第36話 魔王軍襲来
第四部「魔王軍編」開幕です。
転生者連合の騒動がひと段落したと思った伊織。
ようやく海辺で静かに魚を焼ける……はずでした。
しかし、海の向こうからやって来たのは、まさかの魔王軍大艦隊。
戦争か、襲撃か、それとも――?
今回も伊織本人の意思とは関係なく、事態は勝手に大きくなっていきます。
転生者連合。
それは、勇者、賢者、商人、合理主義者という、方向性の違いすぎる転生者たちが、ひとまず喧嘩をやめるために作られた組織である。
そして私は、そのリーダーにされた。
本人の意思はない。
同意もしていない。
むしろ全力で嫌がった。
だが、世の中にはどうにもならないことがあるらしい。
私は家の前で焼き魚を食べながら、ため息をついた。
「リーダーって何するんだろう……」
正直、分からない。
分かりたくもない。
できれば一生分からないままでいたい。
隣ではミナが干物をかじっていた。
「伊織ちゃんの場合、座ってるだけでいいんじゃない?」
「それならまだいい」
「でもたまに会議とかあるかも」
「嫌だ」
「たまに書類とか」
「嫌だ」
「たまに世界の命運とか」
「もっと嫌だ」
私は魚を一口食べる。
うん。
今日の焼き加減は良い。
皮がぱりっとしている。
これこそ大事なことだ。
世界の命運より焼き魚。
少なくとも私にとってはそうだった。
その時。
海の方から、ルナが水柱と一緒に現れた。
「海王様!」
「おはよう」
「おはようございます!」
ルナは今日も元気だった。
人魚姫なのに、最近は完全にこの村に馴染んでいる。
海から出てくる頻度が高すぎる。
「本日は転生者連合発足後、初めての平和な朝ですね!」
「そうだね」
平和。
良い言葉だ。
私はその言葉が大好きだ。
面倒ごとがなく、誰も騒がず、魚が焼けて、温泉が湧いて、昼寝できる。
それが平和である。
私は空を見上げた。
青い空。
穏やかな海。
市場の方から聞こえるにぎやかな声。
温泉街の湯気。
少し騒がしいけれど、昨日までの転生者戦争に比べればずっとましだ。
ようやく。
ようやく静かな日常が戻ってきたのかもしれない。
そう思った。
その瞬間。
私の触角が、ぴくりと動いた。
「……ん?」
嫌な感覚だった。
遠い。
けれど大きい。
海の向こうから、何かが来ている。
一つではない。
二つでもない。
もっと多い。
たくさん。
ものすごくたくさん。
私は焼き魚を持ったまま、海を見た。
水平線の向こう。
まだ何も見えない。
でも触角が反応している。
波の流れ。
船の揺れ。
大量の気配。
それがこちらへ向かっていた。
「伊織ちゃん?」
ミナが首を傾げる。
「どうしたの?」
「なんか来る」
「なんか?」
「船。たぶん、いっぱい」
その言葉に、ルナの表情が少し変わった。
人魚族だからか、海の異変には敏感らしい。
彼女はすぐに海へ目を向けた。
「確かに……海流が乱れています」
「観光船かな」
「この規模で観光船はないと思う」
ミナが苦笑する。
それはそう。
観光船だったら嫌だ。
でも、観光船じゃなかったらもっと嫌だ。
私は心の中で祈った。
どうか、ただの大量の魚群でありますように。
しかし。
しばらくして、港の見張り台から鐘が鳴った。
カンカンカンカンカン!
