第47話 人類側が誤解
魔族領観光を楽しんでしまった伊織。
魔王城、温泉街、巨大市場。
どれも意外なほど快適で、つい「ちょっと住みたくなる」と口を滑らせてしまいました。
しかし、その一言は人類側へ大きく歪んで伝わってしまいます。
「海王が魔王軍についた」
「転生者連合が裏切った」
「勇者も魔王城で拘束された」
もちろん全部誤解です。
けれど、誤解は世界を動かし始めます。
魔族領観光の翌朝。
私は魔王城の客室で、少しだけ落ち込んでいた。
理由は簡単だ。
魔王城のベッドが、また快適だったからである。
ふかふか。
静か。
よく眠れる。
悔しい。
本当に悔しい。
私は海辺の家が好きだ。
あの家には、海の音がある。
魚を焼く場所がある。
自分で作った生活がある。
でも最近は、観光客が多すぎる。
朝から「海王様見学ツアー」の声が聞こえたり、家の前でサイン待ちが発生したりする。
その点、魔王城の客室は静かだった。
誰も扉の前で整理券を配らない。
誰も窓の外から手を振らない。
誰も私の触角を拝みに来ない。
たまに使用人の魔族さんが、丁寧にお茶を持ってきてくれるだけ。
「……負けてる」
私は布団に顔を埋めた。
スローライフ環境で、私の海辺の家が魔王城に負けつつある。
認めたくない。
認めたくないけど、昨日の黒曜石の湯もかなり良かった。
巨大市場のお菓子も美味しかった。
魔王城のご飯も美味しい。
ベルゼリアさんは優しい。
グランさんは強いけど礼儀正しい。
ヴァルガさんも真面目。
魔族領、思ったより暮らしやすそう。
「……いや、住まないけど」
私は自分に言い聞かせた。
住まない。
住まないったら住まない。
ここは魔王城。
相手は魔王軍。
私の目的は、海辺でのんびりスローライフすること。
魔王城に定期滞在とか、絶対に話が大きくなる。
もう十分大きくなっている気もするけれど。
私は起き上がり、窓を開けた。
朝の風が入ってくる。
魔族領特有の少し冷たい風。
城下町では市場が開き始めていた。
静かな活気。
不思議な安心感。
「……帰ったら、家の周りをもっと静かにしたいな」
そう呟いた時。
扉がノックされた。
「伊織様」
ベルゼリアの声だった。
「はい」
「朝食のご用意ができております。それと……少し、確認したいことがございます」
確認。
嫌な言葉である。
この世界で確認したいことがあると言われる時、大体面倒な話になる。
私はため息を吐いた。
「分かりました」
食堂へ行くと、空気が少し重かった。
いつもならミナが黒蜜菓子を食べている。
ルナが嬉しそうにお茶を飲んでいる。
アリサが本を開いている。
大輔が商談をしている。
レオンが地図を見ている。
和也が警戒している。
大体そんな感じだ。
しかし今日は違った。
ミナが少し困った顔をしている。
ルナも不安そう。
アリサは真剣に紙を読んでいる。
大輔は眉をひそめている。
レオンは無表情だが、明らかに考え込んでいる。
和也は立ったまま、何かの報告書を握っていた。
ベルゼリアも静かな表情で席についている。
そしてグランとヴァルガは、壁際で緊張していた。
私は入ってすぐに思った。
帰りたい。
いや、ここはすでに魔王城なので、帰りたいはずっと思っている。
でも、今は特に帰りたい。
「えっと」
私は席についた。
「何かあった?」
和也が顔を上げる。
「海王様」
「海王じゃないけど、何?」
「人類側に、妙な噂が流れています」
「噂?」
嫌な予感しかしない。
この作品で噂が良い方向に働いたことは、ほとんどない。
大体、私の知らないところで話が大きくなり、私の肩書きが増える。
今回もきっとそうだ。
私は身構えた。
大輔が一枚の紙を机に置いた。
「王都方面の商会網から届いた情報です。どうやら、昨日魔王城から人類側へ送られた交流協定の報告が、途中でかなり歪んで伝わったようです」
「歪んで」
「はい」
大輔の顔は、商人としての冷静さを保っている。
でも、少し苦い。
「まず、正しい情報としては、伊織さんが魔族領を観光し、黒曜石の湯や巨大市場を気に入った、というものです」
「それも少し恥ずかしいけど、まあ事実」
「問題は、それが人類側でこう変わっています」
大輔は紙を読み上げた。
「『海王様、魔王領への定期滞在を決定』」
