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妬みの泥沼 ~心の闇~

 宮川晴子が襲撃されたという事実は、私にとって大きな不安の種となった。一連の事件の手がかりとして浮上した彼女に、まさかこのような事が起きるとは……。

 あの後、周辺を捜索し終えた鳴海刑事と大倉刑事によれば、不審な人影はなかったらしい。

 あの周辺は開けた場所や緩やかな下り坂があるため、かなり見通しが良い。襲撃犯が何かの乗り物に乗っていない限り、見失うことなどあり得ない。

 だが、仮に襲撃犯が乗り物に乗っていれば、エンジン音がするはずだが、そのような音は一切聞こえなかった。

 宮川晴子の方は、病院に運ばれて現在治療中だ。かなり深い傷に見えたが、とにかく命が繋がって幸いだ。


「タバコ……手に入らなかったですね」


 鳴海刑事が悔しそうに呟く……そう、宮川晴子が救急車で運ばれた後、我々は彼女が持ってきたゴミ袋の中を調べたが、タバコをはじめ、唾液を採取できるような物は見つけられなかった。

 私はふと、鳴海刑事と大倉刑事が言っていた真っ赤な目の事を思い出し、二人にその事について尋ねた。


「ん? あぁ、アレか……忘れてくれ」

「えぇ。あの時はちょっと気が動転していましたし……仮にあの状況で赤い目が見えるとすれば、彼女の目に血が入ってしまったからでしょう。最近赤い目という情報を聞いていたから、そのように見えてしまったんだと思います」


 そう言って、二人は溜息をついた。


「うぜぇっ! 男が溜息なんざついてんじゃねぇよっ!」


 ソファに寝転がったまま、鬼島警部が二人を怒鳴り散らす。いかんいかん。この空間の空気が重い。

 実際、捜査の方も再び暗礁に乗り上げてしまった。

 私はオモイカネ機関の鉄製の扉を開けて警視庁を出ると、正面玄関の出入り口付近でゆっくりと深呼吸した。

 しばらく深呼吸して空を見つめ、再びオモイカネ機関に戻ろうとしたが、出入り口の方から鳴海刑事と大倉刑事が姿を現した。


「あっ! こんな所にいたんですかっ!?」

「貴様ぁっ! 勤務中にサボるなど、公務員としての――」


 彼らも、捜査が暗礁に乗り上げて疲れているようだ。

 私が彼らに平謝りした時、携帯電話が音を鳴らしたので、私は電話を取って耳に当てた。


「よう、ファングっ! 捜査が行き詰ってるようだなっ!」


 相手はリズだった……今度はいくら払うことになるやら……。


「あれから調べたんだが、宮川晴子の傷はそんなに深くないらしいぜ? ただ、医者が言うには傷跡が残るそうだ」


……命が助かってよかったが、彼女の今後の事を考えると胸が痛む。


「それからな。その傷なんだが、医者が言うには『あんな傷は見たことが無い』らしい」


 医者が見たことも無い傷……いったいどのような傷なのか気になったが、私はとりあえず宮川晴子に面会できないか訊ねた。


「……今、事情聴取してるみたいだな。傷の事とか、本人がその時の事を何も覚えていないみたいで、かなり難航してるらしい。だが、面会謝絶ってわけじゃなさそうだから、見舞いってことにすれば会えるんじゃねぇか? それとな……染谷香の事なんだが、俺なりにちょいと調べてみた。あいつ……自分の子供を虐待してるぜ」


……え? 私があっけにとられている間、リズは電話口の向こうで黙っていた。おそらく、私に事態を理解させる時間をくれているのだろう。

 その時、後ろで怒鳴り声が聞こえた。見ると、藤沢警視と鳴海刑事、大倉刑事が争っているようだ。


「貴様ら、出しゃばったマネはするなと言ったろうがっ! 聞けば証拠を採取するために被疑者宅を監視してたらしいじゃないかっ! 俺の許可も無くっ! 独断専行もいいところだっ! 警察は組織なんだっ! その歯車に組み込まれるのが嫌なら、今すぐ辞めちまえっ!」