それは、警戒の鐘だった。
市場がざわめく。
温泉街の人々が海へ振り返る。
漁師たちが慌てて船を岸へ戻し始める。
そして、見張り台の男が叫んだ。
「船団だ!」
嫌な予感。
「巨大な船団が来るぞぉぉぉ!」
ものすごく嫌な予感。
私はゆっくり立ち上がった。
水平線の向こうに、黒い影が見え始める。
一隻。
二隻。
三隻。
いや、もっと。
十隻を超えている。
大きな帆船が、海を埋め尽くすように並んでいた。
黒い帆。
赤い紋章。
禍々しい装飾。
船首には、角のある魔物の像。
誰がどう見ても普通の商船ではない。
村の空気が凍った。
そして誰かが叫んだ。
「魔王軍だぁぁぁ!!」
その瞬間。
村中が大混乱になった。
「魔王軍!?」
「なんでここに!?」
「戦争か!?」
「海王様の村が狙われたぞ!」
「宿の客を避難させろ!」
「市場の商品をしまえ!」
「温泉客を出すな!」
「いや、温泉客を逃がせ!」
「どっちだよ!」
あちこちから声が上がる。
観光客たちは悲鳴を上げ、商人たちは荷物を抱え、漁師たちは港へ走る。
宿屋の女将さんが客を誘導し、温泉街の従業員たちが湯上がり客に服を着せている。
その横で、なぜか土産物屋だけは海王様非常用饅頭を売り始めていた。
たくましい。
たくましすぎる。
私は海を見たまま固まっていた。
「魔王軍って……」
言葉が出ない。
転生者戦争が終わったばかりなのに。
今度は魔王軍。
展開が早い。
速すぎる。
もう少し日常回を挟んでほしい。
「海王様!」
和也が走ってきた。
手には剣。
顔は完全に勇者だった。
「魔王軍です!」
「見れば分かる」
「ついに来ましたか……!」
「来なくていい」
和也は海を睨む。
その目は真剣だった。
さすが勇者。
魔王軍と聞いて、迷いがない。
こういう時だけ本当に頼もしい。
普段は魚釣りを奥義にする人だけど。
「海王様、下がっていてください」
和也が剣を抜く。
刃が朝日に光る。
周囲の冒険者たちも武器を構えた。
転生者連合の護衛たちも集まり始める。
「俺が食い止めます」
「いや、待って」
私は慌てた。
「まだ何もされてないよ」
「しかし魔王軍です」
「でも攻撃してきてないし」
「魔王軍です」
「会話しよう?」
「魔王軍です」
駄目だ。
勇者モードの和也は、魔王軍という単語に強い反応を示しすぎる。
そこへアリサが飛んできた。
本当に飛んできた。
魔法で。
「状況は?」
「魔王軍の大艦隊」
大輔も護衛を連れて現れた。
「最悪ですね。物流再開初日に魔王軍とは」
レオンも静かにやってくる。
「戦力分析を始める」
「始めないで」
私は言った。
だが、全員すでに臨戦態勢だった。
アリサは空中に魔法陣を展開し、船団の数を数え始める。
大輔は商人たちへ避難経路を指示している。
レオンは地図を広げ、港の防衛線を冷静に計算している。
和也は剣を構え、完全に前線へ出る気だ。
転生者連合、仕事が早い。
早すぎる。
「海王様!」
ルナが水の槍を作り出す。
「人魚王国も海上防衛に入ります!」
「待って。みんな待って」
私は両手を上げた。
「まだ何も分かってないから」
「ですが、あれは魔王軍の艦隊です」
ルナが真剣に言う。
「人魚王国にも伝わる、魔族の軍船です」
「そうなの?」
「はい。黒帆に赤角紋。魔王軍外洋艦隊の印です」
詳しい。
とても詳しい。
できれば知らなくてよかった。
村長も杖をつきながら走ってきた。
「海王様!」
「今度は村長」
「ついに魔王軍が攻めてまいりましたぞ!」
「攻めてきたかどうかまだ分からないよ」
「海王様を恐れた魔王が、先に仕掛けてきたに違いありません!」
「なんでそうなるの」
「海王様の威光が魔界にまで届いたのです!」
届かないでほしい。
迷惑である。
その間にも、魔王軍の大艦隊は近付いてくる。
黒い帆が風を受け、海面に影を落とす。
船の側面には大砲のようなものが並び、甲板には角や翼を持つ魔族たちが見えた。
数が多い。
本当に多い。
村の港に入りきるのだろうか。
そういう問題ではない気もする。
「距離、三百!」
見張り台から声が飛ぶ。
「二百五十!」
和也が剣を構える。
冒険者たちが息を呑む。
アリサの魔法陣が輝きを増す。
ルナの周囲に水が集まる。
レオンは冷静に言った。
「先制攻撃は非推奨だ。相手の目的が不明」
「珍しく同意」
私は頷いた。
和也がこちらを見る。
「ですが、攻撃されてからでは遅いかもしれません」
「それはそうだけど」
大輔が口を挟む。
「まずは交渉の余地を確認しましょう。戦闘になれば村の被害が大きすぎます」
「そう、それ」
私は大輔を指差した。
「戦うと村が壊れる。修理が面倒」
