chapter 3-15 秘匿
アニマリーは有史以来人間と度々争い、抵抗運動の末、ようやく市民権を得た。
苦心の末、芋蔓式に多くのアニマリーが人間と交流を深め、魔法都市に住みながら働くことを許されるまでに長い月日を要した。魔障ほどではないにせよ、アニマリーも決して順風満帆ではない。
古代ではクリーチャーと同等の扱いをされ、物言う道具として苦役を強いられ、一部のアニマリーは絶滅に追いやられるも、圧倒的な勢力を誇る人間との間には、いつしか恩讐を越えた絆が芽生えていた。
アリスは静かに聞きながら次の質問を投げかけようと好奇心が逸り、頭よりも先に口を動かした。
「どうして捕まったの?」
ロブは鋏で地面を軽く突きながら渋々話を続けた。
「料理長のじいさんが引退した後、俺じゃなく入ってきたばかりの貴族が料理長を継いだ。俺は納得がいかずに抗議した。そしたら待ってましたと言わんばかりに不敬罪で逮捕。二つ星の副料理長は牢獄の料理番として派遣される破目になりましたとさ……アニマリーはどんなに頑張っても、組織の頂点には絶対立てねえ。料理長だってそうだ。ここは人間界だってことをこれでもかっていうほど思い知らされた。俺には不可能だった……」
「派遣罪人だったのね。アニマリーも大変だって聞いたけど、想像以上だわ」
アリスはロブの言葉を聞き、質問したことを後悔しながらも想像を巡らせた。
「宝の持ち腐れとはこのことね――あっ、それならワンダー号の料理番になるのはどう?」
ロブは一瞬鋏を止めた。アリスはロブの背中を見つめながら時を待つ。
アリスの持ち船であるワンダー号には1つ大きな欠陥があった。
料理番が1人もいないのだ。美食の文化が存在しないルベルバス王国民や現地のアニマリーにとって、料理は腹が減るために仕方なく食べる栄養源でしかなかった。
「お前の料理番だと?」
アリスはロブの言葉を聞き終えると、開き直ったように口を開いた。
「ブリスティア海賊団には料理番がいないのよ」
ロブの鋏がピタリと止まった。
「……そこで俺が働く意味は何だ?」
赤みがかった甲羅の下から、低く鋭い声が漏れる。
アリスは箒を肩に担いだまま、ロブの巨大な瞳を真っ直ぐに見つめた。
「美食の文化がないルベルバスには、魔法都市に二つ星のお店がいくつかあるくらいで、三つ星のお店がまだどこにもないわ。でもあなたの腕前なら、二つ星は堅いはずよ」
「ルベルバスでもアニマリーの料理長は認められていないはずだぞ」
ロブの鋏がカチンと小さく鳴ったが、アリスは小さく首を振った。
「ワンダー号は別よ。私の海賊漁船はアニマリーが中心だし、世俗の仕来りなんて通用しないわ。それに名目上は料理番を名乗っていれば、何の問題ないわ」
「結局、俺は料理長にはなれねえってことか」
「星は料理番にじゃなく、お店につくんでしょ。だったら誰が料理長かなんて、どうでもいいじゃない。一度しか言わないわよ。アニマリーの未来を変えたいなら、行動するしかないわ。派遣罪人としてここで使い潰されるか、船上の料理番として新しい道を切り開くか、あなたが決めなさい」
厨房のランプがゆらゆらと揺れ、2人の影を長く伸ばした。
ロブは巨大な鋏をゆっくりと閉じ、甲羅を軽く叩きながら長い沈黙を置いた。
耳を澄ませ、黒き海の音が遠くから微かに響いてくると、やがてロブは静かに口を開いた。
「……分かった」
アリスの碧眼が一瞬輝いた。口元には小さくも純粋な笑みが浮かぶ。
しかし、ロブはその笑みを咎めるかのように鋏をカチンと鳴らし、言葉を続けた。
「但し、俺が厨房に立つからには、たとえ海賊漁船の上であろうと、中途半端な料理を作ることだけは絶対に許さねえ。目指すはルベルバス初の三つ星店だ。覚悟はいいな?」
ロブの声は確固たる決意に満ちていた。鋏が再び動き始め、アリスとの距離を詰める。
その目はアリスの真意を確かめるかのように鋭いものであったが、アリスは怯むことなく強く頷いた。
「畏まりました料理長!」
改まったように返事をするアリス。ロブは後ろを向くと、初めて生きた心地を味わった。
アリスはスプーンを置き、皿の底に残ったソースを指で拭って舐めながらロブに視線を戻した。
厨房のランプが碧眼を橙色に染め、静かな好奇心が瞳の奥で揺れている。
「ねえ、ロブ、鉄仮面の噂って知ってる?」
ロブの鋏がピタリと止まった。フライパンを火から下ろし、ゆっくりと体をアリスの方に向けた。
赤みがかった甲羅がランプの光を鈍く反射し、巨大な鋏がカチンと小さく鳴る。
