第2話 黒シャツ
ハルに忠告された日の夜。
僕は古いアパートのベッドに仰向けに寝転がっていた。
薄い壁の向こうからは、隣の部屋の住人が見ているらしい深夜のバラエティ番組の笑い声が、くぐもった音になって響いてくる。天井の隅には小さなシミがあって、僕は1時間以上、そのシミをぼんやりとながめていた。
『俺たちは所詮、非日常のスパイスなんだよ』
昼間の学食で聞いたハルの声が、耳の奥にこびりついて離れない。
そんなこと言われなくてもわかっているつもりだ。こんな関係になったときから痛いほど理解している。
視線を横に向けると、ハンガーに掛けられた一着の艶のある黒のリネンシャツが目に入った。
昨日、凛さんの経営するセレクトショップに顔を出した時に、彼女から渡されたものだった。
「碧斗くん、これ着てみて。」と渡された。肌触りのいいシャツだ。ささくれだった指先に引っかかってパチと音がする。やばい、持つだけで傷つけそうで気をつかう。
恐る恐るフィッティングルームに入った。思い切ってシャツを着ると、とても着心地が良くてびっくりした。意外と似合っているように思えた。しかも、アトレティコ・マドリーのシメオネ監督がよく着ている黒のシャツに似ているようだった。かっこいい。
フィッティングルームから出ると
「うん、やっぱり似合う。うちの店のサンプル品なんだけど、碧斗くんにあげる。若いんだから、もっといい服着なきゃダメだよ」
ガラス張りのエントランスの店舗で、天井から吊り下げられたペンダントライトが、木目の床に柔らかな光の円を描いていた。正面にはカウンター席があり、その前には流線型の白い椅子と丸テーブルが置いてある。そこはカフェスペースだ。
左に振り返ると店舗の外から見えるショーウィンドウがある。あと奥にもスペースがあり、そこにも服がディスプレイされている。
エントランスの横には雑貨がおしゃれに飾られている。僕のような貧乏学生には縁のないような、桁の違う値段の服やアクセサリーが並んでいる。
そこにはきっちりメイクと上品なスーツに身を包んだ凛さんが堂々とした出立ちで接客をしている。
凛さんは、僕が知っている「気さくで優しいお姉さん」ではなく「大人の女性経営者」だった。
常連らしい上品なマダムと談笑する彼女の姿を見て、僕は居心地が悪くなり、サンプル品のシャツを袋に入れてもらうと逃げるようにして帰った。
僕と凛さんは、住む世界が違いすぎる。
凛さんにとって僕は、暇つぶしの話し相手か、日常のストレスを晴らすためのペットのような存在なのだろう。
いつかあっさりと捨てられる。本気になれば、最後に傷ついてボロボロになるのは僕なのだ。
あの人はきっと「店」や「家庭」を壊したりはしない。
頭では、わかっている。「これ以上深入りしてはいけない」と僕の頭の中の良心が警告してくる。
ああ、それなのに――僕は起き上がり、ハンガーに掛かったその黒いシャツを手に取っていた。
顔を近づけると、かすかに凛さんの店の――凛さん自身の匂いがした。
その匂いを嗅いだ瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられる。ううう…。
自分から「会いたい」とメッセージを送る勇気なんてないのに、いつくるかわからない彼女からの連絡を、じっと待っている。
完全に、どうかしている。情けなくて笑えてくる。
このままじゃダメだ。スマホの電源を切って寝よう。よく寝て、明日こそ、凛さんから抜け出す方法を考えよう。
そう決心して、ベッドに放り出していたスマホに手を伸ばした、その時だった。
「今、外に出れる? 少しだけ会いたいな」
暗い部屋の中で画面がパッと明るくなり、その短いメッセージが表示された。
それを見た瞬間。僕の中で必死にブレーキをかけていた理性が、あっさりと、音を立てて吹き飛んだ。
「……っ」
考えるより先に、身体が動いていた。
財布と鍵をショルダーバッグに詰め込んで、部屋を飛び出した。ドアに鍵をかけることすらもどかしい。
底がすり減ったスニーカーをはいて、アパートの鉄階段をガンガンと鳴らして駆け下り、初夏の生ぬるい夜風の中を無我夢中で走った。
息が上がる。けど、足を止めることができなかった。
大通りに出ると、駅前の居酒屋から出てきたらしい同年代の大学生のグループが、大きな声で笑いながら歩いている。普段なら何も思わないのだが、今の僕には別の世界の光景のように感じられた。
『少しだけ会いたい』
凛さんが、そうメッセージをくれた。俺を求めてくれている。どんどん頭の中が真っ白になっていく。
ハルの忠告も、自分の情けなさも、立場の違いも、もうどうでもよかった。
一秒でも早く、あの笑顔が見たい。声が聞きたい。それだけだった。
言われた場所は、凛さんのマンションから歩いて10分ほどの距離にある、街灯の少ない公園だった。
息を切らして駆け込むと、錆びたブランコに腰掛けている見慣れたシルエットが薄明かりの街灯の下で浮かび上がっていた。
