妬みの泥沼 ~悪魔は何をしたか~
その後、我々は目撃証言が得られたという住宅街にやってきた。
私は再び町内に設けられた駐車場に車を止め、聞き込みを開始した。
ほとんどの家ではたいした情報を得られなかったが、やがて一軒の家の住人に聞き込みをした時、状況は一変した。
その家の主婦と思われる女性は私達から話を聞くなり、すぐに家の中に入って二階から一人の女の子を連れてきた。
「実はこの子……『悪魔を見た』って言ってて……前に来た警察の人達にもその事を言ったんですけど、まったく話を聞いてくれなくて困ってたんです……それ以来、この子も学校を休むようになっちゃって……」
母親の見つめる視線の先には、一人の女の子が青い顔をしてうつむいていた。
彼女は母親の前で両方の腕にしがみつき、こちらを警戒している様子だった。
「お兄さん達に、話を聞かせてくれないかな?」
鳴海刑事が女の子と同じ目線までしゃがみ、優しい口調で話しかけた。
女の子はしばらく逡巡した後、口を開いた。
「あたしね……友達と一緒にかくれんぼしてたの……あたしは茂みに隠れてて……女の人が男の子を連れていくのを見たの……」
「その女の人はどんな人だった? 髪型とか背の高さとか」
「……分からない。あたし、気を失っちゃって……」
私は女の子に、その女の人の顔を見たか訊ねた――もちろん、優しい口調で。
私の言葉を聞いて、女の子は静かに頷く。
「すごく怖かった……赤い目をしてて……角が生えてた……」
「赤い目をしてて……角が生えてたの?」
鳴海刑事の質問に、女の子は震えながら頷いた。
「うん……でも、友達は信じてくれなくて……」
「そうか……他に覚えてることはない?」
「うん……」
この女の子の言葉を信じるならば、染谷悠斗をさらったのは悪魔となるが……果たして本当にそうだろうか?
目の前の少女の瞳には、何の邪念もない。ただ、自分が見た悪魔という存在を恐れているようだ。
私はこの辺りが限界と踏み、少女の名前を聞いて家を後にした。
「……どう思いますか?」
駐車場に止めた車へと向かう道で、鳴海刑事が聞いてきた。
正直、今の情報だけでは何とも言えない。我々の部署に回ってくるからには、通常の誘拐事件とは違うのだろうが……よりによって悪魔とは……。
私は歩きながら考えたが、ふとあることを思いついた。
アシュリンだ。彼女なら、科学的な視点から何らかのアドバイスをもらえるだろう。
少々短絡的な考えだが、今の状況では仕方ない。
私は二人と共に、神明大学付属病院へと向かった。
※
病院に着くと、アシュリンは解剖を終えた直後だった。
血で真っ赤に染まった手袋を着けたまま、解剖室から出てきたアシュリンは笑顔で聞いてきた。
「見るか?」
『結構ですっ!』
鳴海刑事と大倉刑事の叫びを聞くと、アシュリンはつまらなさそうに解剖の後始末を終え、私達を研究室へと案内してくれた。
アシュリンの研究室は、パソコンやコピー機などの機材、大量の医学書で埋まっていた。
「コーヒーは?」
コーヒーサーバーの前で彼女が聞いてくる。
私は頼んだが、二人は断ってしまった。未だに、解剖の恐怖に囚われているのだろうか?
