第2話 絶妙な転生とは
雑多な車輪の回る音。黄色い砂埃が舞い、咳込む。
高橋竜司はだだっ広い道路の片隅に立っていた。
先ほどまで東京優駿の鞍上にいたはずだ。いや、そこで落馬したんだったっけか。
シュウヘイは無事であってほしかったが、恐らく無理だろう。
いや待て、そもそもここはどこだ?
通りすがる人の雑多さに眩暈がしそうだ。アラブ系?あの子はどっからどう見ても最高に美人だぜ!ってそんな場合じゃない。いやしかし……あのどう見ても猫耳でしかない猫耳は本物じゃないだろうな?
そもそも言葉が分からぬ。どこか中東の国に転送された?いや、それでは説明できないことが多すぎる。
自分の体もなんか違う。軽量で筋量も少なかったはずの自分の腕が、なぜかムキムキに見える。デットーリか?分からぬことだらけである。
往来を行きかう馬車のような車を曳いているのは、ほとんどがでかいトカゲだ。竜だ。
職業病でつい見てしまうが、簡単な手綱で御せているあたり、おとなしい性質なのだろう。
夢じゃないかと頭を叩いてみるが、覚めはしない。
「夢なーらばどーれほどよーかったでしょう」なんて無意識に口ずさんで、俺は変になっちゃいないと言い聞かせる。竜が非現実感を改めて突き付けてきていた。
それにしても交通量が多い。道の隅に退避してあたりの観察に集中する。
気候はかなり乾燥していて暑い。車を曳くトカゲ向きと言えるだろう。道には排せつ物によるものか、馬の糞のような匂いも漂っている。
唐突に巨大な影が、通りを覆って竜司は身を竦める。
空を見上げ、刹那息を呑む。
空にも無数の飛影。
トカゲなんてとんでもない。優雅に舞う姿はまさにドラゴン。
羽を動かす筋の動きから、竜司は思わずターフに映る馬体のトモの張りを連想した。
しばしの間、自らの境遇も忘れて見とれてしまう。
微かな唸り声にやや疲れた首を戻せば、通りの端で一頭の小さめの竜がぐずっていた。荷車に繋がれた明らかに若い個体だ。
落ち着きなく前脚を鳴らし、尾を振って木箱を揺らしている。髭もじゃの御者の男は、苛立ったように手綱を引いてはみるが、竜は引けば引くほど首を固くする。
ああ下手だな、と竜司は思った。
そのとき。
小柄な少女が、するりと竜の横へ入り込んだ。赤茶けた髪を高い位置で結んでいる。日に焼けた肌にくりくりとした大きな目が特徴的だ。
歳は竜司よりずっと下だろうに、妙に場慣れしていた。少女は御者を軽く手で制すと、竜の真正面には立たず、斜め横からそっと首筋へ触れた。何かを話しかけている。
言葉は分からない。だが声色だけは不思議と柔らかかった。
竜の耳がぴくりと動く。さっきまで苛立っていた尾の動きが、少しだけ収まった。
竜司は目を細めた。
こいつ、分かってる。力で抑えようとしてない。怯えさせない位置を知ってる。呼吸を見てるんだ。
少女は口をすぼめてチューチューと竜に語り掛ける。小さく笑いながらポンポンと首を撫でる。
竜は諦めたように鼻を鳴らし、大人しく水桶へ顔を突っ込んで、飲み始めた。
手綱を取られた髭もじゃの御者の男も、呆れたように首をすくめて笑う。
あの歳で、あの距離感を取れるのは天性だ。厩務員にもたまにいる、動物からやけに好かれるやつだ。
視線を感じたものか、少女がこちらへ振り向く。どんぐりみたいに丸い目と、ぱちりと視線が合った。
その瞬間。
彼女はきょとんとして、ついで目をまん丸にして頭上を見やる。
雑踏を裂くように、甲高い悲鳴が響いた。
空を舞っていた飛竜のうち一頭が、不自然に高度を落としていた。巨大な翼が建物の屋根を掠める。次の瞬間、石畳へ荷車ごと叩きつけられた。
轟音。
悲鳴。
荷が散乱し、乾いた砂埃が爆ぜる。
落ちてきた飛竜は狂ったように咆哮し、繋がれたままの荷車を振り回していた。
御者らしき男が必死に手綱を引いているが、完全に逆効果だ。
「――ッ!」
言葉は分からない。だが、周囲の空気だけで十分だった。
逃げろ。近づくな。殺されるぞ。兵士らしき男たちが槍を構えて駆けてくる。
金属の擦れる音。怒号が周囲を制圧する。
そのときだった。人混みの奥から、子どもの泣き声が響いた。竜司は反射的にそちらを見る。
ひっくり返った荷車の陰。まだ五つか六つほどの小さな子どもが、石畳へ尻もちをついて泣いていた。
周囲の大人たちは、暴れる飛竜から逃げるので精一杯で、誰も助けにいけない。
飛竜が荷車を引きずりながら吠える。巨大な尾が石畳を薙ぎ、木片が弾け飛ぶ。
あの位置はまずい!