「ですが、新たな被害者の早期発見につながったではありませんかっ!」


 大倉刑事が、掴みかからんばかりに藤沢警視に詰め寄るが、大倉刑事を見る藤沢警視の目は、怒りに染まっていた。


「そんなもんは結果論にすぎんっ! 今回はたまたま、被害者の早期発見につながったかもしれんが、そうでなかったらどうなっていたっ!? お前らは手柄を立てるためなら、被害者の身の安全は無視してもいいらしいなっ! ああっ!?」

「違いますっ! 僕らは一刻も早く悠斗君を助け出したいだけですっ! 手柄なんか考えてませんっ!」


 鳴海刑事が、珍しく声を荒げて反論する。

 私は電話口でリズに、藤沢警視の身辺調査と直近の動向を訊ねた。


「ふんっ! どうだかなっ!? 口では何とでも言えるからなっ!」


 藤沢警視は軽蔑した目で、二人を見ている。


「違いますっ! 僕たちは――」

「ならなぜ、他に脅迫状が届いている家があることを俺に報告しなかったっ!?」

「そ、それは……」

「どうしたっ!? 何も言えんのかっ!? だったら、手柄を独り占めにしようとしていたと思われても仕方あるまいっ! 違うかっ!? そのお前らの行動が、被害者の命を危険にさらしているんだぞっ!?」


 藤沢警視の言っていることは正論だが、彼から発せられる言葉には魂がない。いわゆる言霊ことだまというやつだが、彼が今言っていることは彼の本心から出てきた言葉ではない。

 リズから送られてくる情報を見ながら、私はそう思った。


「……申し訳ありません」


 そう言って、鳴海刑事は頭を下げる。それを見て大倉刑事も、実に悔しそうに頭を下げた。


「藤沢警視。差し出がましいこととは承知でお願いします。どうか捜査の協力をさせて下さい」


 鳴海刑事は頭を上げてお願いすると、再び頭を下げた。


「ダメだ」

「どうしてでありますか?」


 藤沢警視のその発言を聞いて、大倉刑事が食ってかかった。


「どうしてだとっ!?

 貴様は何年刑事をやってるんだっ!? 俺はこの事件の指揮官だぞっ! お前は何様のつもりだっ!」

「ぐっ!」


 大倉刑事は顔を真っ赤にして押し黙る。


「貴様ら、捜査五課と言ったな? 噂は聞いてる。だがな、編成表にも載ってないどこの馬の骨とも分からん連中に、捜査の協力を頼めるはずがないだろうがっ!」


 その時、藤沢警視が私の存在に気づき、鼻息荒く近づいてきた。


「おい、アンタッ! どこの誰か知らないが、二度と顔を見せるなっ!」


……もういいだろう。これ以上我慢する必要もない。リズからもらった情報も頭に叩き込んだ。後は、その情報をアウトプットするだけだ。


「失礼ですが藤沢警視、この写真はいったい何に見えます?」

「あっ!?」


 そう言って私の見せた携帯電話の画面を見た藤沢警視は、顔を強張らせて凍り付いた。

 その写真にはキャバクラ店が映っており、隠し撮りされたその画像の中心には、満面の笑みを浮かべる藤沢警視と初老の男性が、両隣にキャバクラ嬢をはべらせて談笑していた。

 日付は二日前……ちょうど藤沢警視が、捜査本部で捜査会議をしているはずの時刻だった。


「この写真にある日付や時刻は、あなたが捜査本部にいるはずの時刻と一致します。なのに、あなたはこうしてキャバクラ店で談笑している……一緒に映っているのは本部長でしょうか? これはマズいですねぇ……誘拐事件の指揮官が、白昼堂々とキャバクラ通いとは……」