「決定してない!」
私は即座に叫んだ。
決定していない。
ちょっと住みたくなると言っただけだ。
いや、それも言うべきではなかったけど。
定期滞在はしていない。
そんな予定はない。
大輔は続ける。
「次に、『海王様、魔王城に専用宮殿を建設予定』」
「建てない!」
ベルゼリアが少しだけ目を逸らした。
「ベルゼリアさん?」
「構想だけです」
「構想しないで!」
「黒曜石の湯の近くに静かな離宮を……」
「作らない!」
「はい……」
ベルゼリアはしゅんとした。
魔王がしゅんとしないでほしい。
こっちが悪いことをした気分になる。
レオンが静かに言う。
「問題はさらに悪化している」
「これ以上?」
「人類側の一部では、こう解釈された」
レオンは紙を指で叩いた。
「『海王が魔王軍についた』」
食堂が静まり返った。
私は瞬きをした。
一回。
二回。
三回。
「……え?」
言葉が出なかった。
海王が魔王軍についた。
誰が。
私が。
魔王軍に。
ついていない。
全然ついていない。
ただ温泉に入って、市場でお菓子を食べて、魔王城のベッドが快適だと思っただけである。
「いやいやいや」
私は両手を振った。
「ついてない。ついてないよ。魔王軍につくって何?」
和也は苦い顔で頷く。
「俺もそう説明したい。だが、人類側には俺たちがまだ戻っていないことも不安材料になっている」
「え、和也も一緒にいるのに?」
「だからこそです」
「どういうこと?」
レオンが補足する。
「勇者である和也が魔王城から帰っていない。賢者アリサ、商人大輔、俺も同じく戻っていない。人類側の一部には、魔王軍に拘束された、または懐柔されたと見る者がいる」
「懐柔」
嫌な言葉だ。
ミナが呟く。
「まあ、外から見ると、伊織ちゃんたち全員魔王城にいるんだもんね」
「観光してただけなのに」
「それが伝わらないんだよ」
「伝わってほしい」
ルナが心配そうに言う。
「人魚王国へも、誤解が届く可能性があります」
「人魚王国まで?」
「はい。人魚王国は海王様を信奉しておりますので、海王様が魔王軍に協力なさるとなれば、大きな動揺が起きます」
「協力してない!」
「もちろん、私は信じています!」
「ありがとう」
「海王様が魔王軍にお付きになるのではなく、魔王軍が海王様に従ったのだと!」
「それも違う!」
助けてくれているようで、助けていない。
ルナは今日も通常運転だった。
アリサは報告書を見ながら言う。
「情報伝達の過程で、かなり意図的な改変も入っているようです」
「意図的?」
「ええ。単なる誤解だけなら、『魔王城に滞在している』『魔族領を気に入った』程度で済むはずです。ですが、『裏切り』『魔王軍に加担』『人類側への敵対』という強い言葉が混ざっています」
「誰かがわざと?」
「可能性は高いです」
大輔が頷く。
「王都の一部貴族、軍部、あるいは対魔族強硬派でしょう。交流協定を潰したい勢力が動いているのかもしれません」
「潰すって」
昨日やっと、魚とお茶とお菓子から交流を始めようという話になったばかりなのに。
もう潰そうとしている人たちがいるらしい。
早い。
面倒ごとだけ進行が早すぎる。
和也は拳を握っていた。
「人類側には、魔族への恨みを持つ者も多い。魔王軍との交流そのものを認められない者もいるだろう」
「それは分かるけど」
「さらに、海王様の影響力は大きすぎる」
「大きくない」
「大きいです」
「そこ強く言わないで」
和也は真剣だった。
「人類側の人々にとって、海王様は海賊を退け、村を復興させ、転生者戦争を止めた存在です。その海王様が魔王軍に近付いたとなれば、不安になる者もいる」
「私は何もしてないのに……」
「それが問題なんです」
「何もしてないのが?」
「海王様が何もしていないつもりでも、周囲は意味を読み取ります」
「嫌すぎる」
私は頭を抱えた。
何もしない。
それすら意味になる。
魔王城で寝る。
それも意味になる。
温泉を気に入る。
それも意味になる。
お菓子を買う。
それも意味になる。
もう何もできない。
いや、何もしなくても意味になる。
詰んでいる。
ベルゼリアが静かに口を開いた。
「申し訳ありません、伊織様」
「ベルゼリアさんが謝ることじゃ」
