表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
46/50

第46話 魔族領観光

四天王試験を終え、逃げ回っただけなのに優勝してしまった伊織。


心も体もぐったりな中、今度は魔族領を案内されることに。


魔王城、温泉街、巨大市場。


本来なら「怖い」「帰りたい」となるはずの場所ばかりですが、実際に見てみると、どこも意外なほど整っていて快適でした。


静かで、ご飯がおいしくて、温泉もある。


伊織のスローライフ理想条件に、魔族領がどんどん近づいていきます。

第一回海王様御回避術試験。

そんな名前のよく分からない模擬戦大会が終わった翌朝。

私は、魔王城の客室で目を覚ました。

体が痛い。

足が重い。

尻尾もなんとなく疲れている。

昨日、私は訓練場をひたすら逃げ回った。

本当に逃げ回っただけだった。

なのに、なぜか優勝した。

しかも枕元には、金色の海老メダルが置かれていた。

「いらない……」

私は布団の中で小さく呟いた。

優勝者、海老崎伊織。

競技名、海王様御回避術試験。

何一つ納得できない。

私は戦っていない。

逃げた。

叫んだ。

転びかけた。

尻尾がばたばたした。

それだけである。

なのに魔族たちは、私が四天王グランを傷つけずに制したと感動していた。

制していない。

事故である。

この世界は、私の事故をすぐ伝説にする。

よくない。

とてもよくない。

私は布団から起き上がった。

窓の外には、魔族領の朝が広がっている。

薄紫の空。

黒い山。

城下町の煙突から上がる白い煙。

遠くでは市場の準備をしている魔族たちが見えた。

魔王城なのに、朝は妙に穏やかだった。

そして、客室は静かだった。

私の家の前みたいに観光客が並んでいない。

サイン会の整理券も配られていない。

海王様見学ツアーもない。

それだけで、だいぶ心が落ち着く。

「……ここ、静かなんだよなぁ」

私は自分で言ってから、慌てて首を振った。

駄目だ。

魔王城を気に入ってはいけない。

ここは魔王城。

怖い場所。

帰るべき場所ではない。

私は海辺でスローライフをしたいのだ。

魔王城でスローライフは、なんか違う。

いや、静かでご飯がおいしくてベッドがふかふかな時点で、かなり危ない。

私は顔を洗い、身支度を整えて食堂へ向かった。

食堂には、すでにみんなが集まっていた。

ミナは黒蜜菓子を食べている。

ルナは人魚用の水椅子のようなものに座っている。

和也はまだ少し警戒した顔。

アリサは本を読んでいる。

大輔は魔族商人と何か話している。

レオンは地図に印をつけている。

ベルゼリアは穏やかにお茶を飲んでいた。

そしてグランは、壁際に直立していた。

昨日、私に膝をつかされたことになっている四天王である。

本人はものすごく満足そうだった。

本当に困る。

「おはようございます、伊織様」

ベルゼリアが微笑む。

「おはようございます」

「体調はいかがですか?」

「筋肉痛です」

「申し訳ありません」

ベルゼリアは本気で申し訳なさそうに眉を下げた。

「昨日は、魔族たちの願いを聞き入れてくださり、ありがとうございました」

「逃げただけです」

「はい。傷つけず、勝利を誇らず、ただ流れを見極めて回避する御姿。多くの者が学びを得ました」

「学ばないでほしい」

グランが深く頷く。

「私も多くを学びました」

「グランさんは忘れてください」

「忘れられません」

「忘れてください」

「生涯の宝です」

駄目だった。

この人、真面目な顔でこういうことを言うから強い。

物理的にも強いけれど、精神的にも強い。

ミナが笑いながら言う。

「伊織ちゃん、魔王軍にも弟子が増えたね」

「増えてない」

和也がぴくりと反応した。

「海王様の一番弟子は俺です」

「そこ張り合わないで」

グランが静かに和也を見る。

「勇者殿。海王様の御回避術においては、私も昨日から学ぶ者だ」

「では同門ですね」

「そうなる」

「ならば、互いに精進しましょう」

「望むところだ」

二人はなぜか固い握手を交わした。

やめてほしい。

私の知らないところで、海王流の支部が増えている気がする。

「海王流じゃないからね」

私は念のため言った。

和也とグランは同時に頷いた。

「もちろんです」

