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第39話 四天王登場

魔王軍四天王、ついに登場。


深海騎士グラン。

全身を覆う深青の鎧と巨大な大剣を持つ、いかにも強敵そうな魔族です。


勇者・和也も即座に警戒し、ついに本格戦闘か――と思いきや。


この作品で、強そうな相手が素直に戦ってくれるとは限りません。


伊織の平和なスローライフを乱す新たな存在は、敵か、味方か、それとも……?

魔王軍四天王。

その言葉を聞いた瞬間、港の空気が一気に重くなった。

深海騎士グラン。

そう紹介された魔族は、見るからに強そうだった。

全身を覆う深い青の鎧。

背中に背負った巨大な大剣。

兜から伸びる鋭い角。

肩当てには海竜のような意匠が刻まれていて、歩くたびに金属音が低く響く。

一歩。

また一歩。

それだけで、周囲の冒険者たちが息を呑んだ。

「四天王……」

和也が低く呟く。

その手は剣の柄にかかっていた。

勇者として、完全に戦闘態勢だった。

「海王様、下がってください」

「言われなくても下がりたい」

私は素直に一歩下がった。

怖い。

普通に怖い。

魔王軍四天王なんて、名前からして強敵である。

どう考えても私の相手ではない。

私は焼き魚と温泉と昼寝の人間なのだ。

いや、今は人間のつもりの伊勢海老っぽい何かだけど。

とにかく、戦闘担当ではない。

アリサは目を細めて、グランを観察していた。

「魔力量が高いですね。鎧にも特殊な魔法刻印があります。おそらく水圧耐性、魔力増幅、防御結界、自己修復……かなり高度な装備です」

「分析しなくていいから止めて」

「敵性があるなら必要です」

「敵じゃないといいなぁ……」

大輔は周囲の商人たちに下がるよう指示していた。

「港周辺の人員を退避させてください。商品より人命優先で」

「会長、在庫は!」

「後です」

さすが大輔。

こういう時の判断は早い。

レオンは腕を組み、グランの歩幅や視線、魔族使節団の配置を見ていた。

「戦闘目的なら、単独で前に出るのは不自然だ」

「そうなの?」

「四天王級が単騎で港へ入るなら、威圧か交渉か暗殺だ」

「最後が怖い」

「だが暗殺なら正面から来ない」

「じゃあ交渉?」

「可能性はある」

少しだけ安心した。

ほんの少しだけ。

でも、目の前のグランはやっぱり怖い。

彼が近付くたびに、港の木箱がかすかに震えた。

魔族兵たちは緊張した面持ちで道を空け、ヴァルガは深く頭を下げている。

村人たちは遠巻きに見守っていた。

観光客たちは宿屋や市場の陰に隠れている。

でも、なぜか一部の観光客は覗き込んでいた。

「本物の四天王だ……」

「海王様の前に四天王が……」

「すごい場面に立ち会ってるぞ」

観光精神が強すぎる。

逃げた方がいいと思う。

ミナは私の隣で、少し引きつった笑みを浮かべていた。

「伊織ちゃん」

「なに?」

「あれ、さすがに強そうだね」

「うん。帰りたい」

「でも伊織ちゃん目当てっぽいよ」

「もっと帰りたい」

ルナは私の前に出ようとした。

「海王様は私がお守りします!」

「ありがとう。でも無理しないでね」

「はい! 海王様のためなら!」

無理しそうだった。

それが心配である。

深海騎士グランは、ついに私の前で立ち止まった。

近くで見ると、さらに大きい。

私より頭二つ分どころではない。

鎧のせいもあって、壁みたいだった。

見上げる首が痛い。

グランは兜の奥から私を見下ろしている。

表情は見えない。

ただ、赤黒い瞳だけが細く光っていた。

私は背筋を伸ばした。

怖いから。

できれば逃げたいけど、今逃げたら追いかけられそうで怖い。

「えっと……」

何か言わなければ。

でも何を言えばいいのか分からない。

初めまして。

お引き取りください。

戦いません。

サイン会は終了しました。

どれも違う気がする。

すると、グランの方が先に動いた。

彼は背中の大剣へ手を伸ばした。

和也が即座に剣を抜く。

「動くな!」

空気が張り詰めた。

冒険者たちも武器を構える。

アリサの魔法陣が展開される。

ルナの周囲に水が集まる。

私は固まった。

終わった。

ついに戦闘が始まる。

そう思った。

だが、グランが抜いたのは大剣ではなかった。

大剣の横に差してあった筒。

そこから、一枚の紙を取り出した。

白い紙。

丁寧に丸められていた紙。

グランはそれを両手で持った。

そして。

