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第41話 魔族の村訪問

魔王ベルゼリアから正式な招待を受けた伊織。


もちろん本人は、全力で行きたくありません。


魔族領、魔王城、魔王軍。

名前だけ聞けば危険そうな場所ばかりです。


しかし、魔族側の海王伝承や古き盟約の話を無視するわけにもいかず、伊織はついに魔族領へ向かうことに。


怖そうな魔族の村で、伊織が見たものは――意外すぎる普通の暮らしでした。

魔王ベルゼリアからの返書。

それは、とても丁寧な手紙だった。

紙は黒に近い深い紫色。

文字は銀色。

封蝋には、角のある魔王軍の紋章が押されている。

見た目だけなら完全に怖い。

だが、文章は驚くほど礼儀正しかった。

『海王様。どうか一度、魔族領へお越しくださいませ』

私はその一文を何度も見た。

そして、何度見ても同じ結論に至った。

「行きたくない……」

本音だった。

魔族領。

魔王城。

魔王ベルゼリア。

どれも字面が強い。

私の理想である、魚、温泉、昼寝とは方向性が真逆である。

できれば関わりたくない。

だが、私の周囲はそう思っていなかった。

「海王様!」

ルナが目を輝かせている。

「魔王自ら海王様をお招きするなんて、すごいことです!」

「すごくなくていい」

「これは歴史的な会談になります!」

「歴史になりたくない」

ミナは手紙を覗き込みながら言った。

「でも、すごく丁寧な手紙だね」

「それはそう」

「魔王ってもっと、我が城へ来い、来なければ滅ぼす、みたいな感じかと思ってた」

「私も」

魔王ベルゼリアの手紙は、むしろ貴族の招待状みたいだった。

脅しはない。

命令もない。

ただ、会いたいという気持ちだけが丁寧に書かれている。

それが逆に断りづらい。

グランは私の前で片膝をついていた。

「ベルゼリア陛下は、海王様への敬意を第一に考えておられます」

「海王じゃないって言ったよね」

「はい」

「分かってないよね」

「海王様がそのように仰ることは、深く理解しております」

「理解の方向が違う」

ヴァルガも隣で頭を下げる。

「無理にお連れすることはございません。ただ、魔族領の民は、海王様の御来訪を心より望んでおります」

「民まで?」

「はい」

重い。

魔王だけではない。

魔族領の民まで待っているらしい。

私は人知れず頭を抱えた。

「でも、魔族領って危なくない?」

その問いに、和也が真剣な顔で頷いた。

「危険です」

「だよね」

「魔王軍の本拠地であり、人類側から見れば敵地です。油断はできません」

やっぱり。

行かない理由が増えた。

私は和也の言葉に乗ろうとした。

「ほら、危ないし」

だが、グランは静かに答えた。

「勇者殿の警戒は当然です。ですので、道中の安全は我らが全て保証いたします」

「保証されても怖い」

「さらに、勇者殿の同行も認めます」

和也が目を見開く。

「俺が?」

「はい。海王様の安全を案じるのであれば、ご同行ください」

意外だった。

魔王軍が勇者の同行を認める。

普通なら絶対に嫌がりそうなのに。

和也も少し戸惑っている。

「……罠ではないのか」

「罠であれば、わざわざそのような提案はしません」

「そうとも限らない」

「ならば、貴殿自身の目で確かめればよい」

グランは正面からそう言った。

その態度は、やはり堂々としていた。

四天王らしい迫力はある。

だが、不思議と卑怯さは感じない。

アリサは手紙を見ながら興味深そうに呟いた。

「魔族領の文化、古文書、海王伝承。調査対象としては非常に魅力的ですね」

「調査旅行じゃないよ」

「同行します」

「決定早い」

大輔も笑顔だった。

「魔族領の市場や物流も気になりますね。人類側との交易が可能なら、大きな変化になります」