「いいえ。魔王領からの報告が発端になったのは事実です」
「でも、悪く書いたのは人類側の誰かでしょ?」
「それでも、私がもっと慎重にすべきでした」
ベルゼリアは本気で責任を感じているようだった。
魔王なのに、こういうところが真面目すぎる。
そしてやっぱり働きすぎの人だ。
「ベルゼリアさん、また顔が疲れてます」
「え?」
「寝てます?」
「昨夜は報告書と協定書の確認がありまして」
「寝てないね」
「少しは」
「少しは寝てないやつ」
ベルゼリアは目を逸らした。
魔王もやはり過労ぎみだった。
私はため息を吐く。
「とりあえず、寝不足で判断すると余計こじれるよ」
「伊織様……」
「みんなも」
私は食堂にいる全員を見る。
「今すぐ戦争とか言わないで。まず誤解を解く。ちゃんと話す。ご飯食べてから考える」
ミナが小さく笑う。
「伊織ちゃんらしいね」
「大事だよ、ご飯」
「うん。大事」
しかし、私の言葉に和也は少しだけ表情を曇らせた。
「海王様。残念ながら、状況はすでに動き始めています」
「え?」
大輔が別の紙を取り出す。
「王都の冒険者ギルドに、緊急招集がかかっています」
「緊急招集」
「名目は、魔王軍の動向警戒。実際には、魔王城に滞在している海王様と転生者連合の安否確認です」
「安否確認ならまだ」
「ですが、強硬派は『救出作戦』という言葉を使い始めています」
「救出」
私は自分を指差した。
「私を?」
「はい」
「救出される状況じゃないよ」
「外からはそう見えない可能性があります」
外から見ると、私は魔王城にいる。
勇者も賢者も商人もレオンもいる。
魔王軍と協定を結んだ。
魔族領を気に入ったらしい。
定期滞在するらしい。
魔王城に宮殿が建つらしい。
完全に怪しい。
いや、全部誤解だけど。
「さらに悪い知らせがある」
レオンが言った。
「まだあるの?」
「王都軍の一部が動く準備をしている」
「軍」
嫌な単語。
とても嫌な単語。
和也の表情がさらに険しくなる。
「王国軍が?」
「確定ではない。ただし、国境近くの砦に兵が集まり始めている」
大輔が頷く。
「商人の荷馬車も一部止められています。魔族領方面の街道で検問が強化されたようです」
アリサが言う。
「エルフの森にも問い合わせが来ています。『賢者アリサは魔王軍に拘束されたのか』と」
「されてないです」
アリサは淡々と言った。
「むしろ書庫を満喫しています」
「それはそれで帰ってくる気がないように見える」
ミナが苦笑する。
確かに。
アリサは魔王城の書庫に住めると言っていた。
それは拘束ではない。
本人の意思だ。
でも外から見れば行方不明に見えるのかもしれない。
大輔も少し困った顔をした。
「私の商会にも、『会長は魔王領で商談中なのか、それとも人質なのか』という問い合わせが殺到しているようです」
「どっち?」
「商談中です」
「人質じゃないね」
「はい」
レオンは冷静に言う。
「俺については、そもそも人類側の信用が薄い。魔王軍についたと言われても説得力があるだろう」
「自分で言わないで」
「事実だ」
確かにレオンは、少し前まで世界を管理すると言っていた。
人類側から見れば、魔王軍についたと言われても納得してしまうかもしれない。
でも、今のレオンは協力路線だ。
少なくとも、私の家の前で世界征服を始めたりはしていない。
たぶん。
「どうするの?」
私は聞いた。
ベルゼリア、和也、レオン、大輔、アリサ。
全員が少し黙る。
そして、レオンが最初に答えた。
「まず、こちらから正式な説明文を出すべきだ」
「説明文」
「伊織は魔王軍に加担していない。転生者連合は拘束されていない。協定は試験的交流にすぎず、軍事同盟ではない。これを明文化する」
「それがいい」
私はすぐ頷いた。
文章で説明すればいい。
私は海王様ではない時も、紙に書いた。
その時は逆効果だったけど。
今回はたぶん大丈夫。
たぶん。
大輔が頷く。
「商会網を通じて同じ文面を流します。噂の上書きは速度が重要です」
アリサも言う。
「エルフの森と研究者組織にも連絡を入れます」
和也が立ち上がる。
「俺は勇者として、人類側へ戻って説明します」
「和也が戻るの?」
「はい。俺が直接説明すれば、少なくとも魔王軍に拘束されていない証明になります」