「……鉄仮面か。確証はねえけどよ、この前鉄の甲冑みてえな仮面を被った人間が、島の森を抜けた先にある灰色の要塞に入って行くところを見たっていう奴がいたぜ」
アリスの瞳が鋭く光った。
「灰色の要塞? どの方向か分かる?」
ロブは鋏で厨房の裏口を指した。
「黒き海を背にして、島の中央を突っ切って、一番奥の崖の上だ。あそこは――」
言葉の途中でアリスは既に立ち上がっていた。既に外れた手錠を尻目に、自由になった手で箒を握り、厨房の裏口へと駆け出し、今にも外に飛び出そうとしていた。
「待てアリス!」
ロブの声が背中に飛ぶ。アリスは声に反応するように振り返る。
巨大な鋏を床に叩きつけ、低い唸り声を上げた。
「あそこは禁忌の聖域だ! 入ったらトランプ兵に捕まっちまうぞ!」
アリスの碧眼には、いつもの決意と少しばかりの寂しげな笑みが浮かぶ。
「もう慣れっこよ!」
再び前を向き、廃墟の奥へと駆け出すと、ロブは厨房の入り口に立ち、段々と小さくなっていくアリスの背中を見送り、巨大な鋏をゆっくりと横に伸ばしながら首を振る。
「仕方ねえな……おい、仕込みは頼んだぜ」
「「「「「畏まりました料理長!」」」」」
同時に活気のある返事が聞こえると、ロブは戸惑いを見せた。
「な……何だよお前ら……」
「前々から思ってたけどさ、あんたはここに収まる器じゃねえ」
頭部が赤い鶏冠状の長い冠を持ち、下顎がやや突き出し、口が斜め上を向く魚人族が言った。
「ここは俺たちが何とかするからよ、お前はさっさとあの少女と一緒に行っちまえ」
滑らかで毛や突起がなく、甲羅の前縁に目立つ切れ込みのない、眼柄が短い甲殻族が静かに言った。
「何、ザリガニの1匹や2匹いなくなったところで、誰も騒いだりなんてしねえよ。あんなに美味い飯をずっとタダで食わせてくれたんだ。時間稼ぎくらいはしてやる。早く行け」
「お前ら……達者でな」
感極まり、いつもより小さな声で言うと、ロブは急いでアリスを追いかけ始めた。
赤い甲羅を軽く叩き、アリスの後を追うように歩き始めた。鋏が地面を叩く音が廃墟の石畳に響く。
アリスは箒に跨り、低く飛んで森の奥へと進む。
黒き海の潮風が彼女の金髪を強く靡かせ、青い制服の裾をはためかせる。ロブは巨大な体を揺らしながらアリスの背中を追いかけた。灰色の要塞は島の中央、崖の上に黒い影のように聳え立っていた。
黒き海を見下ろす崖の頂に黒鉄の厚板で覆われた外壁を聳え立たせていた。
外壁は厚い鉄板が何重にも重ねられ、表面には無数の傷跡と錆が刻まれ、その重厚な威容は風が吹いても葉っぱ1枚落ちさせない。塔の頂には常に淡く青白い魔力結界が張られ、空気を震わせるように微かに輝いている。結界の縁は風に揺らぐことなく、まるで時間が止まったかのように静止していた。
アリスは要塞の外周を囲む枯れた木々の影に身を潜め、箒を低く構えて接近した。
黒き海の潮風が彼女の金髪を乱し、青い制服の裾をはためかせる。
トランプ兵の巡回ルートを読み、監視塔の死角を縫うように音もなく壁際へ滑り込んだ。要塞の裏手には地下へ続く通用口があった。重厚な鉄扉は半開きで、隙間から冷たい湿気が漏れ出している。
アリスは箒を肩に担ぎ、身を低くして中へ滑り込んだ。扉の内側は螺旋階段だった。
石段は苔生し、壁には古い松明が等間隔に吊るされ、揺らめく火光だけが道標となっている。階段を下る度に足音が反響し、湿った石の匂いが鼻を突く。時折天井から水滴が落ち、永遠の静寂を強調するかのように響いた。アリスは気を許すことなく、息を殺して階段を降りていく。
トランプ兵の足音が上からアリスの耳にまで聞こえた。壁の影に身を寄せ、松明の光が届かない死角を縫うように進む。一度クローバーのマークを胸に付けた兵士が階段を上ってくる気配を感じ、アリスは天井近くの暗がりに張り付いてやり過ごした。兵士の足音が遠ざかると、再び降り始めた。
地下へと続く階段は果てしなく続き、空気はどんどん重く、冷たく、湿気を帯びていく。
壁の石は苔とカビに覆われ、松明の火が届く範囲だけが僅かに乾いている。
地下への階段を下るあたりで、アリスは導かれるかのように、更に深い階層へと足を進めた。
地下5階。最も深い牢房の階層。ここまで来ると、空気は息苦しく、魔力が濃密に淀んでいる。
壁は魔石を埋め込んだ鉄格子で覆われ、淡く青い光を放っている。
格子の隙間から冷たい風が吹き抜け、アリスの肌を刺す。牢房の奥は暗く、松明の光も届かず、ただ鉄格子の青い輝きだけが、闇を切り裂いていた。アリスは思わず静かに息を潜めた。