「理由が海王様らしいですね」
和也が感動した。
違う。
私は建物の修理とか謝罪とか補償とかが嫌なだけだ。
それに。
戦争なんて起きたら、温泉も市場も宿屋もめちゃくちゃになる。
せっかくみんな頑張って作った場所だ。
私は自分のスローライフを壊されたくない。
同じくらい、村の人たちの生活も壊されたくなかった。
「とにかく、攻撃しない」
私は言った。
「向こうが話す気あるか確認しよう」
その言葉に、周囲がざわめく。
「海王様が交渉を望まれたぞ」
「さすが、戦を避けるお心」
「海王様の慈悲だ」
違う。
ただ戦いたくないだけである。
大艦隊は港の手前でゆっくり停止した。
黒い帆が一斉に畳まれていく。
その光景は、かなり迫力があった。
威圧感がすごい。
船首の魔物像がこちらを睨んでいるように見える。
村人たちは震え、観光客は宿屋の陰に隠れ、冒険者たちは武器を握る手に力を込めた。
やがて、中央の一番大きな船から、小舟が下ろされた。
数名の魔族が乗っている。
先頭にいるのは、背の高い男性の魔族だった。
青黒い肌。
長い角。
銀の鎧。
背中に黒いマント。
いかにも強そう。
そして怖そう。
小舟は静かに港へ近付く。
和也が一歩前に出た。
剣を構えたまま。
「止まれ!」
魔族たちは港の手前で小舟を止めた。
代表らしき男が立ち上がる。
周囲の空気が張り詰める。
私は思わず後ろへ下がった。
だが、ミナが背中を押してきた。
「伊織ちゃん、前」
「押さないで」
「一応、海王様なんだから」
「一応じゃなくて違う」
ルナも隣で頷く。
「海王様、堂々となさってください」
「堂々としたくない」
しかし、なぜか私が前に出る流れになっていた。
和也が私を守るように剣を構える。
アリサが魔法陣を維持する。
大輔が護衛を控えさせる。
レオンが状況を見ている。
村中の視線が私に集まる。
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
私はただ朝ごはんを食べていただけなのに。
魔族代表の男は、港へ降り立った。
一歩。
また一歩。
重い足音が響く。
和也が剣をさらに構えた。
「それ以上近付くな」
魔族代表は和也を見た。
そして、少しだけ目を細める。
「勇者か」
「そうだ」
「貴殿と争うつもりはない」
「信じられると思うか?」
「信じるかどうかは、そちら次第だ」
和也の緊張が高まる。
まずい。
このままだと剣が出る。
私は慌てて言った。
「待って待って。話し合い」
魔族代表の視線が、私に向いた。
その瞬間。
彼の表情が変わった。
驚き。
感動。
そして、なぜか深い敬意。
私は嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
魔族代表は一歩下がった。
そして。
その場で膝をついた。
「え?」
私が声を漏らす。
和也も固まる。
アリサも目を見開く。
大輔の笑顔が止まる。
レオンですら眉を動かした。
さらに。
小舟に乗っていた魔族たちも次々と膝をついた。
それだけではない。
船団の甲板にいた魔族たちまで、一斉に膝をつき始める。
大艦隊全体が、まるで波のように頭を下げていく。
港は静まり返った。
村人も。
観光客も。
冒険者も。
転生者たちも。
誰も何も言えなかった。
魔族代表は深く頭を下げたまま、厳かな声で言った。
「長き時を越え、ようやくお目にかかれました」
私は後ろを見た。
誰もいない。
たぶん私に言っている。
嫌だ。
違ってほしい。
「えっと……どちら様?」
魔族代表は顔を上げた。
その目は、敵を見る目ではなかった。
崇拝に近い。
ものすごく嫌な予感。
「我ら魔王軍外洋艦隊、魔王ベルゼリア陛下の命により参上いたしました」
魔王。
出た。
魔王の名前が出た。
和也が剣を握る手に力を込める。
だが、魔族代表は戦う気配を見せない。
むしろ、もう一度深く頭を下げた。
そして言った。
「海王様をお迎えに参りました」
静寂。
波の音だけが聞こえる。
私は瞬きをした。
和也も。
アリサも。
大輔も。
レオンも。
ミナも。
ルナも。
村長も。
村人たちも。
観光客たちも。
全員が同じ顔をした。
そして、全員の声が重なった。
「え?」
お読みいただきありがとうございます。
ついに魔王軍が登場しました。
ただし、伊織の前に現れる勢力がまともに敵だったことは、あまりありません。
今回も本人は「帰りたい」「魚食べたい」くらいの気持ちですが、周囲は完全に歴史的事件として受け止めています。
次回、魔王軍の目的が明らかになります。
伊織のスローライフは、また遠ざかります。