対面のイスに座る私にコーヒーの入ったマグカップを差し出し、アシュリンは自分の席に座った。
「それで? また妙な死体が出たのか?」
「ち、違いますよっ!」
ニヤニヤと笑みを浮かべるアシュリンの言葉に対して、鳴海刑事が即座に否定の言葉を述べる。どうやら彼女は、鳴海刑事と大倉刑事を気に入ってしまったらしい。
私は彼女に、今回起きた事件の概要と女の子、仁美ちゃんの証言について話した。
その間、アシュリンは一言も口を開かなかった。時折、コーヒーを飲む以外は黙って私の話に耳を傾けている。
私の話を聞き終えてから、彼女は口を開いた。
「……なるほど。悪魔が出たという証言の信憑性を確かめたい……そういうことか?」
私は肯定した。
「その通りであります、先生。仁美ちゃんの証言はかなり曖昧な部分があるため、先生のお力で真実を明らかにして頂きたいのですっ!」
私の隣で大倉刑事が必死に懇願する。彼自身は、真実よりも悪魔というこの世ならざる存在を恐れているような気がした。
そんな大倉刑事の話を聞いて、アシュリンはバカバカしいといった態度で話し始めた。
「すぐ思いつくもので、三つある。一つ目はポリグラフを使うこと」
「ポリグラフ?」
私の横で鳴海刑事が、怪訝な表情で復唱する。
「ああ。いわゆる嘘発見器だな。ただし、正確に診断できる保証はない。その女の子は、怖いものを見たと言っているんだろう? ポリグラフは、心拍数や緊張時の発汗を調べて嘘か本当かを判定する機械だ。その子の今の精神状態を考えれば、ハッキリ言って検査結果は狂うだろう」
私は二つ目の提案を問いただした。
「二つ目は、脳指紋を使うことだ。説明が難しいのだが……簡単に言えば脳内に特定の情報がインプットされているかどうかを、脳波によって測定する方法だ。例えば、私のこのコーヒーが盗まれたとする」
アシュリンが自分の持っているマグカップを軽く振った。
「もしこのマグカップを盗んだのが鳴海君だったとして、鳴海君にこのマグカップの写真を見せれば脳内に特殊な脳波が発生する。それらを測定することによって、真実を見抜くのが脳指紋だ」
『おおーっ!』
鳴海刑事と大倉刑事が、感嘆の声を上げる。
「今回のケースであれば、誘拐された少年なんかの写真を見せて反応が出たら、目撃者の証言に信憑性があると考えられる」
「あの、その準備はいつ出来ますかっ!?」
鳴海刑事が興奮気味に話すのを聞いて、アシュリンは首を横に振った。
「残念だが、これは現在研究中の技術だ。まだまだ実用段階ではない」
そう言って、アシュリンは最後の提案を語った。
「というわけで三つ目だが、これが一番実用的だと思う。逆行催眠だ」
「逆行……催眠?」
大倉刑事がキョトンとした顔でつぶやく。
「簡単に言えば、催眠術によって忘れた過去の記憶を呼び覚ますことだ」
「なんだ、オカルトですか……」
大倉刑事はあからさまに落胆した様子だった。
「とんでもないっ! 逆行催眠はアメリカでは普通に行われている手法だっ! オカルトなどと一緒にするなっ!」
「も、申し訳ありませんっ!」
アシュリンの憤慨した様子にすっかり意気消沈してしまった大倉刑事は、イスに座ったまま縮こまる。
「まぁ……この手法というのは、例えばひき逃げを目撃した人物がいたとして、その人物は普通はひき逃げした車のナンバーなんて覚えてないだろう?」
「まぁ……咄嗟の事ですからね」
アシュリンの問いかけに、鳴海刑事が相槌を打つ。
「だが、目撃者は『覚えていない』だけで、実際には見ていることも多い。そういう時に逆行催眠をかけて、事故を目撃した当時の記憶を呼び覚ますんだ。目撃者は催眠によって、もう一度記憶の中で事故を再現する。そして、『ナンバーはいくつですか?』と質問すれば――」
「目撃者はナンバーを答える、と?」
「そういうことだ。一般的に催眠状態にある人間は、嘘をつけないとされている。よって、催眠状態に入った目撃者がそれでも『悪魔を見た』と証言したなら、それは真実だろう」
アシュリンの話を聞いて、鳴海刑事が興奮した様子で口を開く。
「なんだ、じゃあ真実かどうかはすぐ分かるってことですね?」
しかし、またしてもアシュリンは首を横に振る。
「確かに真偽は分かる……手法も確立されている技術だ。だが、私はこの案には賛成できない。その子は、悪魔を見て怯えているんだろう?」
私は肯定した。
「逆行催眠は、記憶を再び呼び覚ます方法だ。つまり、その女の子はもう一度悪魔を見た恐怖を味わうことになる……それがその子にとって、どういうことか……分かるな?」
アシュリンは私の目を見据えて言った。
……彼女の言いたいことは分かる。恐らく、仁美ちゃんは二度とまともな人生を送れなくなるだろう。一生悪魔の恐怖に苛まれながら、自分の世界で生きていくことになる。
だが、染谷悠斗を誘拐した人物の顔を見たのは、仁美ちゃんしかいない。彼女の記憶を呼び覚まして、何を見たのか聞きたいのが私の本音だ。
二人も同じ結論に至ったのか、勇気を振り絞ってアシュリンに詰め寄る。
「ですがアシュリンさん。僕らは何としても、悠斗君をさらった犯人を突き止めたいんです」
「先輩の言う通りでありますっ! 今こうしている間にも、悠斗君がどれほど怖い思いをしているか……」
「それでも私は反対だ。彼女は、悪魔かどうかは分からないが、何か恐ろしいものを見た。しかし、詳しく思い出せないでいる……なら、その方が幸せだと思うぞ?
