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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第3章 鉄仮面と失われた聖杯
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chapter 3-19 剣なき鞘

 アリスは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


 メイベルから伝わる温もりが心の膿を少しばかり溶かすように感じられた。


 だが決意は変わらず、碧眼に静かな炎が灯ると、アリスの歩みは無意識の内に早くなり、気づいたメイベルが咄嗟に距離を詰め、歩幅を合わせた。メイベルの銀の百合バッジからは魔力が抜けている。


 恐らくはカレンの仕業であると、アリスはすぐに見抜いた。


「今度黒薔薇の皇帝に会いに行くわ。鉄仮面の秘密も、聖杯のことも、全部問い質すわ」


 メイベルは目を丸くし、すぐに眉を寄せた。噴水の水音が2人の会話に寄り添うように続く。


「無茶よ。皇帝陛下に謁見なんて、魔障の身分じゃ不可能よ。それにもし会えたとしても危険すぎるわ。黒薔薇の皇帝は皇族を排除してきた人なんでしょ。鉄仮面がその生き残りだっていう話なら尚更よ」


 アリスは唇を噛み、メイベルの言葉に耳を傾けた。胸の葛藤が再び疼く。


「だったら私も行く。アリスの力になりたいのよ。また魔障院時代のように」

「メイベル、私たちはもう魔障院生じゃないわ。それに、これは命に関わる重大な仕事よ。こんな大事な仕事、親友のあなたに任せられないわ」

「――アリス」


 嬉しそうにしながら呟くメイベル。


 その時、アリスの精神内を漂う箒の穂先が微かに震え、気づいたアリスが慌てて箒を召喚する。穂先が吸い込み口へと変えると、柔らかな光が零れ落ち、突如としてロブの姿が現れた。


 赤みがかった甲羅が陽光を反射し、巨大な鋏がカチンと軽く鳴る。


 学生たちが驚いて振り返るが、アリスは慌てて箒の柄を振ってロブを隠す素振りを見せた。ロブは周囲をキョロキョロと見回し、懐かしむように口を開いた。


「おいおい、こりゃ随分と懐かしい場所に出てきちまったな。アリス、帝都の市場を見て回りてえんだ。昼休みなら丁度良い。ついでに俺の新作料理の試食も頼むぜ。心配事は腹を満たしてからだ」


 アリスは一瞬呆れ、メイベルも目を丸くした。


 しかし、ロブの表情と、どこか温かな声に胸の重みが少し軽くなる。


 小さく笑うと、アリスはメイベルに視線を送った。


「……そうね。メイベル。まずは腹ごしらえをして、頭を冷やしましょ。ロブの料理は絶品よ」

「へぇ~、それは楽しみね」


 メイベルは少し戸惑いつつも、笑みを浮かべて頷いた。


 アリス一行は中庭を後にし、帝都の賑やかな市場へと向かう。


 すると、アリスの箒からピクサーブが姿を現した。マルアス、ネレイアラ、ジャンヌまでもが一斉に現れた光景に、中庭の学生たちがざわつき始め、遠くから好奇の視線が集まる。


 アリスは慌てて周囲を見回し、箒の柄を握りしめながら小声で尋ねた。


「ちょっと、みんな姿を隠さなくていいわけ!? ここは大学の中庭なのよ!」


 声には驚きと心配が混じり、心の奥で昨夜の孤独が疼く。


「行動を共にしていれば問題ない。私たちがお前のそばにいる限り、誰にも干渉させはしない。他の者は皆寝ていたが、昨日のお前とカルドの会話を聞かせてもらった。皇帝陛下に謁見を試みるのはよせ。門前払いにされるのが関の山だ。それと、箒の中で失われた聖杯を見させてもらった」


