第44話 なぜか同盟
魔王ベルゼリアとの対話を通じて、少しずつ見えてきた魔族側の本音。
魔族は戦争を望んでいるのではなく、伊織に感謝を伝え、古き盟約の意味を取り戻したいと考えていました。
一方、勇者・和也たち人類側も、魔族領で普通に暮らす人々の姿を知り、これまでの認識が揺らぎ始めます。
そんな中、伊織が何気なく口にしたのは――。
「まず一緒にご飯食べればいいんじゃない?」
本人は軽い交流案のつもりでした。
しかし、周囲は当然それだけでは済ませてくれません。
魔王城で一泊することになった。
人生で、こんな予定が入る日が来るとは思わなかった。
いや、そもそも転生して触角と尻尾が生える予定もなかったので、今さらではある。
それでも。
魔王城宿泊。
字面が強すぎる。
私は客室のベッドに腰掛け、部屋の中を見回した。
黒い石造りの壁。
青い炎の照明。
大きな窓。
ふかふかの寝具。
高そうな絨毯。
思ったより快適だった。
むしろ、私の家よりずっと快適だった。
「負けた気がする……」
魔王城に快適さで負けるのは、なんだか悔しい。
私は海辺の家が好きだ。
好きだけど、最近は観光客に囲まれている。
一方、魔王城の客室は静かだった。
とても静か。
廊下を歩く魔族の足音も控えめ。
誰も叫ばない。
誰もサインを求めない。
誰も触角を見て騒がない。
たまに使用人の魔族が頭を下げるくらいだ。
「人類側より静かなんだよなぁ……」
悔しい。
とても悔しい。
魔王城の方が、私の理想のスローライフに近い瞬間がある。
いや、認めたくない。
ここは魔王城だ。
怖い場所のはずだ。
でもベッドはふかふか。
お茶はおいしい。
お菓子もおいしい。
窓から見える夜景は綺麗。
駄目だ。
だんだん好感度が上がっている。
私は布団に潜り込んだ。
「寝よう」
考えるのをやめる。
それが一番である。
翌朝。
私は気持ちよく目が覚めた。
信じたくないくらい、よく眠れた。
魔王城の寝具、かなり良かった。
寝心地が良すぎる。
悔しい。
起き上がると、窓の外には魔族領の朝が広がっていた。
黒い山々の向こうから、薄い紫色の光が差し込んでいる。
人類側の朝焼けとは少し違う色。
空は淡い藍色で、雲が銀色に光っていた。
城下町では、もう人々が動き始めている。
荷車。
市場。
煙突の煙。
兵士の交代。
子供たちの声。
魔王城の朝は、思ったより生活感があった。
「普通に朝だ……」
当たり前なのに、不思議だった。
魔族にも朝が来る。
ご飯を食べて、仕事へ行って、子供が走って、店が開く。
人間とそんなに変わらない。
私は少しだけ、昨日のベルゼリアの言葉を思い出した。
人類と魔族が、同じお茶を飲める日。
魔王がそんなことを言うなんて思わなかった。
そして私は思う。
同じお茶くらいなら、もう飲んでいる。
和也も飲んだ。
ミナも飲んだ。
私も飲んだ。
おいしかった。
だったら、もう少し簡単に仲良くできないのだろうか。
そこまで考えて、私はすぐに首を振った。
「駄目駄目。難しいこと考えると面倒になる」
私は布団から出た。
今日の予定は、ベルゼリアとの話し合い。
古き盟約について聞く。
そして、できれば早めに帰る。
それだけだ。
同盟とか、外交とか、歴史とか、そういうのは専門家に任せたい。
私は魚を焼く係でいい。
朝食の席には、すでにみんな集まっていた。
長い食卓。
黒い木の椅子。
銀色の食器。
料理は魔族領のものだった。
黒パン。
茸のスープ。
焼き魚。
紫芋の蒸し物。
甘い果実。
昨日のネブラ村で食べた料理より上品な味付けだ。
私は焼き魚を見て少し安心した。
魔王城でも魚は出る。
大事なことだ。
「おはよう、伊織ちゃん」
ミナが手を振る。
「おはよう」
「よく眠れた?」
「……かなり」
「魔王城、快適だった?」
「悔しいけど」
ミナは笑った。
「伊織ちゃん、魔王城に馴染み始めてる」
「馴染んでない」
絶対に馴染んでない。
和也は少し寝不足そうだった。