ものすごく緊張した声で言った。

「海王様」

「はい?」

「サインをいただけますか」

港が静まり返った。

波の音だけが聞こえる。

カモメが一羽、空を横切った。

私は瞬きをする。

和也も瞬きをした。

アリサも。

大輔も。

レオンも。

ミナも。

ルナも。

ヴァルガも。

村人たちも。

観光客たちも。

全員が、同じ顔をした。

「……サイン?」

私が聞き返すと、グランは鎧のまま、こくりと頷いた。

「はい」

声が震えていた。

戦闘の緊張ではない。

別の緊張だった。

憧れの人を前にしたような。

ファンのような。

いや。

まさか。

そんなはずはない。

魔王軍四天王である。

深海騎士である。

超強そうである。

そんな人が私のファンなわけがない。

「えっと」

私は紙を見る。

普通の紙ではなかった。

高級そうな厚手の紙。

端に金色の模様が入っている。

そこには、すでに小さな文字が書かれていた。

『海王様へ敬愛を込めて』

準備が良すぎる。

「これは……?」

「私物です」

グランが答えた。

「私物」

「はい。長年、いつか海王様にお会いできた時のために保管しておりました」

重い。

準備期間が重い。

私は思わず一歩下がった。

「長年って……」

「魔王軍に入る以前より」

「そんな前から?」

「はい」

グランの声は真剣だった。

「私は幼き頃より、海王様の伝承を聞いて育ちました」

「伝承」

また出た。

海王伝承。

魔族側にもあるらしいやつ。

厄介な予感しかしない。

グランは胸に手を当てた。

鎧がごん、と鳴る。

「深き海より現れ、弱き者を守り、驕れる強者を退け、種族を問わず救いを与える御方」

「たぶん別人だよ」

「己を誇らず、名乗らず、ただ静かに海を見守る御方」

「それも別人だと思う」

「海老の角と紅き尾を持ち、赤き瞳で真実を見通す御方」

「そこだけ急に私っぽくしないで」

本当に困る。

伝承の内容が、微妙に私と一致している。

それが一番怖い。

偶然にしては強い。

でも認めたくない。

私は海王様ではない。

人間のつもりなのだ。

グランは紙を差し出したまま、わずかに肩を震わせている。

巨大な鎧が震えている。

怖いのに、なんだか少し可哀想になってきた。

「グラン様」

ヴァルガがそっと声をかける。

「緊張しすぎです」

「分かっている」

グランの声は重い。

「だが、無理だ」

「無理」

「目の前に海王様がいるのだぞ」

「お気持ちは分かります」

分かるのか。

魔族の間では普通なのか。

私は頭が痛くなってきた。

和也が剣を下ろしかけて、困惑した顔をしている。

「海王様」

「なに?」

「敵意は……なさそうです」

「うん」

「ですが、油断は禁物です。四天王ほどの実力者がサインを求めてくるなど、何かの策略かもしれません」

「どんな策略?」

「サインを媒介に呪いを」

アリサが紙をじっと見た。

「魔力反応はありません。普通の高級紙です」

「では、署名を利用した契約魔法」

「契約陣もありません」

「では……」

和也が困っている。

勇者として、四天王がファンだという状況を処理しきれていないらしい。

私も処理しきれていない。

大輔は少しだけ商人の顔をした。

「魔王軍四天王にも海王様人気……これは魔族市場がかなり大きい可能性がありますね」

「すぐ商売にしないで」

「申し訳ありません。職業病です」

本当に職業病である。

レオンは冷静に呟く。

「魔王軍幹部級にも海王信仰が浸透している。これは単なる民間伝承ではない可能性が高い」

「難しい話にしないで」

「事実だ」

「事実っぽいから嫌なの」

ルナは両手を握りしめて感動している。

「海王様……魔王軍四天王にも慕われているなんて……」

「慕われた覚えがない」

「ですが、グラン様の想いは本物に見えます」

それは確かにそうだった。

グランの姿は、強敵というより、推しを前にしたファンだった。

鎧が怖いだけで。

中身はだいぶ緊張している。

ミナが私の横で小声で言う。

「伊織ちゃん、書いてあげたら?」

「えぇ……」

「悪い人じゃなさそうだし」

「それはそうだけど」

「ほら、あんなに震えてる」

見ると、グランはまだ紙を差し出したまま固まっていた。

巨大な四天王が、サイン待ちで硬直している。

周囲の魔族たちも息を呑んで見守っていた。

これはこれで、断りづらい。

「でも、サインするとまた変な伝説にならない?」

