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第45話 四天王試験

人類と魔族の交流が始まり、少しだけ平和な空気が流れ始めた魔族領。


しかし、魔族たちはどうしても気になっていました。


「海王様の実力を、この目で見てみたい」


本人は当然、戦う気などまったくありません。

痛いのも怖いのも嫌。

できれば今すぐ帰って昼寝したい。


そんな伊織に用意されたのは、魔族たちによる模擬戦大会。


ただし伊織がすることは、戦うことではなく――全力で逃げることでした。

魔王城で人類と魔族の交流協定が結ばれた翌朝。

私は、魔王城の客室で目を覚ました。

窓の外には、魔族領の朝が広がっている。

黒い山々。

薄紫色の空。

城下町から立ちのぼる白い煙。

魔王城なのに、朝の景色は不思議と穏やかだった。

そして、ベッドは相変わらずふかふかだった。

悔しい。

魔王城の寝具が快適すぎる。

「帰ったら、布団を改善しよう……」

私はそう呟きながら起き上がった。

昨日は大変だった。

魔王ベルゼリアと会い、海王グッズだらけの執務室を見て、古き盟約の話を聞き、なぜか人類と魔族の交流協定に署名した。

通称、海王様友好協定。

名前が最悪である。

私はただ、魚とかお茶とか交換したらいいんじゃないと言っただけなのに。

どうして協定になったのか。

どうして私の名前が通称に入ったのか。

考えると疲れる。

だから今日は早く帰りたい。

海辺の家に帰って、魚を焼いて、温泉に入って、昼寝したい。

それだけでいい。

私は身支度を整え、客室の扉を開けた。

廊下には、魔族の使用人さんが立っていた。

「おはようございます、伊織様」

「おはようございます」

「朝食の準備ができております」

「ありがとうございます」

相変わらず礼儀正しい。

海王様と呼ばれないだけで、かなり心が楽だった。

いや、たぶん内部では海王様扱いされているのだろうけれど、表面上だけでも助かる。

私は食堂へ向かった。

食堂には、すでにみんながいた。

ミナは黒蜜菓子を食べている。

ルナは姿勢よく座っている。

和也は少し寝不足そう。

アリサは朝から何かの資料を読んでいる。

大輔は魔族商人と話している。

レオンは地図を眺めている。

グランは壁際に立っている。

ベルゼリアは穏やかにお茶を飲んでいた。

「おはようございます、伊織様」

ベルゼリアが微笑む。

「おはようございます」

「よく眠れましたか?」

「はい。とても」

「それは何よりです」

魔王が私の睡眠を心から喜んでいる。

やっぱり不思議な光景だ。

私は席に着き、朝食を食べ始めた。

今日の朝食は、黒パン、焼き魚、茸のスープ、紫芋のサラダ、果物の蜜漬け。

おいしい。

魔王城の料理は普通においしい。

そこは認めざるを得ない。

「伊織ちゃん」

ミナがにやにやしながら言う。

「魔王城のご飯、気に入ってるでしょ」

「まあ、おいしい」

「住める?」

「住まない」

「即答」

住まない。

いくらご飯がおいしくても、ここは魔王城である。

しかも海王グッズが大量にある。

怖い。

ベルゼリアが少し残念そうにしていた。

「お望みでしたら、いつでも客室をご用意いたします」

「大丈夫です」

「長期滞在用の部屋も」

「大丈夫です」

「専用温泉も」

「温泉?」

反応してしまった。

ミナが笑う。

「伊織ちゃん、釣られてる」

「釣られてない」

危なかった。

魔王城専用温泉は気になる。

でも、そこに食いついたら負けである。

私は焼き魚を食べて気持ちを落ち着けた。

その時、食堂の扉が開いた。

ヴァルガが入ってくる。

表情が少し緊張していた。

「ベルゼリア陛下」

「どうしました、ヴァルガ」

「魔王軍訓練場にて、四天王および幹部兵たちが集まっております」

「……またですか」

ベルゼリアは少し困った顔をした。

私は嫌な予感がした。

また。

この言葉は危険だ。

「またって何ですか?」

私が聞くと、ベルゼリアは申し訳なさそうに微笑んだ。

