chapter 3-20 封蝋
アリスは買い出しをするべく、市場の喧騒を少し離れた路地へと足を踏み入れていた。
帝都の空はまだ明るく、婚姻の儀の前日ということもあり、通りには祝賀用の花輪や赤と黒の旗が飾られていた。商人たちの忙しさへの嬉しい悲鳴が遠く響く。
しかし路地に入ると一転、陽光が届きにくく、石畳は湿り気を帯び、壁に古い苔が這っていた。
胸の奥で葛藤と憤怒がまだ燻っているのを感じながら歩いていた。
ロブの背中を思い出し、握った拳を緩めようとした。
その時、藍色のローブを纏った影が路地の角から静かに現れた。
カレンであった。長い黒髪が肩に落ち、紫水晶のような瞳がアリスを真っ直ぐに見つめる。表情にはいつもの冷徹な仮面の下に微かな痛みと決意が混じっていた。アリスは足を止め、碧眼を細めた。
「……近づかないでと言ったわよね?」
声は低く、震えを抑えきれなかった。カレンは一瞬瞳を伏せたが、すぐに顔を上げた。
藍色のローブの裾が風に軽く揺れた。
「ごめんなさい。でも私じゃなくて、会ってほしい人がいるの。あなたも気になっている人よ」
アリスは唇を噛んだ。カレンの言葉に鉄仮面の影が脳裏を過る。
信じたいのに信じられない。葛藤が再び胸を締め付ける。
しかし、好奇心と昨夜から燻る疑問がアリスの足を動かした。
「……誰なの?」
カレンは答えず、ただ静かに背を向け、路地を進んだ。アリスは深く息を吸い、恐る恐るついていく。
後ろからは気配を完全に消したジャンヌが影のように付いてきている。
銀の鎧の微かな金属音すら立てず、聖騎士の存在がアリスの背中を守るように寄り添う。
路地を抜け、更に細い裏通りを進んでいく。帝都の賑わいが遠ざかり、代わりに古い石壁と朽ちかけた木造の家々が並ぶ一角に出た。人気のない場所。陽光が届きにくく、地面は苔と落ち葉で覆われ、空気は湿って冷たい。その奥に1軒のボロボロの家が見えた。
屋根は半分崩れ、窓は板で塞がれ、扉は錆びた蝶番で傾いている。
かつては誰かの住まいだったのだろうが、今は廃屋と呼ぶしかない。
カレンは静かに扉を開け、アリスを振り返った。
「ここよ」
「こんな所に誰かが住んでるわけ?」
「入れば分かるわ……あなたが私を疑うのは勝手だけど、私はあなたを信じているわ」
アリスは箒を握りしめ、ゆっくりと中へ踏み入れた。室内は薄暗く、埃とカビの匂いが鼻を突く。
床板は所々腐り、隙間から冷たい風が吹き込む。壁には古い掛け軸の残骸が垂れ下がり、隅に倒れた椅子が転がっている。そして中央の部屋に藍色のローブを纏った魔障騎士団の面々が静かに揃っていた。
十数人全員がフードを深く被り、顔を隠しているが、その佇まいには確かな結束と覚悟が漂う。
部屋の中央、粗末な木のテーブルを囲むように椅子が並び、そこに1人の男が腰かけていた。
グレイシャーであった。藍色の髪を覗かせ、鋭い灰色の瞳がアリスを捉える。
藍色のローブの下にベルトを巻き、腰には細身の剣を差している。
存在感は部屋全体を支配し、静かな威圧を放っていた。アリスは息を呑み、箒を構え直した。
「……わざわざこんな所にまで赴くなんて、どういうつもりなの?」
声には怒りと警戒が混じっていた。グレイシャーはのっそりと立ち上がり、視線をアリスに固定した。
「明日の婚姻の儀のためだ」
口元に微かな笑みが浮かぶ。その言葉が薄暗い部屋に重く響いた。