「凛さん……」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「あ、碧斗くん。ふふっ、すごい汗。走ってきてくれたの?」
その顔は、昼間の近づきがたい「経営者の顔」ではなかった。
ゆったりとした黒のノースリーブのワンピースに、薄手のリネンカーディガンを羽織っただけのラフな姿。メイクもほとんどしていないすっぴんに近い顔で、足元はペタンコのサンダルだ。
「夜の散歩用」だという。
なんだか僕だけに気を許してるようで、彼女の裏側のようで、どうしようもなくなる。
「はい……っ、遅くなってすみません」
「ううん、今来たとこ。ごめんね、こんな夜中に急に呼び出しちゃって」
凛さんはブランコから立ち上がると、持っていたビニール袋から冷たい缶コーヒーを取り出し、俺に差し出した。
「はい、お詫び」
「あ、ありがとうございます」
受け取った缶コーヒーは、全力で走って火照った手冷たくて心地よかった。
プルタブを開けて一口飲むと、砂糖の甘さが乾いた喉を潤していく。
「明日、1限から授業じゃなかった?」
「あ、いや……大丈夫です。授業なんて、いつでもサボれるんで」
「ふふ、ダメだよちゃんと行かなきゃ。親御さんに高い学費払ってもらってるんでしょ?」
「……まあ、はい」
先生や親戚のお姉さんのようなお説教だ。でも、その声は弱々しく、疲れているようにも聞こえた。
僕は缶コーヒーを両手で包み込むように持ちながら、意を決して尋ねた。
「あの……何か、あったんですか?」
俺の問いに、凛さんはふっと視線を落とし、つま先で公園の砂を軽く蹴った。
「ううん。何もないよ。……何もないんだけど、ちょっとだけ、息が詰まっちゃって。外の空気、吸いたくなったの」
息が詰まる。どうしたんだろう。僕は言葉の意味を無意識に考えた。
仕事のプレッシャーか。それとも、家にいる「旦那さん」との関係か。
彼女は絶対に、僕に家庭の愚痴や旦那さんの悪口を言わない。僕との関係はあくまで「非日常の息抜き」だろうからだ。現実の部分を見せるつもりはないのだろう。
それがわかっているから、僕も「旦那さんと何かあったんですか?」なんて聞けない。
僕は彼女を助け出すヒーローにはなれない。ただ、現実逃避のための、都合のいい人でしかない。
「……そっか。僕なんかでよければ、いつでも呼び出してください。いつでも話くらいなら聞きますので」
精一杯の強がりでそう言うと、凛さんは目を丸くして、それからふき出すように笑った。
「へー、そうなんだ。かわいいね」
「なんでもいいですよ。凛さんが楽になるなら」
半分冗談めかして、でも半分は本気で言った言葉だった。
凛さんは少しだけ笑顔で、でも少しだけ真剣な瞳で僕を見つめてきた。
「……碧斗くんは、優しいね」
そう言って、彼女がすっと手を伸ばしてきた。
ひんやりとした、柔らかい手のひらが、僕の汗ばんだ頬にそっと触れる。
夜の空気に混ざって、さっき部屋で嗅いだのと同じ香りがふわりと漂った。
その瞬間、僕の胸にぽっかりと開いていた穴が、一気に満たされていった。
ほっとするような安堵。
同時に、僕はこの人がいないと生きていけないんじゃないだろうかと、絶望のような感情が全身を覆ったように感じた。
昨日、お店で感じたソワソワする感じも、立場の違いも、もうどうでもよかった。この手が僕に触れてくれるなら、僕はどんなクズにだってなれる。
僕はたまらず、頬に触れていた彼女の細い手首を掴んだ。
「あっ……ちょっと、碧斗くん……?」
驚いたような声が耳元で聞こえる。でも、離すことなんてできなかった。
僕は彼女の手首を引くと同時に、そのまま自分の胸へ引き寄せて、凛さんを強く抱きしめた。
「少しだけ、このままで……。お願いです、凛さん……」
腕の中に収まる彼女の身体は、驚くほど華奢で、柔らかくて、温かかった。
首筋に顔を埋めると、より一層彼女の匂いが感じられた。
「……もう、しょうがないなぁ。汗だくじゃない」
口では呆れたように言いながらも、凛さんは僕を突き飛ばしはしなかった。それどころか、背中にそっと腕を回し、子供をあやすようにポンポンと軽く叩いてくれる。
優しいリズムだ。
僕の背中に回された彼女の左手――。
肩甲骨のあたりに、銀色の指輪が当たって冷たい。
『この人は結婚している人だ』
現実が、指輪の冷たくて硬い感触から伝わってくる。普通の男なら、ここで嫉妬するか、目を覚ますのかもしれない。
でも、僕は違う。
誰かのものだっていい。いつか飽きられて捨てられる存在でもいい。
いや、むしろ――彼女が僕のすべてを奪って、めちゃくちゃにして、最後にゴミみたいに捨ててくれるなら、それすらも幸せなんじゃないかと思えてくる。
「……会いたかった。今日、ずっと凛さんのこと考えてて……」
「ん。私も会いたかったよ」
頭の上から降ってくる凛さんの声。背中を撫でる優しい手。
もう引き返せない。ハルが言うように、「大人の遊び」だったとしても、僕は自ら進んでその泥沼に頭まで浸かる。
この温もりがなきゃ明日を生きることはできない。僕は谷川凛という人に依存しきっていた。




