妬みの泥沼 ~日記~
「我々の見立ては間違っていたのでしょうか?」
休憩のために立ち寄ったラーメン屋で、大倉刑事は鳴海刑事に質問する。
代わりに私が答えると、『お前には聞いていない!』という始末だ。
鳴海刑事は麺を啜ると、口を開いた。
「……正直言ってそう思います……この際、まったく異なる犯人像を元にして捜査をした方がいいかもしれませんね」
「むぅ~、いったいどこから手をつければいいのか……神牙、何か良い案はないか?」
大好きなニンニクのすり身を豚骨ラーメンの中にぶち込んでいると、大倉刑事が話しかけてきた。
私は、この際現在の犯人の状況を逆算して、それらから見えてくる特徴を元に捜査をすることを提案した。
まず、犯人は今までの証言では女性であり、染谷悠斗を監禁しておく必要がある。
単独犯か複数犯かは分からないが、その人物はなるべく人との接触を避けるだろう。とは言っても、このご時世に人との接触を完全に絶って生活することは不可能だ。
ましてや、染谷悠斗のこともある。食事の調達や電気、水道の事も考えなければいけない。
ゴミはゴミ捨て場に出さねばならず、生活資金の調達という事もしなければいけない。
少々強引的な希望的観測だが、もとより我々には手掛かりがないのだ。
二人もその意見に賛同してくれた。
「そうだな、それがいいっ!」
「ええ。でも、どうやって捜査すればいいのか……」
私は、デリバリーや通信販売を行っている店を中心に捜査することを提案した。
犯人は人質の事もあって、あまり外部と接触したがらないだろう。
二人は頷き、我々はラーメンを食べ終えて勢いよく店を飛び出した――もちろん勘定は払っている。
※
警視庁地下のオモイカネ機関室内にて、我々は調査を開始した。
誘拐現場周辺で、通信販売、デリバリーのチラシや冊子を配っている店をすべてピックアップし、しらみつぶしに調べていく。
正直気の遠くなるような作業で嫌だったが、人命には変えられない。
実際、鬼島警部も黙って手伝ってくれている。
調査の対象は、女性で毎日デリバリーなどを注文しており、受け渡しの時に顔や姿を見せない者だ。三番目は、誘拐犯の事を考えて付け足した条件である。
犯人が単独犯なら、姿を見せずに玄関などで何らかのやり取りをして、他人に自分の姿を見せないようにするだろう。複数犯の場合も同様だ。
調査の結果、これらの条件に当てはまる者は二十名にのぼった。ただし、大半は家族が代理で応対したという事例だ。
その中で一人、不審な人物がいた。デリバリーを直接受け取らず、ドアの前に置いておくように指示する女性がいるらしい。
女性の名前は北沢千里。代金などのやり取りは、ドアノブに代金の入った袋がぶら下げてあるらしく、皆インターフォン越しにしか話をしたことが無いと言う。
住所を確認して地図で確認してみると、彼女の住んでいるアパートは、染谷悠斗と一緒にいた目撃地点の公園からそう離れていない場所にあった。
しかも、ここ数日は注文が二人分になったり突然注文が来なくなったりしているようだ。
さらに、宅配会社からの聞き込みを終えた大倉刑事が、扉を勢いよく開けて興奮した様子で口を開いた。
「誘拐事件の日、宅配ドライバーが北沢千里宅にデリバリーを届けに呼び鈴を鳴らした際、室内から男の子の声を聞いたそうですっ! しかもその時、女の声で『ユウちゃん』という言葉を聞いたそうなんですが、結局、その後は誰も出てこなかったので、いつも通り袋から代金を頂戴してデリバリーを置いていったとのことですっ!」
なるほど……調べでは、北沢千里が注文するのはいつも一人分だそうだ。
つまり、普段は一人暮らしであり、誰かと同居している形跡はない。無論、子供などもいない。
……当たりを引いたか……私は鳴海刑事と大倉刑事に声をかけ、すでに自分の役目は終わったとばかりにソファに寝転がる鬼島警部に留守を頼み、リズに北沢千里の情報を集めるように言って北沢千里のアパートに向かった。
※
北沢千里のアパートは、閑静な住宅街の中にあった。これも、出来るだけ人と接触しない手立てだろうか?
