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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第3章 鉄仮面と失われた聖杯
118/122

chapter 3-18 疑心

 アリスはカルド枢機卿の冷たい視線を真正面から受け止め、ゆっくりと鼻で呼吸する。


 学長室の暖炉の火が低くパチパチと音を立て、橙色の光が2人の顔を交互に照らす。


 部屋の空気は重く、書棚の本の古い匂いと、カルドの緋色の礼服から漂う微かな香木の匂いが混じり合っていた。アリスは箒を握る手に力を込め、口を開いた。


「スンラレ牢獄の地下5階に失われた聖杯がありました」

「だろうな。我輩が隠したが、やはり焼却にも耐えられたか」

「……聖杯に触れた時、私は聖杯に意識を呑まれて、そこで焼却される前の光景が見えました。鉄仮面を被った人物が、あなたから殿下と呼ばれ、部屋の中で対話している様子を。あなたはその人物を黒薔薇の皇帝から守るために、身を隠すしかないと仰っていました」

「聖遺物には所有者の思念が宿るとされているが、お前はそれを感じられるようだ」

「その人物は、いつになれば忘れ去られるのだろうと呟いていました。一体どういうことなんですか?」


 カルドは瞳を僅かに細めた。暖炉の炎が一瞬強く揺れた。


 ゆっくりと立ち上がり、机の端に手を置き、アリスをジッと見つめた。


 口元に満足げな笑みが浮かぶと、アリスは手元が震えた。


「やはりお前は……我輩が見込んだ通りの少女だな」


 カルドの声は低く、部屋全体に響くほどの重みを持っていた。


 緋色の礼服の裾を軽く払い、窓の外、帝都の夜景を見やりながら、観念したかのように俯く。


「鉄仮面の秘密……まさかこのことをお前に話す時が来るとは思わなかったが、聖杯ルパーヴォがお前を選んだ以上、隠し通す意味もなかろう」


 カルドは机の上の羊皮紙を指で軽く叩き、淡々と重い言葉を紡いだ。


「決して取れることのない鉄仮面を張り付けたのは、他でもない皇帝陛下だ。黒薔薇の皇帝レオン・ボナール。どのような()()があったかまでは思い出せんが、ルクステラ皇帝の座を簒奪するまでに伸し上がり、皇族たちを処刑していった」

「どうしてそのことを知りながら、今までずっと付き従っていたんですか?」

「誰も皇帝陛下には逆らえん。全ての皇族を排除しようとしていることを知った我輩は、レオンがいつか寿命を迎えるその日まで、生き残った鉄仮面の皇族を封じ込めることにしたのだ。鉄仮面は呪術魔法で溶着され、決して外すことはできん。一度は疑われるが、二度と疑われない場所に隠した。詳しい場所までは言えん。お前が皇帝側かもしれないからな」

「でしたら、皇帝側でないことを証明できた時は、聖剣ヴォーパルの在り処を教えていただけますか?」

「考えておこう」


 カルドの言葉が終わると、部屋に重い沈黙が落ちた。


「聖杯を寄こせとは言わないんですね」

「聖遺物は膨大な魔力を誇る。聖剣を封印場所に納めるだけでも手一杯だ。手にしたところで皇帝陛下に感づかれてしまう。黒き海の近くに隠していたのは、海面が漆黒に染まるほど濃縮された魔力によって居場所を特定されにくいからだ。しかし、魔障盗賊団の連中が居場所を突き止めてしまったせいで、鉄仮面を移動せざるを得なくなった。お前が黒き海へと赴いたのは偶然ではない。全ては魔障盗賊団の計画だ」

「どうして魔障騎士団(マディーナイツ)と対立するんですか?」

「奴らはハイエナと同じだ。目的のためなら手段を選ばない。敵の弱みにつけ込んで強請り、自分たちに有利な条件を引き出し、隣国の諜報さえ容易くできる一大勢力だ」


 カルドは蛇のような瞳でアリスを睨んだまま、一瞬たりとも目を離さない。


 アリスは魔障騎士団(マディーナイツ)の事情を疑うが、カルドにすぐ視線を戻す。


「どうやって鉄仮面を移動させたんですか?」

「お前は聖剣ヴォーパルの力を知らないのか?」

「確か空間を切り裂いて、異なる場所同士を繋ぐ穴を空ける――まさか……」

「そのまさかだ。聖剣ヴォーパルは我輩の手中にある。鉄仮面は聖剣の力で移動させた」

「それが聖剣を盗んだ理由ですか?」

「何のことやら。もしかすれば、どこぞの誰かに法螺でも吹かれたのかもしれんな。お前に1つ忠告しておいてやろう。人の言葉など信じないことだ。お前は魔障盗賊団に利用されているだけで、奴らが聖剣と聖杯を一挙に手にすれば、この世界を救うどころの話ではなくなるぞ」