外では帝都の祝賀の喧騒が遠く聞こえ、廃屋の隙間から冷たい風が吹き抜ける。
アリスの碧眼がゆっくりと細まり、ジャンヌが家の外から張り込みする。
グレイシャーは一歩踏み出し、静かに続けた。
「赤薔薇の女王と黒薔薇の皇帝の婚姻はただの祝い事じゃねえ。各国の要人が集まるこの機会を俺たちはずっと待っていた。アリス、お前に手伝ってほしいことがある」
アリスは拳を再び強く握りしめた。部屋の空気が張り詰め、藍色のローブが静かに息を潜める。
廃屋の外では帝都の鐘が遠く鳴り、婚姻の儀へのカウントダウンが始まっていた。
「カレンのことは許したの?」
「ああ。重要な役割を果たしたからな。鉄仮面の居場所を突き止めたのはカレンだ。幸いにも謹慎は受けていないが、学長室への出入りを堅く禁じられている。余程心を読まれたくないらしい」
「ユリウス学長の心を読み取ったのね。普段は無口な人だし、隙なんて見せないと思ったけど」
「口では多くを語らない奴ほど、内心では全てを語り尽くしているものだ」
グレイシャーがアリスの目前に立ち、平然と見下ろした。
「……用件は何? あなたを皇帝に即位させるとか?」
「ふふふふふっ! 別にクーデターを起こすわけじゃない。俺たちの目的は魔障の国を建国することだ。そのための第1段階として、まずは魔障騎士団を公式の騎士団として認めてもらう必要がある。そのためにはアリス、君の力が必要なんだよ」
「どうせ断っても卑怯な手を使って、力尽くで言うことを聞かせるつもりでしょ」
「勘違いしているみてえだけどよ、これは俺たちの意思じゃない。皇帝陛下の意思だ」
「何ですって!?」
目を大きく見開くアリス。グレイシャーは歯を見せながら不敵に笑う。
「……そんなの嘘よ」
「嘘じゃねえ。魔障騎士団はルクステラ帝国の世界征服に協力する代わりに、領土を広げた暁には、晴れてルクステラ公認の騎士団になれる」
「――まさか、魔障騎士団のパトロンって……」
「そうだ。黒薔薇の皇帝は俺たちを裏から支援してくれていたのさ。俺たちは――」
その言葉が終わらない内に、外から重く多数の馬の足音が響き始めた。
蹄が石畳を叩く乾いた音が廃屋の壁を震わせ、徐々に近づいてくる。
数十頭は下らない馬の群れ。金属の甲冑が擦れ合う音、槍の柄が揺れる音、命令を叫ぶ低い声が混じり合いながら路地の空気を切り裂いた。アリスはハッと顔を上げ、窓の隙間から外を覗いた。
カレンの瞳が一瞬で凍りつき、グレイシャーの笑みが凍りついた。
廃屋の周囲は銃士隊と思われる部隊によって完全に囲まれていた。
赤いマントを翻したフランソワが馬上から冷たい視線を投げかけている。
金髪をオールバックに整え、赤いマントの下に新たに与えられた銀の胸当てと腰に差した長剣が陽光を反射していた。背後には黒い制服に銀の徽章を付けた銃士隊がズラリと並び、馬の群れが廃屋の全ての出口を塞いでいる。トランプ兵の影も見え隠れし、槍の穂先が林立する。
フランソワは馬を一歩進め、廃屋の扉を睨みながら声を上げた。
「魔障盗賊団の者共よ! そこにいるのは分かってる! 無駄な抵抗はやめて大人しく出てこい!」
魔障騎士団の面々は成す術もなく立ち上がった。
藍色のローブが騒めき、誰かが剣に手を伸ばすが、すぐに諦めたように肩を落とす。
グレイシャーもゆっくりと立ち上がり、灰色の瞳に苦い光を宿した。
「――枢機卿の差し金か」