「し、知らんっ! 俺はそんな場所には――」

「あと張り込みの件ですが、この事件の指揮官はあなたであるのは間違いありません。そんなあなたが、最初に我々の捜査協力を断ったために、我々が独自捜査をしなければいけなかったのであって、それをあなたに咎められる覚えはありません」

「ぐ……く……」


 藤沢警視は、実に悔しそうにその場を後にした。

 私は再びリズに連絡を取り、宮川晴子との面会ができるように言った。

 私が携帯電話をしまうと、鳴海刑事と大倉刑事が近寄ってきた。


「見直したぞ、神牙っ!」

「えぇっ! ありがとうございましたっ!」


 二人からの思わぬ称賛の声に謙遜し、私は明日は宮川晴子と面会することを二人に伝え、その日の仕事を終えた。


              ※


 翌日、オモイカネ機関でリズが私に知らせてきた内容は、思いがけないものだった。


「宮川晴子なんだが……今朝退院したみたいだぜ?」


 私は驚愕した。

 よく見たわけではないが、彼女の負った傷はかなり深かったように思える。そんな傷を負った翌日に退院できるものだろうか?


「なんでも、傷は完全に塞がってたそうだ。ただ、医者も念のため入院しているように言ったんだが、本人が断ったらしい。ま、精密検査じゃ異常は無かったらしいから、たぶん大丈夫なんだろ。じゃ、報酬は一本なっ!」


 私は携帯電話をしまい、それぞれのデスクに座る鳴海刑事と大倉刑事に今知った事実を伝えた。


「えっ!?……うーん、そんなに軽い傷だったかな……」

「自分も不思議でなりません。きっと宮川晴子は丈夫なんでしょうな」


 それぞれの見解を述べる彼らに、私は宮川晴子に会いに行くことを伝えた。

 退院したばかりの彼女には酷だが、未だに染谷悠斗は行方不明であり、脅迫状のこともある。これらの事件の被害者達を繋ぐ線は、今のところ宮川晴子しかいないのだ。

 切手の唾液の件はリズにでも頼もうか……最初から彼女に頼んでいれば良かったかもしれないが、いかんせん料金が……だが、もう失敗は出来ない。

 私はリズに電話して『報酬は五本なっ!』という言葉を頂いた後、宮川家に向かった。

 宮川晴子を襲った犯人の事も気になるが、とにかく彼女からより詳細な情報を手に入れない限りはしょうがない。

 宮川家に着いて呼び鈴を鳴らすと、『庭だよっ!』という声で迎えられた。


「あ、この前の刑事さんじゃん。どうしたの?」


 我々は驚愕した。

 あれほどの重傷を負った彼女は、包帯どころかガーゼ一つ張られておらず、何事も無かったかのように庭いじりをしていた。

 いや……リズによれば、傷跡は残ると言っていた……という事は、本人が包帯やガーゼといった物を嫌って取ってしまった可能性もある。

 我々が彼女の顔を見つめていると、宮川晴子は怪訝そうな顔をした。


「何? アタシの顔になんか付いてる?」

「あ、いえ、すみません……」


 鳴海刑事はそう言って頭を下げたので、私と大倉刑事もそれにならう。

 私は頭を上げ、彼女に傷の具合はどうか尋ねた。


「べつに……ったく、冗談じゃないわよ。なんでアタシばっかりこんな目に遭わなきゃいけないのっ!? さっさと犯人を捕まえてよねっ!」

「はい……あの、襲われた時の状況を教えて頂けないでしょうか?」

「それなら、もう話したわよっ! 他の刑事さん達にうんざりするほどねっ!」

「で、ですが、念のためにもう一度――」

「何にも覚えてないわよっ! それを調べるのが警察の仕事でしょうがっ! アタシは被害者なんだよっ!?」


 鳴海刑事の質問に、宮川晴子は不機嫌極まりない態度で怒鳴った。彼女の目は、明らかに憤怒の様相を見せている。


「だいたい、なんでアタシだけがこんな目に遭わなきゃいけないのよっ!?

