第6話 あんたは、よくやった
患者No.0001 レクトル・ヴァイセンベルク(35歳・男性)
第三年度記録:頭痛の発生頻度が減少。就寝前に肩の治癒を追加。翌朝、訓練の動きが良いと本人が侍従に話しているのを聞く。本人は原因に気づいていない。
◇
「──あんたの記録を、本にしないか」
納品を終えたエルヴィンが、薬草の空き箱を積み直しながらそう言った。
いつも通りの低い声。いつも通りの短い言葉。けれど中身は、いつも通りではなかった。
「……本、ですか」
「医学書だ。あんたの治癒記録に、薬草学の注釈をつける。治癒と薬草の併用療法として体系化すれば、後世に残せる」
エルヴィンは空き箱を荷台に載せながら、こちらを見もしなかった。まるで天気の話でもするように、淡々と。
(──後世に残す)
私の台帳を。あの、略記法だらけの、安い帳面に綴った記録を。
「……驚きました。考えさせてくださいませ」
「ああ」
エルヴィンは手綱を取って、帰っていった。
◇
翌日の朝、エルヴィンが診療所に来た。納品日ではない。手ぶらだった。
「昨日の話だが」
「ええ」
「まず記録を読ませてくれ。薬草学の視点で注釈をつけられる箇所を見繕う」
断っていないのに、もう作業を始めるおつもりらしい。
(──気の早い方)
少しだけ可笑しくて、台帳を二冊、机に並べた。ヴァイセンベルク時代の記録。初年度と三年目のもの。
エルヴィンは椅子に座ると、頁を開いた。太い指が紙の端を丁寧にめくっていく。略記法の記号を一つずつ目で追いながら、時折、小さく頷く。
読める方なのだろうか、と思った。あの記号は私にしか読めないはずだった。
「ここ」
エルヴィンが指を止めた。三年目の台帳、ある患者の頁。
「この患者、三年目に治療方針を変えている。なぜだ」
私は頁を覗き込んだ。
「この方は──冬になると症状が変わるのです。最初の二年は夏と同じ治療をしていたのですが、三年目の冬に急に悪化して。それで過去の記録を見比べて、気温が下がると炎症の出方が変わることに気づきました。それ以降は冬だけ薬草の配合を変えて──」
「二年分のデータを見比べて、季節変動を突き止めたのか」
「ええ。偶然といえば偶然なのですけれど」
「偶然じゃない」
エルヴィンが台帳から顔を上げた。
「二年分の記録を取っていたから気づけた。記録がなければ見落としていた。──それは偶然ではなく、あんたの仕事だ」
返す言葉を探した。見つからなかった。
エルヴィンは再び台帳に目を落とし、頁をめくり続けた。私も隣に座って、記号の意味を説明した。「Cr-3/Wk」は慢性痛の治癒を週三回。「Sn/P.P.」は産後ケアの予防的治癒。一つずつ。
午前中いっぱいかけて、二冊の台帳を読み終えた。
エルヴィンが台帳を閉じた。
長い沈黙があった。
窓の外で小鳥が鳴いていた。午後の日差しが机の上に四角い光を落としている。薬草の乾いた匂いが部屋に満ちていた。
「……あんたは、よくやった」
短い言葉だった。飾りも、前置きもない。ただそれだけだった。
──十二年間、一度も言われなかった言葉だった。
あの方は一度も仰らなかった。よくやった、とも。ありがとう、とも。お疲れ様、とも。十二年間、毎朝巡回に出て、毎晩台帳を書いて、夜はあの方の頭痛を治して。一度も。
(──ああ)
視界が歪んだ。
涙だと気づくのに、一拍かかった。目の縁にじわりと滲んで、睫毛の先で光った。
拭った。
すぐに。手の甲で、一度だけ。
「……続けましょう」
声は震えなかった。微笑むことも、できた。
エルヴィンは何も言わなかった。
何も言わず、三冊目の台帳を開いた。
◇
午後。
記録を読み進めていくうち、あの頁に辿り着いた。