それは確かにそうだ。
勇者本人が戻れば、少しは落ち着くかもしれない。
でも、和也が一人で戻ると、また熱血で話が大きくならないだろうか。
私は少し不安だった。
「落ち着いて説明してね」
「もちろんです」
「海王様の深いお考えとか言わないでね」
「……努力します」
「そこは即答して」
不安が残る。
ベルゼリアも真剣に言う。
「魔王領からも、軍事的意図がないことを正式に伝えます」
「それがいいと思う」
「ただし」
ベルゼリアの表情が少し暗くなる。
「人類側が王国軍を動かした場合、魔王軍も防衛準備をせざるを得ません」
「防衛準備」
「はい。こちらの民を守るためです」
それもそうだった。
人類側が攻めてくるかもしれない。
そうなれば、魔族側は守らなければならない。
魔族領の村にも、普通に暮らす人たちがいる。
ネブラ村の女の子。
市場の店主。
温泉街の人々。
彼らを守るのも、ベルゼリアの役目だ。
でも魔王軍が防衛準備を始めれば、人類側はさらに「魔王軍が戦争準備をしている」と思う。
完全に悪循環だ。
「面倒なことになってる……」
私は呟いた。
ミナが小さく頷く。
「伊織ちゃん、また中心にいるね」
「いたくない」
「でもいる」
「いたくないぃ……」
私は椅子の背もたれに沈んだ。
朝食の焼き魚が冷めている。
こんな時でも、魚が冷めるのは悲しい。
私は魚を食べた。
まだおいしい。
少しだけ心が落ち着く。
「とにかく」
私は言った。
「戦争は駄目」
全員が私を見る。
「せっかく昨日、ご飯食べて交流しようってなったんだから。いきなり戦争は駄目」
「海王様……」
ルナが感動している。
「海王様のお言葉、胸に刻みます」
「刻まなくていい」
ベルゼリアは静かに頷いた。
「私も戦争は望みません」
和也も言う。
「俺も、無用な争いは避けたい」
グランも深く頭を下げる。
「魔王軍としても、海王様の御心に反する戦は望みません」
「私の御心とかじゃなくて、普通に戦争が嫌なだけ」
「それこそが尊いのです」
「尊くない」
いつもの流れだった。
でも、今回は笑って済ませられない空気があった。
噂は広がっている。
人類側が動き始めている。
魔王軍も防衛準備を考え始めている。
少し前まで、私は温泉と市場のことだけ考えていた。
なのに、気付けば戦争の気配が近付いている。
どうしてこうなるのか。
本当に分からない。
説明文はすぐに作られた。
レオンが草案を書き、大輔が表現を整え、アリサが誤解されやすい部分を削り、ベルゼリアが魔王領側の文面を確認し、和也が勇者としての署名を入れた。
私も署名を求められた。
最近、署名が多すぎる。
「これ、海王様って書いてないよね?」
私は確認した。
大輔が頷く。
「海老崎伊織、とだけ」
「よし」
私は署名した。
海老崎伊織。
それだけ。
もう勝手に海王様と書かれるのは嫌だった。
しかし、グランがその署名を見て小さく感動していた。
「海王様の直筆……」
「グランさん、これは保存用じゃないからね」
「承知しております」
「本当に?」
「写しは取ります」
「取らないで」
グランは少し残念そうにした。
今はそういう時ではない。
本当に。
説明文を持った使者たちが、すぐに出発した。
商会の早馬。
魔族の伝令鳥。
人魚王国への海路連絡。
エルフの森への魔法通信。
各方面へ情報が送られる。
これで少しは落ち着くはず。
そう思った。
しかし。
昼過ぎ。
さらに悪い知らせが届いた。
魔王城の会議室に、ヴァルガが駆け込んできた。
「ベルゼリア陛下!」
「何事ですか」
「王国軍の先遣隊が、国境砦を出たとの情報が入りました!」
食堂とは別の重い沈黙が、会議室に落ちた。
私は立ち上がった。
「え?」
ヴァルガは続ける。
「目的は不明。ただし、同行している冒険者部隊の一部が、『海王様救出』を掲げているとのことです」
「救出されないってば!」
私は叫んだ。
和也が顔をしかめる。
「早すぎる。説明文が届く前に動いたか」
レオンが低く言う。
「強硬派が先に兵を動かしたな。既成事実を作るつもりだ」
大輔も苦い顔をする。
「商会の伝達より早い。最初から準備していた可能性があります」
アリサが言う。
「つまり、噂を流した側と連動している可能性が高いですね」
