サビの匂いと石鹸の香り
深夜の公園はしずくが一粒落ちても聞こえるくらい静かだった。また、昼間と違った独特な冷たい空気が沈殿していた。
塗装のはげた古いブランコから鉄のサビの匂いと、夜露に濡れた土の匂いが漂ってくる。
この世界のへき地で、僕は凛さんをギュッと抱きしめた。
腕の中にすっぽりと収まってしまう華奢な肩。夜の空気に晒されていたせいか、彼女の体は僕の想像よりも冷たかった。
等間隔に並んだオレンジ色の街灯の光が、彼女の白い首筋や、柔らかな髪を淡く反射している。顔を近づけると、首筋からいつもの香水とは違う石鹸の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
街灯の光に反射した肌。首筋から香る凛さんの香り。
視覚、触覚、嗅覚。凛さんからの刺激が僕の五感をしびれさせる。僕の人生は、この瞬間のためにあったのではないかと思えた。
背中に回された彼女の左手の薬指にはめられた硬い金属の感触が、シャツ越しに僕の肩甲骨のあたりに触れているのがわかった。
普段なら、それを見るだけで、劣等感と嫉妬に苛まれていた。人の妻という証のようなものか。
しかし、今は違った。
背中に触れる指輪の感触は、まったく気にならなかった。むしろ、その金属の感触すら、今の凛さんを形作る一部として、僕の身体の中にゆっくりと溶け込んでいくような錯覚に陥っていた。
彼女が抱えている息苦しさも、孤独も、その指輪の意味も、すべて僕が奪い去ってしまいたかった。
ずっとこのまま抱きしめていたかった。
明日は明るい日か。明日なんて来なくていいのにな。ずっと今日みたいな夜が続けばいいのにな。
世界から切り離されて、ずっとこの夜に取り残されてしまえばいいと、本気で願っていた。
『――ヴヴッ、ヴヴヴッ』
静かな公園に、突然、無機質な振動音が響いた。
凛さんが羽織っているカーディガンのポケットからだった。
彼女の身体がビクッと硬直した。
何かの解除音のように世界が動き始めたように感じた。
ついさっきまで、僕と凛さんの二人しかこの世にいないような気がしていたのに。静かだと思っていた公園の茂みからコオロギの「コロコロ…」「リーリー…」という声がやけに鮮明に聞こえ始めた。
いつの間にか月も出ていたことに気がついた。
「……ごめん」
短く呟き、彼女は僕の胸に両手を当てて、そっと押し返した。
強い力ではなかったけれど、明確な意志を感じた。
押し返されるままに腕の力を緩めると、離れた瞬間、凛さんと僕の隙間から冷たい夜風が入り込んできた。ついさっきまで感じていた彼女の体温が消えて、急に肌寒くなる。腕の中では、夜の風がゆっくり流れた。
凛さんはポケットからスマホを取り出した。
液晶の青白い光が、彼女の横顔を下から照らす。一瞬だけ見えた画面には、夫であろう名前の文字が表示されていた。
頭の中から、一気に血の気が引いていくのがわかった。呼吸が浅くなり、視界の端がぐらりと揺れた。
「もしもし……うん」
電話に出た凛さんは、僕から数歩離れて背中を向けた。距離にしてわずか2〜3メートルほどの空間が、僕と彼女の間に何光年とも思えるような距離に感じた。
「ごめんね、ちょっと夜風に当たりたくて、散歩に出てた。……ううん、大丈夫。今から帰るよ」
公園に響く彼女の声は、僕の心をさらに深くえぐった。
彼女の声は、僕が知っている気さくでお洒落なセレクトショップのオーナーでも、さっきまで僕の腕の中で見せていた女性でもなかった。
穏やかで、少しだけ面倒くさそうで、でも相手に対する安心感が滲んでいる声。
無理に飾る必要のない、ありのままの口調。
一緒に生活する人へのしゃべり方だった。
足元の砂利をスニーカーで無意識に踏みしめる。ジャリ、という乾いた音が鼓膜を震わせる。
僕がどれだけ凛さんに寄り添おうと、どれだけ背伸びをして、凛さんからもらったシャツを着ようと、どれだけ強く抱きしめても、彼女は僕のところにはこない。帰りを待ってくれている人がいる。心配してくれる人がいるのだ。
どうしようもないほどリアルに、冷酷な現実を目の前に突きつけられた。自分ではどうしようもなかった。
数十秒の短い通話を終え、凛さんがこちらを振り返る。スマホはすでにポケットの中にしまわれていた。
「……ごめんね、碧斗くん。心配して起きてきちゃったみたいで。私、もう帰らなきゃ」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女の顔には、もう先ほどまでの、僕を必要とする熱というか、すがるような気持ちみたいなものが薄れている様子だった。
「……はい。気をつけて」
なんとか声を出した。喉がカラカラに乾いていて、ひどく掠れた音になった。引き止める言葉は、何一つ浮かんでこなかった。いや、引き止める力なんて、僕にはないのだ。
この関係は、本当に相手に委ねられている。彼女が僕を必要とすれば僕は呼ばれ、満たされれば、僕は不要になる。捨てられる時には、本当に一瞬で捨てられるのだということを、感じさせられた。
凛さんは「ありがとう」と小さく笑い、サンダルの音を響かせて公園の出口へと歩き出した。
僕はその後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。彼女の背中が街灯の光から外れ、暗闇に溶けて見えなくなるまで、僕は一歩も動くことができなかった。
遠くでスポーツカーの走る音が聞こえる。
一人だけになった公園で、僕はゆっくりと息を吐き出した。
普通だったら、ここで目を覚ますのだろう。好きな人に夫がいるということに嫌気がさして、都合よく扱われているだろうことに気づいて、自分がこれ以上傷つかないように、もう彼女には二度と会わないようにするだろう。傷が浅いうちに、適当な理由をつけて日常に戻る。
それが正しい。わかっている。でも、僕は…
自分の腕を強く掴んだ。
シャツにはまだ、彼女の香りがうっすら残っている。抱きしめた時の凛さんの体の柔らかさも、体温も、背中をなぞった指先の感触も、体中にこびりついて離れない。
他人から見れば惨めなのだろう。大人の遊びに付き合わされているだけの、哀れな大学生にしか見えないのだろう。でも、それでもいい。いつか捨てられてもいい。
僕は服に残った香りを深く吸い込んだ。もう引き返すことはできない。自分でもはっきりとわかっていた。