「――ずっと私を監視していたんですね」

「お前の仲間が教えてくれた。冗談で脅かしただけだがな」


 アリスは一瞬視線を落とし、すぐに顔を上げた。カルドは不敵な笑みを浮かべながら立ち上がり、緋色の礼服の裾を払い、本棚の列が並ぶ場所へと歩き始めた。


「忠告はしたからな」


 カルドの姿が見えなくなると、アリスは無言で学長室を後にした。


 扉の閉まる音が静かに響く。下宿寮への廊下は月光が青白く照らし、アリスの足音が孤独に響いた。


 カレンの部屋の前でアリスは立ち止まった。扉を叩く手が僅かに震える。


「……カレン、アリスよ。いる?」


 扉が開き、カレンが顔を出した。


 藍色のローブを羽織ったまま、長い黒髪が肩に落ち、紫水晶のような瞳がアリスを静かに見つめる。


「アリス、こんな時間にどうしたの?」


 アリスは部屋の中へと入り、扉を閉めた。カレンの部屋は机の上に歴史書が積まれている。


 窓からは月光が差し込み、部屋を青白く染めていた。アリスはカレンを正面から見据えた。


「カレン。あなた、カルド枢機卿に私のことを話したの?」


 カレンの瞳が一瞬揺れ、首を傾げた。


「何の話?」


 アリスは一歩近づき、声を低くした。


「鉄仮面のことも、聖杯のことも、私がスンラレ牢獄に行ったことも、カルド枢機卿は全部お見通しだったわ。仲間が教えてくれたって」


 カレンはゆっくりと息を吐き、机の端に手を置いた。


「それは残念ね」


 瞳が冷たく細まるアリス。だがカレンの表情には不安が漂っていた。


「あなたが密告したんじゃないの?」


 カレンは視線を逸らさず、静かに口を開いた。


「そんなわけないでしょ。あなたを裏切るはずがないわ。あなたの心を読んだけど、これは罠よ。カルド枢機卿はあなたに疑心を持たせて、私たちを引き裂くつもりね」


 アリスは唇を優しく噛んだ。


「……信じられない」


 カレンの瞳が僅かに揺れた。アリスは一歩後退し、声を震わせながら睨む。


魔障騎士団(マディーナイツ)がどんな行いをしてきたかを知ったわ。もし本当なら、あなたたちもカルドと何も変わらない……悪いけど、信用できない……もう私には近づかないで」


 思わぬ台詞にカレンは口を噤んだ。アリスは踵を返して部屋を出た。


 扉が閉まる音が重く静かに響くと、逃げるように自室へと急いだ。廊下の月光がアリスの背中を冷たく照らし、下宿寮の静寂にはアリスの足音だけが孤独に立ち続けた。


 アリスは自室の扉を閉めると同時に、背中を扉に預けて滑り落ちた。


 膝を抱え、額を両腕に埋める。息が荒く、喉の奥で小さな嗚咽が詰まる。部屋の中は静かすぎて、自分の心臓の音が耳に痛いほど響いていた。窓辺から差し込む月光は青白く、床に細長い影を落とし、その影はまるでアリスの心の裂け目をなぞるように伸びている。


 声は掠れ、ほとんど吐息に近い。カレンの瞳が揺れた瞬間を思い出す。


 あの紫水晶のような瞳に一瞬だけ浮かんだ、痛みのような、絶望のような光。


 アリスは両手で顔を覆った。指の隙間から涙が零れ落ちる。


 熱い雫が頬を伝い、床板に小さな音を立てて落ちた。


 学長室の扉が重く閉ざされた瞬間――部屋の中は忽ち深い静寂に包まれた。


 暖炉の火が低くパチパチと音を立て、橙色の光が書棚の古びた革表紙を不規則に照らし、長い影を床に這わせている。空気は重く淀み、古い紙と墨の乾いた匂いだけでなく、カルドの緋色の礼服から漂う香木の甘く煙った残り香が混じり合っていた。


 カルドは窓辺に立ち、帝都の夜景を冷ややかに見下ろしていたが、ゆっくりと踵を返した。緋色の裾が床を軽く擦る音が静寂を僅かに裂く。その視線が、本棚の列、特に最も奥深く、厚い書物が隙間なく並ぶ一角へと注がれた。すると、その本棚の影から音もなく1人の青年が姿を現した。


 短い金髪をきっちりとオールバックに梳き上げ、赤いマントを優雅に翻したフランソワであった。


 冷静沈着で端整な顔立ちに、僅かな優越感を湛えた薄い笑みが浮かんでいる。その瞳は獲物を値踏みするように細められていた。足音は絨毯に吸い込まれ、影そのものが形を成したかのように、滑らかに部屋の中央へ進み出る。カルドの唇には満足げで冷た笑みが広がった。


