第7話 では、あの方々の名前を
【この頁は空白である】
ナターシャ・クレーメルによる巡回記録:該当なし。
最終巡回日:離縁後三日目。以後の記録は存在しない。
◇
馬蹄の音が三つ、砂利道を踏んで近づいてきた。
午前の診察を終えて、診療所の入口で手を洗っていた時だった。冷たい水に指先を浸しながら、耳を澄ませた。蹄鉄の響き方が重い。農家の馬ではない。軍馬だ。
顔を上げると、道の先から三頭の馬が現れた。先頭の一頭に跨がっているのは──。
(──レクトル)
息が止まった。
ヴァイセンベルク侯爵レクトル。護衛騎士が二名、左右に従っている。半年ぶりに見るあの方の顔は、以前よりやつれていた。目の下に影がある。眉間の皺が深くなっている。
(──頭痛が、悪くなっていらっしゃる)
治癒師の目が、それを瞬時に読み取った。読み取ってから、自分に言い聞かせた。もう、関係のないこと。
馬を降りたレクトルが、砂利を踏んでこちらに歩いてくる。護衛騎士は馬の傍に残った。
「セシリア」
「……レクトル様」
様、と呼ぶのは少し奇妙だった。十二年間「あなた」と呼んでいた方を。けれど今はもう夫ではない。侯爵閣下とお呼びすべきかもしれないけれど、喉がそこまで堅くなれなかった。
「話がある」
「お約束をいただいておりませんが」
「……頼む。戻ってきてくれ」
頭を下げた。
ヴァイセンベルク侯爵が、頭を下げた。元妻の実家の、小さな診療所の前で。護衛騎士が見ている前で。
「領民が困っている。治癒の巡回が止まってから、あちこちで不調が出ている。ナターシャでは──」
言葉を切った。あの方にも、そこから先は口にしにくいのだろう。
「お前がいないと、回らないんだ」
(──今になって、そう仰るのですか)
胸の奥で、何かが揺れた。
揺れた。確かに。十二年の歳月は、簡単にはゼロにならない。この方の声を聞けば、この方の顔を見れば──あの廊下を毎晩歩いた足の記憶が、眠る夫の額に手を当てた指先の記憶が、体の奥から浮き上がってくる。
けれど。
「レクトル様」
「……なんだ」
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいですか」
微笑んだ。十二年かけて身につけた、侯爵夫人の笑顔で。
「では──あの方々の名前を、一人でも仰ってくださいませ」
レクトルの口が開いた。
閉じた。
また開いた。
何も、出てこなかった。
三千二百人。その中の一人の名前すら。顔すら。この方の口からは出てこなかった。
沈黙が、砂利道に落ちた。護衛騎士が目を伏せた。秋の風が、診療所の看板を小さく揺らした。
「……今更、お話しすることはございません」
静かに言った。怒りは込めなかった。悲しみも。ただ、事実として。
「お戻りくださいませ。お体に障ります」
レクトルの顔が歪んだ。怒りなのか、悔しさなのか、読み取れなかった。
「セシリア──」
一歩、前に出た。手を伸ばそうとしたその瞬間──。
背後から、別の足音がした。
エルヴィンだった。
今日は月の半ばの納品日だった。荷馬車を診療所の裏手に停めて、荷を下ろしている最中だったのだろう。薬草の匂いをまとったまま、診療所の角から現れた。
私とレクトルの間に、一歩。
それだけだった。声も上げず、腕も振り上げず。ただ、一歩前に出て、立った。
「あんたの妻じゃない。離縁は成立している」
低い声だった。短かった。事実だけを、事実の通りに。
レクトルの顔が、エルヴィンを見上げた。エルヴィンの方が背が高かった。
「……貴様、何者だ」
「薬草を届けに来ている者だ」
「薬草──」
レクトルの声に侮蔑が滲んだ。侯爵の前に立ちはだかる平民の薬草売り。あの方にとっては取るに足らぬ存在だっただろう。
拳を握ったのが見えた。護衛騎士が一歩前に出かけた。
エルヴィンは動かなかった。
表情も変えなかった。ただ立っていた。私の前に。
「……行くぞ」
レクトルが、拳を解いた。踵を返し、馬に跨がった。護衛騎士が続く。三頭の馬が砂利を蹴って、来た道を戻っていった。
蹄の音が遠ざかっていく。
遠ざかって、聞こえなくなった。
◇
手が、震えていた。
気づいたのは馬の音が消えてからだった。水を洗い流したばかりの指先が、細かく揺れている。
「……あ」
声にならない声が漏れた。
(──揺れた。揺れてしまった)
あの方が頭を下げた時、一瞬だけ「戻ろうか」と思った自分がいた。あの領地に。あの三千二百人のもとに。あの廊下を、もう一度。
