第40話 魔王軍の勘違い
魔王軍四天王グランから語られる、魔族側の海王伝承。
なぜ魔族たちは、ここまで伊織を「海王様」と信じているのか。
その理由は、どうやら遥か昔に魔族を救った存在と関係しているようです。
赤い瞳、海老の触角、紅き尾。
そして、本人否定まで伝承通り。
伊織にとってはまったく心当たりがない話なのに、周囲の確信だけがどんどん強まっていきます。
魔王軍四天王、深海騎士グラン。
彼は、私の家の前に立っていた。
全身を覆う深青の鎧。
背中には巨大な大剣。
立っているだけで周囲の空気が重くなるほどの威圧感。
そんな魔王軍幹部が、なぜか紙を両手で持っている。
しかも、ものすごく真剣な顔で。
「魔王様提出用です」
「提出用ってなに」
私は玄関先で頭を抱えた。
昨日も今日も、サインの話ばかりしている気がする。
私は作家でも芸能人でもない。
海老崎伊織である。
前世は普通の人間で、今は触角と尻尾が生えているだけの、平和に暮らしたいだけの存在だ。
なのに、魔王軍四天王からサインを求められている。
世界がよく分からない。
「グラン」
私は深く息を吐いた。
「はい」
「魔王様に提出するなら、私じゃなくてちゃんと報告書を書いた方がいいと思う」
「報告書は別途作成いたします」
「あるんだ」
「もちろんです」
グランは真面目だった。
真面目すぎて逃げ場がない。
「その上で、海王様直筆の御名を添えることにより、ベルゼリア陛下の御心も安らぐかと」
「安らがないと思う」
「安らぎます」
断言された。
魔王の心の安らぎに、私のサインを使わないでほしい。
「私は海王様じゃないし」
「はい」
「分かってないよね?」
「海王様がそう仰ることは理解しております」
「理解してるなら海王様って呼ばないで」
「それはできません」
「なんで」
グランは真剣な目で私を見た。
「我ら魔族にとって、海王様は恩人だからです」
私は固まった。
恩人。
その言葉は、昨日までの崇拝や歓迎とは少し違って聞こえた。
ただの信仰ではない。
もっと具体的な重さがあった。
「恩人?」
私が聞き返すと、グランは静かに頷いた。
「はい」
その時。
背後から声がした。
「それ、詳しく聞かせてもらえますか」
アリサだった。
いつの間にかいた。
早い。
こういう話になると本当に早い。
しかも手には筆記用具と記録用魔導具を持っている。
完全に聞く気だった。
その後ろには大輔、レオン、和也、ミナ、ルナまでいる。
みんないつの間に集まったのか。
「なんで全員いるの?」
私が聞くと、ミナが笑った。
「伊織ちゃんの家の前に四天王がいるって聞いたら、そりゃ来るよ」
「来なくていいよ」
「気になるじゃん」
「私は気にならない」
嘘だった。
少しだけ気になっていた。
魔族が私を海王様と呼ぶ理由。
古き盟約。
赤い瞳。
海老の角。
紅き尾。
自らを人と称する存在。
それが全部、私に結びつけられている。
気にならない方が無理だった。
和也は腕を組んで、グランを警戒している。
「魔族側の伝承か」
「そうだ」
グランは和也に頷く。
「勇者よ。貴殿ら人類が魔王軍を敵として語るように、我ら魔族にも古き歴史がある」
「魔族の歴史……」
ルナが少し身を乗り出す。
「人魚王国にも海王伝説はあります。ですが、魔族側の伝承はほとんど知られていません」
「それは当然だ」
グランは答えた。
「人類、人魚、魔族。それぞれに伝わる海王伝説は、同じ出来事を違う角度から語っている」
「同じ出来事……?」
私は嫌な予感がした。
アリサの目が光る。
「非常に興味深いですね。つまり、海王伝説は単一種族の神話ではなく、複数種族にまたがる広域伝承ということですか」
「そういう難しい説明を私の前でしないで」
頭が痛くなる。
でもアリサは止まらない。
「魔族側の伝承では、海王は何をしたんですか?」
グランは少しだけ目を伏せた。
その表情は、ファンの顔ではなかった。
騎士の顔。
そして、遠い昔の恩を語る者の顔だった。
「海王様は、かつて魔族を救った」
港から近い集会所に場所を移した。
理由は、私の家の前に人が集まりすぎたからだ。
四天王が昔話をする。