「商売旅行でもないよ」

「同行します」

「みんな来る気だ」

レオンは腕を組んで考えていた。

「魔族領を直接見る機会は貴重だ。レオン派との対立後、転生者連合の外部評価にも関わる」

「難しい」

「外交視察だ」

「もっと嫌になった」

なぜ私の周囲は、魔族領行きを前向きに考えているのか。

怖くないのだろうか。

魔王軍四天王が目の前にいて、魔王から手紙が来ているのに。

ミナが私の顔を覗き込む。

「伊織ちゃん」

「なに?」

「行きたくない顔してる」

「行きたくないもん」

「でも、気になってる顔もしてる」

「……」

それは否定できなかった。

魔族側の海王伝承。

昔、魔族を救った海王。

私と似た見た目。

私が言いそうな言葉。

そして、魔王ベルゼリアが私に会いたがっている理由。

怖い。

面倒。

行きたくない。

でも、知らないまま放置するのも少し怖い。

私は深いため息を吐いた。

「……ちょっとだけ」

グランとヴァルガの顔が輝いた。

「海王様!」

「ちょっとだけ!」

私は慌てて言った。

「魔族領の入口の村を見るだけ。魔王城までは行かない。危なそうならすぐ帰る。あと、騒がない」

グランは力強く頷いた。

「承知いたしました」

「本当に?」

「まずは魔族領辺境の村へご案内いたします」

「普通の村?」

「はい。人類側との境に近い、穏やかな村です」

穏やか。

その言葉に少しだけ惹かれた。

魔族領なのに穏やかな村。

どんな場所なのだろう。

いや、警戒はする。

するけれど。

少しだけなら。

見に行くくらいなら。

「じゃあ、本当にちょっとだけ」

私がそう言った瞬間、ルナが感動の声を上げた。

「海王様が魔族領へ!」

「観光じゃないよ」

ミナが笑う。

「でもちょっと楽しそうじゃん」

「怖いよ」

「私も行くね」

「ミナも?」

「伊織ちゃん一人だと絶対面倒に巻き込まれるし」

「もう巻き込まれてる」

「じゃあ見届ける」

ミナは笑っていた。

こうして。

私は魔族領へ行くことになった。

行きたくないのに。

本当に行きたくないのに。

なぜか、気付けば行く流れになっていた。

いつものことだった。

翌朝。

港には、魔王軍の小型船が用意されていた。

大艦隊ではない。

そこはちゃんとお願いした。

もう大艦隊で港を埋めるのはやめてほしいと言ったら、グランたちは真剣に謝ってくれた。

今回は静かな黒い船が一隻だけ。

帆も小さく、威圧感もかなり抑えめだった。

それでも普通に魔王軍っぽい見た目ではある。

「この船で行くの?」

私が聞くと、ヴァルガが頷いた。

「はい。魔族領東海岸まで半日ほどです」

「半日……」

思ったより近い。

遠かったら断る理由になったのに。

和也は完全装備だった。

剣、鎧、予備の剣まで持っている。

「海王様、ご安心ください。俺が必ず守ります」

「うん。できれば戦わないでね」

「相手次第です」

「戦わないでね」

アリサは大量のノートを抱えている。

「魔族文字、古文書、生活魔法、食文化、建築様式……記録することが山ほどあります」

「旅行じゃないからね」

「調査です」

「もっと違う」

大輔は荷物を積み込ませていた。

「お土産用の商品サンプルです」

「売る気?」

「交流の第一歩です」

「物は言いようだね」

レオンは地図を見ている。

「魔族領の実地確認。予測と現実の差を検証する」

「仕事みたい」

「仕事だ」

「私は仕事じゃない」

「君は中心人物だ」

「嫌な言葉」

ルナは海に半身を浸しながら、船の横にいた。

「私は海路を並走します!」

「無理しないでね」

「海王様の御旅路をお守りします!」

また大げさだ。

ミナは普通に船に乗り込んでいる。

「伊織ちゃん、船旅だよ」

「楽しそうに言わないで」

「だってちょっと楽しみ」

「私は不安」