 アタシは夫も子供も亡くして、借金まで背負って毎日取り立て屋に怯えなきゃいけないのにっ! それなのに、今度は傷害っ!? ふざけんじゃないよっ! アタシが何をしたって言うのさっ!? 普通に……ただ普通に生きていきたいだけなのに……それだけなのにっ! どうして、アタシは何もかも奪われなくちゃならないのよっ!」


 その時、私は彼女から、あの日にゴミ捨て場で感じた異様な気配を感じた。もちろん彼女からだ。

 先頭に立つ鳴海刑事は口をあんぐりと開けて呆然とし、後ろの大倉刑事は気配だけでもわかる。完全にビビっている。


「なんでっ!? 不公平じゃんっ! みんな幸せそうに暮らしているのに、何でアタシだけがこんな目にっ!! 何が違うのっ!? 他の人とアタシと何が違うのよっ! ねぇっ! 答えてよっ!」


 私達は、彼女のその問いには答えらえない。彼女がどのような人生を歩んできたのか……それを知らない限りは、彼女には何を言っても無駄だと思う。

 しかも、彼女から発せられる異様な気配は徐々に大きくなっていく……。


「何でよ……どうして……」


 しかし、感情のすべてを出し切ったのか、宮川晴子はブツブツと何事か呟くだけの状態になり、異様な気配も鳴りを潜めていく。

 私は彼女を哀れんだ。それは余裕からくるものではなく、純粋に彼女が置かれている状況に対する同情だった。

 もっとも、それさえも彼女にとっては何の意味もなさないだろう。

 私はうつむいて涙を流す彼女に、懐から取り出した葉巻を渡して火を点ける。いつもなら注意する大倉刑事も、今回ばかりは黙り込んだままだ。

 しばらく葉巻を燻らせて落ち着いたのか、彼女はゆっくりと口を開いた。


「……おいしいね、コレ」


 彼女は葉巻を見つめて言った。

 私は、その葉巻はモンテクリストという銘柄である事を伝えた。


「ふーん……アタシ、葉巻の事なんか全然わかんないけど……ありがとう」


 どうやら冷静さを取り戻してくれたらしい。

 だが困った……この後、彼女からどうやって話を聞き出せばいいやら……私がそう考えている時、大倉刑事が口を開いた。


「あの……傷の具合はどうでありますか?」


……バカ。案の定、宮川晴子は目を吊り上げる。


「は? なんでそんな事聞くの?」

「あ、いえ、その」


 大倉刑事が言い淀んでいると、宮川晴子は静かに笑った。


「ふふ……そう、そういうことなんだ……アタシが悠斗君を誘拐したと思ってるのね……ふふ」


 彼女は自嘲気味に笑っているが、先程の激昂もあってか、いささか不気味に見える。


「いえ、あの、何と言ってよいか……」


 大倉刑事の声も、ますます深みにはまっていくように小さくなっていく。


「ふふ……アタシを疑う前にさぁ……他に疑う奴がいるじゃん……」


……聞き捨てならない言葉だ。

 彼女の様子を見るに、咄嗟についた嘘のようには思えない。それどころか、彼女は確信をもってその言葉を言っているようだった。


「そ、それは誰ですか?」


 問いかける鳴海刑事に、宮川晴子は笑みを浮かべたまま言った。


「ふふ……そう、警察は知らないんだ……アタシは知ってる。全部知ってるよ……」


 彼女は、染谷家の方を見て言った。


「あの母親は、息子がいなくなって胸を撫で下ろしてるのさ」


 そして、彼女は我々の方に目もくれずに家の中に入ってしまった。

……結局、事件の核心に触れるような情報は入手出来なかった……もっとも、あの様子ではまともな返答ができるとも思えないが……。

 だが、宮川晴子の残した証言は我々に新たな問題をもたらした。

『あの母親は、息子がいなくなって胸を撫で下ろしてるのさ』……あの母親とは、おそらく染谷香。そして息子は染谷悠斗だろう。

 もし宮川晴子が事実を語っていたとすれば、表面上は幸福そうに見えていた染谷家に、裏の顔があったということになる。リズからも、そのような情報が寄せられていた。

 私達は住宅街の駐車場に止めてある車に戻り、今後の方針を話した。

 私は鳴海刑事と大倉刑事に、宮川晴子の言っていたことが事実なら、今回の誘拐事件は染谷香による狂言誘拐も視野に入れなければいけないことを伝えた。


「何を馬鹿なっ! 貴様には母の愛が分からんのかっ!」

「……いや、案外その可能性もありますよ、大倉さん」

「なっ!? せ、先輩までっ!?」


 鳴海刑事の一言に、大倉刑事は意気消沈する。

 だが、鳴海刑事も気づいているのだろう。

 思えば、彼女には不審な点があった。


「まず、彼女と犯人との会話ですが、彼女は犯人から悠斗君をさらった事を聞かされた後に、『あなたは誰?』と聞きました。普通は子供を誘拐された母親が、そんな冷静でいられるでしょうか? まずは子供の無事を確認したり、子供と話をさせるように頼み込むはずです。

 まだ僕としても確証はありませんが、彼女は悠斗君を愛していなかったが故にあのように問いかけたと思います。あるいは、愛していなかったが故に悠斗君を煩わしく思って殺してしまい、遺体をどこかに遺棄して狂言誘拐を行った可能性も否定できません」