 厳しくも優しい声でジャンヌが答えた。その声は中庭の風に溶け込むように静かであった。


「何か分かったの?」

「ああ。失われた聖杯が紛失した聖遺物という意味ではないことが分かった」

「どういうこと?」

「失われたのは聖杯ではなく、聖杯の力だ」

「――聖杯の力?」

「ここは人目につく。場所を変えるぞ」


 アリス一行は帝都アティ・テルの中心市場へと足を運んだ。


 正午を少し過ぎた頃の市場は、活気と喧騒に満ちていた。


 石畳の通りには露店がビッシリと並び、魚の鱗が陽光を反射してきらめき、香辛料の辛い匂いと焼きたてのパンの甘い香りが混じり合う。商人たちの掛け声が飛び交い、馬車の車輪が石畳を軋ませ、客引きの声が重なり合う。空は澄み渡り、帝都の尖塔が遠くに聳え、市場の上空を魔箒に乗った学生たちが行き交う姿が時折影を落としていた。アリスはメイベルを隣に、ロブを先頭に歩いていた。


 アリスの後ろには、ジャンヌ、ピクサーブ、マルアス、ネレイアラが続き、帝都の町並みを一望する。


 ロブは市場の奥、食材卸売りの一角へと向かった。赤みがかった甲羅が陽光を反射し、巨大な鋏を軽く鳴らしながら歩く姿は市場の喧騒の中で異様に目立っていた。魚介の並ぶ露店の前でロブの足が止まる。


 そこには、かつての同僚たち、帝都の二つ星レストランで共に働いていた料理番の男たちが魚箱を運びながら作業をしていた。1人は鱗のついた魚を三枚下ろし、もう1人は大きな鋏で甲殻を割り、内側を丁寧に掬い出している。彼らはロブの姿に気づくと、作業の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「――ロブ、何でお前がここにいるんだ?」


 最初に口を開いたのは背の高い人間の男だった。


 ロブの後任として厨房を仕切るようになった人物であった。瞳には驚きこそあったが、すぐに冷たい嘲りが浮かぶ。他の料理番たちも次々と作業を止め、ロブを取り囲むように視線を向けた。


「久しぶりだな、ペール、フィス」

「今更戻ってきたところで、お前の居場所はないぞ」


 男の声は低くもハッキリと響いた。他の者たちも口々に言葉を重ねる。


「牢獄の厨房で満足してたんじゃなかったのか?」

「二つ星の厨房にザリガニの居場所なんてねえぞ」

「不敬罪で追放された身で、どの面下げて戻ってきたんだ?」


 言葉の1つ1つが鋭い刃のようにロブの甲羅を叩く。ロブは巨大な鋏をカチンと鳴らし、ゆっくりと体を起こした。赤みがかった甲羅が陽光を浴びて鈍く輝き、巨大な瞳が静かに燃える。


