第4話 余った薬草
患者No.2751 エルゼ・シュナイダー(28歳・女性)
第二子出産後の産褥熱。体力回復遅延。週三回の治癒+薬草煎じ薬の併用で回復軌道に。
備考:夫は出稼ぎ中。一人で乳児と3歳児を世話。近所のフリーダさんに買い物の声かけを依頼済み。
◇
診療所のドアを開けると、朝日と一緒に土の匂いが入ってきた。
実家に戻って十日あまり。父の紹介で、近隣の村を少しずつ回り始めていた。男爵領の診療所に新しい治癒師が入った──その噂は、商人や行商の口づてで近隣にも広まっているらしい。
最初の患者は、隣村の農家の女性だった。
五十がらみの、日に焼けた頬のふくよかな方。畑仕事で痛めた肩を押さえながら、診療所の椅子に腰かけて、私の顔をまじまじと見た。
「あんたが新しい先生かい」
「はい。セシリアと申します」
「へえ……。聞いたよ、あんた侯爵様のところの奥方だったんだって?」
一瞬、手が止まった。
「ええ、以前は」
「こんな田舎に来てねえ。大変だったろう」
哀れみだった。声音にも、目にも。かわいそうに、と顔に書いてある。侯爵夫人の座から落ちて、こんな小さな村の診療所に。──あなた、さぞお辛いでしょう。
(──辛くは、ございません)
そう申し上げたかった。けれど、反論すれば角が立つ。
黙って肩に手を当てた。
炎症の芯を探る。表面ではない、もう少し奥。肩甲骨の裏側、筋が張って硬くなっている場所。指先に意識を集めて、ゆっくりと魔力を通す。温めるように。ほぐすように。
「──あら」
女性の目が丸くなった。
「……なんだい、これ。じわっとくるねえ」
「肩の奥の筋が張っておいでです。しばらく重い物を持つのはお控えになって、朝晩この軟膏を塗ってください」
軟膏の壺を手渡しながら、症状と対処を説明した。畑仕事の姿勢、水汲みの頻度、寝る時の肩の向き。一つずつ。
女性は最初こそ怪訝な顔をしていたが、肩を回してみて「あれ、楽になってる」と呟いた。
「……ありがとう、先生」
先生。
その二文字が、胸の奥にすとんと落ちた。
(──ああ。ここでも、そう呼んでいただけるのですね)
場所が変わっても。身分が変わっても。肩の痛みを取れば、先生と呼んでいただける。
当たり前のこと。けれどその当たり前が、今の私にはひどく温かかった。
◇
三日後の朝、馬車の轍の音が聞こえた。
表に出ると、エルヴィンの荷馬車が停まっていた。定期納品の日だった。
エルヴィンは荷台から木箱を下ろし、黙々と診療所に運び入れる。いつも通りの手順。いつも通りの無言。
最後の木箱を下ろした後、エルヴィンが荷台の隅から布に包まれた小さな包みを取り出した。
「これも置いていく」
「……注文した覚えがございませんけれど」
「余ったから」
包みを開けた。
乾燥させた薄桃色の花弁。細かく刻まれた銀色の根茎。どちらも見覚えがある。産後の回復を助ける薬草だった。煎じ薬にすれば、産褥期の体力低下に効く。
ただし──この地域には自生しない。
「エルヴィン殿。これは随分と珍しい品種ですわ。この辺りでは手に入らないものです」
「そうか」
「お高いのではありませんか」
「そのうち必要になる」
それだけ言って、エルヴィンは馬車に戻った。手綱を取り、こちらを一瞥して──いえ、一瞥したかどうかも定かではなかった。視線が合ったと思った時にはもう、馬車は動き出していた。
(──そのうち必要になる?)