「海王様は名を求めぬ方ですので」

通じていない。

朝食を食べながら、ベルゼリアが言った。

「本日は、伊織様に魔族領を少しご案内したいと思っております」

私は焼き魚を口に運ぶ手を止めた。

「案内?」

「はい。せっかく魔王城までお越しいただきましたので、魔族領の暮らしを見ていただければと」

「帰る予定だったんですけど」

「もちろん、無理にとは申しません」

ベルゼリアは丁寧に言う。

「ですが、昨日の協定を進めるうえでも、魔族領のことを少し知っていただけると助かります」

協定。

海王様友好協定。

正式名称は違うけれど、もう通称が広がり始めているらしい。

嫌だ。

とても嫌だ。

でも、魔族領の暮らしを知ること自体は悪くない。

ネブラ村も意外と普通だった。

魔王城も意外と快適だった。

魔族領の市場や温泉街も、少し気にならないわけではない。

いや。

気になる。

かなり気になる。

特に温泉。

「温泉街もあるんでしたっけ?」

私が聞くと、ベルゼリアの顔が明るくなった。

「はい。黒曜石の湯という温泉街があります」

「黒曜石の湯……」

名前が強い。

でも良さそう。

すごく良さそう。

ミナがにやっと笑う。

「伊織ちゃん、もう行く気になってる」

「なってない」

「温泉って言った瞬間、目が変わったよ」

「変わってない」

ルナも嬉しそうに言う。

「海王様、魔族領の温泉もきっと素晴らしいですよ!」

「海王様じゃないけど温泉は気になる」

アリサが本から顔を上げた。

「魔族領の温泉は、地脈魔力を含む可能性があります。成分調査が必要ですね」

「普通に入って」

大輔も反応する。

「温泉街の運営方式も興味深いですね。人類側の海王温泉との比較ができます」

「比較しなくていい」

レオンは地図を見ながら言う。

「魔王城、温泉街、巨大市場。この三点を見れば、魔族領の統治、生活、経済の概要が掴める」

「観光じゃなくなってきた」

「視察だ」

「私は観光の方がいい」

ベルゼリアは小さく笑った。

「では、観光ということで」

その言い方は優しかった。

魔王なのに、私の面倒くさがりを少し分かってくれている気がする。

少なくとも、無理に政治視察と言わないところはありがたい。

「じゃあ、少しだけ」

私はそう言った。

「魔王城、温泉街、市場を見たら帰ります」

「承知いたしました」

ベルゼリアは嬉しそうに頷いた。

こうして。

私は魔族領観光をすることになった。

また、行きたくないのに少し楽しみになっている自分がいる。

悔しい。

最初に案内されたのは、魔王城だった。

昨日も廊下や玉座の間、執務室は見たけれど、城全体を回ったわけではない。

ベルゼリアは自ら案内役を買って出た。

魔王自ら城を案内する。

普通に考えたらすごいことなのだろう。

私はあまり考えないようにした。

考えると疲れる。

「こちらが政務区画です」

ベルゼリアが説明する。

「魔王領の税、治安、街道整備、災害対策などを扱っています」

広い部屋の中では、魔族の文官たちが大量の書類と向き合っていた。

羽のある魔族が空中の棚から資料を取り、角のある魔族が計算盤のような道具を弾き、狐のような耳を持つ魔族が地図に印をつけている。

みんな忙しそうだった。

「魔王城って、もっと悪の作戦会議ばかりしてるのかと」

私が呟くと、ベルゼリアは苦笑した。

「悪の作戦会議は、ほとんどありませんね」

「ほとんど」

「一応、軍議はありますので」

「それはそう」

文官の一人が私たちに気付き、慌てて立ち上がった。

「ベルゼリア陛下! 海王様!」

「仕事中に立たなくて大丈夫です」

ベルゼリアがそう言うと、文官たちは少し安心したように席へ戻った。

でも、ちらちら私を見ている。

視線が痛い。

「海王様だ……」

「本物だ……」

「昨日の御回避術試験、すごかったらしいぞ」

「資料整理が終わったら記録を見たい」

広がっている。

昨日の逃走劇が、もう城内に広がっている。

嫌すぎる。

「記録しないでほしかった……」

アリサが目を逸らした。

「研究資料としては貴重なので」

「アリサ?」

「外部公開はまだしていません」

「まだって言わないで」

次に案内されたのは、魔王城の書庫だった。

巨大だった。

本棚が天井まで伸びている。

魔法の浮遊棚がゆっくり動き、青い光が資料を照らしている。

空気には古い紙とインクの匂い。

