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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第3章 鉄仮面と失われた聖杯
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chapter 3-16 鉄の模範囚

 アリスは独房の奥へと足を進めた。


 鉄格子の扉を抜けた先は予想以上に狭く、石壁が迫るように立ち塞がる空間だった。


 天井は高く、背伸びをしても手が届きそうにないほどだ。空気は湿気を帯び、鼻腔に古い石と埃の匂いが絡みつく。床は鉄板に張り替えられ、継ぎ目から焦げ臭い空気が漏れ出していた。


 かつての毛布やマットレスは全て燃やされ、黒い炭の欠片が隅に薄く積もっているのみ。テーブルも椅子も溶けた金属の残骸が床にへばりつき、扉と窓は外され、燃やされた痕跡が枠に黒く煤を残していた。


 部屋の奥、右側の壁際に四角い石造りの便器が据え付けられていた。


 粗末な灰色の石で作られたそれは、表面に細かな罅が入り、中央に丸い穴がぽっかりと空いている。


 しかし、驚くほど清潔だった。汚れ1つなく、埃すら積もっていない。


 まるで、誰かが意図的に磨き上げたかのように、石の表面が鈍く光を反射している。アリスはゆっくりと近づき、便器の縁に手をかけた。冷たい石の感触が指先に伝わると、恐る恐る穴の中を覗き込んだ。


 真っ暗な闇が広がり、底が見えない。


 だが空間の端、闇の最も深い場所に一点の光が微かに瞬いていた。淡い金色。柔らかく、暖かく、まるで小さな星のように闇の中で息衝いている。アリスは息を呑んだ。


 アリスは箒を構え直し、穂先を鉄槌へと変形させた。鉄槌の表面に光沢が宿り、重々しい輝きを放つ。


「ロブ、下がってて」

「何をするつもりだ?」

「こうするのよ。【粉砕掃除(クラッシュスイープ)】」


 アリスは大きく息を吸い、鉄槌を振りかぶった。


 巨大な衝撃音が独房全体に響き渡り、石造りの便器が一瞬で粉々に砕け散った。


 ロブは慄くように後退りし、アリスの動向を見守った。


 破片が四散し、壁に叩きつけられ、床に転がる。粉塵が舞い上がり、アリスの視界を一時的に覆った。すぐに箒に跨り、大きく空いた穴の中へと飛び込んだ。穴は予想以上に深く、底はすぐに現れた。


 アリスは足をつき、光っている物を手に取った。


 それは手に収まりきらないが、無理なく持ち上げられるくらいの小さな杯だった。


 金色の光を放つ、古びた美しい聖杯。


「そんなとこに何かあるってのか?」

「世にも不思議な物を見つけたわ」

「便器の中に入る奴より不思議な物があるのか?」


 表面には複雑な紋様が刻まれ、底には淡い青い宝石が埋め込まれている。アリスは息を呑み、聖杯を両手で持ち上げた。微かに焦げた臭いがしたが、それは浄化炎によって全ての汚物が消滅した証であった。