 アリスがロブのそばへと駆け寄ると、ペールとフィスが視線を青い魔障院制服へと向ける。


「ロブ、知り合いなの?」

「ああ。俺がいた帝都レストランの元同僚だ。あの二つ星レストラン『サヴール・ピュール』の料理番、ペール・ロシュフォールとフィス・カステルモール」

「おいおい、お前まさか魔障院生とつるんでんのか?」

「今は大学生だがな。訳あってこいつの船で働くことになった。お前らよりも先に三つ星を取る予定だ」

「ハッ、馬鹿じゃねえの? お前が三つ星なんて取れるわけねえだろ」

「ましてや魔障の船で働くなんて、それだけでも一つ星にすら値しねえよ」


 アリスの中に再び憤怒が生じると、手が震え始めるが、それを隠すように腕を後ろに回す。


「好きに言ってろ。俺を追い出したことを後悔させてやるからよ」


 ロブの声は低く、確かな決意に満ちていた。


 かつての同僚たちは一瞬言葉を失い、互いに顔を見合わせる。嘲りの笑みが僅かに歪む。


「後悔? お前みたいなアニマリー如きが三つ星だと? 笑わせるな。星は人間がつけるものだ。どこの誰もお前の店になんて来ねえよ。一生安っぽいビストロでもやってろよ」

「全くだ。高がザリガニのくせに、相変わらずロブスター気取りなところは変わってねえな」


 ロブは鋏をゆっくりと閉じ、深く息を吐いた。


 その瞳にはスンラレ牢獄で燻っていた日々、アリスとの出会いが映っていた。


「星は料理番につくんじゃねえ。店につくもんだ。俺は誰かの下で料理番をする気はねえ。自分の厨房で自分の料理を出す。ルベルバス王国初の三つ星を取る日まではな」


 同僚たちの笑いが一瞬途切れた。しかし、すぐに嘲りの声が再び上がる。


「ハハッ、その妄想がいつまで持つか見ものだな」


 ロブはもう言葉を返さなかった。ただ、鋏をカチンと鳴らし、アリスの方を振り返った。


 その瞳には、静かな炎が宿っていた。アリスはロブの背中を見つめ、胸の奥で何かが熱くなるのを感じていた。メイベルも静かにロブの言葉を聞いていた。


 すると、アリスはジャンヌが厳しくも優しい視線を後ろから送っていることに気づく。


 ロブたちが忙しく話している間、アリス、メイベル、ジャンヌは少し離れた露店の影へと移動する。


「さっきの話だけど、聖杯の力が失われたって、どういうことなの?」


 アリスはジャンヌと正面から向き合いながら小声で尋ねた。


「聖杯ルパーヴォは聖剣ヴォーパルの鞘として共に安置されていた。聖杯はあらゆる魔力を吸収する鞘であり、聖剣ヴォーパルの鞘が務まる唯一の存在だったが、古代人が掘り当てた後、2つの聖遺物は引き離され、剣なき鞘となった聖杯は徐々にその力を失った。今の聖杯は、ただの器でしかない」


 ジャンヌは銀の鎧を陽光に輝かせながら静かに答えた。


 声は中庭の喧騒に紛れ込むように低く、メイベルが息を呑んだ。


「つまり、2つで1つの存在だった……ということね」


 ジャンヌの瞳が鋭く細まると、視線がメイベルに映る。


「お前は確か、アリスがカエルバスにいた時も一緒だったな」

「ええ。メイベル・ブリスティアよ。あなたがジャンヌ・ピュセルなんでしょ?」

「……私が450年も前の人間と知った上で、何故驚かない?」

「最初に話を聞いた時はまさかと思ったけど、私はアリスを信じてるから」


 アリスとメイベルが視線を合わせながら少しばかり微笑んだ。


「そこまで通じ合える者がいるとはな。かつての私にもそんな仲間がいた。今は皆、土に還ったが……」

「だったらまた見つければいいじゃない。人には寿命があるけど、仲間に期限はないんだから」

「お前は……見送る者の辛さを知っているのか?」

「えっ……」


 ジャンヌが背を向けながら尋ねると、メイベルが口を噤む。


 張り詰めた空気が周囲を覆い尽くすが、ジャンヌが何食わぬ顔でアリスの方へと振り向く。


「まあいい、聖杯は持っておけ。聖剣の在り処へと導いてくれるかもしれん」

「聖剣の持ち主はあなたじゃないの?」

「私は正統な所有者ではない。誰の手にも負えない代物故、ミレンド村のジューヴォ教会に祀っていただけだ。所有者は聖剣が自ずと決めるだろう。だがカルド枢機卿が聖剣を奪った時、御することができないまま力を使い、帝都へ持ち去ってしまった」

「聖剣と一緒に安置されていた時は力を持っていたわけでしょ。だったら2つの力を引き合わせるべきじゃないわ……いっそどこかに封印していた方が良かったのよ」

「いや、そうでもない。聖杯が力を失う一方で、聖剣は力を増長し続けている。収まるべき鞘から離れたことで箍が外れたと考えるのが自然だ。聖遺物は未だ解き明かされていない力を持っている」


 アリスは唇を噛んだ。聖杯を胸に抱いた時の温かな脈動を思い出す。


「本来の力はどこにあるの?」


 ジャンヌはゆっくりと首を振った。


「分からん。だが鉄仮面の言うことが本当なら、聖剣の力は聖杯が揃うことで、皇帝陛下でさえ超えられる何かがあるということだ。カルドが聖杯を鉄仮面と共に隠したのは、その力を皇帝陛下に渡さないようにするためだろう。もしくは隙を見て、聖剣と聖杯を同時に手に入れるためかもしれん」

