第43話 魔王も勘違い
魔王ベルゼリアとの面会を終えた伊織。
魔王らしい威厳に緊張していたものの、ベルゼリアから向けられたのは敵意ではなく、長年の感謝と憧れでした。
しかし、安心するのはまだ早い。
案内された魔王の執務室には、まさかの海王グッズが大量に並んでいて――。
魔王もまた、かなり重めの海王信者でした。
「ずっと、お会いしたかったです」
魔王ベルゼリアは、私の前でそう言った。
魔王城の玉座の間。
黒い石で作られた広い空間。
青い炎が揺れる燭台。
強そうな近衛兵たち。
魔王軍四天王のグラン。
魔族代表のヴァルガ。
勇者和也。
賢者アリサ。
商人の大輔。
合理主義者レオン。
人魚姫ルナ。
漁師娘ミナ。
そんな全員の視線が、私とベルゼリアに集まっている。
そして、その中心で。
魔王が私に膝をついていた。
「……えっと」
私は困った。
とても困った。
魔王に会うこと自体が怖かったのに、その魔王が私の前で泣きそうになっている。
敵意はない。
威圧もない。
むしろ、感動している。
すごく感動している。
これはこれで怖い。
「とりあえず、立ってもらえますか?」
私がそう言うと、ベルゼリアは目を見開いた。
「私が、立ってもよろしいのですか?」
「うん。魔王さんだし」
「海王様の前で……」
「私、海王様じゃないし」
ベルゼリアは小さく微笑んだ。
「そのお言葉も、伝承通りです」
「またそれ」
駄目だ。
魔王も同じだった。
ヴァルガもグランも、私が否定すると全部いい感じに解釈してきた。
もしかして魔族全体がそうなのかもしれない。
いや。
その頂点である魔王がこれなら、もう駄目かもしれない。
ベルゼリアはゆっくり立ち上がった。
立ち姿はとても綺麗だった。
長い銀髪が黒いドレスの上に流れ、紫の瞳が静かに光っている。
魔王というより、夜の女王みたいだった。
怖い。
でも綺麗。
そして、海王信者。
情報量が多い。
「海王様」
「海王じゃないです」
「伊織様」
少し進歩した。
「まずは、遠いところをよくお越しくださいました」
「できれば来たくなかったです」
「ご無理をさせてしまいましたね……」
ベルゼリアは胸に手を当て、申し訳なさそうに目を伏せた。
普通なら失礼な言い方だったと思う。
でも本音だった。
魔王城なんて来たくない。
怖いし、面倒だし、絶対に何か起きる。
しかしベルゼリアは怒らなかった。
むしろ、感動していた。
「正直なお言葉……」
「そこ感動するところですか?」
「はい。海王様は、いつも飾らぬ真実をお伝えくださる御方ですから」
「違う。普通に嫌なだけ」
「それすらも尊いです」
尊くない。
ただの本音である。
ルナが隣で頷いていた。
「分かります。海王様のお言葉には、飾らぬ深みがあります」
「ルナ、魔王側に行かないで」
「私はいつでも海王様側です!」
「じゃあ助けて」
ルナはにこにこしている。
助ける気はなさそうだった。
和也はずっと緊張していた。
魔王が目の前にいるのだから当然だ。
彼は剣こそ抜いていないが、いつでも動ける姿勢を取っている。
「魔王ベルゼリア」
和也が低い声で言った。
「海王様に危害を加えるつもりはないんだな」
ベルゼリアは和也へ視線を向けた。
「もちろんです。勇者様」
「俺を勇者と知っているのか」
「ええ。転生者連合の勇者、神代和也様。海王様の側に立つ剣の方」
「剣の方……」
和也が少し複雑そうな顔をした。
たぶん悪い気はしていない。
でも魔王に丁寧に呼ばれるのは、処理に困るのだろう。
ベルゼリアは静かに頭を下げた。
「貴方が警戒するのは当然です。ですが、私は本日、争うためにここへお招きしたのではありません」
「では何のために?」
ベルゼリアは私を見た。
「感謝をお伝えするためです」
重い。
また感謝。
魔族の感謝はずっと重い。
私は何もしていないのに。
「だから、それはたぶん昔の海王様で、私は別人で」
「はい」
「はいじゃなくて」
「伊織様がそう仰ることも、理解しております」
「理解してるなら」
「ですが、魔族の民が受け継いできた感謝だけは、どうかお聞き届けいただきたいのです」
そう言われると、断りづらい。
ベルゼリアの声は真剣だった。
崇拝というより、長く抱えてきた気持ちをようやく伝えられる人の声だった。