人間は恐怖が限界に達した時、その時の記憶を忘れる自己防衛本能を備えているんだ。忘れた記憶を無理やり思い出させたら、本人の精神状態は持たないだろう」
アシュリンは淡々と答えているが、その様子はどこか悲しげだった……恐らく軍人の頃に何かあったのだろう。
「だが、これはあくまでも私個人の見解だ。どうしてもと言うなら、私は止めない」
「……どうしますか、神牙さん?」
そこまで言われると、なかなか実行できるものではない……だが、今はこれ以外に事件解決に近づく手立てがないのも事実だ。
私は悩んだが、逆行催眠を実行することを決意した。ただ、仁美ちゃんのご両親に了解をとってからだ。
私はその考えを、室内にいる者達に伝えた。
「反対されたらどうするつもりだ?」
アシュリンが聞いてくる。その時は仕方ない。別の方法で証言を得るしかない。
私はその考えを述べた。
「……そうか。もし少女の両親の同意が得られた場合、催眠の研究をしている教授に頼んでみよう」
私達はアシュリンに礼を言って、仁美ちゃんのいる家に向かった。
そして、私は仁美ちゃんのご両親に逆行催眠の説明をした――もちろん、アシュリンの言っていたリスクも……。
仁美ちゃんに逆行催眠をかけることで、真実が明らかになるかもしれないこと。
逆行催眠によって当時の記憶が蘇り、再び仁美ちゃんに怖い思いをさせてしまうこと。
それらの情報を伝えた上で、仁美ちゃんの両親は『よろしくお願いします』と同意してくれた。そして仁美ちゃんも……。
それは私から見れば、とても勇気ある決断だった。
※
翌日、アシュリンの研究室に関係者を集めて、仁美ちゃんに対する逆行催眠が行われることになった。
実際に逆行催眠を行う者はアシュリンの同僚であり、神明大学附属病院の竹中教授だ。アシュリンが言うには、彼は監察医でありながら催眠の研究をしている変人だそうだ。
……人の外見に対してどうこう言うのは好きではないが、この竹中教授という人物は一度会ったら忘れることはないだろう。ハゲ散らかした髪を横側に撫でつけ、おでこには大きなデキモノが付いていた。
ちなみに、仁美ちゃんのご両親には隣室で待機してもらっている。
慣れない場所、見知らぬ人物達に囲まれているせいか、仁美ちゃんはかなり緊張している様子だった。手足が震えているのがわかる。
「さぁ、大丈夫ですよ。ゆっくり深呼吸しましょう」
特徴的なダミ声で、竹中教授は仁美ちゃんの緊張を解いていった。
「そう、落ち着いて……さぁ、これを見つめて下さい」
そう言って、竹中教授は白衣のポケットから小さなペンダントのようなものを取り出した。先端には分銅のような物が付いている。
「ジッと見つめて……これしか見えないぐらいに……」
そう言いながら、竹中教授はそのペンダントを仁美ちゃんの目の前で横にゆっくりと振り始めた。テレビ番組なんかで見かける、典型的な催眠術の光景だ。
人を催眠状態に導入する際には、こういった単調な動きをするものに意識を集中させるらしい。
そして五分後……仁美ちゃんは虚ろな表情でソファに座っていた。『深度催眠』と呼ばれる、完全な催眠状態だ。
竹中教授は、満足げに微笑んで我々の方を向いた。
「さぁ、これから逆行催眠に移ります。よろしいですね?」
我々は深く頷いた。
「それでは仁美ちゃん。あなたが悪魔を見た場所はどこですか?」
「……公園……友達とかくれんぼしてて……」
仁美ちゃんが宙を見ながら、ポツリポツリと語り出す。その言葉に、私は全神経を集中させた。
「茂みに隠れてて……道路の方に男の子が見えて……女の人と一緒に……ダメ……ダメ……」
「……その女の人はどんな見た目でしたか?」