「そ、そんな……」


 大倉刑事はまだ納得していない様子だったが、一応はその方針で捜査することに協力するらしい。

 もっとも、彼としては染谷香の裏の顔を暴くというよりも、彼女の疑いを晴らすという目的で捜査に当たるように思える。

 捜査方針が固まったところで、我々は染谷家へと向かった。すでに、リズに染谷香から話を聞けるように根回ししてもらっている。

 染谷家に到着して中に入るが、相変わらず、染谷家にいたはずの主だった捜査員は捜査会議に出ているらしい。

 リビングにいる染谷香は、初めて会った時と同じような様子だった。

 私はソファに座る彼女に、息子がいなくなって良かったのではないかと単刀直入に質問した。


「お、おい、神牙っ!」


 後ろで大倉刑事が咎めるように声を上げたが、染谷香は私の質問に顔を強張らせていた。

 私は、間髪置かずに息子を愛してはいないのではないかと質問した。

 室内には沈黙が流れ、彼女は私の顔を見たまま硬直している。

 やがて染谷香は我に返ったようにハッとした表情をして、私を睨みつけた。どうやらあまりに唐突に質問されたために、身構える余裕も無かったらしい。

 その態度が、私に彼女の息子に対する想いを十分に物語ってくれた。


「な、何ですか急にっ!? 失礼じゃありませんかっ!」


 彼女の声はハッキリと分かるほど震えており、顔色は徐々に青ざめている。


「確かに、普通の家庭よりはしつけは厳しくしています……でも、私はあの子を傷つけるような事はしていませんっ!」


 私は彼女に、悠斗君を傷つけているという言葉は一切言っていないことを伝えた。


「っ!……そ、それは……」


 それを聞いて、彼女の視線はせわしなく動き、手や足をモジモジと動かしている。

 鳴海刑事と大倉刑事は共に沈痛な面持ちでうつむき、捜査員達も聞いていないフリをしている。

 そんな雰囲気も染谷香も察したのか、語気も荒くなっていく。


「いい加減な事言わないでっ! あなた達の仕事は悠斗を助けることでしょうっ!?」


 私は彼女の言葉に耳を貸さずに、彼女の目をジッと見据えて、息子の事を愛しているか質問した。

 彼女の態度は急に弱々しくなり、唇を噛んで一瞬躊躇する。まるで最適な言葉を探るように……。

 やがて、彼女は口を開いた。


「……当たり前です。愛しています」


……このままでは埒があかない。私はあらかじめ入手しておいたテープレコーダーを再生した。


『……何ですって?』

『お前の子供……さらった』

『……あなたは誰なの?』

『朝の栄光が欲しければ来い』


 テープの再生が終わると、染谷香は訳が分からないといった様子で口を開いた。


「こ、これのどこが変だって言うんですかっ!?」


 彼女の表情は強張り、視線はせわしなく動いている。