「まあまあ。魔族の村ってどんな感じか気になるじゃん」

それは少しだけ分かる。

少しだけ。

船は静かに港を離れた。

村人たちは見送りに集まっている。

「海王様、いってらっしゃい!」

「魔族領を平和にしてきてください!」

「お土産お願いします!」

「海王様万歳!」

重い。

見送りが重い。

私はただ隣の地域を見に行くだけのつもりなのに。

気分は完全に国賓訪問である。

私は船の縁に座り、海を見た。

波は穏やかだった。

船の進み方も静かで、思ったより揺れない。

魔族の船なのに乗り心地がいい。

「意外と快適」

私が呟くと、ヴァルガが嬉しそうにした。

「海王様のため、揺れを抑える魔導帆を使用しております」

「そうなんだ」

「船内には休憩室、温かいお茶、軽食もございます」

「意外と手厚い」

「もちろんです」

魔王軍というより、高級客船だった。

見た目は黒いけど。

船内に入ると、さらに驚いた。

通路は清潔。

部屋には柔らかい椅子。

窓から海が見える。

小さなテーブルにはお茶と焼き菓子。

魔族領の菓子らしい。

黒蜜のような香りがする。

「食べて大丈夫?」

私はグランを見る。

「もちろんです。毒味も済んでおります」

「毒味とか言われると逆に怖い」

「失礼いたしました」

ミナはすでに一つ食べていた。

「おいしいよ」

「早い」

「もちもちしてる」

私も恐る恐る食べてみた。

甘い。

黒糖に似た味。

少し香ばしくて、意外とおいしい。

「おいしい」

そう言った瞬間、魔族使節団が少し嬉しそうにした。

なんだか普通だった。

怖い魔族たちが、私がお菓子を食べて喜んだだけで嬉しそうにしている。

戦う相手という感じがしない。

和也もそれを見て、少し複雑そうだった。

「魔族にも、こういう菓子があるのか……」

「あるだろうね」

「俺は魔族領を、もっと荒れた土地だと思っていました」

「私も」

人類側で語られる魔族領は、暗くて危険で、魔物がうごめき、溶岩が流れ、常に戦争の準備をしている場所という印象だった。

でも、少なくともこの船の中は違う。

清潔で、静かで、お茶がおいしい。

アリサは菓子の成分を分析しようとしていた。

止めなかった。

大輔は菓子の市場性を考えていた。

止めたかったけど、疲れるのでやめた。

レオンは魔導帆を観察していた。

全員、魔族領へ向かう船の中で普通に過ごしている。

私は少し不思議な気持ちになった。

昼過ぎ。

水平線の向こうに、陸地が見えた。

魔族領。

そう聞いて身構えた。

だが、見えた景色は予想と違った。

黒い山々。

深い緑の森。

灰色の岩場。

そして、海沿いに広がる小さな村。

煙突から白い煙が上がっている。

畑がある。

港がある。

子供たちが走っている。

漁船のような小舟も並んでいる。

私は目を丸くした。

「普通の村だ」

思わず言ってしまった。

ヴァルガは穏やかに頷く。

「はい。ここは東海岸の村、ネブラです」

「魔族の村?」

「そうです」

「もっとこう……怖い感じかと思ってた」

「人類側では、そう伝わっているのでしょう」

ヴァルガは少し寂しそうに笑った。

「ですが、我らも日々暮らしています」

その言葉に、私は何も言えなかった。

船が港へ着くと、村の魔族たちが集まってきた。

角のある人。

尻尾のある人。

翼のある人。

肌の色もさまざま。

確かに人間とは違う。

でも、みんな普通の服を着ている。

漁師らしき人が網を担ぎ、母親らしき魔族が子供の手を引いている。

老人が杖をつき、商人が荷物を運び、子供たちがこちらを興味津々に見ている。

怖いというより、普通の生活があった。

「海王様だ……」

誰かが小さく呟いた。

その瞬間、村中がざわめいた。

「海王様?」

「本当に?」

「魔王軍の船で来られたぞ」

「あの赤い触角……」