「和也、寝てないの?」
「警戒していました」
「寝て」
「魔王城で油断はできません」
「でも目の下すごいよ」
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。
また働きすぎる人の顔をしている。
アリサは元気だった。
「魔王城の書庫、素晴らしかったです」
「行ったの?」
「早朝に少しだけ」
「少しだけって何時間?」
「三時間ほど」
少しではない。
大輔は魔族の朝市の話をしていた。
「城下の物流はかなり整っています。税制も思ったより安定しているようです」
「朝から仕事してる」
レオンも地図を広げている。
「魔族領の統治構造は予想より合理的だ。ベルゼリアはかなり有能な統治者と見ていい」
「みんな働きすぎ」
私が言うと、全員が一瞬黙った。
言われた記憶があるらしい。
少し効いている。
よし。
すると、食堂の扉が開いた。
ベルゼリアが入ってきた。
黒いドレスではなく、今日は少し軽めの衣装だった。
銀髪を後ろでまとめ、表情も昨日より柔らかい。
魔王というより、仕事前の人という感じだった。
「おはようございます、伊織様」
「おはようございます」
「昨夜は眠れましたか?」
「はい。すごく」
そう答えると、ベルゼリアは本当に嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかったです」
魔王に睡眠を喜ばれている。
不思議な朝だった。
ベルゼリアは席に着き、私たちと同じ食事を取った。
魔王なのに、一人だけ特別な料理ではない。
それが少し意外だった。
ミナも気になったのか、こっそり聞く。
「魔王様って、もっと豪華なもの食べるんじゃないの?」
ベルゼリアは小さく笑った。
「もちろん宴の時は豪華な料理も出ますが、普段はこのくらいです」
「へぇ」
「民と同じものを食べないと、国の味が分からなくなりますから」
和也が少しだけベルゼリアを見た。
その言葉が意外だったのだろう。
私も少し驚いた。
魔王なのに、言うことがかなりまともである。
いや、魔王だからなのかもしれない。
人の上に立つ人は、大変そうだ。
私は絶対なりたくない。
食事の後。
私たちはベルゼリアの執務室ではなく、別の会議室へ案内された。
理由は分かる。
執務室には海王グッズが多すぎる。
あの部屋で真面目な話をするのは難しい。
いや、真面目な話をするつもりもあまりないけど。
会議室は落ち着いた場所だった。
大きな丸い机。
窓の外には中庭。
壁には魔族領の地図がかかっている。
席に着くと、ベルゼリアが静かに話し始めた。
「まず、改めてお礼を申し上げます。魔族領へお越しいただき、本当にありがとうございます」
「話を聞きに来ただけなので」
「それでも、魔族にとって大きな出来事です」
「大きくしないでほしい」
ベルゼリアは微笑んだ。
また少し深く解釈された気がする。
だが、話はすぐに本題へ入った。
「古き盟約について、ですね」
アリサが前のめりになる。
「ぜひ詳しく」
「アリサ、落ち着いて」
「落ち着いています」
目が落ち着いていない。
ベルゼリアは机に一冊の古い本を置いた。
昨日見た海王記録とは違う。
もっと古そうで、表紙には波と角の紋章が刻まれている。
「古き盟約とは、海王様と魔族の祖先が交わしたと伝わる約束です」
「私は交わしてないです」
「はい。伊織様がそう仰ることは承知しております」
「承知してないんだよなぁ」
ベルゼリアは本を開く。
「伝承によれば、黒き災厄から救われた魔族の祖先は、海王様へ忠誠を誓おうとしました」
「重い」
「ですが、海王様はそれを拒まれました」
「いい人だね、その人」
「そして、代わりにこう仰ったそうです」
嫌な予感。
私は身構えた。
ベルゼリアは静かに読み上げる。
「『別に仕えなくていいから、困ってる人がいたら助けてあげて』」
私は黙った。
それは。