私は小さく息を吐いた。
「聞くだけなら」
ベルゼリアの顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「聞くだけだからね」
「はい」
本当に分かっているだろうか。
少し不安だった。
その後、私たちは玉座の間から移動することになった。
ベルゼリアが言うには、もっと落ち着いて話せる場所があるらしい。
私は少し期待した。
お茶が出る部屋。
静かな応接室。
できれば椅子が柔らかい場所。
そういうものを想像した。
しかし。
案内された部屋の扉を開けた瞬間、私は固まった。
「……」
広い執務室だった。
黒い木の大きな机。
壁一面の本棚。
魔法の地図。
書類の山。
ここまでは普通だった。
魔王の執務室らしい。
問題は、その奥だった。
棚。
壁。
机の横。
窓際。
部屋のあちこちに。
海王グッズが並んでいた。
「……え?」
私は目をこすった。
見間違いではない。
海王グッズだった。
白髪の少女を描いた古い絵。
赤い触角と赤い尻尾を模した置物。
海老の形をした小さな護符。
波模様の旗。
『うるさい』『知らない』『眠いから帰る』と魔族文字で書かれた額縁。
そして。
なぜか。
海王ブランド干物の包装紙まで額装されていた。
「怖い」
思わず言ってしまった。
ベルゼリアは恥ずかしそうに微笑んだ。
「お見苦しいものをお見せしてしまいました」
「いや、見苦しいというか……多い」
「これでも控えめにしております」
「控えめ?」
これで?
私は部屋を見回した。
控えめの意味を考え直した方がいい。
明らかに多い。
かなり多い。
部屋の半分くらい海王様である。
魔王の執務室なのに、魔王より海王の主張が強い。
ミナが口元を押さえていた。
笑いをこらえている。
「伊織ちゃん……すごいね」
「すごくない。怖い」
「魔王様、ガチ勢じゃん」
「ガチ勢って言わないで」
ルナは感動していた。
「素晴らしいです……! 魔王様も海王様を深く敬っておられるのですね!」
「ルナは喜ばないで」
和也は困惑していた。
「魔王の執務室に……海王様のグッズが……」
勇者として、これをどう受け止めればいいのか分からない顔だった。
分かる。
私も分からない。
アリサは目を輝かせている。
「古い資料と近年の商品が混在していますね。これは海王信仰の歴史的変遷を調べる上で貴重な部屋です」
「研究しないで」
「少しだけ」
「少しだけ禁止」
大輔は額装された包装紙を見ていた。
「海王ブランド干物の初期包装紙ですね。王都経由で魔族領まで届いていたとは」
「届かなくてよかった」
「販路拡大の余地があります」
「拡大しないで」
レオンは壁の額縁を見ている。
「信仰、歴史資料、商業商品が同一空間に並んでいる。魔族側の海王認識は宗教、文化、政治が融合しているな」
「難しい分析やめて」
「これは重要だ」
「私には怖いだけ」
本当に怖い。
部屋のどこを見ても海王様。
しかも、たまに私に似ている。
古い絵の少女は、私より少し神秘的で、少し大人びている。
でも白髪。
赤い瞳。
赤い触角。
赤い尻尾。
似ている。
似ているのが一番嫌だ。
私はベルゼリアに聞いた。
「あの、この絵って」
「初代海王様の姿を描いたとされる写しです」
「初代」
嫌な単語が出た。
「海王様って何人もいるんですか?」
ベルゼリアは少し首を傾げた。
「伝承上では、海王様は一つの魂が時を越えて現れる存在とされています」
「やめて」
「どうかなさいましたか?」
「設定が重い」
「設定?」
「こっちの話」
一つの魂が時を越えて現れる。
それはとても嫌な情報だった。
私が昔の海王様ではないと言い続けても、魂が同じとか言われたら逃げ場が減る。
やめてほしい。
私はただの転生者でいたい。
いや、ただの転生者でも十分おかしいけど。
アリサが即座に反応した。
「魂の再来説ですか。転生システムとの関連が疑われますね」
「疑わないで」
「いえ、これは重要です。伊織さんの転生が偶然なのか、何らかの意図があるのか」
「偶然でいい」
「偶然と断定するには資料が増えすぎています」
「増えないでほしい」
ベルゼリアは机の引き出しから、一冊の古い本を取り出した。
表紙には、海老の触角のような紋章が描かれている。