「実は、昨日から一部の魔族たちが、伊織様のお力を一目見たいと申し出ておりまして」

「嫌です」

即答した。

何の力も見せられない。

私は焼き魚を食べる力と、温泉で長湯する力と、昼寝する力くらいしかない。

それに、力を見たいという言い方がもう嫌だ。

絶対に戦闘方面である。

「もちろん、私は止めました」

ベルゼリアが言う。

「伊織様にご迷惑をおかけしてはならないと」

「ありがとうございます」

「ですが、魔族たちは、どうしても海王様の実力をこの目で見たいと……」

「見せる実力がないです」

「伊織様はそう仰ると思っていました」

「思わなくていい」

グランが一歩前に出た。

「海王様」

「嫌な予感しかしない」

「魔族にとって、強者への敬意は重要です」

「私は強者じゃない」

「もちろん、海王様が力を誇らぬ御方であることは承知しております」

「承知してない」

「ですが、魔族の武人たちは、海王様の一挙手一投足から学びたいと願っております」

「学べるものないよ」

「あります」

断言された。

困る。

私は助けを求めて和也を見る。

和也は真剣な顔をしていた。

「海王様の実力を試すなど、恐れ多い」

「そうそう」

「ですが、模擬戦形式であれば、海王様の身のこなしを学ぶ機会にはなるかもしれません」

「和也?」

味方ではなかった。

勇者、戦闘の話になると興味を持つ。

アリサも目を輝かせている。

「伊織さんの触角反応、危険察知、回避行動を観察する良い機会ですね」

「観察しないで」

「実戦ではなく模擬戦なら安全性も確保できます」

「参加しないから」

大輔は穏やかに言う。

「魔族側との交流行事としては、悪くないかもしれません」

「商人まで」

「もちろん無理は禁物です。ですが、武術大会や模擬戦は魔族文化の一部でしょう」

レオンは冷静だった。

「伊織の能力を理解する機会にはなる。本人が制御できていない以上、客観的観察は有効だ」

「制御できてないとか言わないで」

「事実だ」

「事実が痛い」

ルナは当然のように感動している。

「海王様の御力を魔族の皆様が拝見する……素晴らしいです!」

「素晴らしくない」

ミナだけが笑いながら言った。

「伊織ちゃん、逃げた方がいいよ」

「もう逃げたい」

「でも逃げても、たぶんそれが実力って言われるよ」

嫌なことを言う。

でも正しい気がする。

私は何もしていないのに、いつも周囲が勝手に解釈する。

逃げたら逃げたで、海王様の回避術とか言われる未来が見える。

「とにかく嫌です」

私は強く言った。

「模擬戦とか無理。戦いたくない。痛いの嫌。怖いの嫌。帰りたい」

ベルゼリアは真剣に頷いた。

「伊織様のお気持ちは最優先です」

「ありがとうございます」

「ですので、戦闘ではなく、試験という形にしましょう」

「変わってない」

「攻撃は禁止。危険な魔法は禁止。武器も模擬用のみ。伊織様は逃げるだけで構いません」

「逃げるだけ?」

「はい。魔族たちは、海王様に一撃入れられるかを試すだけです」

「それ普通に怖い」

グランが補足する。

「もちろん寸止めです」

「寸止めでも怖い」

「触れるだけでも勝利とします」

「鬼ごっこじゃん」

「近いかもしれません」

だったら最初から鬼ごっこと言ってほしい。

四天王試験とか、模擬戦大会とか言うから怖いのだ。

いや、鬼ごっこでも嫌だけど。

ベルゼリアが申し訳なさそうに言う。

「どうしてもお嫌でしたら、私から正式に中止を命じます」

その言葉は本気だった。

ベルゼリアは私を無理に戦わせようとしていない。

そこは分かる。

ただ、魔族たちの期待も大きいのだろう。

私は少しだけ考えた。

ここで完全に断ると、魔族武人たちはがっかりする。

いや、がっかりしてもいい。

私は関係ない。

でも、人類と魔族の交流が始まったばかりだ。

初日から空気を悪くするのも、少し嫌だった。

それに。

逃げるだけなら。

本当に逃げるだけなら。

もしかしたら、なんとかなるかもしれない。

私は触角を触った。

危険察知はたぶんできる。

魚や海流だけでなく、危ないものにも触角は反応する。