 蛇のような細い瞳が僅かに弧を描く。


「ふむ……お前の報告通りだな、フランソワ」


 部屋全体に低く響く声。言葉には計算し尽くされた賞賛と、僅かな嘲りが混じっていた。


 フランソワは恭しく右手を胸に当てて一礼した。背筋はピンと伸び、貴族らしい誇らしさが全身から溢れ出ている。声は穏やかで、しかし確かな忠誠と野心を帯びていた。


「お役に立てて光栄です。猊下」


 カルドはゆっくりと頷き、机の端に指を軽く置きながら一歩近づいた。


 暖炉の火が一瞬強く揺れ、2人の顔を交互に赤く染める。香木の匂いが、僅かに濃くなった。


「よくやった。だがこの件は厳に口外無用だ。誰にも――たとえ父親のベルトラン枢機卿であろうと漏らすでないぞ。お前の裏口入学やスラッジオ討伐をまとめた報告書が公になれば、父親の格も落ちることを忘れるな。引き続き、アリス・ブリスティアを監視するのだ。奴の動きを1つ残らず、仲間も全てだ」


 フランソワの瞳には忠誠の炎と同時に野心の冷たい光が宿った。


 赤いマントの端を指で軽く摘み、深く頭を垂れる。


「仰せのままに、猊下。アリスが何をしようと……俺が必ず、影から見届けましょう」


 胸に手を当てると、フランソワが立ち去ろうとする。


「待て」


 カルドの静かな声が響き、足をピタリと止めるフランソワ。


「他の者には話していないだろうな?」

「もちろんです、猊下」

「カレンには近づくな。奴に近づけば、このやり取りもすぐにバレる。念のため、お前の銀の百合バッジに対魔の紋章を張り付けておく。これで魔力による干渉を受けなくなる」

「俺を疑ってるんですか?」

「お前には父親という諸刃の剣がある。ベルトラン枢機卿が教皇となれば、いつ我輩を裏切っても不思議ではないからな。そこでお前に、これも渡しておく。絶対になくしてはならんぞ」


 カルドが指で持つ黄土色の羊皮紙は丸められ、黒い封蝋で留められている。


「……はい、猊下」


 フランソワは黒い封蝋を見た途端に肝が冷え、部屋の奥で本棚の影が再び深く沈んだ。


 暖炉の火がパチリと爆ぜ、橙色の光が2人の輪郭を一瞬だけ鮮やかに浮かび上がらせた――。


 翌日の昼休みを迎えると、アリスはアティ・テル帝立大学の中央中庭のベンチに腰を下ろしていた。


 帝都の空は穏やかな青に広がり、噴水の水音が細やかに響く。


 木々の葉が風に戦ぎ、陽光が枝の隙間から差し込み、地面に細やかな光の斑を落としている。


 空気には花の甘い香りと、遠くの食堂から漂う温かなパンの匂いが混じり合い、学生たちの笑い声が遠く近くに散らばっていた。アリスは膝の上にノートを広げ、ぼんやりと羽根ペンを転がしながら欠伸を噛み殺した。喉の奥から小さな溜め息が漏れ、昨夜の涙の跡が、まだ心の隅に重く残っている。


 碧眼は少し腫れぼったく、疲れた光を宿していた。


 信じたいのに信じられない――葛藤が胸の奥で静かに渦巻いている。


 その時、軽やかな足音が近づく。背の低い少女が、栗色のミディアムヘアーを少しばかり伸ばしたまま風に靡かせて現れた。小柄な体躯は、まるで風に揺れる野花のように繊細で、しかし瞳には強い意志の輝きがあった。アリスの隣に腰を下ろし、穏やかな声で呼びかけた。


「こんな所で欠伸なんて珍しいわね。昨日よく眠れなかったの?」


 アリスは一瞬驚いて顔を上げ、メイベルの優しい笑顔に視線を合わせた。


 喉が少し詰まり、言葉を探す。メイベルはそんなアリスの様子を察するように本題に入った。声は不安気だが、優しく包み込むように響く。


「カレンから聞いたわ。あなたがカルド枢機卿と会った後、カレンを突き放したんですって?」


 アリスは唇を軽く噛んだ。カレンの紫水晶のような瞳が、また瞼の裏に浮かぶ。


 あの痛みのような光。胸の奥が疼く。メイベルはアリスの手をそっと握り、温もりが伝わった。


「……そこまで話したのね。口が軽いところがますます怪しいわ。カレンが私のことをカルド枢機卿に漏らしていた疑いがあるの。信じていたのに……信じられなくて、つい近づかないでって言っちゃったの」


 メイベルの瞳が優しく細められ、静かに頷く。


 アリスの肩を抱き寄せ、穏やかな声で続けた。周囲の学生たちの笑い声が遠くに聞こえる。


「アリス、カレンはそんなつもりじゃないわ。彼女も魔障騎士団(マディーナイツ)の一員として辛い立場にいるはずよ。私も協力するわ」

「気持ちだけ受け取っておく」


 距離を置かれていると感じたメイベルは咄嗟に俯く。


 帝都に忍び寄る邪悪な影は、すぐそこにまで迫っていた。

 魔獣と呼ばれるクリーチャーは並み居る魔生物の中でも特に魔力が強く、人里離れた場所に出現することからついた俗称であった。地域に生息するクリーチャーに占める魔獣の割合が3割を超えれば人が住めなくなるとさえ言われている。


 古代神獣召喚士ヴォルカ・サリナシオスの著書『異界冒険記』より

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