「……でも、カルド枢機卿がそんな野望を企んでいるとは思えないわ」

「どうして?」

「カルド枢機卿は正統教信者でありながら、正統教国家であるソルカリガ帝国の勢力拡大を防ぐために、異端視している真正教勢力の支援をしていたのよ」

「一方でルクステラ帝国内の真正教勢力を弾圧して以来、緋色の枢機卿と呼ばれるようになったがな」

「うまく説明できないけど、私には単なる私利私欲のためとは思えないのよ」


 アリスは拳を握りしめた。市場の喧騒が遠くに聞こえ、ロブの鋏の音が響く。


「まずは聖剣を取り戻しましょ。私たちの手に」

「鉄仮面を探そう。奴なら知っているはずだ。聖杯の力が何故封じられたのかを」

「でもどうやって探すわけ? そんなに簡単なら、とっくに見つかってると思うけど」

「一度は疑われるが、二度と疑われない場所とカルド枢機卿が言っていたな」

「ええ。でもなぞなぞなんてさっぱりよ。カルド枢機卿の手が及びそうな場所を片っ端から当たってみるしかなさそうね。骨が折れそうだけど」

「砂漠に埋まる宝石だな」


 ジャンヌが冷笑しながら言うと、町の奥で帝都民が何かを叫んでいる。


 銀髪が風に揺れ、鎧の隙間から微かな金属音が漏れる。市場の奥からは帝都民の叫び声が響いた。


 誰かが何かを売り込み、誰かが値切り、喧騒が一層高まるのだった――。


 フルール・ド・リス宮殿の玉座の間では、重厚な静寂が支配していた。


 大理石の床に金箔の装飾が施され、天井からは巨大なシャンデリアが無数の水晶を煌めかせ、陽光を七色に散らす。壁には緋色の絨毯が垂れ下がり、黒薔薇の紋章が刻まれた柱が並ぶ。空気には微かな香木と古い革の匂いが混じり合い、冷たい威厳を放っていた。


 玉座に腰かけるのは黒薔薇の皇帝であった。黒いローブに金の刺繍が施され、胸元には巨大な黒薔薇のブローチが輝く。黒髪を後ろで束ね、鋭い瞳が虚空を貫く。その威容は闇が形を成したかのようだった。


 玉座の前に佇むのはカルド枢機卿。緋色の礼服が陽光を浴びて鈍く輝き、蛇のような瞳が静かに見上げている。黒薔薇の皇帝は玉座の肘掛けに指を置き、ゆっくりと口を開いた。


「明日は赤薔薇の女王や各国の貴族たちが帝都に到着し、婚姻の儀を執り行う日だ」


 声は低く、部屋全体に響く重みを持っていた。カルドは恭しく頭を下げ、苦笑いを浮かべた。


 その笑みには計算し尽くされた冷徹さと微かな不穏が混じっていた。


 玉座の間に重い沈黙が落ちた。シャンデリアの水晶が微かに揺れ、光の粒が床に散らばる。


 カルドの緋色の礼服から漂う香木の匂いが静かに部屋を満たしていた。


「例の物を準備しておけ。儀式の最中にも気づかれぬようにな」


 正面からは見えない苦笑いが僅かに深くなる。


「既にご用意しております、陛下」


 2人の視線が交錯し、玉座の間に冷たい風が吹き抜けた。


 宮殿の奥深くでは、静かな嵐が静かに渦巻いていた。

 正統教が力を増す一方で、既に神から見捨てられたとされる魔障に対しては、教義としての神の意思を失いつつあった。信仰心なき魔障が世に憚れば、正統教や真正教の争いを抑えられると修道女たちは考えた。


 ヘクストゥム魔障院長グロリア・ヘクストゥムの著書『魔障院と修道女』より

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