第1話 将来の夢
「大人の女性は、嘘をつくときほど美しく微笑む」
なんて、こすり過ぎたテンプレみたいな言葉は古い映画の中だけの話、だと思っていた。
しかし、薄暗いバーのカウンターでアンバー色のグラスを傾ける彼女を見ると、その言葉が嘘ではない、実際にあることを思い知らされる。
「ねぇ、ちゃんと聞いてるの?」と怪訝な顔で目にかかったウエーブの長い髪をゆっくり払いながら彼女は言った。
「あっ、はい。聞いてますよ。もちろんですよ」僕はあわてて返事をする。
「ふふ、え。なにそれ。いつもボーッとしてるじゃない」
深夜。日付がかわったばかりだ。薄暗いバーのカウンターに座ると、街の喧騒から切り離される。
彼女が身を乗り出すたびに、ふわりと甘い香水の香りが漂う。その香りが僕の思考を簡単にフリーズさせてしまう。
グラスの縁をなぞる、薄明りに光るネイルが施された細い指先。一つ一つの指先の動きが、芸術作品みたいに洗練されている。
僕は川上碧斗、21歳。将来の夢は、何だろう。みんながするように大手企業に面接を受けて、受かったところに就職して、定年までそこにいれたらいいなって思っているだけ。自分のキャリアプランとか全く考えていない。誇れるような特技を持っているわけでもないし、ただのどこにでもいる大学生だ。
彼女は谷川凛、33歳。駅前の超おしゃれなセレクトショップ兼カフェを経営する美しい女性である。そして、左手の薬指には銀色の指輪が光っている。誰かの奥さんだ。
「ねぇ、どうしたの?怖い顔して」
「いや、何でもないですよ。ただ、綺麗だなって思って」
「へぇ、そうなんだ。適当なことを言ってごまかすんだ」
谷川凛はいじわるっぽい笑みを浮かべて僕の髪を優しくなでる。ひんやりとした手の平の感触で胸が張り裂けそうになる。また、彼女の声は心に響いて、気持ちよく感じる。彼女の一挙手一投足の動きが、僕の心臓を鷲掴みにする。
僕は彼女のこの大人の余裕というのか、大人の女性という雰囲気が好きだ。
就活とか、卒業後の進路とか、そんな面倒なことを忘れさせてくれる。
谷川凛といる時だけ、僕は何も考えない無責任な人間でいられる。何もかもが嫌になって、気が付くと「リンさん」とつぶやいている。やばい人間だと思う。嫌なことがあるとリンさんのところに行きたくなる。
リンさんにとって僕はたぶん日常生活の捌け口なのかなとは思う。つまり、都合のいい男なのだろう。親友のハルに言わせれば何というだろう。
「そんなリスクのある遊びはやめとけ」って言って呆れられるだろうか。
でも、それでいい。
未来の約束なんてどうでもいい。そんなの信用する方が馬鹿げている。
それに、今が良ければ、もう明日なんて来なくていい。
いつか終わりがくるんだと思うけど、そんなことはわかっているけど、今はただリンさんの体温を感じてリンさんの中にうずもれていきたい。
バーを出ると、初夏の生ぬるい夜風が火照った頬を撫でた。
「じゃあね、アオトくん。またね」
ひらひらと細い手を振り、リンさんはあらかじめ呼んでいたタクシーに乗り込んでいく。帰る場所は、僕の知らないマンション。彼女の帰りを待つ夫がいる場所だ。
遠ざかる赤いテールランプに、見えているのかわからないが手を振った。見送った僕の手には、ついさっきまで触れていた彼女の手のぬくもりが、残っていた。
翌日の昼下がり。 大学の学生食堂は、安っぽい揚げ物の油の匂いと、無意味にでかい学生たちの笑い声で満ちていた。昨夜の空間とは、まるで違う世界だった。
「でさ、昨日は結局、例の『お姉さん』の家にお泊まりしてきたわけよ。旦那が急に出張になったとかでさ」
向かいの席でカレーを頬張りながら、親友のハルが自慢げにニヤリと笑った。
ハル――本名、田中陽琉。金髪のメッシュに整った顔立ち、コミュ力お化けの陽キャである。そして、同年代の可愛い彼女がいながら、36歳の既婚女性と火遊びを楽しんでいる。
「お前、マジでいつか刺されるぞ。彼女にも、その旦那にも」
「平気だよ、平気。あくまで『大人の遊び』だからね。あっちだって家庭を壊す気は毛頭ないし、俺も本気になるつもりはない。ウィンウィンの関係ってやつだよ。やっぱ大人の女は最高だわ、奢ってくれるし、若い子みたいに面倒なワガママ言わないし」
ケラケラと笑うハルを見て、僕は曖昧に相槌を打つ。
こいつは本当に、年上との不倫をスリルのあるゲームとしてコントロールできていると信じているのだ。
「……てかさ、アオト。お前の方こそどうなのよ。リンさんだっけ?駅前のおしゃれカフェのオーナー」
ふいに矛先がこちらに向き、俺は持っていたプラスチックのコップから手を離し、髪の毛をさわった。
「どうって……別に。たまに一緒に飲んだり、店を手伝ったりするくらいだけど」
「嘘つけ。お前、リンさんの話になると無意識に目がマジになるんだよ」
ハルはスプーンを置き、ふざけた空気をスッと消して俺をまっすぐに見据えた。
「俺が言うのもなんだけどさ、お前、あの人にはこれ以上深入りすんなよ」
「……なんでだよ」
「俺と違って、お前は不器用だからだよ。俺みたいに『都合のいい関係』を割り切って楽しめるタイプじゃないだろ?あの人、めちゃくちゃ美人だし色気ヤバいけど、左手にガッツリ指輪してんじゃん。本気になったら、一番傷つくのはお前だぞ」
正論だった。反論の余地がないほど、ハルの言う通りだ。
僕にはハルみたいな器用さも、ズルさもない。ゲームとして割り切るどころか、すでにリンさんという存在なしでは生きていけない気持ちだった。
「わかってるよ。俺だって、そんな本気でどうにかしようとか思ってない」
嘘だった。どうにかできるなら、すべてを奪ってしまいたいとすら思っている。
ハルは呆れたように小さくため息をつき、「ならいいけど」と再びカレーに向き直った。
「まぁ、大人の女はしたたかだからな。家庭に傷がつきそうになったり、都合が悪くなったりすれば、俺たちガキなんていつでもあっさり切り捨てる。俺たちは所詮、非日常のスパイスなんだよ。それだけは覚えとけ」
ハルの言葉は、妙に重く、僕の胸に響いた。