「神牙さん……あそこの部屋、カーテンが……」
そう言って、鳴海刑事は奥の角にある部屋を示した。
確かに、他の部屋にはカーテンなど掛かっていない。
しかし、その部屋だけは黒いカーテンが窓を覆って中が見えないようになっていた。
私達は慎重に彼女の部屋の前に近づき、中の様子を伺った。
……中からは物音はしない。静まり返っている。
「どうしますか?」
鳴海刑事が静かに聞いてきたが、私は迷った。
このまま強行突入という手もあるが、その場合は染谷悠斗に危険が及ぶだろう。
かと言って、この場で応援を呼ぶわけにもいかない。
私は迷った挙句呼び鈴を鳴らした……応答はない。というか、物音一つしない。誰もいないのだろうか?
「あの……犯人は他人との接触は避けているんじゃないですか? なら、呼び鈴を鳴らしたって出てこないのでは……」
確かにその通りだ。
鳴海刑事の言葉を聞いて、私は改めて大家に頼んで鍵を貸してもらい、強制的に家宅捜索を強行することにした。
もちろん許される行為ではないが、仮に問題となったとしても、我々の存在は警視庁の編成表にはない。自身の進退を気にするよりも、今は人質の安否が優先だ。
私は借りてきた鍵を鍵穴に差し入れ、静かに回した。
扉を開け、息を潜めて暗闇に包まれた部屋の中に足を踏み入れる……物音も、人の気配もしない……。
私は鳴海刑事と大倉刑事に目配せで合図をし、靴を脱いで足音を立てないように慎重に歩く。
北沢千里の部屋はワンルームであり、キッチンの奥にすりガラスのドアが一つ見えるだけだった。他の扉はトイレとバスルームだろう。
私は部屋へと続く扉を、ゆっくりと開いた。
恐る恐る中を覗き込むと、カーテンの隙間からわずかに明かりが差し込んで部屋の中を照らしていた。
慎重に室内を見回すが、北沢千里も染谷悠斗の姿も見当たらない。どうやら自宅にはいないようだ。
私は手探りで部屋の明かりのスイッチを探し、明かりを点けた。
……室内の壁にはおびただしい数の写真が張り付けられていた……それは他の家具などが普通なのもあって、より不気味な印象を私に植え付けた。
後ろで大倉刑事がうめき声が上げるなか、私は写真をよく観察した。
その写真には、小学校低学年と思われる年齢の少年が映っていた。他の写真も、その少年が中心に映っている。
少年が友達と思われる少年達と下校している様子に……これは、家の中にいる写真だろうか? 髪を濡らし、パジャマを着ていることから、おそらく風呂上りだろう。
何気なく写真を見ていくと、ある一つの写真が目に留まった。
その写真には、少年を叱る染谷香の姿があった……彼女の表情には鬼気迫るものがあり、少年は正座をしていた。
おそらく、この少年が染谷悠斗だろう。私は、まだ見ぬ事件の被害者に、無事であるように祈った。
そのまま写真を見ていくと、見知った顔を見つけた。宮川晴子だ。
彼女の生活を切り抜いたように撮られた写真も、壁に貼られている。
しかし、その中に思わぬ光景が映りこんでいた。
宮川晴子と染谷香が、一緒に映っている写真だ。彼女達はどこかの家の中で、同じソファに座っている。
対面には二人の女性が座っており、染谷香とその女性達は楽しそうに談笑しているが、宮川晴子はどこか浮かない表情をしている。
その時、鳴海刑事が私を呼んだ。
「神牙さん、これを見て下さい」
そう言う鳴海刑事の視線の先には、一台のパソコンがあった。
私はパソコンに近づいて、手袋をして起ち上げた。
北沢千里にとっては、パソコンは必需品のはずだ。家から出ない生活をしていたために、インターネットで生活物資を通信販売で購入した可能性が高い。という事は、このパソコンの中身を調べれば、彼女の生活の一部は分かるだろう。
モニターが点くと、インターネットをつないで検索履歴を調べる……思った通り、通信販売のサイトがほとんどだ。
このパソコンは、捜査本部が来たら間違いなく押収されるだろう。その前に、私達で情報を抜き取っておきたかった。
私は懐から記録メモリーを取り出し、パソコンにつないでデータのバックアップを取りながら、調査を続けた。
もちろん鳴海刑事と大倉刑事は反発したが、人命の二文字を出しただけで黙り込む。彼らも早く染谷悠斗を助け出したいのだろう。
ただ、そのために多少の柔軟性を駆使することが出来ないだけだ。
私は二人の抗議の声を受け流し、『よく使用するフォルダ』の項目を選び、北沢千里が最近まで使用していたデータをチェックした。
そこには日記の項目があった……北沢千里はパソコンで日記をつけていたらしい。
私はその項目を選んだ。
「×月5日
お姉ちゃんから日記をつけろと言われた。
