第5・13節 棗の扱い(割り稽古)~未来人・鈴木重則について~
古田は濃茶点前の後、次の薄茶のために炭を入れ替え始めた。後炭手前中にも、炭の組み方、羽箒の扱い方、火箸の使い方など、私に解説をしてくれた。細川は珍しく無言だった。炭手前が終わり、古田が水屋から棗を三組持ってきた頃、細川が言いにくそうに私に語りかけて来た。
細川:「利休殿には、伝えておかなくてはならない人物がいます。鈴木重則殿こと未来人・吉永メイです。まず、鈴木重則殿は、丹羽長秀殿が未来人だと気づいた人物です。1582年3月に関白様から私が草津温泉での湯治を許されたという話を、私からの手紙で知った丹羽長秀殿が、草津温泉の近くまで行きたいと、上野国を旅行した帰路のことです。1587年2月、上野国名胡桃城の城主・鈴木重則殿に面会し、草津温泉の入浴剤の話題になり、1587年1月にこちらに来た未来人だとわかります。鈴木殿は丹羽殿の勧めで、私と手紙のやりとりをするようになります。」
古田:「鈴木重則殿ですか、すみません、少し席をはずします。」
古田はそう言って、悲しそうな顔で水屋へ行ってしまった。
細川:「実は、鈴木重則殿と私は、直接会ったことがなく、手紙のやりとりだけで話を進めました。そのため、無慈悲な結果になってしまったかもしれません。古田殿が席を外すのもわかります。」
私:「無慈悲な結果?」
細川:「未来人・吉永メイは、末期の癌患者で、既に危篤状態でした。そんな時、この時代の鈴木重則殿として過去に飛ばされます。古田殿は、このまま鈴木重則殿として新たな人生を歩ませてはどうかと提案しました。私は、歴史上、重要な人物だったため、提案を拒否し、鈴木重則殿を自殺させます。そして未来に戻り、吉永メイの家族葬に参列しました。享年19歳。翌日、一人娘を失った夫婦は離婚したそうです。」
私:「それは、ひどい話ですね。鈴木重則殿は、歴史上、どう重要だったのですか?どうして自殺させたのですか?」
細川:「昨年、1589年のこと、関白様が真田氏と北条氏の間の領土争いを仲裁します。ところが、北条氏はその和議を反故にし、1589年11月、鈴木殿の城・名胡桃城を北条氏家臣の猪俣邦憲に奪わせます。城を奪われた責任を感じた鈴木重則殿は、立ったまま切腹をします。世に言う立腹です。その旨を関白様が聞き、はじめて小田原征伐を決意されます。つまり、鈴木重則殿が立腹しないと、小田原征伐が発生しない可能性がありました。」
少しの間、静寂が訪れた。
私:「なぜ、私に鈴木重則殿の話をされたのでしょう。」
細川:「選択肢を持ってほしかったからです。利休殿の切腹はまだ決まっていません。もしこの世界で生き続けたいというのであれば、全力でお手伝いしようと思っています。未来人・吉永メイには、かわいそうな事をしたと思っています。彼女は何度か、この世界で生きれないか聞いてきました。その都度、私は、機械的に答えるばかりで・・・」
私:「感情だけで歴史を変えて良いとは思いません。私が切腹しないと、茶道の歴史が変わります。細川殿、どうかご自分の選択に誇りをもってください。確かに未来人・吉永メイは薄幸の少女でした。でも、鈴木重則殿の死は、歴史的な必然事項です。歴史を変える力を持ったからこそ、その力をコントロールしなければいけないと、私は思います。」
細川:「ありがとうございます。利休殿。では、古田殿を呼んできましょう。」
細川が水屋へ下がってから、私は独り言を言った。
私:「コントロールという言葉は注意されなかったけど、使って良いのかな?」
古田と細川が水屋から戻り、私は棗の持ち方と帛紗での拭き方を教わった。続いて、棗に抹茶を入れることとなった。
古田:「棗に薄茶を入れることを掃くと言います。ここではその掃き方を説明します。このように、棗の中央に山のように抹茶を盛ります。そして山の形を整えます。このとき、棗の種類により三種類に掃き方が分かれます。」