 私は彼女に、自分が『……あなたは誰なの?』という部分に疑問を持ったこと。

 そう思った理由は、母親は自分の子供が誘拐されたら、まず子供の無事を確認するはずであること。

 そして、彼女は子供の事よりも言葉通り犯人が誰かという事に関心があったことを伝えた。

 私の言葉を聞いて、彼女は雷に打たれたようにビクッと体を震わせた。もはやその視線は我々の方ではなく、どこか別の空間を見ているようだった。


「そ、それは……気が動転していて……」


 私はすかさず、その意見に反論した。

 彼女は、会話を録音することが出来るほど冷静だったこと。

 犯人との会話で、彼女の声色が普通だったことを話した。


「な、なによ……まるで私の事犯人みたいに……まさか、あなた達は私が悠斗を殺したと思ってるんですかっ!?」


 染谷香はようやく、自分の置かれた状況を理解したようだ。

 彼女のその言葉を聞いて、鳴海刑事が口を開く。


「違います。僕達だって、そうは思いたくないんです」

「なら、どうしてっ!?」

「犯人は未だに何の要求もしてきません。僕達は犯人の目的が知りたいんです。そのために、今まで知らなかったより多くの事実を知らなければならないんです」


 鳴海刑事の言葉を聞いて、染谷香は顎に手を当てて考え込み、冷たい声色で言い放った。


「分かりました……家の中でもなんでも、好きに調べて下さい。どうせ何も見つからないもの。終わったらさっさと帰ってちょうだい」


 私達はその言葉に甘え、さっそく二階の子供部屋を調べることにした。

 二階に上がり、右側にあるドアを開けて子供部屋に入る――ちなみに、大倉刑事には彼女をリビングで監視してもらっている。私達は捜索をしている間に、彼女が証拠隠滅を図る恐れがあるからだ。

 私は鳴海刑事と共に染谷悠斗が使っていた子供部屋を調べたが、やはりこの部屋は整然としている。しかも、かなり異常なほどに……。

 勉強机の上には消しゴムのカス一つ落ちておらず、教科書は科目ごとにキチンと棚に並べられている。

 引き出しの中も大したものは入っておらず、ノートなどがキチンと角に沿わすように整えられていた。 書棚の方もそうだ。マンガ本の類は一切なく、代わりに参考書や図鑑、文学文庫などが並べられていた。

 クローゼットの中も、服や靴下、パンツに至るまで折り目正しく畳まれてそれぞれの場所に置かれている。

 これが子供の部屋だろうか?……私はその事を鳴海刑事に質問した。


「いや……これはちょっと……」


 どうやら彼も、この部屋の違和感に驚いているようだ。

 この部屋には、子供が暮らしていた生活感というものが、一切ない。

 子供なら、テレビゲームやマンガの一つでも買っていいだろうが、そのような類もない。いったい染谷悠斗は、この部屋で何を楽しみに毎日を過ごしていたのだろうか?