日記をつければ、自分を客観的に見れるらしい。
もっとも、それで私の気持ちが和らぐワケないんだけど……
私はお姉ちゃんと一緒に暮らしたいだけなのに……
でも、お姉ちゃんも大変みたいだから、我慢しよう」
「×月6日
二日目なのに書くことがない。
毎日家に籠ってパソコンの前でチャートを見ながらマウスをクリックするだけ。
一度お姉ちゃんに借金を肩代わりするって言ったけど、断られた。
『そんな金があるなら自分のために使いな』と言われたけど、私は自分の事なんかどうでもいい。
この有り余るお金は、全部お姉ちゃんのために使うつもり」
「×月7日
お姉ちゃんと話していて気づいたことがある。
お姉ちゃんに元気がない。
何かあったのか聞くと、少し黙ってから『なんでもない』と返された。
でも、私には分かる。
絶対にお姉ちゃんに何かあったんだ」
「×月16日
なんてことだ。
お姉ちゃんはいじめられていた。
あれから気になってずっとお姉ちゃんの様子を観察してたけど、お姉ちゃんは今日は豪華な屋敷に入っていった。
双眼鏡で中の様子を見たが、お姉ちゃんは悔しそうに唇を噛んで、周りにいる女どもはゲラゲラ笑っていた。
絶対に許さない」
しばらくは変わり映えしない文章だった。
お姉ちゃんがどうとかあいつらを殺してやるとか……だが、次の月になると変化があった。
「×月2日
奴らの裏の顔を見つけた。
その中には、暴露すれば奴らの社会的地位を十分に貶めることができるものもあった。
だが、私はそんなに甘くない。
奴らの知っている世界を少しづつ壊していき、お姉ちゃんを傷つけた罪をしっかりと認識させてから殺してやるんだ」
「×月5日
今日、一人の男の子と話した。
お姉ちゃん以外の人間と面と向かって話したのはいつぶりだろう?
少しだけしか話さなかったが、楽しかった。
もちろんお姉ちゃんと話すのも楽しいのだが……ものすごく興奮している。
運命の出会いとはこういうものだろうか?
いつか、お姉ちゃんにも紹介したい。
どうかこの出会いが、今日だけのものじゃありませんように」
私がそこまで日記を呼んだ時、大倉刑事が声を上げた。
「先輩っ! 向こうの部屋に、染谷悠斗と書かれたランドセルと教科書を発見しましたっ!」
「えっ!? 本当ですかっ!?」
やはり、染谷悠斗の誘拐は北沢千里が行ったものだろう。
ちょうど、データのコピーも終わった。
私は記録メモリーを取り出して、二人と共に部屋を後にした。
※
オモイカネ機関に帰っても、我々は捜査の手を緩めない。
この事件を捜査してから、かつてないほど事件の真相に迫っているのだ。
私は自分のデスクに座って、パソコンに記録メモリーを差し込んで日記を見た。
あいにく、鬼島警部は昼寝中である。
私の両隣にいる鳴海刑事と大倉刑事も、神妙な面持ちで私のパソコンの画面を見ている。
「×月8日
今日はあの子と待ち合わせ。
お姉ちゃんのことも気になっていじめの事をお姉ちゃんに話したんだけど、『気にしなくていい』って言われた。
どうして? 私は頼りない?
とにかく、お姉ちゃんとの話はそれでお終い。
あの子と待ち合わせした公園へ向かうと、すでにあの子が待っていた。
私の姿を見ると、あの子は笑って手を振ってくれた。
私も同じように手を振ったのだが、その姿を見て近くにいた子持ちの女共が気味悪がった。
ウザい。
とにかく、あの子との会話の時間はあっという間に過ぎてしまう。
ただ、あの子は自分の好きな漫画とかゲームとかの話題を話してくれるんだけど、私には話せる話題が何もない。
それが嫌だった。
あの子につまらない奴だって思われるのが怖かった」
「×月9日
私はインターネットで、あの子が興味のある物をすべて勉強した。
あまりにも熱中しすぎて昨日から寝てない。
お姉ちゃんとも話をしてから、あの子の待つ公園へ向かった。
お姉ちゃんは、会うたびに元気がなくなっているような気がする。
あの子はまた私よりも先に来ていて、私に手を振ってくれた。
私はその姿を見て泣いた。
この世で、お姉ちゃん以外に自分の事を考えてくれる存在がいるなんて……
私はあの子が気に入る話題、好きな話題を一生懸命に話した。
あの子はとても喜んでくれたが、なんだか騙しているようで胸が痛んだ。
今の私にとっては、お姉ちゃんとあの子だけが生きがいだ。
あの人達に何かあったら、おそらく私は正気を失うだろう」
「×月13日
今日は雨だった。
私はあの子と会えるか不安になった。
お姉ちゃんは家に住んでいるから会いに行けばいいだけだが、あの子はわざわざ私に会うために雨の中で待ち合わせするだろうか?
