chapter 3-21 君臨せし汚泥粘液
翌日、帝都アティ・テルは騒然となっていた。
朝から街全体が熱気に包まれ、石畳の通りは花弁と色取り取りの旗で埋め尽くされていた。
それもそのはず、この日は赤薔薇の女王と黒薔薇の皇帝の婚姻の儀が執り行われる祝祭日であった。
宮殿の周囲には警備のトランプ兵がズラリと並び、槍の刃先が陽光を鋭く反射する。
各国の要人が続々と到着し、豪華な馬車が次々とフルール・ド・リス宮殿の門を潜り、貴族たちの華やかな衣装が通りを彩っていた。空には魔箒の影が飛び交い、市場の商人たちは特別な祝賀用の食材や飾り物を高値で売り捌き、子供たちの歓声と楽団の調べが重なり合う。
赤薔薇の女王がレティシアと共に大広間へと到着する。
「レティシア、ベティーが欠席するのは真か?」
「はい。使い魔に確認しましたが、来ないと見て間違いございません」
「婚姻の儀に参加しないならば、攻める口実になるな」
「最初は検討するとのことでしたが、何やら急に気が変わったようで」
「相変わらず憎たらしい妹だ」
眉間に皺を寄せる赤薔薇の女王。レティシアは白薔薇の女王の真意を知っているかの如く静かだ。
「黒薔薇の皇帝が一向に姿を現さないようだが」
「宮殿よりも戦場にいる時間の方が長い方と伺っております」
「こんな日にも戦場にいるならば、妾の方から赴いてやろうではないか。余興にはなろう」
「これはお互いを後ろ盾とするための政略結婚です。過度な干渉は如何なものかと」
「其方も変わらんな」
冷徹ながらも寂しげに言葉を返すと、レティシアはアリスのことが気に掛かる。
帝都の空気は興奮と緊張が混じり合い、甘い花の香りと香辛料の匂いが渦を巻いていた。
アリス一行はそんな喧騒の中、アティ・テル市場の奥にある中央広場にいた。ロブの料理対決が火蓋を切ろうとしていた。同僚であったペールとフィスが仮設の厨房を設営し、周囲に野次馬が集まっていた。
露店の陰に木造のテーブルが並べられ、鉄板が赤く熱され、油の匂いが立ち上る。
ロブは赤みがかった甲羅を陽光に輝かせ、巨大な鋏をカチンと鳴らしながら食材の箱を運んでいた。
アリス、メイベル、ピクサーブ、マルアス、ネレイアラ、ジャンヌは少し離れた場所から様子を見守っていたが、何やらロブが頭を悩ませていることも知らないまま、アリスの隣にメイベルが腰かける。
「まさか赤薔薇の女王と黒薔薇の皇帝が結婚とはね」
「前々から予定されていたことだし、大学も休みだから、今日は帝都でゆっくり過ごしましょ」
「――何も起こらないといいけど……さっきから胸騒ぎがするわ」
「もしかして、ジャンヌの予知夢のこと?」
「ええ。ジャンヌが言っていたわ。ここで大きな爆発が起こって、みんなが一斉に焼き尽くされたって」
「各国の要人が集まってくるこのタイミングでそんなことが起きたら一大事だけど、トランプ兵もこれだけたくさんいるんだから、きっと大丈夫よ」
「……だといいけど」
ロブが高級食材を求めて市場の卸売りに向かった。
様子がおかしいことに気づき、アリスとメイベルは市場へと歩み寄っていく。
「そいつは本当か?」
「ああ、本当だ。うちの食材は全て三つ星の店が買い占めていったよ。今日は皇帝陛下と赤薔薇の女王の婚姻の儀が行われるんだ。相当熱が入ってるんだろうな。悪いけど、もう残ってねえよ」
店主は肩を竦め、申し訳なさそうにしながらもハッキリと告げた。
ロブの鋏がピタリと止まる。ペールとフィスが嘲るように笑った。
「食材も用意できないなんて、とことんついてねえな、ロブ」
「ザリガニのくせに三つ星気取りだからこうなるんだ。牢獄の厨房で満足してりゃ良かったのに」
野次馬たちの笑い声が広がる。ロブは巨大な瞳を伏せ、深く息を吐いた。
甲羅の下から低い唸り声のような溜め息が漏れる。
「……食材もねえのか。こりゃ勝負以前の問題だな」
アリスは拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが胸の怒りを増幅させる。
メイベルが心配そうにアリスの袖を掴むが、アリスは視線をロブから離せなかった。ロブの背中が僅かに震えているのが見えると、アリスは居ても経っても居られなくなる。
「こんな方法でしか勝てないなんて、アニマリーに負けることが余程恐ろしいのね」