「もうなってると思う」

ミナがあっさり言った。

ひどい。

でも否定できない。

私は諦めて、紙を受け取った。

その瞬間。

港全体にどよめきが走った。

「海王様が紙を受け取られた!」

「グラン様の願いが!」

「歴史的瞬間だ!」

やめてほしい。

ただ紙を持っただけだ。

私は大輔から筆を借りる。

なぜ大輔が筆を持っているのかは、考えないことにした。

商人はだいたい何でも持っている。

私は紙の中央に、自分の名前を書いた。

海老崎伊織。

普通に。

それだけ。

「はい」

私は紙をグランへ返した。

グランは両手でそれを受け取った。

そして、固まった。

「……」

「どうしたの?」

「直筆……」

声が震えている。

「海王様の直筆……」

「名前書いただけだよ」

「家宝にします」

「しないで」

グランは紙を胸に抱いた。

鎧の胸に。

ぎゅっと。

紙が折れそうで心配だった。

「ありがとうございます……!」

グランはその場で膝をついた。

それを見た魔族たちも、一斉に膝をつく。

港にまた土下座の波が広がった。

「やめて! 港が詰まるから!」

私は慌てて止めた。

しかし遅かった。

村人たちがざわめく。

観光客たちが拍手する。

商人たちが「四天王サイン記念」とか言い始める。

もう駄目だった。

グランは紙を大切そうに筒へしまった。

そして、兜を外した。

中から現れたのは、意外にも整った顔立ちの魔族だった。

濃い青の髪。

鋭い目。

額に短い角。

表情は厳しいが、今は完全に感動で緩んでいる。

「私は、これで戦場に立てます」

「立たないで」

「このサインを胸に、どんな深海魔獣にも立ち向かえる」

「立ち向かわなくていい」

「海王様の御名が、我が剣に力を与えるでしょう」

「与えないよ」

グランは真剣だった。

怖いくらい真剣だった。

私のサインにそこまでの力はない。

前世でも、書類に名前を書くくらいしかしていない。

大したものではない。

しかしグランにとっては違うらしい。

彼はまっすぐ私を見た。

「海王様」

「海王じゃないです」

「その謙虚さも、我ら魔族の胸に深く刻まれております」

「刻まないで」

「私は本日、海王様のお姿をこの目で見られただけで、生涯の誉れです」

「大げさ」

「ですが、もし許されるなら」

嫌な予感。

「まだ何かあるの?」

「はい」

グランは真剣な顔で言った。

「握手をお願いできませんか」

港がまたざわめいた。

「グラン様が握手を求めたぞ!」

「海王様と四天王の握手……!」

「歴史だ!」

だから歴史にしないでほしい。

私は困った。

握手くらいなら別にいい。

でも、さっきサインだけでこの騒ぎだった。

握手したら何が起こるか分からない。

私はミナを見る。

ミナは笑っていた。

「伊織ちゃん、してあげなよ」

「面白がってるでしょ」

「うん」

正直。

ルナは感動しているだけで助けにならない。

和也はまだ警戒しているが、止める理由を見失っている。

アリサは観察中。

大輔は商機を見ている。

レオンは分析中。

味方がいない。

私はそっと手を差し出した。

「じゃあ、少しだけ」

グランはまるで神聖な儀式に臨むように、両手を慎重に差し出した。

大きな手だった。

鎧の手甲は外されている。

私の手がすっぽり包まれる。

「ありがとうございます」

グランは震えていた。

「海王様のお手……」

「普通の手だよ」

「温かい……」

「生きてるからね」

「これが海の王の温もり……」

「違う」

握手はすぐ終わった。

しかし周囲の反応はすごかった。

魔族たちが感動している。

村人たちも感動している。

観光客はなぜか涙ぐんでいる。

商人たちは「握手記念饅頭」を出そうとしている。

やめてほしい。

本当にやめてほしい。

その時、和也が前に出た。

「深海騎士グラン」

声は真剣だった。

グランも表情を引き締める。

「勇者か」

二人の視線がぶつかる。

今度こそ空気が変わった。

サインとか握手とかで緩んでいた空気が、一気に戦士同士のものになる。

「お前は魔王軍四天王だな」

「そうだ」

「人類に害をなすつもりなら、俺は見逃さない」

グランは静かに頷いた。

「当然だ。勇者よ」

「……」

「だが、今の我らは海王様をお迎えするために来た。戦う意思はない」

「それを信じろと?」

「信じずともよい。私の行動を見て判断すればいい」

グランは強かった。

ただのファンではない。