今までの「うるさい」「知らない」「眠いから帰る」より、ずっとまともな言葉だった。
いや、私が言いそうかと言われると微妙だけど。
でも、悪くない。
ベルゼリアは続ける。
「魔族の祖先は、その言葉を盟約として受け止めました」
「仕えるなって言われたのに?」
「はい。海王様に直接仕えるのではなく、海王様の願いに従う」
「願い?」
「困っている者を助けること。種族だけで判断しないこと。海を荒らさないこと。恩を忘れないこと」
会議室が静かになった。
思ったより、かなり良い内容だった。
もっと魔王軍っぽい、海王様が戻った時に軍を差し出せとか、世界を征服せよとか、そういう物騒なものを想像していた。
でも違った。
困っている人を助ける。
種族だけで判断しない。
海を荒らさない。
恩を忘れない。
普通に良い話だった。
「魔族の祖先は、その教えを守ろうとしました」
ベルゼリアの声が少し沈む。
「ですが、長い歴史の中で、人類との争いが起こり、互いに憎しみが積み重なりました」
和也が黙って聞いている。
「いつしか魔族は、魔王軍という名で恐れられるようになり、人類を敵として見るようになった」
「……」
「それでも、古き盟約だけは魔王家に残り続けました」
ベルゼリアは私を見る。
「私は、いつかこの盟約の意味を取り戻したいと思っていました」
その言葉は静かだった。
でも、真剣だった。
魔王ベルゼリアは、ただ海王様のファンというだけではないらしい。
いや、ファンではある。
執務室にグッズが大量にあるくらいには。
でも、それだけではない。
彼女は本当に、人類と魔族の関係を変えたいと思っている。
少なくとも、そう見えた。
和也が口を開いた。
「魔王ベルゼリア」
「はい」
「あなたは、人類との戦争を望んでいないと言ったな」
「はい」
「だが、人類側には魔族に家族を奪われた者もいる。魔族側にも、人類に傷つけられた者がいるだろう」
「その通りです」
「簡単に仲良くしようと言って済む話ではない」
「分かっています」
ベルゼリアは真っ直ぐ和也を見た。
「だからこそ、まずは小さな交流から始めたいのです」
「交流?」
大輔が反応した。
商人の目だ。
ベルゼリアは頷く。
「すぐに国同士の条約を結ぶことは難しいでしょう。互いの民も受け入れられないかもしれません」
「でしょうね」
レオンが冷静に言う。
「不信の蓄積は長い。急激な融和は反発を生む」
「はい」
ベルゼリアは続ける。
「ですが、境界の村同士で市場を開く。学者同士が文献を交換する。漁師が海流情報を共有する。病人に薬を分ける。その程度なら始められるかもしれません」
思ったより現実的だった。
大輔が腕を組む。
「境界市場ですか。規模を限定し、商人を選別すれば試験的には可能です」
アリサも頷く。
「文献交換は有益です。魔族領の魔法体系と人類側の魔法体系を比較できます」
和也はまだ警戒している。
「交流を装って情報を抜くこともできる」
レオンが答える。
「だから監視と制限が必要だ。段階的に進めるなら、リスクは管理可能」
「レオンが言うと安心なのか怖いのか分からない」
私が言うと、レオンは肩をすくめた。
「両方だろう」
そこは否定してほしかった。
ベルゼリアは私を見た。
「伊織様は、どう思われますか?」
「え」
急に振られた。
私は何も考えていなかった。
いや、考えていたけど、難しい話ではない。
みんなが真剣に外交とか交流とか市場とか話している中で、私が言えることなんて限られている。
「えっと」
全員が私を見る。
やめてほしい。
こういう時に見ないでほしい。
「いきなり仲良くしろって言われても無理だと思うけど」
ベルゼリアは静かに頷く。
和也も聞いている。
「でも、昨日の村は普通だったし。ご飯もおいしかったし。お茶もおいしかったし」
ミナが笑う。
「伊織ちゃんらしい感想」
「大事でしょ、ご飯」
「うん、大事」
私は続けた。
「人類側も魔族側も、怖いって思い込んでるところあると思う」
私もそうだった。