私は不安な気持ちで公園に行ったが、あの子は傘を差してポツンと立っていた。
雨に濡れて風邪を引くといけないからと、私の家に招いた。
家に招いたのはお姉ちゃん以外ではあの子が初めてだ。
あの子の服が濡れていたので、乾かしてあげようと思ったらあの子がひどく嫌がった。
私は混乱して、どうしたらいいか分からなくなって泣いてしまった。
そうしたら、あの子は黙ってハンカチを取り出して私の涙を拭いてくれた。
そんなことをされて、私はまた泣いてしまった。
そして、私は見てしまった。
服をめくったあの子の腕に、いくつもの青アザがあるのを。
『どうしたの?』って聞いても、あの子は困ったように笑うだけだった。
しばらく話していると雨が止んだので、あの子は家に帰ると言った。
『また会えるかな?』と聞くと、明日は会えないと言われた」
「×月14日
今日は土曜日。
彼は土曜日はいつも事情があって遊びに行くことも出来ないそうだ。
仕方ないからお姉ちゃんに会いに行ったが、お姉ちゃんは泣いていた。
私の姿を見ると慌てて涙を拭っていたが、お姉ちゃんの袖は涙でグショグショに濡れていた。
私は迂闊だった。
彼に入れあげているあまり、お姉ちゃんの事を軽んじていたのだ。
彼の事も大事だが、お姉ちゃんの事も大事だ。
これからは気をつけよう」
「×月16日
お姉ちゃんをイジメている奴らの事だが、進展があった。
後は、奴らを地獄に落とすだけだ。
しかし、それをお姉ちゃんに気づかれてはならない。
お姉ちゃんはああ見えて優しいから、私がひどいことをしたらきっと悲しむだろう。
だから、内密にやらなければならない。
お姉ちゃんを奴らから救うことが出来るのは、私だけなんだ」
「×月21日
今日は土曜日なのにあの子が来てくれた!
もう日が沈みかけていたのに、私の家まで会いに来てくれたのだ。
私は嬉しくて泣いてしまった。
私はお姉ちゃんに『会ってほしい人がいる』と言って家に来てもらった。
お姉ちゃんとあの子はすぐに打ち解けた。
私は嬉しくなって二人に手料理を振る舞った。
誰かのために料理を作るのは、本当に楽しい」
「×月22日
今日はあの子が来てくれない……
お姉ちゃんの家に行っても、お姉ちゃんはいなかった。
二人共どうしたんだろう……
久しぶりに一人ぼっちになったが、とてつもなく寂しい。
二人に会いたい」
「×月6日
やっと二人に会えた!
でも、お姉ちゃんは私の家の玄関で泣いていたし、あの子もひどくやつれているようだった。
あの子の方は会えない間に随分痩せちゃったみたい……
あの子にワケを聞いても、全然教えてくれない。
お姉ちゃんもだ。
二人共、私に心配させないように気を配っているみたい。
でも、私には分かってる。
あの子の場合は親だ。
実際、彼の身体には青アザがいっぱいあった。
きっと親があの子を苦しめているに違いない。
お姉ちゃんの場合はあいつらだろう。
絶対に許せない!
何らかの対処をしなければ!」
「×月7日
私は昨日、あの子やお姉ちゃんが帰ってからしらみつぶしに調べた。
あの子とお姉ちゃんの生活パターン、あの子の親とお姉ちゃんをイジメている奴らの生活パターン、幸い、奴らのスキャンダルは私が握っている。
その気になれば、いつでも奴らを社会的に殺すことが出来るが、ダメだ。
奴らはお姉ちゃんを苦しめた。
しかも、あの子の親は奴らの仲間だった!