「何だよ、魔障はすっこんでろよ」
「基礎魔法も使えねえ役立たずのくせによ」
アリスは予てから受け続けている扱いに耐えていた。反抗の結果を思い出し、衝動を抑えていた。
しかし、その怒りは今にも頂点に達しようとしていた。
目が赤く染まるのを必死に堪えようとするが、更なる罵詈雑言が飛んでくるのは必至であった。
料理番たちが再び減らず口を発しようとしていた。
その瞬間、市場の奥から地響きのような音が響いた――。
地面が揺れ、石畳が罅割れ、露店のテーブルが倒れる。人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。黒き汚泥が地面から湧き上がり、ドロドロと蠢きながら形を成していく。巨大な龍、狼、蛇といった様々なクリーチャーと化した汚泥粘液スラッジオの群れが市場を埋め尽くすように現れた。
黒い体毛が粘液に濡れて光り、目がない顔から無数の触手が蠢き、咆哮が帝都の空を切り裂く。
スラッジオの体から滴る黒い粘液が石畳を腐食させ、白煙を上げた。
「あれってスラッジオじゃない!?」
「嘘でしょ……下水道にはもういないはずよ」
「寄りによってこんな日に来るなんて」
「スラッジオか。トランプ兵が何とかしてくれるだろ。魔障なんかと違ってな」
ペールが吐き捨てると、様子を見ていたフィスが恐ろしい光景を目の当たりにする。
「――お、おい、あれ見ろよ」
「どうしたってたんだよ? ……馬鹿なっ! トランプ兵が……石にされてるっ!」
スラッジオが吐き出した黒い光線を受け、瞬く間に石化したトランプ兵たちが次々と動かなくなると、大きな足で踏み潰され、石化した体は無残にもバラバラに砕かれていく。
「早く避難して!」
アリスは叫びながら【女神の箒】を構えた。
ピクサーブ、マルアス、ネレイアラ、ジャンヌが一斉に前へ出ると、すぐさま戦闘態勢に入った。
最前線に足を進めたピクサーブは桃色の短髪を靡かせ、召喚した【堅牢の鎧】を全身に纏い、細身の剣を抜き、矛先をスラッジオの群れへと向ける。
マルアスは白い右翼と黒い左翼を大きく広げ、黄金の一角を輝かせて低く唸る。ネレイアラは頭の提灯を青く光らせながら足の鰭を広げて水の調べのような歌声を上げ、周辺に薄い水の膜を張る。
ジャンヌは白い鎧を陽光に輝かせ、【青き焔の剣】を抜くと、青い炎が刃を包み込んだ。アリスは箒に跨り、低く飛んでスラッジオの群れに突っ込む。
「【浄化掃除】」
穂先から眩い白い光が放たれ、スラッジオの体を直撃する。
黒い粘液が蒸発し、クリーチャーの形が崩れ、灰色の塵へと変わっていく。
アリスは低空を滑るように飛び、群れの中心へ入り込み、次々と光を浴びせた。ジャンヌは青い炎を纏った剣を振り、巨大な龍のスラッジオに斬りかかる。炎が粘液を焼き、咆哮を断ち切り、体を両断する。剣が通る度に青い軌跡が残り、炎が爆ぜて周囲の汚泥を浄化していく。
ピクサーブは素早い動きで蛇型のスラッジオを翻弄し、剣で触手を切り落とす。マルアスは翼を広げながら突進すると、【虚無の一撃】の力を帯びた一角で体を貫き、黒い体を粉砕する。ネレイアラの歌声が響くと、【泡沫の膜】がスラッジオの動きを封じ、仲間たちの攻撃を援護した。帝都民たちは悲鳴を上げながら逃げ惑い、トランプ兵が駆けつけるが、スラッジオの群れは止まらない。市場の露店が倒れ、食材が散乱し、黒い粘液が石畳を覆っていく。
アリスは箒を急旋回させ、次のスラッジオに穂先を向けた。
「――キリがないわね」
青い炎と白い光が交錯し、市場の喧騒は戦いの咆哮に変わっていった。
陽光の下で仲間たちの影が長く伸び、帝都の空に新たな嵐が吹き荒れていた。
アリス一行が奮闘する中、市場の石畳は黒い粘液で覆われ、腐食の白煙が立ち上る。
スラッジオの群れは次々と形を変え、無数のクリーチャーが咆哮を上げながら押し寄せてくる。アリスは箒に跨り、低空を滑るように飛びながら穂先を振り下ろす。白い浄化の光がスラッジオの体を直撃し、黒い毛と粘液が蒸発して灰色の塵へと変わっていく。
だが群れは減らない。市場の露店は倒れ、食材が散乱し、帝都民の悲鳴が絶えない。
アリスは額に汗を浮かべながら次々と光を放つ。息が上がり、箒の柄を握る手が震え始める。
その時だった――。
地響きのような重い音が響き、市場の奥から巨大な影が現れた。