 すると、突然聖杯が光り出し、意識を飲み込まれていく――。


 再び目を開けたアリスが見たのは、焼却される前の独房であった。


 鉄仮面が目の前に佇むカルドの前に座り尽くし、一向に口を開かない。


「殿下、どうか悪く思わないでください。あの黒薔薇の皇帝レオン・ボナールから殿下の身を守るには、こうして身を隠す他ないのです」

「分かっている。あの邪悪な野望に満ちた男に見つかれば、余は一巻の終わりだからな」

「人々から忘れ去られるまでの辛抱です」


 アリスは鉄仮面に触れようとするが、手は触れることはなく通り抜けてしまう。


 以前見たことのある幻――それは他でもない、記憶の残像であった。


 カルドは鉄仮面と対面しながらも、丁寧過ぎるほどに敬意を見せていることに、アリスは開いた口が塞がらない。部屋の中を眺める余裕もなく、2人の話に耳を傾けた。


「いつになれば、余は忘れ去られるのだ?」

「皇帝陛下が殿下の死を確信するまででしょう。ところで、殿下は幼き頃、先代皇帝の父君から世にも珍しい聖杯を頂いたと聞きましたが、それは真ですか?」

「……あんなもの、疾うの昔に捨てた。もしレオン・ボナールが聖剣と共に揃えるようなことがあれば、この世界は奴の手に落ちるのだからな」


 アリスの意識がまたしても歪み、独房も、カルドも、鉄仮面も、全てが混ざるように歪んでいく。


 気がつくと、独房にいるアリスの掌の中で、聖杯が優しく脈打っていた。独房の闇の中で、光だけが輝き続けていた。アリスは聖杯を胸に抱き、ゆっくりと立ち上がると、探していた聖杯と確信する。


「――鉄仮面が隠していた物はこれだったのね」


 アリスは箒を握り直し、穴の底から地上へと舞い上がった。


「何だそれは?」

「聖杯ルパーヴォよ。剣なき鞘とも呼ばれているわ。長らく誰からも発見されなかったことから、失われた聖杯とも呼ばれていて、聖剣ヴォーパルの鞘だったのよ。一度調べたわ。模様も形もそっくりね」

「聖遺物兵器か。まさか本当にあったとはな」


 聞いたことのない言葉を耳にし、首を傾げるアリス。


「聖遺物兵器?」

「知らねえのか。全宇宙の秩序を守るべく、神があらゆる世界にばら撒いたとされる代物だ。それが俗に言う聖遺物だ。もっとも、人間にとってはただの兵器でしかねえから、聖遺物兵器と呼ばれているんだ」

「乱暴な使い方しか知らないのね」

「でも何でこんなとこに置いていたんだろうな」

「普通に隠したところで、魔力感知ですぐにバレてしまうわ。だから魔力感知が及ばないこの牢獄にいたことが幸いしたのよ。便器の中ならトランプ兵もわざわざ確認しようとは思わないし、通常は浄化炎を投げ込むだけでお掃除できるから、中にまでは注意が向かなかった。聖杯はあらゆる魔力を吸収するから、ここを片づける時に投げ込んだ浄化炎でも消滅しなかったのよ」

「木を隠すなら森の中か」


 すると、遠くからトランプ兵の声が聞こえた。徐々に階段を下りてくる足音が徐々に大きく響く。


 穂先を吸い込み口に変えると、中に聖杯ルパーヴォを放り投げた。浄化の空間に触れ、剣なき鞘からは浄化炎の臭みさえ消滅し、息を吹き返したように鮮やかな色が浮かび上がり、箒の中を漂っている。


 箒の召喚を解き、アリスは丸腰のまま、鉄格子の扉へと近づく。


 しかし、時既に遅く、トランプ兵はすぐそばにまで迫っていた。


 大きな音を聞きつけたトランプ兵たちの足音が螺旋階段の上から一気に響き始めた。甲冑の擦れ合う金属音、槍の柄が石壁に当たる乾いた音、怒号と命令の叫び声が地下5階の重い空気を切り裂く。


「一体さっきの音は何だったんだ!?」

「知らん! 地下5階だ! 急げ!」

「侵入者だ! 包囲しろ!」


 階段を駆け下りてくるトランプ兵の影が松明の揺らめく火光に長く伸び、壁には赤黒いシルエットを映し出す。スペード、クローバー、ハート、ダイヤモンド、各スートのトランプ兵が武器を構え、一斉に独房の通路へ殺到した。アリスとロブは鉄格子の扉の前に立ったまま、背後から迫る足音に気づいた。


 アリスは箒の穂先を素早く開き、内部空間から淡い水色の輝きを放つ魔石が嵌め込まれた冠を引き当てるように取り出した。ベスティアクアマリン。冠の中央に埋め込まれた魔石は深海のような青色に輝き、周囲の空気を微かに湿らせている。アリスは迷わずそれを頭にかぶった。