 結局、子供部屋からは何も見つからず、他の部屋も調べてみたが、子供部屋と同じように整然としていて、まるでモデルルームのようだった。

 私達がリビングに戻ると、すでに落ち着きを取り戻した染谷香が、冷たい目で我々に言葉を投げかけた。


「何か証拠は見つかったかしら?」

「……いえ、まだです……」


 鳴海刑事が力なく答え、大倉刑事が不思議と安堵の表情を浮かべているような気がした。

 彼からすれば、染谷香が実の息子を殺して狂言誘拐を行ったという事実を見ずに済んでホッしたのだろう。


「ふふ、いくら探しても無駄だわ。私が悠斗を愛していない証拠なんて、初めから無いんですから……」


 余裕の態度を取り戻してほくそ笑む染谷香に、鳴海刑事は私に救済を求めるように視線を向けた。

 だが、私には鳴海刑事の視線よりも気になる事がある。廊下の本棚だ。

 染谷宅は、玄関から入って少し廊下を進み、この本棚のある突き当りの壁を右側に曲がるとリビングで、左側には客間がある。

 リビング側の廊下を奥の方にしばらく進むと、右側に二階への階段があるのだが、ここまでは少し距離があり、リビングと客間の間もかなり離れているように感じる。

 しかも、この本棚はキャスター付きで楽に動かせるようになっており、その後ろは目立たないように白い布で隠されているようだ。

……正直言って、このリビングと客間、階段の中心にある壁の中にはもう一部屋あるような気がする。確証はないが、調べない理由はない。

 私が本棚を動かそうとした時、染谷香は声を荒げた。


「やめてっ!」


 彼女の表情は先程の余裕など消え去り、完全に引きつっていた。

 鳴海刑事は、すかさず彼女に質問した。


「この壁の向こう側には何があるんですか?」

「な、何もないわっ!」

「だったら、調べさせてもらいますよ?」

「だから、何もないのよっ!」


 鳴海刑事が染谷香の気を引いている間に、私は手早く本棚をどかして白い布をめくった。

 そこには、引き戸があった。

 引き戸が露わになると、染谷香は一転して口を閉ざし、目を見開き、呼吸は荒くなっていた。


「染谷さん、この中を見ても構いませんね?」

「……」


 鳴海刑事の質問に、染谷香は何も答えない――というより、質問が聞こえているとも思えない。

 大倉刑事は後ろでオロオロしており、まったく役に立たない。

 私は力任せに白い布を剥ぎ取り、引き戸を露わにした。

 染谷香の顔面は蒼白になっており、荒い呼吸はここからでもよく分かる。

 私は意を決して、引き戸を開けた。

……その空間は、完全に暗闇包まれていた。

 私は懐から軍用の懐中電灯を取り出し、部屋の中を照らした。一応あらゆる事態に備え、装備品の保有には余念はない。

……この部屋は、明らかに異常な空間だった。

 床や壁は木製で、部屋の中央には十二色のクレヨンと鉛筆の束、山積みされた紙があった。

 そして、壁には様々な言葉が赤い色で書かれていた。

『ママ、ごめんなさい』……

『ママ、ゆるして』……

『おなかすいた』……

 それらの文字を見ていると、心の中にこみ上げるモノがある……。

 感動ではない……年端もいかない子供が、こんな暗い空間でこのような文字を書きながら時を過ごしていた事への悲哀。そして、このような事を行った者への憤怒だった。

 私が室内にさらに踏み込み、電灯のスイッチなどを探したが見当たらなかった。

 私は壁に書かれている文字も見てみたが、どれも似たような、痛ましい内容だった。

 山積みされた紙には反省文のような文言が書かれており、近くには電気式のランプが置かれていた。

 染谷悠斗は、この明かりを頼りにこの空間で生き延びていたのだろうか……?