竹中教授が、神妙な面持ちで質問する。
「目が……真っ赤だった……おでこから……角が生えてて……ダメ、行っちゃ……その人は……悪魔だから……」
その時、仁美ちゃんの目がカッと見開かれた。
「きゃあぁぁぁあああっ!!」
「いかんっ!」
突如、仁美ちゃんは絶叫し、竹中教授が慌てて仁美ちゃんに語り掛ける。
「大丈夫、大丈夫ですよっ! ここは安全な場所です。心配する必要はありませんよ。深呼吸して……私が三つ数えると、怖くなくなりますからね? いきますよ……一、二、三、はいっ!」
すると、糸が切れたように仁美ちゃんは大人しくなった。
私は竹中教授に、仁美ちゃんが語った事は真実か訊ねた。
「紛れもなく真実ですっ! この少女は悪魔を見ていますっ!」
竹中教授は興奮し切った様子でそう答えたので、私はその根拠について訊ねた。
すると竹中教授は、待ってましたとばかりに得意げになって語り始めた。
「人間の記憶というのは、思い出せるか思い出せないかに関わらず、常に脳の中に記憶、保存しているものなのです。逆行催眠というのは、被験者を催眠状態において過去の記憶をたどるものです。催眠術というのは、人の無意識下に働きかけて作用するものであり、無意識下にあるものは、自分の意志で左右することはできないのです。よって、逆行催眠によって導き出した証言は、間違いなく真実と言い切れるのです」
私は、ソファに座る仁美ちゃんを見た。
仁美ちゃんは疲れてしまったようで今は眠っているようだが、本当に彼女が見たものは悪魔だったのだろうか?
竹中教授の言う通りなら、仁美ちゃんは額から角が生えた目の赤い女が、染谷悠斗の手を取って連れ去る場面を目撃したことになる。
……分かっていた事だが、やはりこの事件は普通の誘拐事件ではない。
その時、私の携帯電話が音を鳴らした。電話の相手はリズだった。
「よう、ファングッ! 染谷の家に行ってみなっ! 面白いもんが届いたぜっ! 報酬は三本――」
……私は電話を切ってアシュリンと竹中教授に礼を言うと、鳴海刑事と大倉刑事を連れて染谷家に向かった。
それにしても、藤沢警視の監視を頼んだだけなのに、なぜ彼女は染谷家に『面白いもん』が届いたと分かったのだろうか? たまに思うのだが、リズはひょっとして超能力者なのだろうか?
そんな疑念を振り払い、私達は染谷家についた。
「お疲れ様です」
表で見張りをしている刑事達に、適当に挨拶をして中に入る。どうやら、我々が部外者であることはまだバレていないようだ。
リビングに行くと、そこには染谷香と録音機材の整備や電話で話す内容を支持する捜査員が数名いた。
彼らは我々が来ると、一枚の紙を見せてきた。
その紙には赤い文字で、『偽善』と書かれていた。
「な、なんだコレはっ!?」
大倉刑事が驚くのも無理はない。
その筆記体はかなり不気味だった。赤い色で、太い筆で書いたような文字だ。
捜査員にこれ以外に不審な点は無いか質問したが、何もないというのでその紙を受け取って染谷家を後にした。
「……いったい、どういうことなんですかね、先輩?」
「さぁ……でも、香さん、あの紙を見てひどく怯えているように見えましたけど……」
この紙は、ファックスで送られてきたらしい。
私はこの紙を捜査資料代わりの黒革手帳に貼りながら、二人の会話に耳を傾けていた。
私も、染谷香の異変には気づいていた。
初めに見た時はただ単に怯えているだけだと思ったが、改めて紙に書かれている偽善という文字を見てから考えると、この内容のファックスを送ってきた人物は、染谷香の何らかの秘密を知ったうえで、ファックスを送り付けてきたのではないだろうか?