 冠が髪に触れた瞬間、頭の周囲に薄い水の膜のような球体が張られた。


「ロブ、下がってて」


 アリスは箒の穂先を再び鉄槌へと変形させ、鉄槌の表面はいつにも増して重々しい輝きを放つ。


 ロブは巨大な鋏を構えながら低く唸った。


「ここは独房だ。逃げ道なんてねえぞ。何をする気だ?」


 アリスはトランプ兵たちの足音がすぐそこまで迫る中、真剣な眼差しで口を開いた。


「道がないなら掘り進めるまでよ」


 鉄槌がさっきよりも巨大化し、全魔力を集中させ、大きく振りかぶった。


「お掃除の時間よ。【粉砕掃除(クラッシュスイープ)】」


 衝撃音が地下5階全体を震わせる。鉄槌が独房の壁に直撃したのだ。


 石壁が蜘蛛の巣のように放射状に罅割れ、次の瞬間、粉々に砕け散った。


 割れた穴から黒き海の海水が勢い良く流れ込む。冷たい水が独房の床を瞬時に埋め、鉄板を浮かび上がらせると、壁の塗料を剥がし、焦げ跡を洗い流していく。


 トランプ兵たちは階段の途中で足を止め、水の勢いに驚愕した。


「水だ! 海水が流れ込んでくるぞ!」

「壁が! 崩れるぞ!」

「退却だ! 地上へ急げ!」


 慌てて階段を駆け上がり、甲冑の音を響かせながら逃げ惑った。


 アリスはベスティアクアマリンの恩恵に与り、海水の中でも呼吸を保ち、ロブに視線を送った。


「ロブ、行くわよ!」


 ロブは巨大な鋏を構え、一瞬だけ躊躇した後、甲羅を震わせて笑った。


「見かけによらず無茶な奴だ」


 アリスは箒に跨り、ロブは鋏で壁を掴み、2人は同時に大きく空いた穴の中へと飛び込んだ。


 海水の冷たさが一気に体を包む。黒き海の闇は深く2人を飲み込んだ。


 ベスティアクアマリンが放つ淡い光が周囲を照らし、ロブの甲羅が水圧に耐えながら隣を泳ぐ。


 黒き海の底をから離れるように海面へと向かった。水面が近づく。そして遂に黒き海の表面を水飛沫を上げながら飛び出した。海水が飛び散り、日光が2人の体を照らす。


 アリスは浅い水面を歩きながら上陸し、ロブは海底を這い、体を浮上させた。


 互いに顔を見合わせ、息を整えた。黒き海は静かに波を立て続けていた。


 廃墟の崖の上からトランプ兵たちの怒号が響く。アリスはロブに視線を送り、小さく笑った。


「どうにか脱出したみたいね」


 ロブは鋏をカチンと鳴らし、呆れた目を半開きにさせた。


「ああ、実に完璧な作戦だ……追手がいなければな」


 2人がいたのは島の岸辺、灰色の岩と枯れた木々が疎らに生える砂浜であった。


 足元に黒い砂がべっとりと張り付き、海水が滴り落ちる。ロブは鋏で体を払い、水滴を飛ばす。


 各スートのトランプ兵が槍を構え、剣を抜き、砂浜を埋め尽くすように包囲した。


 数は優に50人を超え、背後には要塞の監視塔から更に援軍が駆け下りてくる気配があった。


「そこまでだ! 大人しく両手を上げろ!」


 トランプ兵の1人が槍を突きつけながら叫ぶ。アリスとロブは自然と背中合わせになった。アリスは箒を構え、ロブは巨大な鋏を広げ、互いの背中を任せるように立つ。


 砂浜に緊張の空気が張り詰める。トランプ兵の槍先が陽光を反射して鋭く光る。


 その時、上空から新たな影が降り立った。フランソワは赤いマントを翻し、カレンを後ろに乗せ、箒に跨ったまま急降下する。カレンは藍色のローブを靡かせ、隣を並走する。


 2人の後ろには、ピクサーブ、マルアス、ネレイアラ、ジャンヌがいた。


 ジャンヌはトランプ兵を見据え、白銀の鎧を纏い、鞘から剣を抜き、アリスのそばに降り立つ。


「これで逆転だ」


 ピクサーブが言うと、ジャンヌが隣で笑う。


「いや、チェックメイトだ」


 トランプ兵たちの動きが一瞬止まり、今にも白兵戦が始まろうとしていた。


 アリスは真っ先に心配した。多くのトランプ兵が犠牲になることに。


「待て! 俺はフランソワ・デカルト。帝都に伝わるデカルト家の貴族だぞ。我が父は次期教皇と名高いベルトラン枢機卿だ! もしここで俺に傷を負わせれば、どうなるか分かっているんだろうな!?」