よく見ると棗の形が三つとも違っていた。一つは平らな棗、一つは蓋が平らな円筒状の棗、一つは蓋が丸い円筒状の棗である。
古田:「この平らなものが平棗と言います。なだらかな小山のように盛ります。この蓋に丸みのある棗が中棗です。平棗に盛る時よりも小高く盛ります。利休殿の発案で九つに大きさが分かれています。名称は大棗、中棗、小棗の三種類で、それぞれに大中小があります。最後に蓋が平らなものですが中次と言います。抹茶は杉形に盛ります。中次には大小、高低、塗りものなど様々あります。中次は厳密には棗ではありませんが、薄茶器として使用し、棗のように抹茶を盛ります。」
私:「杉形ってなんですか?」
細川:「杉の木の様に尖った状態を指します。棗に掃く場合、平棗・中棗・中次の順に尖った盛り方をします。棗にこういう盛り付けをすることを掃くと言います。」
私:「なるほど。」
細川:「それと、この桃山時代では、あまり木製の茶器を薄茶器としては利用しません。大津袋に入れ、濃茶点前をするのが通例です。ただ、利休殿は薄茶にも精通している必要がありますので、あえて薄茶を入れていると思ってください。利休殿は薄茶を真の茶とされています。草庵の茶を目指す上で、薄茶は避けて通れません。」
私:「わかりました。それと、大津袋とは何ですか?」
古田:「大津袋は宗恩殿が、大津から京都に米を運ぶ米袋を元に発案した仕覆の代わりになる袋です。利休殿は棗を濃茶器として使われていましたが、仕覆の代わりに何か入れるものをと考えた時、この大津袋がとても具合が良いと言っておられました。」
私:「宗恩ですか。つくづくスゴイ人ですね。」
細川:「利休殿、この時代、凄いという言葉は平成時代とは少し用い方が違います。冷たい感じがするとか、恐ろしいといったあまり良くない意味で用います。」
私:「そうなんですか!注意します。」
一旦、古田は水屋に下がり、お盆に十数個の棗と、深めの皿に抹茶を載せて戻ってきた。
古田:「今朝は大量に抹茶を挽きましたので、一緒にこれらの棗に抹茶を盛ってみましょう。」
私:「抹茶を挽く?」
細川:「この時代、抹茶は保管できないので、朝、必要な分の茶葉を石臼で引いて、抹茶にします。濃茶を沢山練られたのも、この後、薄茶を大量に点てるのも、古田殿のご尽力あってのこと。感謝してくださいね。」
私:「ありがとうございます。古田殿。ただ、なんとなく、細川殿が頑張ったような言い方ですね。」
古田:「そうですね。」
細川:「そうですか?」
古田:「では利休殿、この中棗にはどのように盛りますか?」
私:「こうですか?」
何度も間違えながら、すべての棗に茶を掃き終わり、抹茶の掬い方に説明が移った。
古田:「抹茶は茶杓で、このように山の裾野の部分から掬います。山を崩さないよう注意してください。茶碗にひと杓半入れたら、柄杓でお湯を入れ、茶筌で茶を点てます。自分で点てた茶を飲むことを自服と言います。どうぞご自服してください。」
私:「頑張ります。」
七杯程飲んだ時、細川が言った。
細川:「利休殿、抹茶に含まれるカフェインには覚醒作用があります。飲み過ぎると夜、眠れないかもしれません。」
古田:「そういえば、そうでしたね。徹夜で復習するのも悪くありません。さ、さ、利休殿、もう一杯どうぞ。」
私:「これ以上は、勘弁してください。」
細川:「利休殿、この時代の勘弁は、勘は考えるの意、弁は事の是非をわきまえるの意で、よく考えて事の是非を判断するとなります。この場合、古田殿の考えに同調する意味になります。今夜は徹夜決定ですね。」
私:「そんな~。」
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