「これは魔王家に伝わる海王記録です」
「魔王家にまで」
「はい。代々、魔王は海王様への感謝を忘れてはならないと教えられてきました」
「魔王の教育に入ってるんだ……」
重い。
魔王家の教育に私っぽい存在がいる。
怖い。
ベルゼリアは少し恥ずかしそうに言った。
「私は幼い頃から、この本を何度も読みました」
「そうなんですか」
「特に好きだった一節があります」
嫌な予感。
「聞かない方がいい気がする」
「海王様が黒き災厄を退けた後、魔族の長が涙ながらに感謝を述べた時の言葉です」
私は身構えた。
また私が言いそうな言葉が出てくる気がする。
ベルゼリアは本を開いた。
そして、優しく読み上げる。
「『お礼はいいから、静かにして』」
私は両手で顔を覆った。
言いそう。
すごく言いそう。
今の私なら絶対言いそう。
「違う……」
「伊織様?」
「違うのに、言いそうなのが嫌……」
ミナはもう笑っていた。
「伊織ちゃん、完全に言うやつ」
「言わない……いや、言うかも……」
「言うね」
「言うけど違う!」
ルナは目を潤ませている。
「海王様らしいお言葉です……感謝すら求めず、静けさを願う尊き御心……」
「ただ静かにしてほしいだけだと思う」
「それが尊いのです!」
尊くない。
本当に尊くない。
ベルゼリアは本を大切そうに閉じた。
「私は、この言葉に何度も救われました」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
ベルゼリアは少し遠い目をする。
「魔王として生まれた私は、幼い頃から多くの責任を背負っていました」
玉座の間で見た時より、声が柔らかかった。
「魔族を守らなければならない。人類に侮られてはならない。魔王軍を統べなければならない。弱さを見せてはならない」
「……」
「けれど、この本の中の海王様は、いつも肩の力が抜けているのです」
私は黙った。
ベルゼリアは続ける。
「偉大な力を持ちながら、偉ぶらない。感謝されても受け取らない。争いを嫌い、静けさを好み、眠い時は帰る」
「そこだけ聞くと、すごく駄目な人みたい」
「いいえ」
ベルゼリアは首を横に振った。
「私にとっては、救いでした」
その声は本物だった。
海王グッズが大量にある部屋。
最初は怖いと思った。
いや、今でも怖い。
でも、ベルゼリアにとって、それはただの趣味ではなかったらしい。
魔王として生きる中で、彼女を支えてきたもの。
それが海王伝説だったのだ。
私はどう反応していいか分からなかった。
私ではない。
昔の海王様の話だ。
でも、目の前の魔王は、私にその感謝を向けている。
困る。
すごく困る。
「だから」
ベルゼリアは少し頬を赤らめた。
「伊織様の噂を聞いた時、本当に驚きました」
「噂?」
「はい。海辺の村に現れた白髪赤眼の少女。赤い触角と紅き尾を持ち、海を豊かにし、争いを止め、働きすぎる転生者たちに休めと告げた存在」
「噂が全部恥ずかしい」
「私はすぐに思いました」
「嫌な予感」
「海王様がお戻りになったのだと」
「戻ってないです」
「はい」
「はいじゃなくて」
ベルゼリアはにこりと笑った。
魔王なのに、表情がとても柔らかい。
「そして、海王ブランドの商品を初めて見た時は、感動しました」
「そこ感動するところじゃない」
「思わず保管用、観賞用、布教用で三つ購入しました」
「怖い」
ガチ勢だった。
本当にガチ勢だった。
保管用、観賞用、布教用。
魔王がそれを言うのは怖い。
大輔が小声で呟いた。
「三つ買い……魔族市場の購買意欲は高いですね」
「大輔、黙って」
「はい」
ベルゼリアは机の横の棚を指した。
そこには、海王ブランド商品がきれいに並んでいた。
干物の包装紙。
燻製の箱。
海王温泉まんじゅうの空箱。
海王様湯のみ。
海王様手ぬぐい。
海王様木札。
なぜか、海王様見学ツアーの整理券まである。
「なんで持ってるの!?」
私は思わず叫んだ。
ベルゼリアは恥ずかしそうに言う。
「部下が王都経由で入手してくれました」
「流通しないでほしかった」
「特にこの整理券は貴重で」
「貴重にしないで」
「番号が七十七番なのです」
「知らないよ!」
海王様見学ツアー整理券。