 フランソワが赤いマントを大きく広げ、声を張り上げると、トランプ兵たちの間に動揺が走った。


 槍を構えた手が震え、互いに顔を見合わせる。


「あのデカルト家の貴族だと……」

「ベルトラン枢機卿の御子息?」


 フランソワの言葉は効果抜群だった。兵士たちは槍を下げ、剣を収め、一歩後退する。


「申し訳ございません。知らなかったとはいえ、ご無礼をお許しください」


 トランプ隊長が跪き、わざとらしくフランソワが見下ろした。


「分かればいい。お前たちは何故アリスを捕えようとした? それにそこの……」

「ロブだ。ザリガニだけどな」

「そ、そうか。アリスとロブが何をしたというんだ?」

「立ち入り禁止区域に侵入し、ロブと共に脱獄を図ったのです。ロブは以前より派遣罪人としてスンラレ牢獄の料理番を務めております」

「脱獄か。それは良くないな。ならばこの2人はこちらで預かろう。よりキツイ罰を与えないとな」

「し、しかし――」

「デカルト家は地方貴族だが、主にトランプ兵の管轄だった家として名高い。後で書面を送ろう」

「承知仕りました」


 トランプ隊長が剣を納めると、撤退の合図をしながらスンラレ牢獄へと引き上げていった。


 ジャンヌは静かに剣を収め、アリスに視線を送った。


 アリスはフランソワとカレンに小さく頷いた。ロブは鋏をゆっくりと閉じ、周囲を見回した。


 砂浜に静寂が戻る。アリスはロブに視線を向け、静かに口を開いた。


「良かったわね。これであなたも釈放よ。ワンダー号の料理番、頼んだわよ」


 ロブは鋏をカチンと鳴らし、ほくそ笑んだ。


「ああ、これからよろしくな。久しぶりの外だ。どんな食材に出会えるのかが楽しみで仕方がない」

「ふふっ、そうね――みんな助けに来てくれてありがとう……それと……さっきはごめんなさい」

「気にするな。アリスが無事で何よりだ」

「そうだぜ。どれだけ心配したか」

「アリスにはあたしたちがついていないとね」

「アニマリーと共闘する光景が見られるとは思わなかったが、仲間の力がどれほど重要か、よく分かっただろう。お前は1人じゃない。私たちがついていることを決して忘れるな」

「ええ、肝に銘じておくわ」


 アリスは【女神の箒(ゴッデスイーパー)】の穂先を吸い込み口に変えた。


 ピクサーブたちが順番に入っていくと、フランソワとカレンも恐る恐る後に続く。


 空へと舞い上がり、ロブは箒の中を初めて体感し、今までに集めてきた数々の魔導具や資源が浮遊している中で、アリスの部屋を目撃する。ピクサーブが剣の訓練に励み始めると、ネレイアラはマルアスの蹄を磨き始め、ジャンヌはアビサル・オブリビオンを読み始めた。


 帝都へと戻る道のりで、陽光が一行の背中を優しく力強く照らし続けていた。


 黒き海は静かに波を立て続け、その光景を見送っていた。

 失われた大飢饉の最中、ルベルバス王国は雇用適齢期となった多くの魔障を見捨てたばかりか、雇用された魔障でさえ早く辞めさせるためにわざと過酷な労働を強いた結果、多くの死者を出した。アニマリーでもここまでの仕打ちはなかった。これを迫害と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。


 魔障騎士団殉教者エイラ・ボリアルの著書『氷山の全貌』より

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