前に魔獣から逃げた時もそうだった。

だから。

逃げるだけなら。

「……一回だけ」

全員が私を見る。

「一回だけね。痛いのなし。怖いのなし。危ないのなし。私は逃げるだけ。無理だと思ったら即終了」

ベルゼリアの顔が明るくなる。

「ありがとうございます、伊織様」

「あと、海王様の実力とか言わないで」

グランが深く頷いた。

「承知しました。海王様の御回避術試験とします」

「言い方!」

何も承知していなかった。

その後。

魔王城の訓練場へ向かうことになった。

訓練場は、魔王城の裏手にあった。

広い。

ものすごく広い。

黒い石で囲まれた円形の闘技場のような場所で、周囲には観客席まである。

訓練場と聞いていたのに、完全に大会会場だった。

しかも、すでに魔族たちが集まっている。

兵士。

騎士。

魔法使い。

獣人型の魔族。

翼のある魔族。

子供や一般の魔族までいる。

多い。

多すぎる。

「なんで観客いるの?」

私は引いた。

ベルゼリアが申し訳なさそうに言う。

「すぐに解散させます」

「いや、もう遅い気がする」

観客席では、魔族たちが静かに、しかし期待に満ちた目でこちらを見ている。

「海王様だ……」

「海王様の御回避術が見られるらしい」

「歴史的だ」

「子供に見せておこう」

やめてほしい。

教育にしないでほしい。

ミナはお腹を抱えて笑っている。

「伊織ちゃん、御回避術だって」

「笑わないで」

「逃げるだけなのにね」

「逃げるだけですら嫌なんだけど」

和也は訓練場を見渡している。

「広いですね。逃げ場も多い」

「逃げ場が多いのは助かる」

アリサは記録魔導具を用意している。

「伊織さんの動きを全方向から記録します」

「記録しないで」

「貴重なので」

「貴重じゃない」

大輔は観客席を見ながら呟いた。

「模擬戦大会……これはイベント化できますね」

「しないで」

「失礼しました。今のは思考が漏れました」

「漏らさないで」

レオンは真剣に言う。

「ルール設定が重要だ。安全を最優先にしろ」

「そこはありがとう」

グランが訓練場の中央へ進み出た。

「これより、海王様御回避術試験を開始する!」

「名前!」

私が叫んだが、観客席から静かな歓声が上がった。

静かな歓声というのも変だが、魔族たちは礼儀正しいので、大声では叫ばない。

拍手も控えめ。

ただ、熱気はある。

すごくある。

「参加者は魔王軍幹部、訓練兵、四天王候補を含む精鋭たち。ただし、武器は模擬用。魔法は非殺傷。海王様に触れることができれば勝利とする」

「勝利って何」

「海王様は、自由に回避なさってください」

「帰っていい?」

「訓練場内でお願いします」

駄目らしい。

ベルゼリアは観客席の中央に座っている。

しかし表情は不安そうだった。

「伊織様、本当に無理なさらないでくださいね」

「無理だと思ったら叫びます」

「その時は即座に止めます」

そこは安心した。

私は訓練場の中央に立った。

足元は黒い砂。

柔らかい。

転んでも少しは痛くなさそうだ。

でも転びたくはない。

触角がぴくぴく動く。

周囲から向けられる視線。

模擬武器の気配。

魔法の気配。

いろいろ感じる。

嫌だ。

かなり嫌だ。

最初の参加者は、若い魔族兵だった。

槍を持っている。

模擬槍。

先端は丸い。

それでも怖い。

「よろしくお願いいたします、海王様!」

「よろしくしなくていいです」

魔族兵は構えた。

私は身構えた。

合図が鳴る。

「始め!」

魔族兵が走ってきた。

速い。

普通に速い。

私は悲鳴を上げた。

「きゃあああ!」

そして全力で横に逃げた。

触角がぴくりと動き、槍が来る方向を知らせる。

私は反射的にしゃがむ。

槍が頭の上を通った。

怖い。

本当に怖い。

「無理無理無理!」

私は逃げた。

魔族兵が追ってくる。

私はさらに逃げる。

足が砂に取られそうになる。

触角がまた反応する。

左。

私は右へ飛ぶ。

槍が空を切った。

魔族兵は勢い余って砂に足を取られ、前のめりに転んだ。

「一本!」

グランが叫んだ。