人間なら、人に話していない隠し事の一つや二つはある。これを送り付けた者が染谷悠斗を誘拐したとして、その人物は染谷香に対してどのような思いで『偽善』という内容のファックスを送ったのだろうか?……毎度のことだが、まったく分からない。
もう一度、染谷家を中心にしらみつぶしに聞き込みをしようか……私はその考えを二人に伝えた。
「うむっ! 良い考えだっ!」
「そうですね、そうしましょう」
こうして、我々は一人ずつ分散して聞き込みを開始した。
分散して聞き込みをした方が効率的だし、何か新しい発見があるかもしれないからだ。
しかし、私のそんな淡い期待は脆く崩れ去った……一時間は聞き込みをしているが、一向に収穫がない。
近所の染谷家に対する評価は、似たようなものばかりだ。お母さんは偉いとか、悠斗君は礼儀正しいとか……。
私の心が折れかかった時、携帯電話が鳴った。
私が電話を耳に当てると、向こうから大倉刑事の興奮した声が聞こえてきた。
「神牙かっ! 他にも似たような脅迫状を受け取っていた者が見つかったぞっ! すぐに来てくれっ!」
私は了解して彼がいる場所を聞き出すと、電話を切って大倉刑事のいる場所に向かった。
彼がいた場所は同じ市街の北側、染谷家から一キロ程の距離にある場所だった。
私は車に乗ってその地点まで向かうと、大倉刑事が古風な邸宅の前で直立していた。
「すまん……鳥川さんは先程用事で出かけてしまった……」
私は、開口一番にそう言う大倉刑事を励ました。
別に君が悪いわけでもないのに……本当に律儀な男だ。
「だが安心しろっ! 事件に関係ありそうな事は、自分がすべて聞いておいたっ!」
一転して自信に満ち溢れた表情で、大倉刑事は言い放った。
その時、私の携帯電話がまたしても音を鳴らす。今日は本当に電話がくる日だ。そんな状況を作り出したのは私なのだが……。
電話の相手は、鳴海刑事だった。
「あっ! 神牙さんっ!? 実はこちらの家に、染谷さんのと似たような手紙を受け取った方がいましたっ!」
私は了解すると、鳴海刑事に喫茶店ロマンへ来るように言った。
あそこなら、捜査状況を話していもマスターがうまく取り計らってくれる。
「分かりましたっ!」
鳴海刑事はそう言って電話を切った。
私は大倉刑事に喫茶店ロマンに行くことを伝え、彼と共に車でロマンへ向かった。
※
私達がロマンに着いて注文を終えて席に着くと、大倉刑事が懐からビニール袋に入った一枚の封筒を取り出し、手袋をはめて中身をテーブルに広げた。
「これが、送られてきた脅迫状だ」
それは一枚の紙で、染谷家に送られてきたのと同じような赤い文字で、『強欲』と書かれていた。
私は大倉刑事に、捜査結果を詳しく報告するよう求めた。
「うむっ!」
彼はそう言って、懐から手帳を取り出した。私には押忍と言ってくれないんだ……。
「この手紙の受取人は、鳥川正美さんというご夫人だ。ご主人は市議会議員をしておられる。警察に届けなかったのはご主人のイメージダウンに繋がること、仕事柄、このような嫌がらせの手紙を受け取るのが多かったからだそうだ。
あと事件に関係あるかどうかは分からんが……鳥川夫人の庭が荒らされていた。表の玄関からは見えなかったが……彼女に案内されて見た限りでは、花壇の花が一つ残らず抜かれていた……目撃者はおらず、そのようなことをされる覚えもないそうだ。鳥川夫人はそれで体調を崩されて……今日は病院へ出かけられた」
なるほど、だから家にいなかったわけか。
「体調を崩した? なぜです?」
鳴海刑事の質問に、大倉刑事は手帳の内容を見ながら話した。
「夫人が大切に育てた庭だそうです……その……正直言って、自分もあれほど大切にしているとは……」