この報復は生ぬるいものであってはならない!」
「×月10日
信じられない……あの子の母親……
思えば、私はあの子の名前さえも知らなかった……
だが、それなら話は早い。
あの子と私は家族だったという事だ。
ただ、このままあの子をあの女から奪い去るだけでは気が済まない……
チャンスをやろう。
もし奴が来なければ、あの子は晴れて私の子供だ……」
日記はそこで終わっていた。
読み終えた私は、大きく息をついてパソコンの電源を切った。
「先輩、日記にある『あの子』とは、悠斗君の事でしょうか?」
「ええ。内容からして間違いないでしょう」
私も同感だ。
そして、日記の内容からして北沢千里は自身の姉と染谷悠斗を愛している。ならば、無理心中を図らない限りは染谷悠斗に危害は加えられないだろう。
だが、彼女の姉とは誰だ? 文脈からして、複数の人間にいじめられているようだったが……まぁ、この部分はリズに頼めば問題ないだろう。
私は携帯電話で彼女に連絡を取った。
「ああ。分かった」
彼女は私からの依頼を二つ返事で受けてくれた。報酬の額は気になるが……。
「あ、ついでに良いこと教えてやるよ。今、染谷の家には行かない方がいいぜ? 藤沢って奴が捜査会議に来てるからな」
私は彼女に礼を言って、電話を切った。
報酬額を聞かなくても、彼女は後々郵便で報酬額を知らせてくる。
このタイミングで彼女の家で捜査会議を開くという事は、おそらく事件解決が失敗した時の言い訳だろう。『我々は全力を尽くした』というアピールだ。
まったく……反吐が出る。
私は、今は染谷家に行かない方が良いことと、その理由を鳴海刑事と大倉刑事に伝えた。
「おのれぇ~っ! 刑事の風上にも置けんっ!」
「ええ。そうですね。今から失敗した時の言い訳のために動くなんて……」
二人も私と同じような義憤に駆られていた。
だが、これ以上は出来ることは無い。明日、リズからの報告を待とう。
※
翌朝、私は自宅で、リズからの電話の着信音で起こされた。
「驚いたぜ!」
彼女は開口一番にそう言った。彼女の独特のしゃがれた女性の声は、朝一番に聞くには重い。
私は不快な気持ちをグッとこらえ、彼女からの報告を聞いた。
「北沢千里の姉の事はまだ調査中だが、今朝に染谷の家に染谷悠斗本人から連絡があったっ! 捜査本部は、北沢千里を指名手配するらしい」
私は電話を切って考えた。
捜査本部は北沢千里を指名手配するらしいが、もしそんなことをすれば彼女を刺激しかねない。
染谷悠斗を連れて逃走するならまだしも、そのまま無理心中を図る恐れがある。
おまけに、彼女の姉の事も気がかりだ。
そして、私にはまだある一つの疑問がある。
『朝の栄光が欲しければ来い』……この言葉が、未だに脳裏に引っかかっている。
だが、考えても仕方ない。ひとまず、あの藤沢警視を説得しなければならない。
私は鳴海刑事と大倉刑事に連絡を取り、染谷家で合流しようと告げて準備を整えて家を出た。
※
染谷家に到着後、鳴海刑事と大倉刑事に朝の挨拶を済ませて私達は染谷家のリビングに向かった。リビングには、藤沢警視と数人の捜査員、染谷香がいた。
「だから公開捜査に踏み切ると言ってるだろうがっ! 報道協定は明日の朝刊から解除だっ! 記者会見は午後十時から開くと伝えておけっ!」
藤沢警視は、いらついた調子で自身の部下に指示を出していた。こんな上司を持つことになるとは、彼の部下はかわいそうだ。
私が彼を呼び止めると、藤沢警視はますます険悪な表情を浮かべた。
「なんだ、貴様はっ!?」
私は公開捜査を中止するように訴えた。
「ふざけるなっ! 貴様の指示など――」
面倒だ。
「ぐふっ!?」
私は素早く藤沢警視との距離を詰め、彼の鳩尾に拳を叩き込んだ。
彼は悶絶して床に崩れ落ち、のたうち回る。周りの捜査員はどうしたらいいか分からない様子だったので、私から仕事を続けるように言った。
素直に従ったことを考えると、彼らも藤沢警視のやり方が気に入らなかったらしい。やはり、持つべきものは仁徳だ。
私は、今度は染谷香の方を向いて口を開いた。
