


「別に何も言ってないニャ。センパイは面白くなれば文句なしニャ。司がこのイベントを面白くしてくれるなら大歓迎ニャ」


 猫野センパイの言葉を聞いて、司もニンマリと笑う。何かが吹っ切れたような笑顔であった。


「センパイ、感謝します! 後で最高級ネコ缶おごります」

「ネコ缶はいらないニャ! 鉄火丼でいいニャ」


 怒ったようにふくれてみせる猫野センパイへ司は深々と一礼を返す。


 もしも、祥子と香織がこの場にいたのなら、彼女たちはその姿を見てあるデジャ・ブに襲われることだろう。


 それは祖父の下で修行していた司少年とまったく同じ身のこなしだった。

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