「海王様、勝利!」

「勝利?」

私は息を切らしながら振り返った。

魔族兵は地面に倒れている。

でも怪我はなさそうだ。

彼はすぐに起き上がり、深く頭を下げた。

「ありがとうございました! 海王様の回避、見事でした!」

「逃げただけだよ」

「流れるような体捌きでした!」

「逃げただけ!」

観客席から拍手が起きる。

「おお……」

「槍筋を読んだぞ」

「完全に誘導して転倒させた」

「さすが海王様」

違う。

誘導していない。

勝手に転んだ。

私は逃げただけ。

しかし、もう始まってしまった。

次々に参加者が現れる。

二人目は斧を持った大柄な魔族だった。

模擬斧だけど、大きい。

怖い。

「海王様、参ります!」

「来ないで!」

彼は大きく斧を振り上げた。

私は全力で後ろへ逃げる。

斧が砂にめり込む。

その衝撃で砂が跳ね、斧の持ち主の顔にかかった。

「ぬおっ!」

彼は目をつぶり、そのまま足を滑らせた。

倒れる。

「海王様、勝利!」

「だから勝ってない!」

三人目は翼のある魔族だった。

空から接近してくる。

これは無理だと思った。

上から来るのは怖い。

でも触角がぴくぴく動き、風の流れを教えてくる。

私はとっさに地面へ伏せた。

翼の魔族は私の上を通り過ぎる。

そして、その先にあった訓練用の旗に引っかかった。

「海王様、勝利!」

「旗が勝っただけ!」

四人目は魔法使いだった。

非殺傷の光球を飛ばしてくる。

私は悲鳴を上げながら走った。

光球は追尾してくる。

怖すぎる。

「追ってくる! 追ってくる!」

触角が光球の進路を感じ取る。

私はぐるぐる逃げる。

光球もぐるぐる追ってくる。

魔法使いの魔族が汗をかく。

「海王様の動きが読めない……!」

「私も読めない!」

私は本当に適当に逃げている。

そのうち光球が魔法使い本人の周りを回り始めた。

「あれ?」

魔法使いが戸惑う。

次の瞬間、光球は術者の足元でぽん、と弾けた。

魔法使いはびっくりして尻もちをつく。

「海王様、勝利!」

「だからなんで!?」

観客席がさらに盛り上がる。

「魔法すら返したぞ」

「流れを支配している」

「海王様の御回避術、恐るべし」

「相手が自ら崩れる……」

全部違う。

私は逃げているだけである。

しかし、魔族たちはどんどん盛り上がっていく。

参加者も増えていく。

誰も私に怪我をさせるつもりはないらしい。

そこは安心できる。

でも怖いものは怖い。

私は走った。

逃げた。

しゃがんだ。

転んだ。

立ち上がった。

また逃げた。

触角がぴくぴく動く。

右。

左。

後ろ。

上。

足元。

嫌な気配を避けるたびに、相手が勝手に転び、ぶつかり、足を滑らせ、魔法を外し、体勢を崩していく。

そしてそのたびに。

「海王様、勝利!」

グランの声が響く。

やめてほしい。

本当にやめてほしい。

私は勝っていない。

逃げ回っているだけだ。

途中でミナの前まで逃げてきた。

「ミナ、助けて」

ミナは笑いすぎて涙を浮かべていた。

「伊織ちゃん、すごいじゃん」

「すごくない!」

「全勝だよ」

「逃げてるだけ!」

「逃げる才能あるね」

「嬉しくない!」

ルナは感動している。

「海王様……敵を傷つけず、己も傷つかず、ただ流れのみで勝利するとは……!」

「勝利してない!」

和也は真剣に見ていた。

「海王様の回避は、やはり戦闘術として完成されています」

「完成してない!」

「俺も学びます」

「学ばないで!」

アリサは記録しながら興奮している。

「触角による危険予測、海流感知に似た空間流動把握、回避行動における無意識の最適化……非常に興味深いです」

「難しい名前をつけないで」

大輔は観客席を見ていた。

「御回避術大会、需要がありますね」

「大会にしないで!」

レオンは冷静に言う。

「逃走特化の才能は戦略上価値が高い」

「逃走特化って言わないで!」

褒められている気がしない。

いや、褒められたくもない。

私はただ、そろそろ終わってほしかった。

しかし、魔族たちの熱気は収まらない。