その時、背後から微かな金属音が響いた。ロブの姿であった。
天井を這い回るように壁を伝い、音を立てることなく、アリスの背後に追いついていた。
巨大な鋏を壁に立てかけ、赤い甲羅を低く伏せ、アリスに視線を送る。
「あーあ、ここまで来ちまったか」
ロブの声は地下の静寂に響いた。アリスは振り返らず、鉄格子の向こうの闇を見つめていた。
「ここまで来たってことは、あなたも覚悟ができたのね」
大きな鋏を軽く鳴らし、異様な空気に肩を竦めた。
「お前がどこまで本気なのかを見せてもらうだけだ。それに……俺は全てを失ったと思っていた。牢獄の厨房で燻ってはいても、料理番としての誇りまでは失っていなかったことに気づかされた」
2人は鉄格子の前に並び、青い魔力の光に照らされた。
地下5階の牢房は静寂に包まれ、水滴の音だけが永遠に続きそうな響きを残していた。
アリスは箒を握りしめ、鉄格子の向こう側をジッと見つめた。
2人は地下5階の最も深い通路の突き当たりにまで辿り着いていた。
そこには魔石を埋め込んだ鉄格子の扉が青白く淡い光を放ち、重々しく立ちはだかっていた。
鉄格子の隙間からは冷たい風が吹き抜け、湿った石の匂いと何か焦げたような微かな残り香が混じり合って漂ってくる。アリスは箒を握る手に力を込め、ロブに視線を送った。
ロブは巨大な鋏をゆっくりと伸ばし、扉の取っ手に触れた。
「――鍵は掛かってねえな」
鋏の先で軽く扉を押すと、鉄格子は鈍い音を立て、あっさりと内側へ開いた。予想外の軽さだった。
2人は同時に息を呑んだ。中は誰もいなかった。独房は予想以上に広かったが、その空間は完全に空っぽだった。衣類は全て燃やされ、灰と焦げた布の欠片が床の隅に薄く積もっているのみ。
毛布もマットレスも黒く炭化した痕跡を残して消え、代わりに鉄のベッドフレームだけが歪んだ形で残されていた。テーブルと椅子は燃やされた後、金属部分だけが溶け残り、床にへばりついている。壁は削り落とされた跡がまだ生々しく残り、その上から新しく塗り替えられた灰色の塗料が、不自然に均一に塗られている。所々塗り残しや削りムラが露わになり、急ごしらえの隠蔽工作が見て取れた。
床も元の石畳は全て剥がされ、新たに打ち付けられた鉄板が敷かれ、その継ぎ目から、僅かに焦げ臭い空気が漏れ出している。扉と窓は外されて燃やされた痕跡さえあった。ヒンジの部分が溶け、枠に黒い煤がこびりつき、代わりに粗末な鉄板が溶接で塞がれている。アリスは不自然に思いながらもゆっくりと独房の中へと一歩踏み入れた。足音が鉄板に響き、カツンと不気味に反響する。
アリスは箒の穂先を望遠鏡の形に変え、ゴミを見通してみたが、どこにも汚れの反応はない。
「……ここって本当に誰かが居たの?」
ロブは鋏を床に突き立て、ゆっくりと周囲を見回した。
「居ただろうな。少なくとも最近までは。この焦げ跡もまだ新しいな。誰かが急いで証拠を消したんだ」
「よく分かるわね」
「何年も厨房にいるとな、焦げがいつできたものかが嫌でも分かっちまう」
「経験の賜物ね」
鋏が壁の削り跡を軽く叩くと、ロブは部屋を凝視しながら這い回る。
「壁を削り落として、塗り替えて、床も全部剥がして……ここにいた誰かの痕跡を消しちまったんだ」
アリスは鉄格子の青い光に照らされた顔をゆっくりと上げた。
碧眼には静かな怒りと決意が宿る。
「あなたの言葉が真実なら、鉄仮面はここにいたはずよ」
ロブは鋏をカチンと鳴らし、低く唸った。
「だったらどうする? 持ち物検査でもするか? 全部黒焦げだけどな」
アリスは微笑みながら小さく首を振った。
「もし鉄仮面が誰かに気づいてほしいと思っているなら、どこかに痕跡を残しているはずよ」
地下5階の静寂はますます重く、冷たく2人を包み込んだ。
キョロキョロを首を振り、部屋の中を隈なく探すが、怪しいものは何1つ見つからない。やはり隠滅されたかと諦めかけた時、ロブが足を止め、その場に立ち尽くした。
アリスは不思議に思いながらも、ロブの隣に並ぶのだった。
異界は古代より確認され、刻印師は時空の穴が現れる度、人知れず塞いでいた。だが時折異界に興味を持った刻印師が時空の穴を通り、文字通り帰らぬ人となる事態が相次いだ。異界には生物を惹きつけるほどの魔力を持っている。無論、異界の者たちもまた、人間界に惹きつけられているのだ。
刻印師テリオス・ノクタリスの著書『摩訶不思議の記録』より




