第2話 三千二百名の名前
朝露に濡れた石畳を、私は最後に歩いた。
巡回用の鞄はいつもと同じ重さだった。軟膏の壺が二つ、湿布の包みが四つ、書きかけの台帳が一冊。十二年間、毎朝この鞄を提げて領内を歩いた。肩紐の革が私の肩の形に窪んでいる。
今日で、この道を歩くのは最後になる。
最初に寄ったのはギュンターさんの鍛冶場だった。朝一番の火入れの前に、腰に手を当てて炉の前に立っている大きな背中が見えた。
「先生、今朝は早いな」
「ええ。──ギュンターさん、少しお話が」
腰に治癒をかけながら、お伝えした。しばらく来られなくなること。後任の方が引き継ぐこと。雨の前日は無理をなさらないこと。
ギュンターさんは黙って聞いていた。治癒が終わると、煤だらけの手で顎を擦って、ひとこと。
「……先生の代わりなんざ、いるもんかね」
笑って首を振った。代わりはいる。いなければ困る。──そう信じたかった。
◇
マルタお婆さんの家は、丘の中腹にあった。
木戸を叩くと、杖の音がとことこと近づいて、皺だらけの顔が覗いた。
「あら先生。今日は巡回の日じゃないのに」
「特別なのです。──中に入ってもよろしいですか」
台所の椅子に並んで腰かけた。マルタさんの右膝に手を当てて、いつも通り治癒をかける。関節の奥に潜む炎症の芯を、指先でそっと撫でるように鎮めていく。雨季が近い。いつもより熱の偏りが強かった。
この膝を、もう診られなくなる。
「マルタさん」
「なあに」
「しばらく、来られなくなります」
手の下で、マルタさんの膝がぴくりと震えた。
「……どういうこと」
「お暇をいただくことになりました。後任の方がいらっしゃいますから、ご心配には及びません」
嘘だった。心配でないはずがなかった。この膝は週二回の治癒で農作業を続けられている。間隔が空けば、秋までに歩行が困難になる。孫のリーゼの登下校の見守りも。
「先生」
マルタさんが、私の手を掴んだ。
治癒をかけている手の上から、両手で包むように。骨ばった、皺の深い、土仕事で荒れた手。けれど温かかった。
「先生、嫌よ」
「マルタさん──」
「嫌。離さないから」
爪が手の甲に食い込んだ。少し痛かった。六十七歳の女性の手とは思えぬ力だった。
(──ああ)
この手を離さなければならない。
十二年間握ってきた手を、一つずつ。三千二百の手を、一つずつ離して、この領地を出なければならない。
「……大丈夫ですよ、マルタさん」
大丈夫なわけがなかった。
大丈夫でないと知りながら、それしか申し上げられなかった。先生が泣けば、患者が不安になる。それだけは十二年間、一度も破らなかった決め事だった。
マルタさんの指がゆっくりとほどけていく。
「……先生。うちのリーゼがね、先生みたいになりたいって言ってたの」
答えられなかった。微笑んで、手を引いた。
手の甲に、マルタさんの爪の跡が薄く残っていた。
◇
侯爵邸に戻ったのは昼過ぎだった。
応接室にはレクトルとナターシャが並んで座っていた。
ナターシャ・クレーメル。クレーメル男爵令嬢。淡い金髪に、少し潤んだ大きな瞳。楚々として、頼りなげで、思わず手を差し伸べたくなるような佇まい。あの方がこの女性に惹かれた理由は、こうしてお会いすれば察しがつく。
(──私にはないものばかり)
その考えを振り払い、台帳の写しを机の上に置いた。
「ナターシャ様、こちらが全ての記録でございます」
どさり、と音がした。
革表紙の冊子。厚みは掌を広げたほどもある。ナターシャの視線がその厚みに釘づけになった。
「三千二百名分の病歴、服薬記録、ご家庭の事情、季節ごとの変動傾向をまとめてございます。患者おひとりおひとりの治癒方針も記載しておりますので、ご参照くださいませ」
「さ──三千……」
「季節の変わり目に悪化なさる方が多うございますので、来月までに全員のお顔とお名前を覚えていただけると助かります」
ナターシャの顔から血の気が引いていった。唇が微かに震えている。台帳の厚みを前に、楚々とした表情の下から、怯えた素顔が覗いていた。
(──こんなお顔をさせたかったわけではないのだけれど)
隣のレクトルは台帳を一瞥なさった。一瞥しただけだった。ぱらぱらとめくりもせず、その厚みが何を意味するのかを問いもせず、書類の束に視線を移した。
「引き継ぎはそれでいい。離縁の書類を」
書類は二通。双方合意による離縁届と、嫁入り支度金の返還請求書。
私は羽根ペンを取り、署名した。インクが紙に沁みる、かすかな音。
白い結婚条項のことは、一言も口にしなかった。
切り札は、見せずに懐へ仕舞う。使う時が来るかどうかはわからない。来なければ、それでいい。
「手続きは以上でしょうか」
「……ああ」
