第5話 根を詰めすぎるな
患者No.1688 ルートヴィヒ・ヴァーグナー(44歳・男性)
右腕の戦傷後遺症(神経損傷)。完治は困難だが、週一回の治癒で握力を維持。
備考:元侯爵領軍の兵士。退役後に農業を営むが、右腕が使えなければ収入を失う。妻と子供三人。
◇
夜の診療所で帳面を開くと、あの十二年が指先から蘇る。
ヴァイセンベルク時代の台帳を読み返しながら、新しい患者の記録と照らし合わせる作業を続けていた。症状の傾向、季節ごとの変動、薬草の配合比。十二年分の蓄積は膨大で、整理するほどに夜が深くなった。
患者は増えていた。
近隣の村から来ていた方々に加えて、少し離れた町からも来るようになった。商人が「ファルケンシュタインの診療所に腕のいい先生が入った」と話しているらしい。ありがたいことだった。ありがたい反面、一日に診る人数が増えれば、一人あたりの治癒に使える時間は短くなる。
(──ヴァイセンベルクでは、一日四十人を回っていたのだから)
そう思う。思って、すぐに気づく。あの頃は十二年かけて巡回路を最適化し、患者の症状をすべて把握した上での四十人だった。ここでは、まだ一人ひとりの顔を覚え、名前を覚え、病歴を聞き取るところから始めなければならない。
蝋燭がまた一本、短くなっていた。
◇
翌朝。
診療所の入口の扉を開けると、足元に何かが置いてあった。
布の包み。手のひらに収まる程度の小さなもの。傍に、一枚の紙きれ。
紙きれを拾い上げた。
──根を詰めすぎるな。
それだけ。名前もない。けれど筆跡は見覚えがあった。納品書と同じ、やや右に傾いた素朴な字。エルヴィン殿。
布を開くと、茶葉だった。乾燥した葉が朝日を受けて深い緑に光っている。鼻を近づけると、甘い草の匂いの奥に仄かな苦みがあった。薬草園の方が選ぶ茶葉は、やはり薬草に近い香りがする。
(──取引先に体調を崩されては困る、ということでしょう)
薬草を卸している診療所の治癒師が倒れれば、納品先が減る。商売を考えれば、取引先の健康を気遣うのは合理的なこと。
そう思って、茶葉を棚にしまった。
けれど──一つだけ、引っかかった。
なぜ早朝に、わざわざ。
定期納品は月の半ばと聞いた。今日はまだ月の初め。納品でもないのに、茶葉を置きに来てくださったのだろうか。
(……きっと、近くを通りかかったついでですわ)
そう結論づけて、朝の支度を始めた。
◇
その日の昼過ぎ、父が診療所に顔を出した。
珍しいことだった。父は自分の書斎と庭の薬草畑を行き来するばかりで、滅多に私の診療室には来ない。「邪魔をするのは好かん」が口癖だった。
「セシリア。少し見せてもらっていいか」
「何をですか」
「お前の記録だ」
ヴァイセンベルク時代の台帳を指差した。整理のために机の上に広げてあった数冊。
「ああ……はい、どうぞ。ただ、わたくしの略記法ですので読みにくいかと」
「構わん」
父は椅子を引き寄せて座ると、台帳を一冊手に取った。頁をめくる。最初はゆっくりと、次第に速く。一冊読み終えると、次の一冊。さらに次。
目の色が変わっていった。
温厚な父の目が、学者の目になっている。私はそれを横目に、患者の記録をつけ続けた。
半刻ほど経っただろうか。父が台帳を閉じた。
「……セシリア」
「はい」
「これは──お前、自分がどういうものを書いたかわかっているか」
顔を上げた。父の表情は真剣だった。
「どういうもの、と申しますと」
「個人の診療記録ではない。三千二百名の疾患傾向、季節変動、地域特性──十二年分の定点観測だ。これは公衆衛生学の資料だぞ」
(──公衆衛生学)
そのような大仰な言葉が、私の台帳に当てはまるとは思えなかった。一人ひとりの痛みを書き留めただけだ。腰が痛い、膝が辛い、熱が下がらない。それを、一人ずつ、十二年間。
「王立医学院に知人がおる。ブルーノという男でな、公衆衛生の分野では王国で五指に入る。──この記録を送ってもいいか」
「……お父様」
「いい返事を急いでいるわけではない。考えてから答えろ」
考えた。
この記録を公にすれば、何が起きるか。十二年分のデータの中には、ヴァイセンベルク領の衛生状態の推移が克明に記されている。私が離れた後の悪化も──いえ、それは今の時点では記録にない。けれど、私の巡回が途絶えた後に何が起きるかは、記録を読める者が見れば容易に推察できる。
(──あの方の領地の恥を、公に晒すことになる)
レクトルは、知らなかったのだ。私の仕事を。その無知が公的な記録として残る。
十二年間、あの領地のために働いた。その領地を追い詰めることになるかもしれない記録を、外に出していいのだろうか。
「お父様。もし記録を送れば、ヴァイセンベルク領の衛生上の問題が……」
「ああ。表に出るだろうな」
「それは──」
「セシリア」
父は私の目を見た。温厚な顔に、鋭い光が一瞬だけ走った。
「お前の十二年間は、お前のものだ。誰かのために隠してやる義理はない」
息が詰まった。
義理はない。そうだ。もう義理はない。離縁は成立した。書類に署名した。あの領地は、もう私の領地ではない。あの方々は──。
(──あの方々は、まだあの領地にいらっしゃる)
三千二百人。その方々のことを思うと、すぐには頷けなかった。
「……少し、考えさせてください」
「ああ。好きなだけ考えろ」
父は椅子から立ち上がり、台帳を丁寧に元の位置に戻した。
「ただな、セシリア」
「はい」
「記録というのは、隠しておいて価値が出るものではない。読まれて、使われて、初めて生きる」
それだけ言って、父は書斎に戻っていった。
一人残された診療所で、台帳の表紙に手を置いた。十二年分の飴色の革。
隠してやる義理はない。
頭ではわかっている。胸の底がまだ、追いつかないだけだった。
◇
夕方。
私は奥の部屋で、新しい患者の記録を整理していた。窓から差し込む西日が帳面の頁を橙色に染めている。
書斎の方から、父の声がかすかに聞こえた。何か呟いていらっしゃるようだったが、壁越しでは聞き取れなかった。
ペンを置いて耳を澄ませたけれど、もう声はしなかった。独り言の癖がおありだから、きっと医学書を読みながら何か呟いていらしたのだろう。
ペンに戻った。
◇
同じ頃──。
ヨハン・ファルケンシュタインは書斎の机に向かい、王立医学院宛の手紙を認めていた。
ペンを止めたのは、窓辺に置かれた茶葉の包みが目に入ったからだった。今朝、診療所の入口でセシリアが拾い上げていたのと同じ種類の茶葉。エルヴィンがこの家の玄関先にも一つ置いていったのを、朝の散歩の折に見つけたのだ。
「……エルヴィンは、他の取引先にあんなことしないぞ」
誰に言うでもなく、呟いた。
娘は奥の部屋にいる。聞こえてはいないだろう。
ヨハンは手紙に目を戻し、ブルーノ教授宛の文面の続きを書いた。
窓の外から、商人の馬車が通り過ぎる音がした。ヴァイセンベルク方面から来た行商だろう。最近、あの辺りの領地の具合がよくないという噂を、何人かの商人から聞いた。
「……まあ、そうなるだろうな」
もう一つ呟いて、手紙の最後に署名した。




