chapter 3-17 消された記録
港町ドンマルノの港は朝陽に照らされ、活気づいていた。
波止場には漁船や小型の交易船がビッシリと並び、漁師たちの掛け声、荷揚げされる魚箱の音が響き渡っている。潮の香りと焼きたてパンの匂いが混じり合い、石畳の道を歩く人々の足音が軽やかに響く。
その港の端、少し離れた桟橋に1隻の異彩を放つ船が停泊していた。
ワンダー号の船体は黒と金を基調とした塗装で、船首には白薔薇の紋章が誇らしげに描かれている。
3本のマストには横帆と縦帆が巧みに組み合わせられ、バウスプリットにはスプリットセイルが風を孕むように張られている。甲板の両舷には16ポンド砲が左右均等に配置され、合計10門が黒い砲口を静かに開けている。船尾には金文字でブリスティア海賊団と刻まれたプレートが輝いていた。
ハッターとヘイヤはワンダー号の舷側に近づいた。
紫色のシルクハットを少し傾け、燕尾服の袖を軽く払いながら甲板を見上げた。
ヘイヤは長い兎耳をピョコピョコと動かし、周囲をキョロキョロと見回している。
甲板の上に小柄な影が立っていた。船長代理の仕事が板についていたコッツは緑がかった肌、尖った耳と大きな鼻、ボロの海賊帽を被り、腰に短剣を差している。今は舷側の手摺りに寄り掛かり、港の様子を眺めていた。ハッターは帽子を軽く持ち上げ、優雅に一礼した。
「やあ、君が船長かい?」
「船長代理だ。船長は忙しいもんでね」
「帝都まで船を出してほしいんだ。タダでとは言わないよ。相応の対価は払おう」
コッツはハッターとヘイヤを上から下まで眺め、鼻を鳴らした。
「運び屋なら他を当たってくれ。うちはただの漁船じゃねえ。海賊漁船だ。気まぐれで動く船じゃねえ」
ハッターは船尾のプレートに目をやり、小さく笑みを浮かべた。
「――ブリスティア海賊団……まさかブリスティア魔障院の船か?」
呟くように言うと、コッツの目が一瞬鋭くなった。
「魔障院の船じゃねえよ。船長がブリスティア魔障院にいたからこの名がついた」
「俺たちはアリスの友達だ! 俺はヘイヤ。こっちはハッター。今アリスを探しているところなんだ!」
ヘイヤが兎耳を真っ直ぐに立てると、元気良く答えた。コッツはハッターとヘイヤを交互に見つめた。
やがて小さく息を吐くと、観念するように口を開く。
「確かにアリス・ブリスティアの船だが、船長は帝都で忙しいんだ」
ハッターはシルクハットを指で軽く押し上げ、ニヤリと笑った。
「だったら丁度良いじゃないか。帝都まで連れて行ってくれ。アリスに会いたい」
コッツは少し考え込み、後ろを向きながら肩を竦めた。
「まあ、アリスの友達なら断る理由もねえか」
「最近のゴブリンはやけに物分かりが良くて助かる」
「但し、タダってわけじゃねえぞ。こっちも日銭を稼ぐので忙しいんだ。それに帝都アティ・テルは内陸にある。海路で行くのはまず不可能だ」
「だったらまずはクルケンダまで行こう。そこで魔石が売られている。この船には魔石を使うことで浮力を発生させる魔導機関が搭載されているはずだ」
「よく分かったな。魔箒には乗らないのか?」
「道中にいくつもの検問がある。スペルカードがなければ通れない。だが漁船なら通過フラッグを立てるだけでフリーパスだ」
「あそこはルベルバス領だ。海賊船の検問が厳しいから避けていたが、あんたがトランプ兵の目晦ましをしてくれるなら考えてもいい。それほどの覚悟があるならの話だが」
「もちろんさ。困難だろうが、不可能じゃない」
ハッターは帽子を脱いで深くお辞儀をした。
「感謝するよ、船長代理殿」
「コッツと呼んでくれ。その呼び方は背中が痒くなる」
「名前の方が気に入ってるのか?」
「さあな。どうも誰かさんの拘りが移っちまったらしい」
ヘイヤは兎耳をぴょんぴょん跳ねさせ、甲板に飛び乗った。
「やったー! これでアリスに会えるぞー! ハッターの星詠みを伝えられるな」
コッツの脳裏に気になる言葉が突き刺さるも、2人の様子を見て小さく笑った。
「さあ、早く乗った。今日は不漁だからな。出航の準備だ。手伝ってもらうぞ」
ワンダー号の帆がゆっくりと張られ、風を受け始めた。港町ドンマルノの桟橋を離れ、修理を終えたばかりの年季が入った船は帝都を目指して帆を張り始め、ハッターとヘイヤは契約書に手早くサインする。
陽光が白薔薇の紋章を鮮やかに浮かび上がらせた。
ハッターは甲板の手摺りに寄り掛かり、遠ざかる港を見ながら小さく呟いた。
「ところで、さっき言った星読みとは何のことだ?」
「気になるか? まあいい、君たちには話しておこう。夢で見たんだ。アリスが――」
深刻な顔へと変わっていくハッターに耳を傾けるコッツ。