「そんなに大切にしてるんですか?」
「押忍。ご主人から聞きましたが、一日の半分は庭いじりに勤しんでいるそうです。まるで子供を育てるように花や木々に一本ずつ名前をつけて、話しかけてもいるそうです」
「それは……すごいですね」
確かに、愛情のかけ方が尋常ではない。そんな人物が庭を荒らされたら、体調も崩すだろう。彼女からすれば、子供達を皆殺しにされたようなものだ。
私は手袋をして茶封筒を手に取り、じっくりと観察した。
封筒自体は、百貨店で売られているような物だ。封筒に貼られた切手の消印は四日前。千葉からだった。切手は糊で貼られた様子がない。どうやら唾液などで張り付けたようだ。
私は、鳴海刑事にも事件の状況を聞いた。
「はい、これです」
そう言って、鳴海刑事は懐から大倉刑事が持っていたような茶封筒と同じような物を取り出した。
その封筒を受け取ると、こちらも消印は四日前で千葉県からだった。
大倉刑事が持ってきた茶封筒もそうだったが、差出人の名前は無い。
私は茶封筒の中身を取り出した。
『殺ス』……血の滴るような赤い文字は、見たものの恐怖を駆り立てるようだ。
「それが届いたのは桜井良子さんという方のお宅で、四日ほど前に自宅に送られてきたそうです。残念ながら、今のところ染谷さんとの繋がりは見当たりません。ですが、一つ気になる事が……鳥川さんの自宅では、花壇が荒らされていたんですよね?」
「押忍っ! そうでありますっ!」
鳴海刑事に問いかけられ、大倉刑事が元気よく返事をする。
「実は……桜井さんのお宅でも、飼っていた猫達が一匹残らず行方不明になっていたそうです。当時桜井さんは体調不良になってしまったらしく、今日になって病院から戻ってきたばかりです」
「猫達って……桜井さんは数匹猫を飼っていたんでありますか?」
「ええ。八匹飼っていたそうで、一匹一匹に名前を付けて子供のように可愛がっていたそうです」
またしてもか……。
鳥川夫人にしろ、桜井良子にしろ、どちらも家族同然の存在に危害を加えられている。本人達の精神的苦痛は計り知れないだろう。
私は犯人に漠然とした不安を覚えた。利益のためではなく、自身の歪んだ欲望を満たすために犯罪を犯す者……狙いが読みにくいため、次に何をしでかすか想像出来ない。
『偽善』
『強欲』
『殺ス』
この内容の手紙を見て、私はふと思った。
偽善、強欲は不気味な内容だが、殺スという文言は明らかな殺意を意味する。
染谷香の偽善、鳥川正美の強欲、桜井良子を殺ス……?
まだこれらの手紙が同一人物によって送られた物という証拠はないが、仮に送った人物が同一人物で手紙の内容をそのまま受け取るなら、手紙を送った本人は少なくとも桜井良子に対して強い殺意を抱いているに違いない。
仮に嫌がらせだったして、猫の連れ去りや花壇荒らしはまだしも、染谷香の息子の誘拐は嫌がらせとしては常軌を逸している。
「まったく……人が大切にしているものを狙うなど、卑劣極まりない輩ですなっ! 必ず逮捕してやりましょうっ!」
大倉刑事が鼻息荒く宣言する。
彼が怒るのも無理はない。今回の事件の犯人は、人が大切にしているものばかりを狙っている。
このような者は……ん? 私の頭の中で、何かが引っかかった。
……人が大切にしているもの……そう、そうだ。何らかの怨恨によって染谷悠斗の誘拐や猫の連れ去りをしたなら分かるが、なぜ鳥川正美は花壇だったのだろう?
ガーデニングを趣味に持つ人は多いだろうが、それを破壊したところで、染谷香や桜井良子と同等の精神的ダメージを与えられるかどうかは分からないのではないだろうか?