静か。

とても静か。

私は思わず息を呑んだ。

「すごい……」

アリサは完全に目を輝かせていた。

「ここに住めます」

「住まないで」

「いえ、本気で」

「戻ってきて」

ベルゼリアは微笑む。

「魔族領の歴史、魔法、地理、海王伝承に関する資料を収めています」

「海王伝承もあるんだ」

「はい。専用区画があります」

「専用」

嫌な予感。

ベルゼリアに案内されて進むと、奥の一角に特別な棚があった。

そこには、海王伝承関連の本がずらりと並んでいた。

写本。

絵巻。

石板の写し。

子供向けの絵本。

詩集。

劇の台本。

そして、なぜか。

『海王様語録 決定版』

という本があった。

「なにこれ」

私は震える声で聞いた。

ベルゼリアは少し恥ずかしそうに答える。

「魔族領で広く読まれている書物です」

「語録?」

「はい。『うるさい』『知らない』『眠いから帰る』『お礼はいいから静かにして』など、海王様のお言葉をまとめたものです」

「まとめないで」

ミナが本を手に取って、吹き出した。

「伊織ちゃんの名言集みたい」

「私のじゃない」

「でも似てる」

「似てるけど違う!」

ルナは感動している。

「素晴らしい書物です……人魚王国にも翻訳版を置きたいですね」

「置かないで」

大輔が興味深そうに言う。

「語録の販売数は?」

ベルゼリアが答えた。

「魔族領ではかなり安定して売れています」

「大輔、食いつかないで」

「いえ、出版市場の確認です」

「確認しなくていい」

レオンは冷静に言う。

「思想書として機能しているな」

「思想にしないで」

和也は真剣に本を見ている。

「海王様のお言葉……俺も学ぶべきか」

「学ばないで」

私の言葉ではない。

いや、似ているけど。

似ているのが腹立たしい。

魔王城の案内は、その後も続いた。

中庭。

訓練場。

食料庫。

治療院。

魔法研究室。

どこも思っていたよりきちんとしていた。

治療院では、怪我をした魔族兵だけでなく、城下町の住民も治療を受けていた。

魔法研究室では、武器ではなく農作物の育成魔法について研究していた。

食料庫は備蓄が整理され、災害時には城下町へ配る仕組みになっているらしい。

「魔王城って、ちゃんと行政してるんだね」

私が言うと、ベルゼリアは少し笑った。

「魔王ですから」

「魔王って、もっと世界征服するものかと」

「した方がよいですか?」

「しないで」

「しません」

即答だった。

ちょっと安心した。

午前の魔王城見学が終わる頃には、私はかなり疲れていた。

でも、印象は変わった。

魔王城は怖いだけの場所ではない。

働く人がいて、治療する人がいて、研究する人がいて、管理する人がいる。

城というより、一つの大きな役所みたいだった。

役所にしては、海王グッズが多すぎるけど。

次に向かったのは、黒曜石の湯。

魔族領の温泉街だった。

魔王城から馬車で少し下った谷間に、その街はあった。

黒い岩肌から湯気が立ちのぼり、川のように温泉が流れている。

道は黒曜石のような艶のある石で舗装され、夜光花があちこちに植えられていた。

昼でも淡く光る花が、湯気の中で揺れている。

湯宿が並び、足湯があり、土産物屋があり、温泉まんじゅうのようなものを売っている屋台もある。

「温泉街だ……」

私は思わず呟いた。

完全に温泉街だった。

しかも、かなり良さそう。

静か。

落ち着いている。

観光客はいるけれど、騒がしくない。

魔族たちは湯気の中でのんびり歩き、足湯に入り、お茶を飲んでいる。

私の海王温泉より、ずっと落ち着いた雰囲気だ。

悔しい。

とても悔しい。

「伊織ちゃん、目が本気」

ミナが笑う。

「だって、良さそう」

「住めそう?」

「住め……いや、住まない」

危ない。

今、言いかけた。

ベルゼリアが嬉しそうに案内する。

「黒曜石の湯は、魔族領でも古くからある温泉街です。地脈魔力を含んだ湯で、疲労回復に良いとされています」

「疲労回復」

昨日の逃げ回りで疲れた私に刺さる言葉だった。

グランが真面目に言う。

「御回避術試験後のお身体にも良いかと」

「試験は忘れて」

「忘れられません」

もうこの会話は何度目だろう。

温泉街の中心には、大きな共同浴場があった。

黒い石造りの建物。

入口には湯気が立ちのぼっている。