その言葉には、武人としての重みがあった。

和也もそれを感じ取ったのか、すぐには言い返さなかった。

グランはさらに続ける。

「私もまた、勇者という存在を侮らない。貴殿が人々を守るために剣を取るのなら、その覚悟には敬意を払う」

「……魔族に敬意を払われるとは思わなかった」

「敬意に種族は関係ない」

グランの言葉に、周囲が少し静かになる。

私は思わず彼を見る。

怖い見た目だけど、話している内容はまともだった。

魔王軍四天王。

敵か味方かは分からない。

でも、少なくとも卑怯な感じはしない。

和也は剣から手を離した。

「分かった。今は剣を収める」

「感謝する」

グランは軽く頭を下げた。

勇者と魔王軍四天王。

普通なら戦うはずの二人が、港でにらみ合いながらも剣を抜かなかった。

それは少しだけ、良いことのように思えた。

もちろん。

私のサインが原因でそうなったと言われるのは嫌だけど。

大輔が小声で言った。

「これは人魔間交流の象徴になりますね」

「しないで」

「すでになっています」

「やめて」

レオンも呟く。

「四天王が敵対せず、勇者が剣を収めた。政治的意味は大きい」

「大きくしないで」

「無理だ」

無理らしい。

私は肩を落とした。

その後、グランは正式に村へ滞在することになった。

もちろん監視付きで。

和也が監視役を申し出た。

グランはそれを受け入れた。

なぜか二人は少しだけ武人同士の空気になっていた。

私にはよく分からない。

アリサはグランの鎧に興味津々だった。

「深海騎士の装備、少しだけ調べても?」

「戦闘機密でなければ」

「本当ですか?」

「ただし、海王様の許可があれば」

「私に振らないで」

大輔は魔族使節団に宿と食事を手配している。

「料金は通常の二割増しで」

「会長」

「冗談です。今回は外交案件ですから」

商人の冗談は怖い。

レオンはグランと短く会話していた。

「魔王軍四天王が単独でここまで来た理由は?」

「海王様にお目通りするためだ」

「それだけか」

「それ以上に重要な理由があるのか?」

レオンが少しだけ沈黙した。

合理主義者には理解しづらいのかもしれない。

私にも理解しづらい。

いや、たぶん誰にも理解しづらい。

ただ、グラン本人にとっては本当に大事なことらしい。

夕方。

港の騒ぎも少し落ち着き、私はようやく家へ帰ることができた。

疲れた。

とても疲れた。

四天王が来た。

超強そうだった。

でもファンだった。

サインを書いた。

握手もした。

意味が分からない。

私は玄関の前で深く息を吐いた。

「今日はもう何も起きないで……」

そう願った。

だが、そんな願いが叶うなら、ここまで苦労していない。

家の前に、グランが立っていた。

「うわっ」

私は思わず声を上げる。

「申し訳ありません」

グランは深く頭を下げた。

「驚かせるつもりはありませんでした」

「気配が強いんだよ」

「以後、控えます」

控えられるものなのだろうか。

私は疲れた顔で聞いた。

「で、何?」

グランは少しだけ迷ったように視線を落とした。

巨大な四天王が、妙にそわそわしている。

怖さより不思議さが勝つ。

「本日いただいたサインについてですが」

「うん」

「魔王ベルゼリア陛下へ報告する必要があります」

「サインを?」

「はい。陛下も長年、海王様を敬っておられますので」

「魔王も?」

「もちろんです」

もちろんではない。

魔王が私を敬っている。

その情報は重すぎる。

グランはさらに続けた。

「そのため、非常に厚かましいお願いとは承知しておりますが」

「嫌な予感」

「もう一枚、サインをいただけませんか」

私は空を見上げた。

夕焼けが綺麗だった。

今日も世界は理不尽だった。

「魔王様提出用です」

グランは真剣だった。

私は頭を抱えた。

「サイン会じゃないんだけど……」


お読みいただきありがとうございます。


四天王グラン、登場しました。

見た目は完全に強敵ですが、中身はまさかの海王様ファンでした。


サインを求める四天王。

困惑する伊織。

警戒していた勇者・和也も、完全に肩透かしです。


魔王軍側の海王信仰が、ますます重くなってきました。


次回は、魔族側がなぜそこまで伊織を「海王様」と信じているのか、その勘違いの理由が少しずつ明らかになります。

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