だが、犯人は鳥川正美が大切にしていた花壇を荒らした……ということは、犯人は知っていたのだ……鳥川正美が少々過剰に、花壇に愛情を注いでいたことを……。
私はその考えを二人に話した。
「なるほど、確かにそうですねっ!」
「……という事は、犯人は鳥川さんと近しい間柄にあった人物ということか」
そう、鳥川正美と親しく、染谷香や桜井良子ともつながりがあり、桜井良子に明確な殺意を抱いている人物……正直、この事件の解決を諦めかけていたが、一筋の光明が見えた。
私は二人に、早速情報収集を行うことを宣言をした。
「はいっ!」
「おうっ!」
だが、情報収集はあっけなく終了した。
桜井良子と鳥川正美は、同じサークルに入っていた。
ガーデニングサークル……我々はサークルの所属者リストを入手し、徹底的に調べた。
警視庁地下の埃っぽい空間で、私は一つの名前を見つけた。
宮川晴子……これは確か、染谷家の隣人の名前だ。
私は二人に言って鳥川正美と桜井良子の両名に確認を取ったが、二人は宮川晴子と面識があった。自宅に呼んでお茶をしたこともあるそうだ。
念のためサークルの他のメンバーも調べてみたが、染谷香との接点は見いだせなかった。
「どうやら、染谷さん、鳥川さん、桜井さんを結ぶ線は宮川晴子という事になりますね……」
手帳に書き込みながら、鳴海刑事がつぶやく。
私が見たところ、彼女はかなり苦しい生活をしていたようだった。
対して、鳥川正美は市議会議員の妻、桜井良子も自身が経営する不動産会社が軌道に乗っているため、二人共悠々自適な生活を送っているだろう。
そんな彼女達を、宮川晴子が妬んで犯行に行う可能性は十分にある。
私はリズに連絡を取って宮川晴子のアリバイを調べてもらったが、その時間帯の彼女のアリバイは立証出来なかったらしい。
『五本なっ!』
頭の中に彼女が提示した報酬額が渦を巻くなか、私は一連の捜査で手に入れた証拠品を調べることを二人に提示した。
ヘタに宮川晴子に任意同行を求めたり、家宅捜索を行って何も無かったら、彼女が犯人の場合、染谷悠斗の身に危害を加える可能性があるからだ。
「はぁ……分かりました」
「うーむ……果たして上手くいくかどうか……」
だが、二人の反応は鈍いものだった。
当然だろう。今、我々の前にあるのはファックスと手紙と封筒だけだ。
わざわざ指紋を残すようなヘマはやらないだろうし、封筒や便箋もやはりコンビニや百貨店で売られているような市販品という事が判明した。
この状況では確かに……いや、望みはある。
私は封筒を手に取って、切手の部分を見た。
「なんだ? どうかしたのか?」
自身のデスクに座りながら、大倉刑事は私の方を不思議そうに見ている。
私は、切手を糊を使わずに貼る方法を彼に質問した。
「どうって……切手の裏をペロッとなめて……って、そ、そうか!」
「なるほど、唾液ですね!?」
私は肯定した。
だが、切手に付いているであろう唾液が宮川晴子のものであるという証拠を得るには、彼女の唾液が必要だ。
私がその考えを二人に伝えると彼らは意気消沈してしまったが、私には考えがある。タバコだ。
私の記憶に間違いがなければ、彼女は我々と会った時にタバコを吸っていた。宮川晴子の吸っていたタバコを手に入れれば、そこから唾液を採取できる。
しかし、指紋等取扱規則という法律によって、強制的に被疑者の指紋等を採取することは出来ないことになっている。
そういう場合、捜査員は秘密裏に証拠を採取しなければならない。
被疑者に知られることなく指紋や唾液を回収する秘匿採取……決して褒められた方法ではないが、事件解決のためとして一応は黙認されている。
私はその考えを二人に伝えた。
「よしっ! 行くかっ!」
「急ぎましょうっ!」
こうして、我々は宮川晴子宅へ向かうことになった。
※
我々は宮川晴子宅が見える場所、それでいて、向こうからは見えづらい場所に車を停めて張り込みをしていた。
夜明け前から張り込みを続け、数時間……ようやく太陽が顔を出したところだ。
「見ろっ! 宮川晴子が出てきたぞっ!」
大倉刑事が私に向かって叫ぶ。
彼は後部座席で目を凝らし、宮川晴子の一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
宮川晴子の方は、小奇麗な洋服に身を包んでいる。どこかへ出かけるつもりだろうか?