「伝承の……!」

嫌な予感。

私は一歩下がった。

だが、村人たちは叫んだり押し寄せたりはしなかった。

みんな、その場で静かに頭を下げた。

深く。

でも、港を塞がない程度に。

ちゃんと配慮されている。

「なんか、礼儀正しいね」

ミナが小声で言った。

「うん」

私は少しだけ驚いていた。

人類側の村で海王様扱いされる時は、叫ばれたり、囲まれたり、サインを求められたり、観光名物にされたりする。

魔族の村は違った。

静かに頭を下げる。

そして、少し距離を取る。

近付きすぎない。

見つめすぎない。

意外と落ち着いている。

「なんでこんなに静かなの?」

私が聞くと、グランが答えた。

「海王様の安寧を乱してはならぬと伝えられております」

「誰か人類側にも伝えて」

本気でそう思った。

魔族の方が、私の静かな暮らしを理解している気がする。

皮肉だった。

村の中を案内される。

道は石畳ではないが、きちんと整えられていた。

家は黒い木材と灰色の石で作られている。

屋根には青黒い瓦。

窓辺には花が飾られていた。

魔族領の花は、夜光るらしい。

今は昼だから分からないけれど、淡い紫色で綺麗だった。

市場では、野菜や魚、茸、果物が並んでいる。

どれも少し見た目は違う。

紫色の芋。

青い魚。

黒い丸い果物。

光る茸。

しかし、売っている人たちは普通に値段交渉をしていた。

「三個で銅貨二枚だよ!」

「高いな、二枚で四個にしてくれ」

「無理無理、今朝採れたばかりなんだ」

普通だった。

あまりにも普通で、私は逆に困惑した。

「魔族も値切るんだ」

「当然です」

ヴァルガが答える。

「生活がありますので」

生活。

その言葉が、妙に胸に残った。

そうだ。

魔族にも生活がある。

市場があり、畑があり、漁があり、子供がいて、老人がいる。

人類側では魔王軍という一括りで語られていたけれど、ここにいるのは普通の人たちだった。

和也も黙って周囲を見ていた。

その顔は複雑だった。

「俺は……」

「うん?」

「魔族領を、もっと恐ろしい場所だと思っていました」

「私も」

「ですが、ここには普通の暮らしがある」

「そうだね」

勇者にとっては、かなり大きな衝撃なのだろう。

和也は魔王軍と戦う存在として転生した。

魔族は敵。

そう教えられてきたはずだ。

でも目の前には、普通に暮らす魔族の村がある。

剣を向ける相手には見えない。

アリサは市場の品を観察しながら興奮していた。

「魔族領の農作物、独自の進化をしていますね。光る茸は魔力蓄積型でしょうか。あの青い魚も、海流魔力の影響を受けている可能性が……」

「買って食べるならいいけど、解剖しないでね」

「食べながら分析します」

「それもどうなの」

大輔は既に商人たちと話していた。

「人類側では見ない商品が多いですね。保存方法や輸送手段次第で、交易品として大きな価値が出ます」

「会長、もう商談を?」

「挨拶です」

「それを商談って言うんじゃない?」

レオンは村の構造を見ている。

「防衛拠点としては弱い。むしろ生活優先の設計だ」

「戦う村じゃないってこと?」

「そう見える」

グランは頷いた。

「ネブラは漁と畑の村です。兵士は少数しかおりません」

「魔王軍の領地なのに?」

「全ての村が軍事拠点ではありません」

それもそうだ。

考えてみれば当たり前だ。

でも、私はその当たり前を知らなかった。

魔族領というだけで、全部が魔王軍だと思っていた。

少し恥ずかしい。

村の中央には、小さな広場があった。

そこに、石の祠がある。

祠には、海老の触角のような飾りと、波の模様が刻まれていた。

私は嫌な予感がした。

「これ、もしかして」

グランが真面目に答える。

「海王様の祠です」

「やっぱり」

祠の前には花と貝殻が供えられていた。