ベルゼリアの表情が硬くなる。
「グラン」
「はっ」
「魔王軍に、防衛準備を。ただし、こちらから攻撃してはなりません」
「承知しました」
グランが部屋を出ようとする。
私は慌てた。
「待って!」
グランが止まる。
「はい、海王様」
「攻撃しないでね。本当に」
「もちろんです」
「怖がらせるような大艦隊とか、太鼓とか角笛も駄目」
「承知しました」
「あと土下座も戦場ではやめて」
「……承知しました」
今の間は何。
まさか戦場で土下座する気だったのか。
本当に魔族の礼儀は分からない。
和也が立ち上がる。
「俺も行きます」
「和也?」
「王国軍に直接説明します。俺が魔王軍に拘束されていないことを示す必要がある」
「私も行った方がいい?」
「危険です」
和也は即答した。
「海王様が前線に出れば、さらに誤解が広がる可能性もあります」
「でも、私が救出対象なんでしょ?」
「だからこそです」
意味は分かる。
でも分かりたくない。
私が出れば、海王様を守れとか、海王様が魔王軍側に立ったとか、また何か言われる。
出なくても、勝手に救出対象にされる。
どちらにしても面倒。
詰んでいる。
ミナが不安そうに言う。
「伊織ちゃん……これ、まずくない?」
「まずいね」
「かなり?」
「かなり」
ルナも表情を引き締める。
「人魚王国にも連絡を急がせます。海の方で軍船が動けば、さらに混乱します」
「お願い」
大輔が言う。
「私は商会網で、強硬派の動きを止められないか探ります」
アリサも立ち上がる。
「私は魔法通信を増幅します。誤情報を上書きできるように」
レオンは地図の上に駒を置いた。
「王国軍、魔王軍、冒険者部隊、海路、人魚王国。全てが動けば、全面衝突の火種になる」
「全面衝突……」
嫌な言葉だった。
戦争。
全面戦争。
昨日まで温泉に入っていたのに。
一昨日は市場でお菓子を食べていたのに。
どうしてこんなことになっているのか。
私は何度考えても分からなかった。
ただ一つ分かるのは。
このまま放っておくと、みんなが勝手に戦い始めるということだ。
私が何もしていなくても。
いや、何もしていないからこそ。
「……戦争は嫌だ」
私は小さく言った。
でも、その声は会議室に響いた。
ベルゼリアが私を見る。
和也が頷く。
グランが深く頭を下げる。
ルナが祈るように手を組む。
ミナが私の隣に立つ。
大輔、アリサ、レオンも、それぞれ動き出す準備をしている。
私は拳を握った。
本当は帰りたい。
すごく帰りたい。
海辺の家で魚を焼きたい。
温泉に入りたい。
昼寝したい。
でも。
戦争になったら、そんな生活どころではない。
人類側も魔族側も、普通に暮らしている人たちが巻き込まれる。
それは嫌だった。
本当に嫌だった。
その日の夕方。
魔王城から見える遠い空に、赤い光が上がった。
魔族領の国境砦からの警戒信号だった。
同じ頃、人類側の砦でも、戦旗が掲げられたという。
王国軍が動き。
魔王軍が防衛準備に入り。
冒険者たちが集まり。
人魚王国も海路警戒に入る。
噂はさらに膨らんでいった。
『海王が魔王軍についた』
『勇者は魔王城で拘束された』
『転生者連合は裏切った』
『魔王軍が人類側へ侵攻する』
『王国軍が海王様を救出する』
全部、違う。
全部、違うのに。
世界は、勝手に戦争へ向かっている。
私は魔王城の窓から、遠くの赤い光を見つめた。
隣でミナが小さく呟く。
「伊織ちゃん……」
「うん」
私は深くため息を吐いた。
「これ、全面戦争の空気じゃない……?」
誰も否定しなかった。
だから私は、心の底から思った。
スローライフ、どこ行った。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、人類側が盛大に誤解する回でした。
伊織本人は魔族領で温泉に入り、市場でお菓子を食べ、魔王城のベッドに感動していただけなのですが、人類側には「魔王軍に寝返った」と受け取られてしまいました。
しかも勇者・和也や転生者連合の面々も魔王城にいるため、誤解はさらに加速。
ついに王国軍が動き出し、魔王軍も防衛準備へ。
次回、事態は一気に戦争寸前まで進みます。
伊織のスローライフは、またしても世界規模で遠ざかります。