魔族領は怖いと思っていた。
魔王城も怖いと思っていた。
いや、魔王城は今でも少し怖い。
特に海王グッズ部屋は怖い。
でも、魔族の村には普通の暮らしがあった。
魔王ベルゼリアはお茶を出してくれた。
グランは怖いけど礼儀正しい。
ヴァルガも真面目。
知らないことが多すぎただけかもしれない。
「だから」
私は少し考えて言った。
「まず、魚とかお茶とかお菓子とか、そういう軽いものから交換したら?」
「軽いもの?」
ベルゼリアが聞き返す。
「うん。戦争とか同盟とか言うと重いから。まずは市場で買い物できるとか、おいしいもの交換するとか」
大輔が目を輝かせた。
「なるほど。食文化交流から入るわけですね」
「そんな難しく言ってない」
アリサも頷く。
「食と生活用品は警戒心を下げやすい。民間交流の入口として適しています」
「だから難しくしないで」
レオンも静かに言う。
「合理的だ。政治的主張ではなく実利と好奇心から入る方が反発が少ない」
「うん、たぶんそういうこと」
和也は少し考え込んでいた。
「食べ物から、か」
「だって、お茶飲んだらちょっと落ち着くし」
私は昨日のことを思い出す。
魔王城のお茶を、勇者と魔王が同じ部屋で飲んでいた。
剣も魔法も使わずに。
それだけでも、少し変わった気がした。
「まず一緒にご飯食べればいいんじゃない?」
私がそう言うと、会議室が静かになった。
え。
変なこと言っただろうか。
ベルゼリアが目を潤ませている。
また。
またその顔。
「伊織様……」
「なに?」
「食卓を共にすることから平和を始める……」
「そんな大げさじゃない」
「いいえ。とても大切なことです」
和也も少しだけ表情を緩めた。
「確かに、昨日の村で食事をして、少し見方が変わりました」
「でしょ」
「敵だと思っていた相手にも、生活があると実感した」
「うん」
アリサも頷く。
「生活の共有は、認識を変える力があります」
大輔も笑った。
「市場と食事なら、商人も入りやすいですね」
レオンも言う。
「段階的交流案として採用できる」
私は少しほっとした。
珍しく、私の言葉が変な方向に行っていない。
いや、少し大げさにはなっているけど、まだ許容範囲だ。
そう思った。
甘かった。
ベルゼリアが静かに立ち上がった。
「分かりました」
「え?」
「伊織様のお言葉に従い、人類と魔族の交流を始めましょう」
「従わなくていい」
「まずは、境界市場の設立。食文化交流。文献交換。海路情報の共有」
ベルゼリアの声に、魔王としての威厳が戻っていた。
「魔王領として、正式に準備を進めます」
「え、ちょっと待って」
大輔がすぐに反応する。
「人類側の窓口は、転生者連合が一時的に担う形が妥当でしょう」
「大輔?」
アリサも言う。
「文献交換は私が管理します。危険な魔法情報は段階的に」
「アリサ?」
レオンも地図を広げる。
「境界村ネブラと人類側沿岸都市を試験拠点にするのが効率的だ」
「レオン?」
和也まで口を開いた。
「俺は安全確認を担当します。人類側に誤解が広がらないよう、勇者として説明を」
「和也まで?」
話が早い。
早すぎる。
私はただ、魚とかお茶とか交換したらと言っただけだ。
なのに、もう具体的な交流計画が動き始めている。
ベルゼリアはグランを見る。
「グラン」
「はっ」
「魔王軍として、交流使節の護衛体制を整えてください。威圧的にならぬよう、兵装は最小限に」
「承知いたしました」
「ヴァルガ」
「はい」
「人類側へ向かう使節団の礼法を再確認してください。太鼓と角笛は禁止です」
「承知いたしました」
私の要望が反映されている。
そこは少し嬉しい。
でも、話が大きくなっている。
すごく大きくなっている。
ミナが横で笑っている。
「伊織ちゃん、また何か始まったね」
「始めてない」
「でも始まってるよ」
「始めてないってば」
ルナは感動していた。
「海王様が、人類と魔族の交流をお導きに……」
「導いてない」