それだけで観光客が集まり、村人が集まり、商人まで屋台を出そうとした。
落ち着かない。
だから、ひとまず転生者連合の会議にも使われている広間で話を聞くことになった。
中央の机。
その周りに、私、和也、アリサ、大輔、レオン、ミナ、ルナ。
向かい側にグランとヴァルガ。
魔族使節団は部屋の隅で直立している。
直立しなくていいと言ったのに、彼らは「この方が落ち着きます」と言った。
魔族の落ち着き方はよく分からない。
グランは机の上に、古びた巻物を置いた。
黒い布で包まれている。
魔族文字のようなものが刻まれていた。
「これは魔王城の古文書の写しだ」
アリサが身を乗り出す。
「写しで構いません。見せてください」
「扱いには注意を」
「もちろんです」
アリサは目を輝かせて巻物を見る。
完全に研究者だった。
グランが説明を始める。
「遥か昔、魔族は今よりも弱い種族だった」
「魔族が?」
和也が少し驚いたように言う。
「人類側では、魔族は昔から強大な存在だったと伝わっています」
「人類にとってはそう見えただろう」
グランは静かに答える。
「だが、深海から現れた古き災厄の前では、我らもまた弱者だった」
「古き災厄?」
私は思わず聞いた。
嫌な単語だった。
災厄。
邪神。
古代。
この作品、そういう単語が出ると大体面倒になる。
グランは頷いた。
「名は失われている。ただ、魔族の古文書にはこう記されている」
彼は巻物の一節を指でなぞった。
「黒き殻を持つもの、深き海より現れ、陸と海の境を喰らう」
黒き殻。
深き海。
私は少しだけ背中が寒くなった。
アリサが小さく呟く。
「邪神ロブスター伝説と似ていますね」
「言わないで」
私は即座に言った。
その名前は嫌だ。
邪神ロブスター。
海底神殿で見た壁画。
巨大な存在。
海王伝説と繋がっていそうな、よく分からないもの。
まだ詳しく知りたくない。
できれば魚を釣っていたい。
でも、物語は勝手に進んでいく。
グランは続けた。
「その災厄によって、魔族の沿岸都市はいくつも滅びかけた。海は荒れ、港は沈み、魔力を持つ者ほど深海へ引きずられたという」
「怖い話になってきた」
ミナが小声で言う。
「うん。私も帰りたい」
「ここ室内だけど」
「精神的に帰りたい」
ルナは真剣な顔だった。
「人魚王国の古い伝承にも、深海より来る黒き災いの記述があります」
「やっぱりあるんだ……」
「はい。そして、その災いを鎮めたのが海王様だと伝わっています」
「出た」
私は顔を押さえた。
また海王様。
どこへ行っても海王様。
なぜ私が知らないところで、私っぽい伝説が増えているのか。
グランは私をまっすぐ見た。
「魔族側の伝承でも同じです」
「同じじゃなくていい」
「海王様は、魔族を救いました」
広間が静かになった。
グランの声は、重く、静かだった。
「災厄に追われた魔族の民が、海辺の崖へ追い詰められた時」
「うん」
「海が割れた」
「海が?」
「はい」
グランは続ける。
「赤き瞳を持つ少女が現れた」
私は嫌な汗をかいた。
「少女?」
「はい」
「海老の角を掲げ」
「触角ね」
「紅き尾を従え」
「尻尾ね」
「その少女は、荒れ狂う海へ向けて一言だけ告げたと伝わっています」
「なんて?」
グランは厳かに言った。
「うるさい」
広間が沈黙した。
私は瞬きをした。
「……うるさい?」
「はい」
「それ、本当に伝承?」
「はい」
アリサが巻物を確認する。
「たしかに魔族文字で、静まれ、黙れ、騒ぐな、という意味に近い単語が使われていますね」
「急に私っぽくなった」
嫌だった。
すごく嫌だった。
私も言いそうだ。
実際、よく言っている。
外が騒がしい時。
観光客が集まった時。
転生者たちが揉めた時。
何度も「うるさい」と言った。
でも、昔の海王様までそれを言っているのは困る。
一致しないでほしい。
グランは真剣だった。
「海王様がそう告げた瞬間、荒れ狂う海は静まり、黒き災厄は深海へ退いた」
「うるさいで?」
「はい」
「すごい言葉になってる」
「我ら魔族にとって、その一言は救いの言葉です」
重い。
「うるさい」が救いの言葉になっている。
困る。
すごく困る。
和也が感動したように呟く。