むしろ上がっている。

そしてついに。

グランが前へ出た。

「海王様」

「嫌な予感」

「最後に、私がお相手願いたい」

訓練場が静まり返った。

魔王軍四天王。

深海騎士グラン。

この人だけは駄目だ。

絶対に駄目だ。

強すぎる。

「無理」

私は即答した。

グランは深く頭を下げる。

「もちろん、本気は出しません。武器も使いません。海王様に触れることができれば、私の勝利とします」

「それでも無理」

「どうか一手だけ」

「一手が怖い」

ベルゼリアが立ち上がる。

「グラン。伊織様が嫌がっておられます」

「陛下、承知しております」

「ならば」

「ですが、私も武人として、海王様の御回避術を一度だけ体感したいのです」

グランの声は真剣だった。

ファンとしてではなく、騎士として。

その眼差しには、強者への敬意があった。

いや、私は強者ではないけど。

でも、彼は本気でそう思っている。

困った。

非常に困った。

「一回だけね」

私は結局そう言った。

言ってしまった。

「一回だけ。怖かったら即終了。触るだけ。武器なし。魔法なし」

「承知しました」

グランは兜を外し、模擬武器も置いた。

そして訓練場の中央に立つ。

私は反対側に立つ。

距離がある。

でも、グランからは圧がある。

ものすごくある。

観客席は静まり返った。

ベルゼリアも見守っている。

和也は真剣な顔。

アリサは記録魔導具を構える。

ミナは心配そうにしながらも、少し笑っている。

ルナは祈っている。

レオンは目を細めている。

「始め!」

合図が鳴った。

グランが消えた。

「え?」

本当にそう見えた。

次の瞬間、彼は私の目の前にいた。

速い。

速すぎる。

私は考えるより先に、触角が強く反応した。

ぴくん、どころではない。

びしっと全身に電気が走ったようだった。

右。

いや、前。

違う。

下。

私は反射的にしゃがみながら、後ろへ転がった。

ほとんど転倒だった。

グランの手が、私の頭の上を通り過ぎる。

風圧で髪が揺れた。

怖い。

無理。

絶対無理。

私はそのまま立ち上がって逃げようとした。

だが、足元の黒い砂に尻尾が引っかかった。

「わっ」

私は転びそうになる。

その瞬間、尻尾が無意識にばたっと動いた。

砂が大きく跳ねる。

グランの足元へ。

グランは踏み込みの途中だった。

視界を遮られたわけではない。

でも、足元の砂が滑った。

ほんの一瞬。

四天王の体勢が崩れる。

そこへ、私が逃げようとして後ろ向きに突っ込んだ。

「きゃっ!」

私はグランの横をすり抜けようとして、肩を避ける。

グランは私に触れようと手を伸ばす。

しかし、私の尻尾がさらに動いた。

逃げるために。

必死に。

結果、尻尾がグランの足首の前をかすめた。

グランはそれを避けようとする。

その瞬間、滑った足がさらにずれた。

「む」

グランが初めて声を漏らした。

次の瞬間。

巨大な四天王が、見事に膝をついた。

どん、と訓練場に音が響く。

私はその横で、尻もちをついた。

静寂。

誰も動かない。

私も動けない。

グランは片膝をついた状態で固まっている。

私は尻もちをついたまま固まっている。

「……え?」

私の声だけが響いた。

グランがゆっくり顔を上げる。

その表情は、驚きに満ちていた。

「今のは……」

「事故です」

私は即答した。

「見事です」

「事故です」

「私の踏み込みを読み、砂を使って視界と足場を乱し、尾で間合いを制した……」

「事故です!」

「これが、海王様の御回避術……」

「違う!」

グランは深く頭を下げた。

「参りました」

「参らないで!」

その瞬間。

訓練場が大歓声に訓練場が大歓声に包まれた。

魔族たちは立ち上がり、拍手を送る。

今度は控えめではない。

完全に盛り上がっている。

「グラン様が膝をついた!」

「海王様が四天王を下した!」

「傷つけずに勝ったぞ!」

「御回避術、恐るべし!」

「海王様万歳!」

やめて。

本当にやめて。

私は尻もちをついたまま、顔を覆った。