銃士隊のトランプ兵が一斉に廃屋に雪崩れ込み、魔障騎士団の者たちを次々と捕らえていく。手錠の冷たい金属音が響き、藍色のローブが引き摺られていく。カレンも腕を掴まれ、紫水晶の瞳に絶望の色が浮かぶ。アリスは廃屋の扉から飛び出すように外へ出た。
フランソワの馬の前に立ち、声を震わせて詰め寄った。
「どういうことなのフランソワ!? どうしてあなたがこんなことを!?」
馬上からアリスを冷たく見下ろすフランソワ。赤いマントが風に揺れ、端整な顔にはいつもの優越感が浮かんでいる。だがその瞳は以前より冷たく、計算高い光を帯びていた。
「カルド枢機卿の命で銃士隊長に就任した。本来ならお前も逮捕するところだが、今回は見逃してやる」
アリスは息を呑み、拳を震わせた。市場の喧騒が遠くから聞こえ、帝都の鐘が再び鳴る。
「銃士隊長?」
「そうだ。魔障盗賊団が帝都内にアジトを構えていると聞いて、お前の後をつけていたのさ。狙いは見事的中した。まさかこんな所に、あの悪名高きグレイシャー・フロストの隠れ家があったとはな」
両腕を掴まれたカレンがフランソワの前を横切る。
「……裏切ったのね」
カレンはフランソワを睨み、眉間に皺を寄せながら低く呟いた。
藍色のローブが乱れ、長い黒髪が顔にかかり、紫水晶のような瞳が僅かに揺れる。
「裏切る? ハハッ、勘違いするな。俺は最初っから自分の味方だ。誰も裏切っちゃいない」
「グレイシャーたちをどうするつもりなの?」
「さあな。だがそう遠くない日に打ち首は堅い。敵国のルベルバスで働いた分の罪は免除してもらえるだろうが、ルクステラでも帝国の認可なく騎士団を勝手に名乗った罪、魔障を扇動して行った破壊活動の罪がある。どの道死罪は免れない。ここで皆殺しにするのも一興かもな」
アリスは息を呑み、拳を更に強く握りしめた。爪が掌に食い込み、碧眼に血の色が滲む。
「そんなことをしたら、あなたが罪に問われるわよ」
アリスが言うと、フランソワはゆっくりと懐から丸められた羊皮紙を取り出した。
黄土色の古びた紙が陽光に照らされ、黒い封蝋が鈍く光る。
滅多に見ることのない黒い封蝋は通常の手紙とは大きく異なり、国家命令を意味している。一般大衆がこの色の封蝋を使用することは固く禁じられており、国法外による使用自体が重罪に問われるほどだ。
フランソワは黒い封蝋を剥がし、書面を広げてアリスに見せた。
優雅に書かれた筆記体が陽光の下でくっきりと浮かび上がる。
アリスは息を呑み、書面を凝視した。最下部にはカルド枢機卿の署名が力強く記されている。
「我が命により、または国益のため、この書面を持つ者の行いはあらゆる罪を免れる……」
「ここにカルド枢機卿の署名もある。魔障盗賊団が抵抗したことにすれば、ここで全員始末したとしても許されるわけだ。覚悟しろ! グレイシャー・フロスト! 今日こそ裁きを受ける時だ!」
フランソワは羊皮紙を丸めると、すぐ懐に戻し、冷たい笑みが深くなる。
銃士隊が一斉に動き、魔障騎士団の者たちを馬車へと押し込む。
手錠の冷たい金属音が響き、団員たちが次々と連行されていく。
カレンは最後にアリスを振り返り、紫水晶の瞳に一瞬の痛みを浮かべたが、すぐに視線を伏せた。
「カレン……待って!」
アリスは箒を握りしめ、震える声で叫んだ。馬の蹄が石畳を叩き、銃士隊が廃屋を離れていく。
魔障騎士団の者たちが連行される影が路地に長く伸びた。アリスは膝をつき、拳を地面に叩きつけた。