中に入ると、受付の魔族が慌てて立ち上がった。

「ベルゼリア陛下! 海王様!」

「普通にしてください」

ベルゼリアが言う。

「本日は、伊織様に温泉を見ていただくだけです」

見ていただくだけ。

そう言われた。

でも、ここまで来て入らないという選択肢はあるだろうか。

いや、ない。

温泉は入るものだ。

私は気付けば言っていた。

「……入ってもいいですか?」

ベルゼリアの顔がぱっと明るくなった。

「もちろんです!」

ミナがにやにやする。

「やっぱり」

「うるさい」

ルナも嬉しそうだ。

「海王様と魔族領の温泉……素晴らしい組み合わせです」

「ただ入るだけだから」

アリサは成分調査用の道具を取り出した。

「入浴前後の体調変化を記録しても」

「駄目」

「湯だけ採取します」

「それならいい」

大輔は受付周りを見ている。

「運営がしっかりしていますね。入浴料、回数券、土産物、休憩所。参考になります」

「海王温泉に輸入しないで」

「検討だけ」

「検討もしないで」

レオンは温泉街の配置を見ている。

「観光と治療を兼ねた施設か。魔族領の安定に寄与しているな」

「温泉くらい普通に楽しんで」

「楽しんでいる」

本当だろうか。

私たちは女性用の湯へ案内された。

もちろん、和也やグランたちは外で待機である。

ベルゼリア、ミナ、ルナ、アリサ、そして私。

魔王と一緒に温泉に入る。

これもまた人生で想定していなかった出来事だった。

浴場は広かった。

黒い石の露天風呂。

湯は少し青みがかっていて、湯気がふんわり立ちのぼる。

周囲には夜光花が咲き、湯面に光が映っている。

空を見上げると、魔族領の淡い紫色の空が広がっていた。

私は湯に足を入れた。

ちょうどいい熱さ。

「……良い」

思わず声が出た。

肩まで浸かる。

体の疲れがじわっと溶けていく。

昨日走り回った足も、重かった尻尾も、全部ゆるんでいく。

「良い……」

二回言ってしまった。

ミナが隣で笑う。

「伊織ちゃん、とろけてる」

「これは良い」

「海王温泉とどっちが良い?」

「……悔しいけど、かなり良い勝負」

ベルゼリアが嬉しそうに微笑む。

「気に入っていただけて、何よりです」

「これは気に入ります」

素直に認めるしかなかった。

黒曜石の湯、すごく良い。

静かで、湯質がよくて、景色も綺麗。

しかも、今のところ誰もサインを求めてこない。

完璧に近い。

ルナは湯に浸かりながら、うっとりしていた。

「海の温泉とはまた違った良さがありますね」

「そうだね」

アリサは湯を小瓶に採取している。

「地脈魔力と鉱物成分のバランスが良いです。疲労回復効果は本物かもしれません」

「調べながらでもいいから、ちゃんと入って」

「入っています」

ベルゼリアは静かに湯に浸かっていた。

魔王なのに、温泉に入る姿は普通だった。

少し肩の力が抜けているように見える。

私はそれを見て言った。

「ベルゼリアさん、温泉入るとちょっと顔が楽ですね」

ベルゼリアは驚いたように私を見る。

「そうでしょうか」

「うん。普段、力入ってるから」

「……魔王ですので」

「魔王でも温泉では休んだ方がいいよ」

ベルゼリアは少しだけ目を伏せた。

そして、柔らかく笑った。

「伊織様は、本当に休息を大切にされるのですね」

「大切だよ」

これは譲れない。

ご飯。

温泉。

睡眠。

この三つは大事だ。

世界平和より身近だけど、たぶん世界平和の土台でもある。

寝不足の人はだいたい判断を間違える。

たぶん。

ベルゼリアは湯面を見つめながら言った。

「私も、もっと休むことを覚えた方がよいのかもしれません」

「そうしてください」

「はい」

珍しく話が通じた。

魔王に休息をすすめるのは変な感じだけど、悪いことではない。

温泉から上がった後、休憩所で冷たい果実水を飲んだ。

これもおいしかった。

黒蜜饅頭のような温泉菓子も出た。

これもおいしい。

「ここ、かなり強い……」

私は小声で呟いた。

ミナが笑う。

「伊織ちゃん、本気で住みたくなってない?」

「なってない」

「本当に?」

「……ちょっとだけ」

「なってるじゃん」

悔しい。

黒曜石の湯、かなり住みたい。

静かだし、湯はいいし、菓子もうまい。

私の理想に近い。

ただし、魔族領である。

そこだけが問題だ。