けれど名前を一人も言えなかった。それが答えだった。あの方が見ていたのは「領地の不調」であって、「三千二百人の顔」ではなかった。
「……茶でも淹れるか」
エルヴィンの声が、背後から聞こえた。
振り返った。エルヴィンはもう診療所の中に入っていて、棚から茶葉の缶を取り出しているところだった。あの茶葉だった。早朝に置いていってくださった、あの包みと同じもの。
「……ええ。お願いいたします」
椅子に座った。手はまだ少し震えていた。
エルヴィンが湯を沸かし、茶を注いだ。器を机に置く時の、こつ、という小さな音。湯気が立ち昇って、薬草に似た甘い香りが鼻先をかすめた。
両手で器を包んだ。温かかった。
「……ありがとうございます」
「ああ」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
(──この方は、あの時、前に立ってくださった)
声を荒げたわけでもない。剣を抜いたわけでもない。ただ一歩、前に出て、立った。「あんたの妻じゃない」と、事実だけを。
十二年間、誰もしてくれなかったことだった。
あの領地で、あの屋敷で、毎晩廊下を歩いて夫の部屋に向かう私の前に立ってくれる人は、一人もいなかった。
茶を啜った。少し苦くて、少し甘い。
エルヴィンは向かいの椅子に座って、何も言わず、自分の分の茶を飲んでいた。
◇
幕 間
◇
馬車の車輪が石を噛むたびに、頭に響いた。
最近、頭痛がひどい。以前はこうではなかった。朝起きた時にすっきりとしていた──はずだった。いつからだ。いつからこんなに、毎朝こめかみが重くなった。
セシリアがいなくなってからだ。
──いや、違う。あの女がいなくなったことと頭痛は関係ない。たまたまだ。疲れているだけだ。
座席の革が軋んだ。護衛騎士は馬車の外で供をしている。車内には俺一人だった。
あの男。薬草売りの男。平民風情が俺の前に立った。「あんたの妻じゃない」。あの低い声が耳にこびりついている。
妻じゃない。
ああ、そうだ。もう妻ではない。俺が、そうした。
座席の隙間に、紙の束が挟まっていた。出発前にハインリヒが寄越したものだ。「奥様がお残しになった記録の写しでございます。お目通しをいただければ」と。
ハインリヒは昔からそうだ。余計なことばかり気を回す。台帳の写しなど、ナターシャに渡したはずだろう。なぜ俺の馬車に──。
開いた。
暇つぶしのつもりだった。
最初の頁。
患者No.0001 レクトル・ヴァイセンベルク(35歳・男性)
幼少期からの慢性頭痛。戦闘後の古傷による右肩の鈍痛。
就寝中に治癒を施し、翌朝の状態を観察。本人に自覚なし。
俺の名前だった。
指先が冷たくなった。
就寝中に治癒を施し。翌朝の状態を観察。本人に自覚なし。
一行ずつ読んだ。一行ずつ、喉の奥が詰まっていった。
初年度。頭痛の頻度、週に五回。治癒後、週に二回に減少。
三年目。頭痛の頻度、さらに減少。肩の治癒を追加。翌朝、訓練の動きが良いと侍従に話していた──。
(──俺が、「よく眠れた」と言ったのは)
あれは。
あの朝の爽快さは。
毎朝の、あの、頭がすっきりとした感覚は。
ただの「よく眠れた朝」ではなかった。
全部。
全部、あの女の──セシリアの手だった。
頁をめくる手が震えた。五年目。七年目。十年目。年を追うごとに記録は細かくなり、治癒の手法も変化している。十二年かけて、少しずつ、少しずつ、古い痛みの芯を削っていた。
(──あの頭痛は、セシリアがいなくなったから戻ったのか)
台帳を閉じた。
閉じた手が、震えていた。
「……なぜ言わなかった」
誰もいない車内で、声に出した。
なぜ言ってくれなかった。治癒をしていると。お前がいなければ頭痛が戻ると。なぜ──。
(──お尋ねになりませんでしたので)
あの日の食堂での、静かな声が蘇った。
「……くそっ」
台帳を座席に叩きつけた。
頭が痛かった。割れるように。
こめかみを押さえて、目を閉じた。
暗闇の中に、あの問いが残っていた。
──あの方々の名前を、一人でも仰ってくださいませ。
一人も出てこなかった。三千二百人の中の、一人も。
だが──それは、俺のせいなのか。知らなかったのだ。誰も教えてくれなかった。セシリアも、ハインリヒも、誰一人として。
そうだ。俺は知らなかっただけだ。知っていれば──。
知っていれば、どうした。
その問いには、答えが出なかった。
馬車が揺れた。頭痛が、また一段、深くなった。