トランプ兵の班が見たこともない巨大な大砲を引き摺りながら進んでくる。砲身は黒く太く、表面に複雑な魔導回路が刻まれ、砲口からは青白い魔力が漏れ出している。
「ちょっと待って! 何なのこれ!?」
アリスは箒を急旋回させて降りると、トランプ班長に向かって叫んだ。
「これは魔核砲と呼ばれる最新の魔導兵器だ。これがあればたとえ相手がスラッジオであっても、一瞬にして粉砕できる。ここまでよく耐えてくれた。後は我々に任せて、お前たちは避難しろ。皇帝陛下が仰るには、かなりの威力を誇るそうだからな」
トランプ班長は槍を構えたまま冷たく答えると、メイベルが息を呑んだ。
脳裏には魔障院時代に丸暗記した歴史書の1ページが閃く。
千年戦争の最中、ルベルバス王国とルクステラ帝国が魔導兵器の開発競争に明け暮れていた。度重なる実験の末、未完成のまま封印されたはずの兵器こそが魔核砲であった。使えば極めて強力な熱波が周辺を無差別に襲い、敵だけでなく、魔法都市が丸ごと吹き飛ぶほどの威力を誇るのだ。周囲の魔力成分を吸収しながら次第にそれを濃縮させていき、一撃で広範囲を消滅させる禁忌の兵器であることを思い出した。
メイベルは慌ててトランプ兵に駆け寄り、肝を冷やしながら声を張り上げた。
「待ってください! 魔核砲なんて使ったら帝都が壊滅します! ここにいる全員が焼け死ぬことになるんですよ! お願いします! 今すぐ中止してください! どうかおやめください!」
トランプ班長はメイベルを一瞥し、鼻で笑った。
「魔障の言葉になど何の価値もない! とっとと下がれ! 神に見捨てられたゴミに用はない!」
吐き捨てるように言うと、メイベルは失意の目を震わせながら言葉を失う。
アリスは拳を握りしめ、胸の奥で何かが爆発するように熱くなった。
碧眼がゆっくりと赤く染まっていく――硬い殻を突き破るように、憤怒の全てが一気に溢れ出す。
目つきが鋭く変わり、静かに魔核砲の前に立ちはだかった。
「ん? 何だ貴様は? とっとと下がれと言っているだろう!」
「やめなさいって言ってるでしょ!」
怒鳴り声が市場に響き渡る。アリスは両手を魔核砲に触れた。
その瞬間、魔核砲が一瞬にして跡形もなく消滅した。赤黒い魔力が霧散し、砲身も台座もただの空気のように溶け消える。トランプ兵たちは呆然と立ち尽くし、アリスも自らの手に恐れを抱いた。
「……な、何だ……あの力は……」
掌が熱く震えている。だが立ち止まる暇もなく、スラッジオの群れが再び襲い掛かる。
アリスは箒の召喚を解き、赤く染まった瞳で群れを見据えた。
「【消去掃除】」
腕から先が赤黒く輝き、アリスはスラッジオの群れに突っ込んだ。体に触れた瞬間、スラッジオが溶けるように消滅していく。黒い体が霧散し、触手が跡形もなく消え、咆哮が途切れる。
アリスは右手を伸ばして龍の頭を掴み、左手を蛇の体に押し当てる。
触れた部分から黒い粒子が舞い上がり、瞬時に消えていく。
周囲はアリスの圧倒的な魔力を前に呆気に取られ、トランプ兵たちは槍を下ろし、野次馬たちは息を呑む暇もなく逃走し始めた。ピクサーブたちもまた、アリスの背中を見守りながら立ち尽くしている。
魔力が解放されたアリスの動きは速く、掃除機のようにスラッジオを綺麗さっぱりと消し去っていく。
最後に残った1頭の巨大なスラッジオが赤い瞳の前に立ちはだかる。だが魔力の限界を越えんばかりにアリスの両腕からは惜しみなく強烈な赤黒い光が炸裂し、最後のスラッジオが粒子となって消滅した。
市場に静寂が戻る。黒い粘液は浄化され、石畳は元の灰色に戻り、散乱した食材が陽光に照らされる。
ピクサーブたちは恐る恐る顔を上げ、アリスを見つめる。
トランプ兵たちは言葉を失い、ロブは巨大な鋏をカチンと鳴らしてアリスの背中を見守っていた。
アリスは息を荒げながら拳を緩めた。だが赤い瞳が元の碧に戻ることはなかった。
体内から溢れ出る膨大な魔力を抑えきれず、手の平には熱が残り、震えは止まらなかった。
残虐王ジェノは飢饉が続く中、増えすぎた人口をどうやって減らすかを考えていたが、ルクステラ帝国とは停戦協定を結んだばかりであった。そこで魔導具の普及により職を失った魔障に白羽の矢が立ったのだ。
国教会枢機卿ザカリア・ローガンの著書『血肉に染まる歴史』より