レクトルの視線がわずかに泳いだ。けれどそれも一瞬のことで、すぐに「下がっていい」という顎の動きに変わった。
十二年の最後が、顎の一振りだった。
◇
自室に戻り、最後の荷造りに取りかかった。
衣類は最小限にした。侯爵夫人としての礼装は置いていく。必要なのは台帳と治癒の道具だけだった。
木箱の底を整えていると、束になった紙の包みが出てきた。
薬草の納品書。
紐で括られた十二年分。毎月一度、欠かさず届けられていた薬草の受領書と品種の一覧。取引先は──グリューネヴァルト薬草園。
(……そういえば、お顔を拝見したことのない方だ)
納品はいつも早朝で、診療の準備を始める頃には荷が下ろされた後だった。受領書にだけ目を通し、品質に問題がなければ棚に並べる。それだけの関わりだった。
何気なく、一番古い納品書を開いた。十二年前の品種一覧。傷薬の原料となる一般的な薬草ばかりが並んでいる。
次に、五年前のものを開いた。
品種が変わっていた。
慢性痛に効く根茎。産後の回復を助ける花弁。関節炎に適した樹皮。──私が巡回で多く処方するようになった薬草が、納品の品種に反映されている。
三年前の一覧を開く。さらに細かくなっている。冬季の呼吸器疾患に対応する品種が加わり、幼児向けの低刺激の煎じ薬の原料まで揃えられていた。
(──年を追うごとに、私の治療に合わせて品種を変えてくださっていたのですね)
十二年分の納品書を、順に並べてみた。一年ごとに、少しずつ。少しずつ。私の巡回で必要になる薬草が増え、不要なものが減っている。まるで私の仕事を隣で見ていたかのように。
「……丁寧な方だったのですね」
声に出して、そう言った。
取引先として、これほど誠実な対応をしてくださる方は珍しい。納品書の束を紐で括り直し、台帳と一緒に木箱に収めた。
◇
翌朝。
荷を積んだ馬車が、侯爵邸の正面に用意されていた。
玄関を出ると、石段の下に人だかりができていた。
領民だった。
ギュンターさんがいた。パン屋のエルゼさんがいた。昨年産まれた赤ん坊を抱えた若い母親がいた。そして──マルタお婆さんが、杖をついて、一番前に立っていた。
誰も何も言わなかった。
ただ、並んでいた。朝の冷たい空気の中で、白い息を吐きながら。
マルタさんの目が赤かった。ギュンターさんが唇を引き結んでいた。若い母親が赤ん坊の頭を撫でながら、俯いていた。
(──ああ)
来てくださったのだ。
誰に頼まれたわけでもなく。知らせが回ったわけでもなく。──いえ、きっと誰かが誰かに伝えて、誰かがまた誰かに伝えたのだろう。先生が今日、発たれるのだと。
レクトルの姿はなかった。
石段を下りた。一人ひとりの前で足を止めて、頭を下げた。
「お世話になりました」
「先生──」
「どうかお元気で」
それ以上は言えなかった。言えば、十二年間守ってきた決め事が崩れる。
マルタさんの前で立ち止まった。
お婆さんは何も言わず、皺だらけの手を差し出した。
握った。
昨日より少し──力が弱くなっていた。
「マルタさん。リーゼさんによろしくお伝えくださいね」
「……先生」
「はい」
「忘れないからね」
手を離した。
馬車に乗り込んだ。御者が手綱を鳴らす。車輪が砂利を噛んで、ゆっくりと動き出した。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと降りてしまう。降りて、鞄を開いて「やはりもう少しだけ」と言ってしまう。
だから前を向いた。
手の甲に、昨日のマルタさんの爪の跡がまだうっすらと残っていた。
膝の上に置いた手を、もう片方の手で覆った。冷たかった。いつも通り──巡回の後の私の手は、冷たかった。
領門が近づいてくる。馬車の幌の隙間から、門柱の石肌が見えた。
十二年前、この門をくぐって嫁いできた。
今日、この門をくぐって出ていく。
馬車が門を越えた瞬間、背後から小さな声が聞こえた。──いくつもの声が重なって、一つの言葉になっていた。
「──先生、ありがとうございました」
十二年間、あの方には一度も言われなかった言葉を、あの方々がくださった。
幌の中で、唇を噛んだ。
泣かない。先生は、泣かない。
馬車の轍が、砂利から土の道に変わった。車輪の音が柔らかくなった。
鞄の中で、台帳の角がかたりと鳴った。その隣に、薬草の納品書の束がある。十二年かけて、私の仕事に合わせて品種を変えてくださった、顔も知らない取引先の記録。
(──丁寧な方だった)
それだけを思って、前を向いた。
道の先には、実家のある方角の空が広がっていた。朝日が雲の端を橙に染めている。
鞄が重い。けれど、十二年分の台帳を詰めた木箱よりは──ずっと軽い。
馬車は、前に進んだ。