この地域で産後の患者を診る予定は、まだない。父の診療所は長く内科と外傷が中心で、産後ケアの需要は少なかった。なぜエルヴィン殿は、産後の薬草が「必要になる」とお思いになったのだろう。
(……きっと各地に納品なさっているうちに、村々の事情にもお詳しくなるのでしょう)
薬草園の主ならば、取引先の周辺事情を把握しておくのは商売上当然のこと。たまたま余った品を、たまたまこちらに回してくださっただけ。
そう考えて、包みを棚にしまった。
◇
一週間後。
診療所のドアが開いて、若い女性が入ってきた。赤ん坊を胸に抱いている。顔色が悪かった。唇に血の気がなく、赤ん坊を支える腕が微かに震えている。
「あの……先生がいらっしゃると聞いて」
「どうなさいました」
「産んでから、ずっと体が……熱が下がらなくて、起き上がるのも」
産褥熱。
椅子に座っていただいて、脈を取り、額に手を当てた。熱は高くない。けれど慢性的に微熱が続いているのだろう。体力が削られ、回復が追いつかなくなっている。
(──産後ケアの薬草)
棚に目をやった。一週間前にエルヴィン殿が「余った」と置いていった、あの包みがそこにある。
薄桃色の花弁を煎じ湯にして、差し出した。銀色の根茎をすり潰して、軟膏に混ぜた。治癒魔法で体の芯を温めながら、煎じ薬の飲み方と、休む時間の作り方を説明した。
「旦那様は」
「出稼ぎで……しばらく帰ってこなくて。一人で、この子と、上の子と……」
声が震えた。赤ん坊の頭を撫でながら、涙がぽろぽろと落ちた。
「助かりました……一人で不安で、どうしていいか……」
私はこの方の手を握った。薬草で温まった掌で、冷たい指先を包んだ。
「大丈夫ですよ。またいらしてくださいね」
◇
夜。
患者が帰った後の診療所で、新しい台帳を開いた。
白い頁。まだ何も書かれていない。インク壺の蓋を開けると、鉄の匂いが鼻先をかすめた。
羽根ペンを取り、最初の一行を書いた。
患者No.0001
ペンが止まった。
No.0001。
この番号を書くのは、二度目だった。
一度目は──十二年前。嫁いだ夜に、眉間に皺を寄せて眠るあの方の名を書いた。レクトル・ヴァイセンベルク。それが私の、最初のNo.0001だった。
(──あの方は、私がいなくなって、頭痛は大丈夫でいらっしゃるかしら)
ペンを持つ手が止まったまま、一拍。
首を振った。
(──もう、関係のないことですわ)
新しいNo.0001の欄に、今日の患者の名前を書いた。産後の母親。二十八歳。産褥期の体力回復遅延。
ペンを走らせながら、ふと考えた。あの薬草がなければ、今日の処方はできなかった。産後ケア用の品種は、父の診療所には在庫がなかった。エルヴィン殿が一週間前に「余った」と置いていかなければ。
(──そのうち必要になる、と仰っていた)
この地域に自生しない希少種。余り物にしては、あまりに的確な品種。
偶然だろうか。
(……いいえ。きっと、各地の取引先を回っていらっしゃる中で、この辺りの村にも若い母親がいることを把握なさっていたのでしょう)
そう考えるのが自然だった。薬草園の主が取引先周辺の需要を見込むのは、商売として理に適っている。
あの方は──レクトルは、十二年間、私の仕事の内容を一度もお尋ねにならなかった。
エルヴィン殿は、取引先として私の診療に必要な薬草を把握し、先回りして届けてくださる。
比べるものではない。立場も関係も違う。けれど。
(──前の夫とは、違う方だ)
その考えが浮かんで、少し驚いた。比べるつもりなどなかったのに。
ペンに意識を戻して、台帳の続きを書いた。症状、処方、経過観察の予定。近所のフリーダさんに買い物の声かけを依頼すること。
書き終えて、インクが乾くのを待った。
白かった頁に、文字が並んでいる。新しい台帳の、最初の一頁。ここから始まる。また一人ずつ、名前を書いて、顔を覚えて、手を握って。
窓の外から、虫の声が聞こえた。秋が近い。季節の変わり目には、患者が増えるだろう。
棚を見た。エルヴィン殿が並べてくださった薬草が、月明かりでほのかに光っていた。その中に、「余った」薬草の包みがある。もう半分使ってしまった。次の納品の時に、追加でお願いしようか。
(──次は、月の半ばに届ける、と仰っていた)
そのことを覚えている自分に気づいて、台帳を閉じた。