ヘイヤは兎耳を風に揺らしながら、落ち着きのないまま飛び回る。
ワンダー号は波を切り裂き、帝都への長い旅路を力強く進み始めるのだった――。
数日後——。
アリスはいつものようにアティ・テル大学の講義室に座っていた。
窓から差し込む午後の陽光が机の木目を優しく照らし、教授の声が遠く響く。ノートに羽根ペンを走らせながら、ふと、あの日のことを思い返していた。
黒き海の廃墟でトロールと化していたスラッジオの巨体が灰と化した後、残った頭蓋骨を拾い上げて持ち帰っていた。アリスはその重く軽い骨をフランソワにそっと手渡した。
「これ、持って帰って。スラッジオ討伐の手柄は全部あなたにあげるわ」
フランソワは骨を受け取りながら、驚いた顔でアリスを見た。
「……お前、本気で言っているのか?」
不穏な表情を無視するかのように、アリスは小さく微笑んだ。
「あなたには面目が必要でしょ。私にはそんなもの必要ないから」
フランソワは骨を握りしめ、何かを言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。
あれから時間が経ち、大学の大広間ではスラッジオ討伐の吉報が発表された。
フランソワが南東の廃墟に巣食う強力なスラッジオを単身討伐と張り出され、講堂は歓声に沸き、フランソワは壇上で頭蓋骨を掲げながら堂々と語った。
「これは皆の協力の賜物です。共に戦ってくれた仲間たちに感謝します」
学生たちの視線が彼に注がれる。ますます人気は募り、廊下では彼の名を囁く声が絶えなかった。
アリスは後ろの席から静かにそれを見ていた。フランソワは人知れず目線を落としていた。
箒の中ではいつもの賑やかさが続いていた。ロブはルベルバスの古い料理本を読み漁り、鋏でページを捲りながら、時折見たこともない料理の1枚絵を見ながら呟いている。ピクサーブとジャンヌは箒の広い空間で、涼しい顔で剣を打ち鳴らしていた。目にも止まらぬ速さで剣先が交差し、火花が散る。2人の動きは舞うように優雅で、同時に恐ろしく鋭い。マルアスの背の上ではネレイアラが跨り、アリスが採ってきた浮遊する作物を小さな手でつまんで食べさせていた。
マルアスは上機嫌に口を開け、ネレイアラが差し出す果実をぱくりと食べる。
アリスは講義の合間に箒の中を覗き、小さく笑う。窓の外は帝都の空が穏やかに広がっていた。ノートに羽根ペンを走らせ、次の単位を取ることだけを考えていた。
黒き海の記憶はアリスの胸に鮮やかに残っていた。
アティ・テル帝立大学はいつも通りの静けさと喧騒を併せ持っていた。講義棟の廊下では学生たちの足音が響き、中庭では噴水の水音が穏やかに流れ、図書館の窓からは古書の匂いが漂ってくる。
カレンは特に何のお咎めもなく、大学に居座り続けていた。銀の百合バッジは胸に留めたまま、藍色のローブを羽織り、図書館の奥の席に座っては、古い歴史書を捲り続けている。
しかし、周囲の視線は冷たく、正統教信者の学生たちはカレンが通る度、露骨に睨みつけた。
カレンはそんな視線を意に介さず、ただ淡々とページを捲っていた。
これ以上の潜入は難しく、学長室や枢機卿の私室に近づくことすらままならない。表情は疲れと諦めが混じり合い、いつもの冷徹な仮面が僅かに罅割れ始めていた。
夕暮れ、下宿寮の奥、寝室の扉をアリスが静かに叩いた。扉がゆっくり開き、カレンが顔を覗かせた。藍色のローブの裾が揺れ、長い黒髪が肩に落ち、紫水晶のような瞳がアリスをジッと見つめる。
「誰にもつけられてない?」
「大丈夫よ。みんなフランソワに夢中だから」
アリスはのっそりと部屋の中へ入った。カレンの部屋は簡素だった。
木製の机の上に歴史書が積まれ、壁には真正教の小さな百合の紋章が控えめに飾られている。窓からは夕陽が差し込み、部屋全体を赤く染めていた。アリスはベッドの端に腰を下ろす。
「収穫はあったの?」
カレンは机の上の本を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……あなたが言った通りよ。歴史書からは鉄仮面の記録が全て消去されていたわ」
机の引き出しから1冊の古書を取り出し、該当ページを開いた。
そこには鉄仮面に関する記述があったはずの箇所が無難な別の記述に書き換えられていた。
「やっぱり深淵なる忘却だったのね」
アリスは本を覗き込み、静かに頷いた。
「鉄仮面がカルド枢機卿から殿下と呼ばれていたことが気に掛かるわ」
カレンは紫水晶の瞳を細め、小さく呟いた。
「……もしかしたら、相当身分の高い人じゃないかしら」
「身分の高い人?」
そっと本を閉じると、カレンはアリスを見据えた。
