第3話 先生がいない朝
患者No.1203 ギュンター・ベッカー(52歳・男性)
鍛冶師。腰椎の慢性炎症。月三回の治癒で重作業を継続可能。
備考:領内唯一の農具専門鍛冶。彼が休むと種蒔き時期の農具修繕が滞る。
◇
実家の空気は、薬草の匂いがした。
馬車を降りた瞬間、鼻の奥にすうっと染みる青い香り。乾燥させた甘草と、すり潰した薄荷の葉。幼い頃から嗅ぎ慣れた匂いだった。
ファルケンシュタイン男爵邸の玄関は、侯爵邸に比べれば随分とこぢんまりとしている。石段は五段。扉は木製で、取っ手の真鍮が年月で鈍く光っていた。
その扉の前に、父が立っていた。
ヨハン・ファルケンシュタイン。六十歳。白髪の混じった顎髭。少し猫背で、左手に読みかけの医学書を持っている。いつもの姿だった。十二年前と、何一つ変わらない。
「おかえり」
ただ、ひとこと。
「……ただいま戻りました」
父は私の顔をじっと見た。痩せた頬に、一瞬だけ目を留めた。けれど何も仰らなかった。そのまま踵を返して、「荷物は後で運ばせる。先に飯を食え」と廊下を歩いていった。
背中を見ながら、少しだけ息が楽になった。
訊かないでくださるのが、ありがたかった。「何があった」とも「大丈夫か」とも言わず、ただ「飯を食え」と仰る。この方は昔からそういう方だった。
食卓には麦粥と焼いたパンと、硬いチーズが並んでいた。侯爵邸の食事と比べれば質素だけれど、湯気の立つ粥の匂いが温かかった。
「診療所の奥に空き部屋がある。好きに使え」
「ありがとうございます」
「……ま、ゆっくりしろ」
父はそれだけ言って、粥を啜った。
ゆっくりするつもりはなかった。けれどそれも、まだ言わなくていい。
◇
翌朝、診療所の片づけを始めた。
空き部屋は薬棚と診察台を入れれば、十分に使える広さだった。窓から朝日が差し込んで、埃が金色に舞っている。棚の位置を決めて、台帳を並べる順を考えていると──外から、馬車の轍の音が聞こえた。
砂利を踏む、重い音。荷馬車だ。
表に出ると、一台の馬車が診療所の前に停まっていた。荷台に木箱がいくつも積まれている。箱の側面に、焼き印。グリューネヴァルト薬草園。
御者台から男が降りてきた。
背が高かった。私より頭一つ分は上にある。日に焼けた肌、短く刈った茶色の髪。手が大きい。荷を運ぶ人の手だった。
顔を見るのは、初めてだった。
十二年間、薬草を届けてくださっていた取引先。納品書の筆跡だけは見慣れていたけれど、こうしてお目にかかるのはこれが最初だった。
「グリューネヴァルト殿でいらっしゃいますか」
「ああ。──エルヴィンでいい」
短い声だった。低くて、素朴で、飾りがない。
「納品先が変わったと聞いた。届け先をこちらに変更する」
事務的な一言だった。けれど「聞いた」という言葉が耳に残った。
(──どなたからお聞きになったのかしら)
訊こうとして、やめた。取引先が届け先の変更を把握しているのは当然のこと。深い意味はないのだろう。
「ご迷惑でなければ、お願いいたします」
「迷惑ではない」
エルヴィンは荷台から木箱を下ろし始めた。一箱ずつ、片手で軽々と持ち上げる。中身は乾燥薬草の束のはずだが、重さを感じさせない動きだった。
薬草を診療所の中に運び入れると、エルヴィンは棚をひと目見て、こう言った。
「棚の配置は前の診療所と同じにするか」
手が止まった。
(──なぜ、ご存じなの)
ヴァイセンベルク領の診療室の棚配置を、この方が知っているはずがない。納品は毎回早朝で、薬草は入口に置かれるだけだった。診療室の奥まで入ることは──。
「……納品の時に見えた」
エルヴィンはそれだけ言って、次の箱を開けた。
(──そう、でしたか)
納品の際に入口から奥を見れば、棚の並びくらいは目に入るのかもしれない。よく観察なさる方なのだろう。
「では、お願いいたします。以前と同じ配置が、私には一番使いやすいので」
「わかった」
エルヴィンは黙々と薬草を棚に並べていった。品種ごとに、用途ごとに、迷いのない手つきで。
その手を見ながら、ふと思った。
(──この方は、薬草の用途を全て把握していらっしゃるのですね)
慢性痛の根茎は左の上段。産後ケアの花弁は右の中段。関節用の樹皮は下段の奥。私が指示するまでもなく、正しい場所に収まっていく。
「……ありがとうございます。助かります」
「ああ」
エルヴィンは最後の箱を空にすると、手を叩いて土埃を払い、「次は月の半ばに届ける」と言って馬車に戻った。
振り返りもしなかった。
馬車の轍の音が遠ざかっていく。砂利から土の道に変わって、やがて聞こえなくなった。
診療所に戻ると、棚に並んだ薬草が朝日を受けて淡く光っていた。品種はどれも、ヴァイセンベルク時代に私が使い慣れたものばかりだった。
(──丁寧な方)