患者No.0001 レクトル・ヴァイセンベルク(35歳・男性)
幼少期からの慢性頭痛。戦闘後の古傷による右肩の鈍痛。
就寝中に治癒を施し、翌朝の状態を観察。本人に自覚なし。
その下に、十二年分の経過記録が続いている。年度ごとの頭痛の頻度、肩の可動域、睡眠の質の推移。全て、夫が眠っている間に私が記したもの。
エルヴィンの手が止まった。
「……No.0001」
「ええ」
「旦那も患者だったのか」
その問いに、驚きはなかった。ここまで記録を読んできた方なら、当然辿り着く。
「ええ。嫁いだ夜に気づきました。眠っている間、ずっと眉間に皺を寄せていらして。触れてみたら、頭の奥に古い痛みの芯がございました」
「毎晩か」
「毎晩です。寝室が別になってからは、就寝前にお部屋に伺って。五年ほど前から別の部屋になりましたので、それ以降は毎晩廊下を渡って」
「……それを、旦那は」
「ご存じありません。私の治癒は──光も熱もございませんので。触れているだけで、痛みが引く。あの方はきっと、ただ『よく眠れた朝』だとお思いだったのでしょう」
台帳に目を落としたまま、穏やかに答えた。
事実を述べただけだった。恨みも、悲しみも、込めなかった。込める必要がなかった。もう、終わったことだから。
エルヴィンは何も言わなかった。
沈黙が少し長いと思ったけれど、この方はもともと言葉の少ない方だから、気に留めなかった。
次の頁をめくった。
(──この方の治癒は、年を追うごとに必要量が減っていた)
台帳にはそう記してある。十二年かけて、あの方の古い頭痛の芯を少しずつ、少しずつ削っていった。完治には至らなかったけれど、頻度は半分以下になった。
(──今頃、また痛み始めていらっしゃるかもしれない)
その考えを、振り払った。もう、関係のないこと。
「エルヴィン殿。次の冊子を」
「……ああ」
声が低かった。いつもより、ほんの少し。
けれど私は台帳に目を落としていたから、エルヴィン殿のお顔は見ていなかった。膝の上で何をなさっていたのかも、知らなかった。
◇
夕刻。
エルヴィンが帰った後、診療所の片づけをしていると、父が顔を出した。
「セシリア。商人のヴェーバーが寄ったぞ。ヴァイセンベルクの方から来たらしい」
「左様ですか」
「あの領地、具合が悪いらしいな。領民が侯爵に陳情を出しているとか」
「……陳情」
「『前の奥様に戻ってほしい』と、ずいぶん大勢が押しかけているそうだ」
手が止まった。
前の奥様。
私のことだ。
(──戻ってほしい、と)
三千二百人の中の何人が、そう仰っているのだろう。マルタさんだろうか。ギュンターさんだろうか。あの若い母親だろうか。
胸が痛んだ。痛んだけれど、同時に──わかっていた。戻ることは、もうないのだと。
「そうですか」
それだけ答えた。
父は何も言わず、書斎に戻っていった。
一人になった診療所で、机の上の台帳を見た。今日読んだ頁が開いたままだった。
患者No.0001 レクトル・ヴァイセンベルク
この名前を、もう書き足すことはない。
頁を閉じた。
窓の外はもう暗かった。明日の朝、エルヴィン殿がいらっしゃる。昨日「明日は早朝に納品を済ませる。作業の時間を取れるようにする」と仰っていた。
(──納品の時間を変えてくださったのですね)
私が記録整理に使える時間が増えるように。
仰らなかった。そういう理由だとは。ただ「早朝に変更する」と、事実だけを。
(──この方は、いつもそう)
言葉ではなく、行動でお示しになる。
そのことに気づいている自分に気づいて、少しだけ戸惑った。
蝋燭の芯を切って、新しい患者の記録をつけ始めた。