それは私の家の前で勝手に配られていた、私のスローライフ崩壊の象徴である。
それが魔王城の執務室に飾られている。
怖い。
世界が怖い。
アリサは棚を見ながら言う。
「これは古代信仰と現代商業の融合ですね」
「融合しなくていい」
大輔は真面目に言った。
「海王ブランドの管理体制を見直した方がいいかもしれません」
「今さら?」
「魔王城まで届いているとなると、影響範囲が想定以上です」
「想定しないでほしかった」
レオンは静かに言う。
「伊織の個人情報管理が脆弱すぎる」
「それは本当にそう」
そこだけは同意した。
勝手に商品化され、勝手に観光地化され、勝手に魔王城まで届いている。
私の顔や名前はどうなっているのか。
プライバシーという概念は、この世界にあるのだろうか。
たぶん薄い。
とても薄い。
ベルゼリアは申し訳なさそうに頭を下げた。
「不快でしたら、すぐに片付けます」
「いや……」
私は部屋を見る。
確かに怖い。
海王グッズだらけは怖い。
でも、ベルゼリアの気持ちを聞いた後だと、ただ捨ててとも言いづらい。
彼女にとって、それは支えだった。
魔王として孤独に立ってきた彼女が、大事にしていたもの。
それを私が怖いから全部片付けてと言うのも、少し違う気がした。
「まあ、執務室の中だけなら……」
ベルゼリアの顔が明るくなる。
「よろしいのですか?」
「外に大きく飾ったりしなければ」
「ありがとうございます」
「でも、私の家の整理券は飾らなくていいと思う」
「これは宝物でして」
「怖い」
そこはやっぱり怖かった。
話が一段落したところで、お茶が出された。
魔王城のお茶。
黒い色をしている。
最初は少し不安だったが、香りは良い。
飲んでみると、ほんのり甘く、落ち着く味だった。
「おいしい」
私が言うと、ベルゼリアが嬉しそうにした。
「よかったです」
魔王なのに、反応が普通だった。
誰かにお茶を褒められて嬉しそうにする魔王。
なんだか、少し調子が狂う。
ミナもお菓子を食べている。
「このお菓子もおいしいね」
「魔族領の黒蜜菓子です」
ベルゼリアが説明する。
「魔王様、普通にお茶会してるね」
ミナが小声で言う。
私は頷いた。
「魔王って感じがしない」
「それ、本人の前で言って大丈夫?」
「小声だから」
たぶん聞こえていた。
ベルゼリアは少し笑っている。
和也はまだ緊張しているが、お茶には手をつけた。
そして少し驚いた顔をした。
「……うまい」
グランが誇らしげに頷く。
「魔王城の茶葉は品質が高い」
「魔族も、こういうものを楽しむのだな」
「当然だ。戦うだけが魔族ではない」
和也は何も言わなかった。
でも、その表情は少し柔らかくなっていた。
ベルゼリアはそんな和也を見て、静かに言う。
「勇者様」
「なんだ」
「いつか、人類と魔族がこうして同じお茶を飲める日が来ればよいと思っています」
和也は驚いたように魔王を見た。
「魔王が、それを望むのか」
「はい」
ベルゼリアは頷く。
「私は、無意味な戦争を望んでいません」
その言葉は、玉座の間よりもずっと静かに響いた。
「もちろん、魔族にも過去があります。人類との争いもあります。互いに傷つけ合った歴史は消えません」
「……」
「ですが、民の暮らしを守るために、争わずに済む道があるなら、私はそれを探したい」
和也は黙っていた。
魔王の言葉を、簡単には受け入れられないのだろう。
それでも、否定もしなかった。
私は二人を見ながら思った。
魔王ベルゼリアは、思ったより静かな人だった。
怖い魔王ではある。
執務室に海王グッズを大量に飾る怖さもある。
でも、ただ世界征服をしたい悪の魔王には見えなかった。
むしろ、働きすぎている人の顔をしている。
私はつい言ってしまった。
「ベルゼリアさんも、働きすぎじゃない?」
部屋が静まり返った。
やばい。
また言ってしまった。
ベルゼリアは目を丸くした。
「私が、ですか?」
「うん。書類多いし。顔もちょっと疲れてるし」
「……」
「ちゃんと寝てる?」
ベルゼリアは少し目を逸らした。
あ。
これは寝てない人の顔だ。
「魔王として、やるべきことが多く」
「寝てないね」
「最低限は」
「それ寝てないやつ」
和也、アリサ、大輔、レオンが同時に微妙な顔をした。
全員、過去に言われたことがあるからだ。