「海王様……古代より争いと災厄を静める御方だったのですね」
「違う」
ルナも涙ぐんでいる。
「やはり海王様は、海を鎮める存在……」
「違う」
ミナは笑いをこらえている。
「伊織ちゃん、伝説でも怒ってる」
「私じゃない」
そこは強く言いたい。
私はその時代にいない。
たぶん。
いや、絶対いない。
前世は現代日本だ。
昔の魔族を救った覚えはない。
私は誰も救っていない。
魚は救っていない。
むしろ釣って食べている。
「でも」
私はグランに言った。
「その海王様は私じゃないよ」
グランは真剣に頷いた。
「海王様はそう仰ると思っていました」
「だから違う」
「伝承にもあります」
「また?」
嫌な予感。
グランは巻物の別の箇所を示す。
「海王、己を救い手と認めず」
「……」
「ただ一言、こう告げる」
「……なんて?」
グランは言った。
「知らない」
私は机に突っ伏した。
言いそう。
私、言いそう。
完全に言いそう。
「知らない」はすごく言いそう。
いや、実際今も言っている。
本人だけ知らない。
それが伝承にまで書かれているのは、もう悪意を感じる。
世界が私を海王様にしようとしている。
やめてほしい。
アリサは興奮していた。
「これは非常に重要です。海王伝説における共通構造として、『本人否定』『無自覚』『災厄鎮静』『海老的形質』が確認できます」
「海老的形質って言わないで」
「正確には甲殻類的特徴ですが」
「どっちも嫌」
レオンが腕を組む。
「複数種族の伝承に共通点がある以上、完全な偶然とは考えにくい」
「レオンまで」
「ただし、海老崎伊織本人が過去に存在したと断定するには情報が不足している」
「そう、それ」
私はレオンを指差した。
「私、過去に行った覚えないし」
「だが、転生システム、時間軸、魂の循環、海老人族の長命性などを考慮すると、可能性は残る」
「残さないで」
残すな。
可能性を閉じてほしい。
大輔が落ち着いた声で言う。
「商業的には、魔族側にも海王様への深い信仰があると分かったのは大きいですね」
「商業にしないで」
「もちろん慎重に扱います」
「扱わないで」
「魔族向け海王ブランドは、信仰を傷つけない形で」
「だから売らないで」
全員がそれぞれの方向へ話を広げようとする。
私は頭が痛い。
魔族側の認識を確認したいだけだった。
なのに、話がどんどん大きくなる。
グランはさらに話を続けた。
「海王様は、魔族を救った後、何の見返りも求めず去られました」
「かっこいいね。その人」
「はい」
「私じゃないけど」
「そして、その時に残された言葉が魔族に伝わっています」
「また言葉?」
「はい」
私は警戒した。
さっきの「うるさい」と「知らない」で十分だった。
これ以上、私っぽい言葉が出てきたら困る。
「なんて言ったの?」
グランは厳かに答えた。
「眠いから帰る」
私は沈黙した。
広間も沈黙した。
そしてミナが吹き出した。
「伊織ちゃんじゃん!」
「違う!」
私は叫んだ。
「それは絶対私じゃない! いや、言いそうだけど違う!」
ルナは感動している。
「眠りを選ばれる海王様……!」
「選んでない」
和也は深く頷く。
「戦いの後に休息を重んじる。第34話の教えにも通じますね」
「第34話とか言わないで」
アリサが記録している。
「古代海王と現在の伊織さんの発言傾向に類似性あり……」
「記録しないで」
レオンが静かに言う。
「発言パターンが一致している」
「嫌な分析やめて」
大輔は何かを考えている。
「『眠いから帰る』は、商品名には向きませんね」
「商品にしなくていい!」
何を言っても駄目だった。
魔族側の伝承は、やたらと私っぽかった。
いや、たぶん私が言いそうなことを昔の海王様も言っているだけ。
偶然。
偶然だ。
そう思いたい。
グランは真剣に続ける。
「その後、魔族は海王様の恩を忘れぬよう、海辺に小さな祠を建てました」
「祠まであるの?」
「はい。魔族領の東海岸に、今も残っています」
「今も」
「そこでは毎年、海王祭が行われます」
私は嫌な予感で固まった。
「海王祭」
「はい」
「何するの?」
「海に感謝し、魔族の子供たちが海老の角を模した飾りをつけ、赤い尾を模した布を腰に巻きます」