温泉街の後は、巨大市場へ向かった。

魔王城の城下町にある、魔族領最大級の市場らしい。

これがまた、すごかった。

広い。

とにかく広い。

屋根付きの大通りに、店がずらりと並んでいる。

魚、肉、野菜、果物、茸、香辛料、布、金属細工、魔道具、本、菓子、薬草、鉱石、装飾品。

見たことのないものが山ほどある。

魔族だけでなく、獣人型の商人や、小柄な妖精のような種族もいた。

声が飛び交う。

でも、騒がしすぎない。

市場なのに秩序がある。

「すごい……」

私は思わず立ち止まった。

大輔の目が完全に商人になっていた。

「これは想像以上ですね」

「大輔、顔が仕事」

「失礼しました。ただ、この市場は非常に整っています。流通量、品目の多様性、価格管理、品質表示……かなり高度です」

「よく分からないけどすごいんだね」

「はい。かなりすごいです」

ベルゼリアは少し誇らしそうに言う。

「この市場は、魔族領各地の産物が集まります。民の暮らしを支える場所です」

「本当に大きい」

ミナは魚屋へ走っていった。

「伊織ちゃん、この魚見て! 青い!」

「青いね」

「焼いたら何色になるんだろ」

「気になる」

ルナは海産物の店に興味津々だった。

「魔族領の海の幸……人魚王国とは違う種類が多いですね」

アリサは魔道具店の前から動かない。

「この小型冷却箱、保存技術として優秀です。大輔さん、これ輸送に使えますよ」

大輔がすぐ反応する。

「見せてください」

二人が商談を始めた。

止める気力はない。

レオンは市場の人の流れを見ている。

「混雑しているが、動線が整理されている。警備も目立たず配置されている」

「レオン、観光してる?」

「している」

「ほんとかなぁ」

和也は少し困惑しながら市場を見ていた。

「魔族領に、これほど豊かな市場があるとは……」

「人類側と変わらない?」

「いや、場所によっては人類側より整っている」

「だよね」

それは私も感じていた。

この市場はすごい。

人類側の王都を私はあまり知らないけれど、少なくとも私の村の市場よりずっと整っている。

いや、私の村は急発展しすぎて混沌としているから比べてはいけないかもしれない。

市場を歩いていると、小さな屋台から良い匂いがした。

焼き菓子の匂い。

私は足を止めた。

ミナも止まった。

「伊織ちゃん」

「うん」

「買おう」

「買おう」

屋台には、黒い皮に白い餡のようなものが入った菓子が並んでいた。

店主の魔族が私を見て、目を見開く。

「海王様……!」

「普通に売ってください」

「は、はい!」

店主は緊張しながら菓子を包んでくれた。

私は代金を払おうとする。

すると店主は慌てた。

「い、いえ! 海王様から代金など!」

「払います」

「ですが!」

「払います」

私は強めに言った。

店主は震えながら頷き、代金を受け取った。

そして感動していた。

「海王様が、正規の代金を……!」

「普通です」

「商いの尊さを示してくださった……!」

「普通に買っただけです」

周囲の商人たちがざわめいた。

「海王様は代金を踏み倒さない」

「当然のことを尊ばれる」

「商売人の味方だ」

また変な伝説が生まれた。

大輔が少し笑っている。

「商人としては、良い姿勢です」

「大輔まで」

「代金を払うのは大事です」

「それはそう」

私は菓子を食べた。

おいしい。

外はもちもちで、中は甘い。

少し温かい。

「おいしい」

店主が泣きそうになった。

「ありがとうございます!」

重い。

でもおいしい。

市場は楽しかった。

悔しいけれど、かなり楽しかった。

見たことのない食材。

静かだけど活気ある店。

礼儀正しい商人たち。

美味しい屋台。

珍しい魔道具。

そして、押し寄せすぎない客。

人類側の観光地より、私に合っている気がする。

「まずい……」

私は呟いた。

ミナが聞く。

「何が?」

「かなり楽しい」

「いいじゃん」

「よくない」

「なんで?」

「住みたくなる」

言った。

言ってしまった。

その瞬間、空気が止まった。

ベルゼリアが固まる。

グランが固まる。

ヴァルガが固まる。

ルナが固まる。

和也も固まる。

大輔とアリサとレオンもこちらを見た。

ミナだけが笑った。

「あ、言っちゃった」

私は自分の口を押さえた。

遅い。