彼女は足早に玄関から出た。手にはゴミ袋を持っている。
ちなみに、我々が彼女を張り込んでいることを、藤沢警視は知らない。
何度も言うが、彼のようなタイプは野生動物並みに自分のナワバリというものを重要視する。ヘタに関わらない方が無難だ。
宮川晴子の方はというと、ゴミ捨て場の方へ歩いていく。今のところは、我々の監視に気づいている様子はない。
しばらく彼女の監視を続けていると、宮川晴子の姿が死角に入ったが、事前の調査によればあの辺りにはゴミ捨て場があることは確認済みだ。
我々はそのまま、彼女の動向を観察する……が、しばらくその場で待機していても、一向に彼女が姿を見せることはない。
「神牙さん、ゴミ捨てにしては時間が経ち過ぎじゃないですか?」
助手席の方で、鳴海刑事が不安げに聞いてくる。
私は腕時計を見ると、すでに五分が経っていた。確かに遅い。
私は鳴海刑事の質問を肯定した。
「まさか、監視がバレたんじゃないかっ!?」
後ろで、大倉刑事が慌てた様子でまくし立てる。
私が様子を見てくると言って車のドアを開けようとした時、全身に寒気が走った。
そして、宮川晴子が向かったゴミ捨て場の方から、異様な気配がする……。
「な、なぁ……もう少し待ってみんか? ご近所さんと立ち話をしているだけかもしれんし……」
後部座席に座る大倉刑事も、異常を感じた様子で訴える。彼にも、この気配は伝わっているのだろう。 だが、鳴海刑事の方は何ともないらしい。
「僕も大倉さんに賛成です。もう少し様子を見てみませんか?」
私もそこまで聞いて、再び様子を見ることにした。
大倉刑事は明らかにこの異様な気配に気づいているはずだが、彼の言う通り宮川晴子はただ単に立ち話に興じているだけかもしれない。
私がそう思いながらゴミ捨て場の方を監視していると、その角からフラッと人影が現れた。
私が思わず声を上げると、二人も緊張した面持ちでその人影を見つめたようだ。
その人影は宮川晴子だった。彼女は片手をブロック塀についたまま、ヨロヨロと歩いてこちらに向かってきた。
「お、おい、なにやら様子がおかしくないか?」
大倉刑事に言われるまでもなく、私もそう感じていた。
「あっ!!」
鳴海刑事が、宮川晴子の様子を見て驚愕した。
彼女は、不意に崩れ落ちるようにして地面に倒れたからだっ!
私は反射的に車から降りて、彼女に駆け寄った。彼女を抱き起して声を掛けるが、反応は無い。
手のひらにはぬめりとした生暖かい感触がした……私が自身の手のひらを見ると、そこには血がベットリと付いていた。どうやら頭部から出血しているらしい。
だが、問題はそれだけではない。
私が感じた異様な気配……それは彼女から発せられているように感じた。
「うぅ……」
私の後ろで、大倉刑事がうめき声をあげる。しまった……彼は血が苦手だったけ……。
とにかく、私は宮川晴子の呼吸を確認すべく、彼女の口元に手を当てた。
「ぅぅう……」
よかった……どうやらまだ息がある。
私は後ろを向いて、鳴海刑事に救急車を呼ぶように言った。
しかし、鳴海刑事からの返事はない。彼は宮川晴子の方を見下ろしており、その膝は小刻みに震えている。
「か、神牙さん……目……目が……」
鳴海刑事は、宮川晴子を指さしていた。隣に立つ大倉刑事に関しては、半分白目になっていた。
私は宮川晴子に視線を戻したが、彼女は気を失ったままだった。もちろん、目も閉じている。
私は鳴海刑事と大倉刑事に何を見たのか、慌ただしく問いただした。
「そ、そんな……さっきは目が見開いてて真っ赤にっ! そうでしたよね、大倉さんっ!?」
「お、押忍っ! 間違いありませんっ!」
真っ赤な目っ!? 仁美ちゃんの証言した悪魔の特徴と一致しているじゃないかっ!
だが、今はその事について考えている余裕はない。見たところ、宮川晴子は命に関わる重傷を負っているように見える。
私は真っ赤な目の情報を後回しにし、二人に対して近辺に不審者がいないか捜索するように言った。
「はいっ!」
「おうっ!」
二人がそれぞれ別の方向に捜索しに行くのを確認すると、私は携帯電話で救急車を呼び、現場の保存を最優先にすることにした。
私はリズにも連絡を取り、藤沢警視率いる捜査陣に根回しすることは可能か問いただした。
「任せなっ! 報酬は八――」
八百万円の報酬を聞いた後、私は宮川晴子に何度か声を掛けたが、一向に目覚める気配はない。
頭部からは相変わらず赤黒い血が滴り、彼女の顔面を濡らしていく。
しかし、なぜ彼女はこんなケガを? 誰がやったんだ?
彼女は見たところ、どこかに出かけていくような格好だ。いったいどこへ?
その場で考え込む私の耳に、救急車のサイレンが事態の混迷を知らせるように鳴り響いた。