「やめて」
「そして最後に全員で唱和します」
「聞きたくない」
「うるさい、知らない、眠いから帰る」
私は机に突っ伏した。
終わっている。
魔族の祭りで、私が言いそうな三大ワードが唱和されている。
意味が分からない。
魔族文化が思ったより変だった。
いや、もしかしたら海王様文化が変なのかもしれない。
そしてその中心に、なぜか私が置かれようとしている。
理不尽すぎる。
ルナは震えていた。
感動で。
「素晴らしいです……人魚王国の海王祭とも交流できるかもしれません……!」
「しなくていい」
「魔族と人魚が海王様を通じて繋がるなんて……!」
「繋げないで」
大輔が即座に反応する。
「共同祭典は観光資源になりますね」
「反応しないで」
「人魚王国、魔族領、海辺の村を結ぶ海王巡礼路……」
「作らないで」
商人は本当に怖い。
少し目を離すと、すぐに道を作る。
レオンも考え込んでいる。
「人魚王国と魔族領を結ぶ外交的共通項として海王信仰を利用すれば、人魔間の緊張緩和に使える」
「利用しないで」
「政治的価値が高い」
「価値を見出さないで」
私が疲れた顔をしていると、ミナが肩を叩いた。
「伊織ちゃん」
「なに?」
「もうこれ、本人だけ知らないパターンじゃない?」
「本人じゃないから知らないんだよ」
「でも伝承のセリフが伊織ちゃんすぎる」
「偶然」
「三つも?」
「偶然」
「見た目も?」
「偶然」
「海老要素も?」
「偶然!」
私は押し切った。
押し切れていない気もするけれど、押し切ったことにした。
グランはそんな私を、ますます尊敬の目で見ている。
やめてほしい。
「海王様」
「違う」
「自らの偉業を認めぬそのお姿、やはり伝承通りです」
「伝承が悪い」
「悪いなどとんでもない。魔族にとっては救いの記録です」
それを言われると弱い。
魔族にとって、本当に大事な伝承なのだろう。
グランもヴァルガも、冗談で言っているわけではない。
魔族たちはその海王様に救われた。
だから感謝している。
だから私を迎えに来た。
そう考えると、完全に否定して笑い飛ばすこともできなかった。
でも、私ではない。
そこは譲れない。
「グラン」
「はい」
「魔族が昔、海王様に救われたって話は分かった」
「ありがとうございます」
「でも、それは私じゃない」
グランは静かに私を見る。
私は続けた。
「私はその時代にいないし、魔族を救った覚えもないし、災厄も知らないし、海を割ったこともない」
「……」
「だから、感謝する相手は私じゃなくて、その昔の海王様だと思う」
広間が静かになった。
今度こそ伝わっただろうか。
私は真剣に言った。
ふざけていない。
本当にそう思う。
誰かが誰かを救ったなら、その感謝はその人に向けるべきだ。
私が受け取るものではない。
しかし。
グランは深く頭を下げた。
「やはり……」
「え?」
「やはり、海王様は感謝すら己のものとなさらない」
「違う」
「我らの想いを、過去の海王様へ返そうとなさるとは」
「違うってば」
「なんと清らかな御心」
「違うぅぅぅ!」
駄目だった。
また駄目だった。
真面目に言ったのに。
むしろ真面目に言ったせいで、さらに深く解釈された。
私は頭を抱えた。
グランだけではない。
ヴァルガも泣きそうになっている。
魔族使節団の一人は小さく嗚咽していた。
「感謝すら受け取らぬ海王様……」
「だからこそ、我らは感謝を捧げねば……」
「救いの御方……」
私は椅子からずり落ちそうになった。
無理。
本当に無理。
どれだけ否定しても、全部海王様ポイントになる。
本人否定。
謙虚さ。
記憶なし。
伝承通り。
感謝拒否。
清らかな心。
何をしても正解扱いされる。
これはもう、罠である。
海王様認定から抜け出せない罠。
アリサが真顔で言う。
「認識固定がかなり強固ですね」
「助けて」
「難しいです」
「難しいって言わないで」
レオンも頷く。
「一度信仰体系に組み込まれた存在は、否定材料すら補強材料になる」
「怖いこと言わないで」
「事実だ」
「事実が一番怖い」
大輔が穏やかに言う。
「ただ、魔族側の感謝が本物であることは確かですね」
「それは分かる」
そこが余計に難しい。