完全に遅い。

ベルゼリアの目が輝き始めた。

「伊織様……今、住みたくなると……?」

「違います」

「違うのですか?」

「いや、ちょっと思っただけで」

「思ってくださったのですね」

「重く受け取らないで」

グランが深く頭を下げる。

「魔族領一同、これ以上ない誉れです」

「誉れにしないで」

ヴァルガも感動している。

「ただちに魔王城に長期滞在用の区画を」

「作らないで!」

ベルゼリアが真剣に考え始める。

「伊織様専用の静養邸を黒曜石の湯に……」

「作らない!」

大輔が小声で言う。

「魔族領別荘計画、再浮上ですね」

「沈めて!」

アリサが頷く。

「定期滞在なら研究も進みます」

「進めない!」

レオンが冷静に言う。

「政治的には大きな意味を持つ」

「持たせない!」

ルナは少し慌てている。

「海王様、人魚王国にも温泉を整備いたしますので!」

「競わないで!」

和也が真剣に言う。

「海王様が魔族領に滞在するなら、俺も護衛として」

「滞在しない!」

ミナは笑いすぎて涙を浮かべていた。

「伊織ちゃん、一言で全員動かすのすごいね」

「動かしたくない!」

私は必死に否定した。

しかし、もう遅かった。

市場の商人たちもざわめいている。

「海王様が魔族領を気に入られたらしい」

「住みたくなると仰ったぞ」

「黒曜石の湯に別邸か?」

「海王様歓迎商店街を作るべきでは」

やめて。

本当にやめて。

私はただ、ちょっと住みたくなるくらい良い場所だと思っただけなのに。

どうしてすぐ建設計画になるのか。

魔族も人類も、そこは変わらないらしい。

夕方。

魔王城へ戻る馬車の中で、私はぐったりしていた。

魔王城。

温泉街。

巨大市場。

全部良かった。

悔しいけれど、良かった。

特に黒曜石の湯はかなり良かった。

市場のお菓子も美味しかった。

魔王城の寝具も良い。

静か。

快適。

礼儀正しい。

食べ物がおいしい。

温泉がある。

「条件だけなら、かなり理想に近い……」

私はぼそっと呟いた。

ミナがにやにやする。

「伊織ちゃん、もう半分住む気じゃん」

「住まない」

「でも迷ってる」

「迷ってない」

「本当に?」

「……ちょっとだけ」

「ほら」

私は窓の外を見た。

魔族領の夕暮れは綺麗だった。

黒い山々が紫色の光に染まり、城下町には灯りがともり始めている。

怖いと思っていた場所に、普通の暮らしがあった。

静かな温泉街があった。

大きな市場があった。

優しい魔王がいた。

海王グッズは怖いけど。

そこは本当に怖いけど。

それでも。

少しだけ。

ここも悪くないと思ってしまった。

「負けた気がする……」

私は呟いた。

ベルゼリアが微笑む。

「いつでもお越しください、伊織様」

「たまになら」

「本当ですか?」

「あ、いや、今のは」

グランが感動している。

ヴァルガも頷いている。

ルナは焦っている。

和也は護衛計画を考え始めている。

大輔は別荘地の採算を考えている。

アリサは研究滞在計画を立てている。

レオンは政治的影響を分析している。

私は頭を抱えた。

また言葉を間違えた。

その夜。

魔王城から人類側へ送られた交流協定の追加報告には、こう書かれたらしい。

『海王様、魔族領観光を大いに楽しまれ、黒曜石の湯および巨大市場を高く評価。魔族領への定期滞在にも前向き』

私は知らない。

そんな風に書かれていることを、まだ知らなかった。

その報告が人類側でどんな誤解を生むのかも、もちろん知らなかった。

ただ私は、魔王城のふかふかベッドに倒れ込みながら、小さく呟いた。

「……ちょっと住みたくなるの、悔しい」


お読みいただきありがとうございます。


今回は、魔族領観光回でした。


魔王城は行政もしっかりしていて、温泉街は癒やし効果抜群。

巨大市場には珍しい食べ物や魔道具が並び、伊織も思わず楽しんでしまいました。


怖いはずの魔族領が、まさかの快適空間。

しかも「ちょっと住みたくなる」と口を滑らせたことで、また新たな誤解が生まれそうです。


次回は、その一言が人類側へ伝わり、大変な騒ぎに発展します。

伊織本人はただ温泉と市場を楽しんだだけなのに、世界は勝手に不穏な方向へ動き始めます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