「海王様のお言葉から、平和への第一歩が生まれました!」
「魚とお茶の話をしただけだよ」
「それが尊いのです!」
尊くない。
普通の話だ。
しかし、会議室の空気はもう完全に歴史的瞬間のそれだった。
ベルゼリアの表情は明るい。
和也は真剣に考え込んでいる。
アリサは計画書を作り始めている。
大輔は販路を考えている。
レオンは調整案を書いている。
グランとヴァルガは魔王軍の代表として動き出している。
私は取り残された。
「ねえ」
私は小さく手を挙げた。
「これは、ただの交流案だよね?」
ベルゼリアは微笑む。
「はい。まずは交流案です」
「同盟とかじゃないよね?」
ベルゼリアは少し考えた。
「正式な軍事同盟ではありません」
「よかった」
「ですが、友好関係を確認する共同声明にはなるでしょう」
「共同声明」
嫌な言葉が出た。
大輔が補足する。
「現段階では、海王様立ち会いのもと、人類側転生者連合と魔王領の間で交流協定を結ぶ形ですね」
「海王様立ち会い?」
「はい」
「私、立ち会うの?」
「当然です」
当然ではない。
レオンが冷静に言う。
「伊織がいなければ、この場の信頼が成立しない」
「成立しなくていい」
「成立した方がいい」
「そうだけど」
アリサも言う。
「歴史的資料として署名が必要になりますね」
「署名?」
嫌な予感。
グランが目を輝かせる。
「海王様の署名……!」
「サイン会じゃないから」
グランは黙った。
でも目が期待していた。
やめてほしい。
ベルゼリアは控えめに言った。
「ご無理にとは申しません。ただ、伊織様のお名前があることで、魔族の民も安心すると思います」
「また私の名前が使われる……」
私は頭を抱えた。
海王ブランド。
海王様見学ツアー。
転生者連合。
魔族領訪問。
そして今度は、人類と魔族の交流協定。
私の名前がどんどん大きなものに巻き込まれていく。
私はただ、静かに暮らしたいだけなのに。
でも。
私はベルゼリアを見る。
和也を見る。
グランを見る。
ヴァルガを見る。
そして昨日見たネブラ村を思い出す。
普通に暮らしていた魔族たち。
花をくれた女の子。
おいしい魚と茸のスープ。
あの村と、人類側の村が、少しでも穏やかに関われるなら。
それは悪いことではない。
たぶん。
私は深く息を吐いた。
「分かった」
全員がこちらを見る。
「署名だけね」
ベルゼリアの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「でも、勝手に変な称号つけないで」
「はい」
「海王様とか書かないで」
「……はい」
今の間は何。
不安だ。
大輔が用意した書面が、なぜかすぐに机へ置かれた。
早い。
本当に早い。
商人の準備力が怖い。
書面にはこう書かれていた。
『人類・魔族間交流試験協定』
意外とまともな名前だった。
内容も、大きな同盟ではなく、境界市場の設立、食文化交流、文献交換、海路情報共有、使節団の安全保証などが中心だった。
私は少し安心した。
そして署名欄を見る。
魔王ベルゼリア。
勇者神代和也。
賢者九条アリサ。
商人橘大輔。
戦略調整役黒崎レオン。
魔王軍代表グラン。
人魚王国立会人ルナ。
漁村代表ミナ。
そして最後に。
海王・海老崎伊織。
「海王って書いてある!」
私は叫んだ。
大輔がすぐ訂正した。
「失礼しました」
「絶対わざとでしょ」
「慣習で」
「慣習にしないで」
修正後は、ただの海老崎伊織になった。
よし。
私は筆を取る。
最近、署名が多すぎる。
サイン会じゃないのに、サインばかりしている気がする。
私は慎重に名前を書いた。
海老崎伊織。
それだけ。
その瞬間。
会議室に静かな拍手が起きた。
ベルゼリアが微笑む。
和也が深く息を吐く。
アリサが記録する。
大輔が満足げに頷く。
レオンが書面を確認する。
グランとヴァルガは感動している。
ルナは涙ぐんでいる。
ミナは笑っている。
「伊織ちゃん、また歴史作ったね」
「作ってない」