誰かが毎日手入れしているらしく、とても綺麗だった。

村の子供たちが、少し離れた場所から私を見ている。

そのうち一人の小さな魔族の女の子が、おずおずと近付いてきた。

小さな角。

黒い尻尾。

手には花を持っている。

「海王様……?」

私はしゃがんだ。

「海王様じゃないよ」

女の子は首を傾げた。

「じゃあ、伊織さま?」

「うん。それでいい」

珍しく通じた。

少し嬉しかった。

女の子は花を差し出した。

「来てくれて、ありがとう」

その一言は、妙に素直だった。

私は花を受け取る。

「ありがとう」

女の子は嬉しそうに笑って、母親の元へ走って戻った。

私は手の中の花を見る。

紫色の小さな花。

普通だった。

とても普通だった。

それが少し、心に残った。

昼食は、村の集会所で用意された。

もちろん、最初は断ろうとした。

大げさな宴会にされそうだったからだ。

しかし実際に出てきたのは、家庭料理に近いものだった。

焼いた魚。

茸のスープ。

紫芋の蒸し物。

黒いパン。

果物の蜜漬け。

見た目は少し不思議だが、匂いは良い。

「毒とかないよね?」

私が小声で聞くと、ミナが笑った。

「伊織ちゃん、さっきお菓子食べてたじゃん」

「それはそうだけど」

グランが真面目に答える。

「安全です。村の者が、海王様に失礼のないよう心を込めて作りました」

「そう言われると食べないわけにいかない」

私は魚を一口食べた。

おいしい。

少し脂が強い。

でも塩加減が良い。

香草の香りもする。

「おいしい」

そう言うと、集会所の外で待っていた村人たちが小さく歓声を上げた。

声を抑えている。

偉い。

人類側の観光客にも見習ってほしい。

「本当に普通においしい」

私はスープも飲んだ。

茸の旨味がある。

少し甘い。

体が温まる。

「魔族領、料理も普通においしいね」

ミナも頷く。

「うん。これ好き」

ルナも目を輝かせる。

「海とは違う味わいですね」

和也は静かに食べていた。

そして、ぽつりと言った。

「俺は、知らなかった」

「和也?」

「魔族の村にも、こんな暮らしがあることを」

その声は重かった。

勇者にとって、これはただの観光ではない。

敵だと思っていた相手の生活を知ること。

剣を向ける前に、人の顔を見ること。

それはきっと、簡単なことではない。

グランは和也を見る。

「勇者よ」

「……なんだ」

「我ら魔族も、人類全てを知っているわけではない。互いに知らぬまま、恐れ、敵と呼んできた」

「……」

「だから今日、貴殿がここに来たことにも意味がある」

和也は答えなかった。

だが、剣を握る手は緩んでいた。

それだけで十分かもしれない。

午後。

村をさらに案内された。

学校のような場所があった。

魔族の子供たちが文字を学んでいる。

畑では老人たちが作業している。

港では漁師たちが網を直している。

鍛冶場では、生活道具を作っていた。

剣や槍ばかりではない。

鍋。

釘。

農具。

包丁。

そういうものが多かった。

「魔族って、もっと戦うことばっかりしてるのかと思ってた」

私が呟くと、ヴァルガが静かに言った。

「戦う者もいます。ですが、暮らす者もいます」

「そっか」

「魔王軍は、そうした民を守るためにも存在しています」

魔王軍。

その言葉の印象が、少しだけ変わった。

もちろん、人類側と争ってきた歴史はあるのだろう。

危険な面もあるはずだ。

でも、今日見た魔族の村は、戦争のためだけの場所ではなかった。

普通に暮らし、普通に働き、普通に食べて、普通に笑っている。

「人類側より平和じゃない?」

私はつい言ってしまった。

ミナが吹き出す。

「伊織ちゃん、言っちゃった」

「いや、だって」

村は静かだ。

人々は礼儀正しい。

押し寄せてこない。

サインを求めて行列を作らない。