勝っていない。

何度でも言う。

勝っていない。

逃げて、転びかけて、尻尾がばたばたして、相手が滑っただけ。

ただの事故である。

しかし、観客席は完全に勝利扱いだった。

グランも勝利扱いしている。

ベルゼリアまで感動している。

「伊織様……やはり、相手を傷つけずに制するお方……」

「制してないです」

和也は拳を握っていた。

「海王様、見事です!」

「和也まで!」

「俺ももっと回避を学びます」

「学ばないで!」

アリサは興奮している。

「最後の尾の動き、無意識の防衛反応ですね。やはり尻尾にも高度な危険回避機能が」

「勝手に機能を増やさないで」

大輔は感心していた。

「これで魔族側の信頼はさらに強まりましたね」

「強まらなくていい」

レオンは短く言った。

「優勝だな」

「何に!?」

「この試験に」

「試験だったの!?」

そういえば、四天王試験だった。

でも、誰が何を試していたのか分からない。

たぶん、魔族たちは私の実力を試したかった。

結果、私は逃げ回っただけで全員に勝ったことになった。

理不尽だった。

グランが立ち上がり、訓練場の中央で宣言する。

「本日の四天王試験、勝者――海王様!」

「やめてぇぇぇ!」

私の叫びは、歓声にかき消された。

魔族たちは拍手し、ベルゼリアは微笑み、ルナは涙ぐみ、ミナは笑いすぎて座り込んでいる。

私はただ、砂だらけになっていた。

逃げ回っただけ。

本当にそれだけ。

なのに、なぜか優勝した。

その日の夕方。

魔王城では、また小さな祝宴が開かれた。

理由は、海王様御回避術試験優勝記念。

意味が分からない。

私は食卓で焼き魚を食べながら、ぐったりしていた。

「疲れた……」

ミナが隣で笑う。

「伊織ちゃん、優勝おめでとう」

「嬉しくない」

「逃げ切り優勝だよ」

「競技にしないで」

ルナは嬉しそうに言う。

「海王様の御力、魔族の皆様にも深く伝わりましたね」

「伝わってない」

グランは真剣に頭を下げる。

「本日は、貴重な学びをありがとうございました」

「学ぶところありました?」

「はい。力とは相手を倒すことだけではない。避け、流し、傷つけずに終えることもまた力であると」

「私は怖くて逃げただけです」

「その謙虚さも含め、学びです」

「もう何も言えない」

ベルゼリアは穏やかに微笑んでいる。

「伊織様、無理をさせてしまい申し訳ありません」

「次はないです」

「もちろんです」

「本当に?」

「……記念大会として定期開催を望む声はありますが」

「絶対駄目!」

私は全力で拒否した。

定期開催なんてされたらたまらない。

御回避術大会など、二度とごめんである。

その夜。

客室へ戻った私は、布団に倒れ込んだ。

体が重い。

足が痛い。

尻尾も疲れた気がする。

逃げ回るだけでも、かなり大変だった。

「もう絶対やらない……」

私はそう呟いた。

その時、枕元に置かれていた紙に気付く。

何だろうと思って開く。

そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。

『第一回 海王様御回避術試験 優勝者 海老崎伊織様』

その下には、記念品として魔族領特製の金色の海老メダルが添えられていた。

私はしばらく無言でそれを見つめた。

そして。

布団に顔を埋めた。

「逃げ回っただけなのにぃぃぃ……」


お読みいただきありがとうございます。


今回は、魔族たちによる「海王様の実力を見たい」回でした。


伊織本人は戦う気ゼロ。

ただ怖くて逃げ回っているだけなのに、触角の危険察知と尻尾の偶然が噛み合い、なぜか次々と相手が自滅していく結果に。


最後は四天王グランまで膝をつき、伊織は逃げ回っただけで優勝してしまいました。


もちろん本人はまったく納得していません。


次回は、魔族領観光回です。

魔王城、温泉街、巨大市場。

怖いはずの魔族領が、だんだん伊織にとって快適な場所になっていきます。

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