北沢千里はあなたにチャンスを与えていることだ。
その理由は、『朝の栄光が欲しければ来い』……この言葉だ。
私は日記の文脈から考えて、北沢千里は染谷香の事を知っている。
事件解決の糸口は、もはやこの文言にしかないのだ。
「……」
彼女からの反応はない。たまらず、鳴海刑事が口を開いた。
「香さん、あなたは『朝の栄光』の意味を知っていながら、悠斗君を見捨てるために知らないフリをしているんですかっ!?」
「黙りなさいっ!」
染谷香は勢いよくソファから立ち上がった。その様子に、私を含めた室内の全員が固まる。
強く歯ぎしりした染谷香は、腹の底から唸るように声を絞り出した。
「悠斗を愛してなんかいないわ……さらわれて良かった」
「なんで……なんでそこまで悠斗君を拒絶するんですかっ!?」
「あの男の子供だからよっ! 他の女と逃げて行った、あの男のっ!」
おそらく、別れた夫の事を言っているのだろう。
「あの男のせいで……私は……」
「お願いしますっ!」
突然、大倉刑事が頭を下げた。
「自分には、子育ての苦労など分かりませんっ! ただっ!! あの子があなたの産んだ子供であることは変わらない事実でありますっ! どうかっ! どうか、悠斗君を救うのを手伝ってくださいっ!」
「……そんな……私はっ!……」
彼女は明らかに迷っていた……それは、彼女にもまだ母親として愛情が残っていることを確認するには十分だった。
思えば、彼女がこれほど戸惑う姿を見るのはこれが初めてだった。やはり、彼女は心のどこかでは染谷悠斗を愛しているのだろうか?
彼女の様子を見て、鳴海刑事が畳みかけるように話し続ける。
「香さん。『朝の栄光』とはどこにあるんです? そこで悠斗君は待っているかもしれないんですよっ!?犯人の北沢千里も――」
鳴海刑事から北沢の名前を聞いた瞬間、染谷香は突然顔を上げた。目を大きく見開き、唇を震わせ、愕然とした表情で私達を見つめる。
その場にいる全員が彼女の様子を心配そうに見つめ、室内に緊張が走る。
「今……なんて言ったの?……」
染谷香はゆっくりと鳴海刑事に近づき、戸惑う彼の肩を掴み、激しく揺さぶった。
「あ、『朝の栄光』はどこかと――」
「違うっ! 犯人の名前っ!」
「き、北沢千里ですが?」
彼女の表情はさらに強張り、鳴海刑事の肩に爪を食い込ませている。やはり、染谷香も北沢千里を知っているのだろうか?
彼女は鳴海刑事の肩から手を離し、目を閉じて息を整えて落ち着こうとしている。
「はぁ……はぁ……け、刑事さん……」
やがて落ち着きを取り戻した彼女は、私に視線を定めた。
「私……『朝の栄光』へ……行きます」
私は深く頷いて了承した。私は自分が護衛につくことを伝えた。
最初は難色を示していた彼女も、染谷悠斗と自身の身の安全の事を精一杯説明したら受け入れてくれた。
続いて近くにいた捜査員に、藤沢警視が動けるようになったらバックアップをするように頼んだ。
大倉刑事と鳴海刑事は、彼らと共に行動させる。彼らがいれば即戦力だが、あまり大人数で行って北沢を刺激したくない。
そのかわり、私は捜査員から発信機と無線機を体に取り付けてもらった。これで彼らとの連携体制は万全だ。
加えて彼らに少し待ってもらってから、私は近くのセーフハウスからベルゼブルとプッシュダガーナイフを持ってきた。
ベルゼブルとは私の名付けた名前で、いわゆるリボルバー拳銃の事だった。
この銃の銃身は非常に厚く、頑丈な作りになっている。強化火薬を増量したマグナム弾の発射にも耐える優れ物で、人間用には充分な威力を持っていた。相手が『人間』ならばいいのだが……。
そして、出発の準備は整った。
私の車を染谷香が運転し、私は後部座席の下に潜り込むようにして隠れていた。少々キツイし、道交法違反だが仕方ない。
私は染谷香がエンジンをかけている時に、北沢千里との関係を聞いたのだが、彼女は答えてくれなかった。
やがて車が走り出してしばらくした時、彼女はゆっくりと口を開いた。
「彼女は……私よりもずっと、悠斗の母親にふさわしい人です」