埃が舞い上がり、陽光が背中を冷たく照らす。帝都の鐘が再び鳴った。
廃屋の影がアリスの足元を覆い尽くしていた――。
アリスが離れた頃、ロブは市場の喧騒の中でかつての同僚、ペールとフィスの2人と向き合っていた。
帝都アティ・テルの中心市場は婚姻の儀の前日ということもあり、異常な熱気に包まれていた。
ペールは背の高い体を少し前傾させ、腕を組んでロブを見下ろす。フィスは横で包丁を軽く回しながら口元に薄い笑みを浮かべていた。周囲の喧騒を切り裂くように視線の火花が散る。
「お前、牢獄の厨房で満足してたんじゃなかったのかよ」
フィスがクスクスと笑い、包丁を指先でくるりと回した。
「食材もまともに揃えられなかった奴が何をほざいてんだか」
野次馬たちが徐々に集まり始め、市場の喧騒が少し静まる。ロブは巨大な瞳を細め、ゆっくりと体を起こした。赤みがかった甲羅が陽光を浴びて鈍く輝き、鋏がカチンと鳴る音が静かな威圧を放つ。
「俺は本気だ。ルベルバス王国じゃ、まだ三つ星を取った店はねえ。だから王室御用達の料理番はルクステラの三つ星で働いていた者に限るそうだ」
ペールは鼻で笑い、フィスと視線を交わした。
2人は同時に頷き、ペールが一歩強く踏み出してロブに近づく。
「だったら勝負しようぜ。元同僚の好だ。婚姻の儀が行われる当日、世界中の目が集まってるこのタイミングで、お前の料理を俺たちに見せてみろ」
ロブの鋏がピタリと止まる。
「勝負だと?」
フィスが包丁を鞘に収め、腕を組んだ。
「そうだ。お前が負けたら料理番から足を洗え。二度と厨房に立つんじゃねえ。ザリガニは牢獄に戻って魚の鱗でも剥いでる姿がお似合いだ」
「俺が勝ったらどうするつもりだ?」
「お前の店を三つ星の審査対象に推薦してやる。この『サヴール・ピュール』の名前でな。それなら文句はねえだろ? どうだ? 乗るか? お前に三つ星を取るチャンスがあるとしたら今しかねえぞ。それとも何の覚悟もなしにほざいてるわけじゃねえよな?」
周囲の野次馬たちがざわつき、市場の喧騒が一瞬遠のく。
ロブは巨大な瞳を細め、ゆっくりと息を吐いた。甲羅の下から低い唸り声のような溜め息が漏れる。
「……おもしれえじゃねえか。その話乗った」
鋏をカチンと鳴らし、ロブは不敵に笑った。
「だが生憎、俺にはまだ自分の厨房がねえ。これから配属される予定のワンダー号はもちろん、その厨房すら見たことがねえ。だからお互い仮設の厨房を使うってことでどうだ?」
ペールとフィスは一瞬顔を見合わせ、すぐに嘲るように笑った。
「いいぜ。どうせお前が勝つことなんてねえんだからな」
ペールが手を差し出し、ロブの巨大な鋏と握手する。手と甲羅が触れ合い、カチンと乾いた音が響く。
「時間は明日の正午、場所はアティ・テル市場の中央広場。帝都中の目が集まる場所だ」
ロブは鋏をゆっくりと閉じ、静かに頷いた。
「覚悟しておけ。俺を追い出したことを後悔させてやる」
鋏を真っ直ぐに伸ばし、宣戦布告を高らかに宣言するロブ。
市場の喧騒が再び戻り、商人たちの掛け声が飛び交う中、ロブの背中は陽光の下で静かに燃えていた。
時空の穴が生じたのは全宇宙の創造主たる神が寿命を迎え、本来交わるはずのない無数の世界が直通し、繋がりが確認された時であった。神ではない残された者たちに法則なき法則を止める術などないのだ。
時を刻む職人ブリキアント・ティンプレーターの著書『歪みの理』より