「作ったよ」
「作ってないってば」
その後、ベルゼリアが正式に宣言した。
「本日をもって、魔王領は転生者連合および人類側諸地域との試験的交流を開始します」
拍手。
「古き盟約に基づき、種族を越えた対話の道を開きます」
拍手。
「そして、この協定を」
嫌な予感。
「海王様友好協定と名付けます」
「名付けないで!」
私は叫んだ。
大輔が慌てて書面を確認する。
「正式名称は人類・魔族間交流試験協定です。海王様友好協定は通称ということで」
「通称もやめて」
しかし、もう遅かった。
グランが深く頷いている。
ヴァルガも感動している。
ルナは完全に受け入れている。
「海王様友好協定……素晴らしい響きです」
「素晴らしくない」
和也も少し困った顔で言う。
「まあ、分かりやすくはありますね」
「和也まで」
アリサが記録する。
「通称、海王様友好協定。歴史資料として残りそうですね」
「残さないで」
レオンが冷静に言う。
「名称の浸透は止められないだろう」
「止めて」
「難しい」
難しいらしい。
私は椅子に沈み込んだ。
魚とお茶から始まった話が、なぜか協定になった。
そして通称、海王様友好協定。
理不尽すぎる。
こうして。
私はただ軽い交流案を提案しただけなのに。
人類と魔族の間で、なぜか同盟のようなものが結ばれてしまった。
夕方。
魔王城の中庭で、簡単な祝宴が開かれた。
人類側の料理。
魔族側の料理。
人魚王国の海産物。
転生者連合の面々。
魔王軍の代表たち。
みんなが同じ場所で食事をしている。
和也とグランは少し離れて話していた。
アリサは魔族の研究者と文字について語っている。
大輔は魔族商人と名刺のようなものを交換している。
レオンはベルゼリアと地図を見ながら何か話している。
ミナは魔族の子供たちに魚の焼き方を教えている。
ルナは人魚王国の料理を紹介している。
不思議な光景だった。
少し前なら、あり得なかったのかもしれない。
私は皿の上の焼き魚を食べる。
おいしい。
それだけは間違いない。
「まあ」
私は小さく呟いた。
「ご飯がおいしいなら、いいか」
その時。
ベルゼリアが隣に来た。
「伊織様」
「はい」
「今日は、本当にありがとうございました」
「私は何もしてないです」
「いいえ。伊織様がいなければ、この席はありませんでした」
「うーん……」
そこまで言われると、否定しきれない。
でも、やっぱり私は何かを成し遂げたつもりはない。
ただ、みんなでご飯食べればいいんじゃないと言っただけだ。
ベルゼリアは穏やかに微笑んだ。
「これからも、どうか見守ってください」
「重い」
「できれば、また魔王城へ遊びに来てください」
「それは考えます」
「本当ですか?」
「ご飯がおいしければ」
ベルゼリアは嬉しそうに笑った。
「最高の料理をご用意します」
しまった。
釣られたかもしれない。
その夜。
私は魔王城の客室で、協定書の写しを見せられた。
そこには確かに、正式名称が書かれていた。
『人類・魔族間交流試験協定』
そして、その下に小さく追記されている。
通称。
『海王様友好協定』
「だから違うってぇ……」
私は布団に倒れ込んだ。
ただの交流案だったはずなのに。
勝手に同盟っぽいものが締結されていた。
スローライフは、また少し遠くなった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、伊織の何気ない一言から、人類と魔族の交流が始まる回でした。
本人としては、魚やお茶やお菓子を交換するくらいの軽い提案だったのですが、周囲の解釈と行動力によって、あっという間に協定締結まで進んでしまいました。
しかも通称は「海王様友好協定」。
伊織のスローライフは、また外交方面へ遠ざかっていきます。
次回は、魔族たちが伊織の実力を見たいと言い出します。
もちろん本人は戦う気などありません。
逃げるだけです。
でも、それで終わるとは限りません。