私はベルゼリアを見た。
「ご飯食べて、お風呂入って、寝た方がいいよ」
ベルゼリアはしばらく固まっていた。
そして。
ゆっくりと顔を伏せた。
「海王様……」
「違う」
「魔王である私にまで、休息を許してくださるのですね……」
「許すとかじゃなくて、普通に寝た方がいい」
「なんとお優しい……」
「だから普通」
グランが感動している。
ヴァルガも涙ぐんでいる。
ルナは当然のように感動している。
ミナは笑っている。
アリサは小さく呟いた。
「休息教義が魔族領にも広がりそうですね」
「広げないで」
大輔が考え込む。
「魔王城温泉休息プラン……」
「考えないで」
レオンが言う。
「過労状態の指導者に休息を促すのは、統治の安定にも有効だ」
「難しくしないで」
私はただ寝た方がいいと言っただけだ。
でも、ベルゼリアは真剣に受け止めていた。
「分かりました」
「え?」
「本日は、少し早めに休むことにします」
「おお」
通じた。
珍しく通じた。
いや、海王様解釈はされているけれど、結果として寝るなら良い。
私は少し安心した。
「それがいいと思う」
ベルゼリアは微笑んだ。
「伊織様にそう言っていただけて、心が軽くなりました」
「ならよかった」
魔王とこんな話をする日が来るとは思わなかった。
お茶を飲みながら、魔王に睡眠をすすめる。
人生、何が起きるか分からない。
いや、転生して触角と尻尾が生えた時点で、もう分からないことだらけだけど。
その後、ベルゼリアは古き盟約について話そうとした。
しかし、グランが控えめに止めた。
「陛下」
「何ですか、グラン」
「海王様は本日長旅でお疲れです。盟約の話は、明日以降でもよろしいのでは」
「……確かに」
ベルゼリアは私を見た。
「伊織様、申し訳ありません。私ばかり話してしまいましたね」
「いや、助かる」
正直、古き盟約の話まで聞いたら頭が爆発しそうだった。
今日は魔王城に来ただけでも大変なのだ。
さらに海王グッズ部屋まで見てしまった。
精神的には十分すぎる。
「では、本日は客室でお休みください」
「泊まり?」
私は固まった。
「え、帰るつもりだったんだけど」
ベルゼリアも固まった。
グランも固まった。
ヴァルガも固まった。
ルナが言う。
「海王様、もう夕方です」
「うん」
ミナも窓の外を見る。
「今から帰ると夜になるね」
「……」
和也も真面目に言う。
「夜間の移動は危険です」
アリサも頷く。
「魔族領の夜間生態系も気になりますが、安全面では滞在が妥当です」
大輔も言う。
「宿泊設備も用意されているでしょうし」
レオンも冷静だった。
「警備体制を確認した上で滞在する方が合理的だ」
全員、泊まる流れだった。
私は帰りたかった。
でも、夜道は怖い。
魔族領の夜はよく分からない。
影走りに乗って帰るのも嫌だ。
結果、泊まるしかなかった。
「一泊だけだからね」
私がそう言うと、ベルゼリアは嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです」
絶対にもちろんではない。
そう思った。
客室へ案内される前に、私はもう一度ベルゼリアの執務室を見回した。
海王グッズ。
古文書。
絵。
護符。
包装紙。
整理券。
サイン。
全部が大事そうに飾られている。
私は小さく呟いた。
「やっぱり、怖い」
ベルゼリアが少し恥ずかしそうに笑った。
「申し訳ありません。少し集めすぎました」
「少し?」
「はい。倉庫にはまだあります」
私は固まった。
倉庫。
まだある。
執務室だけではなかった。
私は深く息を吸った。
そして、心の底から言った。
「怖い」
お読みいただきありがとうございます。
今回は、魔王ベルゼリアの海王信仰が明らかになる回でした。
魔王の執務室に並ぶ海王グッズ、語録、伝承資料、そして海王ブランド商品。
伊織本人にとっては完全に「怖い」空間ですが、ベルゼリアにとっては幼い頃から支えになっていた大切なものでもあります。
魔王も敵ではなく、むしろ伊織を深く敬う側でした。
次回は、伊織の何気ない提案から、人類と魔族の関係が大きく動き始めます。
本人はただ「みんなでご飯でも食べれば?」くらいの感覚ですが、もちろん話はそれだけで終わりません。