「殿下という呼び方は皇族か王族にしか使われないわ。カルド枢機卿が誰かを殿下と呼ぶなんて普通じゃないわ。鉄仮面はルクステラ帝国の皇族か、あるいは……ルクステラ貴族の誰か……もしくは、もっと深い秘密を抱えた人物かもしれないわ。だっておかしいじゃない。何か見られたくないものを見たならすぐに始末すればいいのに、あえてそうしない理由が気になるわね」
アリスはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。夕陽が帝都の尖塔を赤く染める。
「それなら手っ取り早い方法があるわ。カルド枢機卿を問い質すのよ」
「……どうせやめろと言っても行くつもりなんでしょ。でも気をつけて。カルド枢機卿は何を考えているか分からない男よ。あなたのことを買っているのは確かだけど、最悪消されるわ」
「大丈夫よ。問題をお掃除するのも掃除番の仕事よ」
「最近の掃除番は随分と役割が広いのね」
部屋の扉が静かに閉まる。下宿寮の廊下にアリスの足音が響き始めた。
帝都の夕暮れは重くアリスの背中を包み込んでいた。
深夜を迎えたアティ・テル帝立大学は静寂に包まれていた。大聖堂の鐘が遠くで低く響き、石畳の廊下には月光が青白く伸び、窓辺に飾られた銀の百合バッジが微かに光を反射している。
アリスは下宿寮の自室を出て、1人学長室へと向かった。
箒の中ではジャンヌを除き、全員が眠りに就いていた。
普通の学生のように歩を進める。青い魔障院制服の裾が夜風に軽く揺れ、銀の百合バッジが胸で静かに輝いている。学長室は大学本館の最上階、螺旋階段を上りきった先にあった。
重厚な黒檀の扉の前で、アリスは一度立ち止まり、深く息を吸った。
ノックは2回。控えめだが確かな音だ。
「夜分遅くに失礼します。アリス・ブリスティアです。ユリウス学長、お目通りを願います」
しばらくの沈黙の後、扉がゆっくりと内側へ開いた。室内は暖炉の火が赤く揺れ、壁一面の本棚に並ぶ古書が橙色の光を浴びて影を落としている。中央の大きな机の上には羽根ペンが独りでに動き、羊皮紙の上を滑るように文字を綴っていた。ユリウス学長は黒いローブを纏い、机の向こうに座っていた。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔に余裕の笑みを浮かべている。
「こんな夜遅くに何用だ?」
アリスは扉を閉め、静かに一歩を踏み出した。
「カルド枢機卿との謁見をお願いしたいのです」
ユリウスは羽根ペンの動きを眺めながら小さく笑った。
「あのお方は多忙だ。学生の個人的な願いを叶える義務はない」
アリスは一歩近づき、声を低く続けた。
「それでも、どうしてもお会いしたいのです。もしお断りになるなら、退学届を出します」
ユリウスの笑みが僅かに深くなった。机の上の羽根ペンを見つめたまま、静かに呟いた。
「君には同じ魔障院の親友がいたな。大事な親友が悲しむことになるぞ」
空気が一瞬で張り詰めた。暖炉の火がパチンと音を立て、橙色の光が2人の顔を交互に照らす。
アリスの碧眼が僅かに揺れた。その時、部屋の奥、書棚の影から緋色の礼服を手に持った男がゆっくりと姿を現した。カルドは真紅のローブに金の刺繍が施され、胸元には巨大な黒薔薇のブローチ。
白髪が後ろに流れ、鋭い眼光がアリスを射抜く。ゆったりとした足取りで歩み寄り、机の横に立った。
「猊下、何故ここまで――」
「下がれ、ユリウス。この無礼な小娘は我輩が引き受けよう」
「あなたがカルド枢機卿ですか?」
「如何にも」
ユリウスは立ち上がり、無言で頭を下げ、部屋の奥へと消え、2人だけが残る。
暖炉の火が2人の影を長く伸ばし、静寂が張り詰めた。
カルドは緋色の礼服を机に置き、ゆっくりとアリスを見据えた。
「アリス・ブリスティア。こうしてまともに会うのは初めてだな。我輩の名はカルド・プルミニストル。ルクステラ帝国の宰相と正統教の枢機卿を兼ねておる。して、我輩に何用だ?」
アリスは箒を握る手に力を込め、恐れを伏せながら口を開いた。
「鉄仮面について、お聞きしたいことがあります」
カルドの瞳が一瞬鋭く光った。部屋の空気が更に重みを増していく。
暖炉の火がパチンと音を立て、2人の対峙を静かに見守っていた。
最古の大帝国と呼ばれたアエテルナ帝国には大いなる国家機密がある。帝都ペル・ペトゥアを一夜にして壊滅させたのは、皇帝の使い魔たるアニマリーであった。皇帝は使い魔に廃棄物処理をさせようと錬金魔法を使い魔に用いた。魔石を調合した汚泥を組み込んだ結果、体は禍々しい粘液となり、急速に狂暴化した。
禁忌職人ガリオン・ダスクブレードの著書『永遠なる星屑の叙事詩』より