「神牙さん、その……」


 私が部屋の中を探索していると、いつの間にか部屋に入っていた鳴海刑事が言いずらそうに口を開いた。


「染谷さんは、その……悠斗君にいきすぎた躾をしていたみたいですね……」


 私も、その考えに同意する。

 染谷香の、自分の息子に対する仕打ちはもうわかった。

 おそらく誘拐事件が起きた時に、警察がこの部屋を見つけられないために、本棚や白い布などの偽装工作を施したのだろう。

 問題は、染谷悠斗の誘拐との関連性だ。

 仮に今回の事件が染谷香による狂言誘拐の場合、この部屋の存在では証拠にはならない。

 私と鳴海刑事は部屋を出て、大倉刑事に監視されている染谷香の下に戻った。


「染谷さん……あなた、悠斗君を躾けるためにあの部屋を使ったんですね? いくら何でもやり過ぎですっ! あの部屋の壁に書かれた文字を、あなたは見ましたかっ!?」


 鳴海刑事が珍しく、怒りを込めて染谷香に訴える。

 突然の事態にあっけにとられる大倉刑事は、私に事態の説明を求めるような視線を投げかけた。

 私は彼を手招きし、懐中電灯を渡して隠し部屋の方を示した。

 大倉刑事は懐中電灯を手にすると、意を決したように隠し部屋へ向かった。

 染谷香の方はというと、鳴海刑事の言葉を聞いて面倒臭そうな態度で話した。


「自分の産んだ子供にどういう教育をしようと、私の勝手でしょ?」

「何を言ってるんですかっ!? アレはもう、教育とは言いませんっ!」


 鳴海刑事が、なおも怒りながら言葉を飛ばす。

 彼からすれば、染谷香のしたことは決して許されないことだろう。だが、今のご時世においてはこのような事例は枚挙にいとまがない。

 子供が言う事を聞かないからと言って殺す母親……子供の態度が気に入らないからと言って殺す父親……どんなにニュースや新聞でその事実を知らせても、まったく無くなる気配がない。

 なぜなら、今それを実行している本人達は子供を殺そうとしているのではない、躾けようとしているのだ。

 案の定、目の前にいる染谷香は、完全に開き直っていた。子供を誘拐された悲劇の母親という様子は、微塵も感じられない。


「イライラするのよ、あの子が全然言う事を聞いてくれないからっ! 子供なんて作るんじゃなかったって毎日後悔してたわっ! あの子が誘拐された時も一応警察に知らせたけど、あんな子……もう戻ってこなくてもいいわよっ!」


 彼女は吐き捨てるように言った。

 鳴海刑事は、険しい表情を浮かべて染谷香を睨みつける。


「……もう気は済んだかしら? だったら帰ってちょうだい」


 染谷香はそっけない態度で言った。

……ますます分からなくなっていく。彼女は誘拐事件の犯人なのだろうか?

 それとも、ただ染谷悠斗を虐待していただけで、誘拐事件は別の人間が引き起こしたものだろうか?

 犯人の要求は『朝の栄光が欲しければ来い』だ。営利目的の誘拐ならば、金銭を要求するはず……という事はやはり、犯人は染谷香と何らかの接点があったのだろうか?

 彼女にしか分からないことを言う事で、初めから部外者の介入を防ぐ目的で、あのような分かりにくい言い回しをした考えられる。

 染谷香に関していえば、考えてみれば狂言誘拐なら犯人とあのように冷静にやり取りしないだろう。子供を心配する、模範的な母親を演じるはずだ。という事は、やはりこの誘拐事件は本当に起きていることなのだろう……少なくとも、今の段階ではそうだ。

 私達はその後、隠し部屋を見て気分を悪くした大倉刑事と共に、染谷家を後にした。


「……おい、神牙っ! いいのかっ!? あの母親をこのままにしてもいいのかっ!?」


 我々が染谷家から出ると、大倉刑事が私に詰め寄ってきた。彼もあの部屋を見て、染谷香に疑念を抱いたのだろう。

 私は、彼女が染谷悠斗を殺害した証拠、そして狂言誘拐を行った証拠がないことを伝えた。


「それは……そうだが……先輩はどう思われますか?」

「……僕は神牙さんの意見に賛成です。彼女が悠斗君に行き過ぎた教育をしていた証拠も証言も得られましたが、誘拐事件とは結びついていません」

「むぅ~……そうでありますか……」


 大倉刑事は明らかに落胆した。

 再び捜査の混迷に直面した私達をあざ笑うかのように、突風が吹き抜けた……。

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