二度目にそう思って、台帳を開いた。今日から、この診療所で新しい記録が始まる。
◇
台帳を開いた瞬間、私は自分の目を疑った。
「……何、これ」
文字が読めない。
いえ、文字ではあるのだろう。インクで書かれた筆跡はきちんとしているし、数字の部分は読める。患者番号、年齢、性別──そこまでは普通だった。
問題はその先だった。
「Cr-3/Wk」。「Sn/P.P.」。「Kn-dg/bi.Lt」。
暗号だ。暗号にしか見えない。
治癒の種類だろうか。投薬の記録だろうか。見当もつかない。ページをめくっても、めくっても、同じ記号の羅列が続いている。三千二百名分。一人につき数頁。気が遠くなるような分量だった。
(──こんなの、読めるわけがないじゃない)
あの女は──いえ、前の侯爵夫人は、この記号を全て把握していたのだろうか。当然、把握していたのだ。自分で作った記号なのだから。
台帳を閉じて、深呼吸した。
大丈夫。読めなくてもいい。台帳に頼らなくても、私には治癒魔法がある。患者に会えば、症状を見て、治せばいい。私のやり方でやればいい。
そう自分に言い聞かせて、巡回に出た。
最初の患者は──台帳によれば「No.0847」、マルタ・ホーエンという老婦人だった。番号と名前だけは読める。住所も辛うじて。
丘を登って、木戸を叩いた。
出てきたのは小柄なお婆さんだった。杖をついて、こちらを見上げて、「……あなたが新しい先生?」と訊いた。
「はい。ナターシャ・クレーメルと申します。本日から巡回を──」
「腰が痛いの」
遮るように、お婆さんが言った。
腰。治癒魔法で対応できる。私は手を翳して、魔力を集中させた。傷を塞ぐ要領で、腰のあたりに治癒の光を当てる。淡い緑色の光が掌から広がって──。
「……そうじゃなくて」
お婆さんが、私の手を押し下げた。
「前の先生はね、まず座って、話を聞いてくれたの」
何を、と思った。話を聞く? 治癒魔法をかければ済む話ではないの?
「右の膝がね、雨の前になるとずきずきするの。でも今日は腰なの。昨日、畑でリーゼの──孫のね──傘を拾おうとしたら、ぐきっといって」
「は、はい」
「前の先生はね、膝と腰を別々に診てくれたの。膝は週に二回、腰は痛めた時だけ。使う薬草も違うの。膝の方は温める薬草で、腰は冷やす方がいいんだって。先生が言ってた」
(──膝と腰で、薬草を使い分ける?)
台帳を開いた。「Cr-3/Wk」。「Kn-dg/bi.Lt」。
読めない。
「あの、台帳に書いてある記号が──」
「記号? 先生、台帳が読めないの?」
お婆さんの目が、すうっと冷えた。
次の患者に向かった。ヴィルヘルム通りの仕立屋の主人。「肩が痛い」。傷塞ぎの治癒をかけようとすると、「いや、傷じゃなくて、こう、奥の方がずうっと痛いんだ」。慢性痛。傷塞ぎでは対応できない。
その次。「膝が」。
その次。「古傷が」。
その次。「最近、息をすると胸が苦しくて」。
華やかに傷を塞ぐ場面は、一度もなかった。
どの患者も、「ここが痛い」「あそこが辛い」「前の先生には毎週診てもらっていた」と言う。そのたびに台帳を開いて、読めない記号を見て、閉じた。
三時間で、十二人。
前の侯爵夫人は一日で四十人を回っていたと聞いた。四十人。冗談ではない。私は十二人で足が棒になって、喉がからからで、魔力の消耗で指先が冷たくなっていた。
(──話を聞いてほしい? 一人ひとり、座って? 三千二百人?)
侯爵邸に戻って、自室の椅子に崩れるように座った。
台帳を机に広げた。三千二百名分の、読めない記録。一頁一頁に、知らない記号で、知らない患者の、知らない病歴が書かれている。これを把握して、毎日四十人を回って、話を聞いて、症状に合わせた治癒を施して──。
十二年。
十二年かけて、あの女はこれを作った。
「──こんなの聞いてない!」
台帳を机に叩きつけた。頁がばさりと開いて、また閉じた。
部屋の隅から、控えめな足音がした。
振り返ると、ハインリヒ執事長が立っていた。白髪交じりの髪をきちんと撫でつけた、長身の初老の男性。いつからそこにいたのだろう。
ハインリヒは何も言わず、机の上の台帳を丁寧に拾い上げた。
その厚みを両手に受けて、一瞬だけ目を閉じた。
「……奥様は、これを十二年」
私に言ったのか、独り言なのか、わからなかった。
ハインリヒは台帳を机の端にそっと置き直すと、一礼して部屋を出ていった。
静かな部屋に、一人残された。
机の上の台帳が、さっき叩きつけた勢いで少しだけ開いている。見えた頁の冒頭に、几帳面な筆跡で──
患者No.0001
──と書かれていた。
その下の名前は、読めなかった。あの暗号のような略記法で。
(──No.0001。最初の患者)
それが誰なのか。何を意味するのか。
知る気にも、なれなかった。