勝手に観光ツアーを作らない。

家の前に見学受付所を建てない。

今の私の村より、はるかに落ち着いている。

「ここ、住みやすそう……」

思わず呟いた。

その瞬間。

グランとヴァルガが固まった。

ルナも固まった。

和也もミナも私を見た。

「え?」

私が首を傾げる。

グランが震える声で言った。

「海王様が……魔族領をお気に召された……?」

「いや、そういう意味じゃ」

ヴァルガの目が輝く。

「ただちにベルゼリア陛下へ報告を!」

「しないで!」

遅かった。

魔族使節団の一人が走り出そうとしたので、私は慌てて止めた。

「違う! 住むとかじゃない! 落ち着いてるって意味!」

「落ち着いている……つまり海王様の安寧にふさわしい地と……!」

「違う!」

また勘違いが始まった。

せっかく静かな村だと思ったのに。

結局こうなる。

ミナがお腹を抱えて笑っていた。

「伊織ちゃん、魔族領でも通常運転だね」

「笑わないで」

ルナは少し焦っている。

「海王様、まさか魔族領へ移住を……?」

「しない」

「本当ですか?」

「しない」

「では、人魚王国にも別荘を」

「作らない」

大輔はすでに何か考えていた。

「海王様魔族領別荘計画……外交施設としては有効ですね」

「作らないって言ってるでしょ」

アリサは真面目に言う。

「定期滞在すれば、魔族側の伝承調査が進みます」

「しない」

レオンは冷静に言った。

「魔族領との関係強化には有効だ」

「レオンまで」

全員が勝手に話を広げようとする。

私は両手で顔を覆った。

やっぱり来るんじゃなかった。

でも。

村の景色は穏やかだった。

子供たちが走り、漁師が笑い、畑の上を風が抜ける。

遠くに黒い山々。

近くに静かな海。

魔族の村なのに、怖くなかった。

むしろ、私の村より少し静かなくらいだった。

夕方。

帰りの船へ向かう前に、村の人たちが見送りに来た。

相変わらず距離を保っている。

騒がない。

叫ばない。

ただ、静かに頭を下げる。

あの小さな女の子が、もう一度手を振った。

「伊織さま、また来てね」

私は少しだけ迷って、手を振り返した。

「うん。機会があったら」

その瞬間、周囲の魔族たちが静かに感動していた。

声は抑えている。

そこは偉い。

本当に偉い。

船に乗る直前、私はもう一度村を振り返った。

魔族領。

思っていたより普通だった。

思っていたより穏やかだった。

思っていたより、暮らしがあった。

人類側が語る魔族領だけでは、分からないことがたくさんあった。

「人類より平和かも……」

私は小さく呟いた。

今度は誰にも聞こえないように。

しかし。

グランには聞こえていた。

彼は深く頭を下げた。

「その御言葉、魔族領の民にとって何よりの誉れです」

「聞こえてた」

「はい」

「忘れて」

「生涯忘れません」

「忘れてぇ……」

無理だった。

私の言葉はまた一つ、魔族領で重く扱われることになった。

そしてその日の夜。

魔王城へ届いた報告書には、こう書かれたらしい。

『海王様、魔族領の村を人類より平和と評される』

私は知らない。

知らないところで、また話が大きくなっていた。


お読みいただきありがとうございます。


今回は、伊織が初めて魔族領の村を訪れる回でした。


魔族領と聞けば、怖くて危険な場所を想像してしまいますが、実際にあったのは畑、市場、子供たち、家庭料理、そして静かな暮らし。


伊織にとっては「人類側より平和じゃない?」と思ってしまうほど、落ち着いた場所でした。


もちろん、その一言も魔族たちには重く受け止められてしまいます。


次回はいよいよ魔王ベルゼリアと面会。

魔王は敵なのか、それとも――?

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