魔族たちは悪意で勘違いしているわけではない。
本気で、私を海王様だと思っている。
本気で、感謝している。
本気で、迎えに来た。
だから、ただ怒ることもできない。
私は深くため息を吐いた。
「どうしたらいいの……」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
しばらくして、ルナが静かに言った。
「海王様」
「その呼び方は置いといて」
「はい。伊織様」
少し進歩した。
「魔族の皆様の伝承が本当かどうかは、今すぐ分からないかもしれません」
「うん」
「ですが、魔族の皆様が今もその恩を大切にしていることは、本当だと思います」
私はグランを見る。
ヴァルガを見る。
魔族使節団を見る。
彼らはみんな真剣だった。
怖い見た目だけど、まっすぐだった。
「だから、一度お話を聞いてみるのもよいのではないでしょうか」
「魔王さんに?」
「はい」
それは。
嫌だった。
魔王城は怖い。
魔王も怖い。
絶対面倒だ。
でも。
このまま村に魔族使節団が滞在し続けても、話は進まない。
魔王ベルゼリア本人が何を考えているのかも分からない。
古き盟約の詳細も分からない。
そして、魔族側の海王伝説も分からないままだ。
私は考えた。
すごく考えた。
焼き魚のことを考える時より、ずっと考えた。
「……話を聞くだけなら」
私がそう呟いた瞬間。
グランとヴァルガの顔が輝いた。
「海王様!」
「行くとは言ってない!」
私は慌てて言った。
「話を聞くだけ! ここで! できれば魔王さんが手紙で!」
グランは深く頭を下げる。
「ただちにベルゼリア陛下へ報告いたします」
「うん」
「海王様が、魔王城訪問をご検討くださると」
「言ってない!」
「陛下はきっとお喜びになります」
「だから言ってない!」
駄目だった。
また伝わっていない。
いや、半分くらいは伝わっているのかもしれない。
でも都合よく変換されている。
その日の夕方。
魔族使節団は大急ぎで魔王軍の小舟へ連絡を送った。
内容はこう。
海王様、魔族の古き恩を御認識。
魔王ベルゼリア陛下との会談に前向き。
私はそんなこと言っていない。
まったく言っていない。
だが、魔族たちは大喜びだった。
村人たちも大騒ぎだった。
「海王様が魔王と会談するらしいぞ!」
「歴史が動く!」
「人類と魔族の関係が変わるかもしれない!」
「海王様すごい!」
すごくない。
私は何もしていない。
何も知らない。
むしろ。
一番知らないのは私だった。
魔族が救われたことも。
海王が何をしたのかも。
古き盟約の意味も。
なぜ見た目が私とそっくりなのかも。
魔王ベルゼリアが私に会いたがる理由も。
全部、私だけが知らない。
私は家の前で空を見上げた。
夕日が海を赤く染めている。
触角が、海風に揺れた。
「本人だけ知らないって、怖くない……?」
隣でミナが笑う。
「伊織ちゃんらしいね」
「らしくないよ」
「でも、気になるでしょ?」
私は黙った。
悔しいけれど。
少しだけ気になっていた。
その夜。
魔王軍の艦隊から、魔王城へ向けて黒い鳥が飛び立った。
その足には、グランが書いた報告書と、私がしぶしぶ書いた二枚目のサインが結ばれている。
私はそれを見送りながら、心の底から思った。
サインなんて書くんじゃなかった。
そして翌朝。
魔王ベルゼリアからの返書が届いた。
そこには、美しい文字でこう書かれていた。
『海王様。どうか一度、魔族領へお越しくださいませ』
私は手紙を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「行きたくない……」
お読みいただきありがとうございます。
今回は、魔族側の勘違いの根っこが少し明らかになりました。
昔の海王伝承と伊織の特徴が一致しすぎて、本人が否定してもまったく通じません。
むしろ「知らない」「眠いから帰る」まで伝承に残っているせいで、否定すればするほど信憑性が増していくという地獄です。
そしてついに、魔王ベルゼリアから正式な招待が届きました。
次回、伊織は魔族領へ。
怖そうな場所のはずなのに、そこで見たものは意外にも……?