そう思った瞬間だった。赤茶けた髪が、人波の中から飛び出す。
あの少女だった。
相変わらず、言葉は分からない。
だが何をする気かは、一瞬で理解できた。
少女は一直線に子どもの元へ駆ける。周囲が悲鳴を上げた。飛竜の尾が大きく振り抜かれ、砕けた荷車の破片が宙を舞った。
まずい。
間に合わない。
竜司の身体は、考えるより先に動いていた。
人波をかきわけ、突っ切る。
少女が子どもへ飛びつくのと、ほとんど同時だった。竜司は二人まとめて抱え込み、そのまま石畳へ転がる。
頭上を木片がかすめた。
砂埃が視界を塞ぎ、背中へ鈍い衝撃が走る。だが、死んじまうほどの落馬に比べれば軽いもんだ。
腕の中で、小さな子どもが泣きじゃくっていた。
少女は咳き込みながらも、真っ先に子どもの頭を庇っている。
――ああ。こいつもそういうやつか。
自分が危ない時ほど、他人へ手を伸びるタイプ。厄介で、損な性分だ。
少女が顔を上げる。妙に覚悟の座った丸い目が、真正面から竜司を見つめていた。
その瞬間。飛竜の咆哮が、すぐ近くで炸裂した。
反射的に振り返ると、飛竜はすぐそこまで迫っていた。
兵士たちが槍を向けるたび、飛竜はさらに興奮している。
その瞬間、竜司の背筋がぞわりと粟立った。
違う!それは逆効果だ!
あれは怒っているんじゃない。怯えているんだ。
興奮した馬がそうであるように、恐怖はさらに恐怖を呼ぶ。真正面から抑え込めば、余計に暴れるだけだ。
竜司は槍を構える兵士を横目に制しながら、ゆっくり立ち上がった。
少女が何か叫ぶ。止めているのか?だが、竜司の足は止まらない。
飛竜と真正面から目を合わせないよう、半身で近づく。
呼吸を見る。
翼の震え。首の硬さ。視線の泳ぎ。
――右だ。
右側の何かに怯えている。片側だけ極端に怖がる馬は珍しくない。
竜司はゆっくりと手を伸ばした。飛竜が唸る。
だが引かない。
急に動くな。
逃げ道を塞ぐな。
恐怖を閉じ込めるな。
竜司は御者の手から半ば強引に手綱を掴み取った。
重い。
馬とは比べものにならない。
だが――。
「……大丈夫だ」
無意識に、日本語が漏れる。
手綱は引かず、むしろ呼吸にあわせて少し逃がしてやる。
円を描かせるように誘導し、暴走の勢いを横へ流す。
吐く。
吸う。
吐く。
飛竜の荒かった呼吸が、少しずつ変わっていく。
やがて。
飛竜の首から、ゆっくり力が抜けた。咆哮が止む。
石畳を削っていた爪が止まり、通りに静寂が落ちた。
竜司はそっと飛竜の首筋を叩く。興奮した馬を宥める時と同じように。
「……よし。いい子だ」
飛竜が低く喉を鳴らした。
やれやれ。2歳馬の返し馬よりは簡単だったか?なんてうそぶいてみる余裕はある。
その様子を、豪奢な衣服の男が鋭い目で見つめていた。
歳は五十前後だろうか。
陽に焼けた浅黒い肌。よく手入れされた口髭。纏っている外套は派手ではないが、一目で上等と分かる。
周囲の兵士たちが自然と道を開けているあたり、相当な身分なのだろう。
その隣では、先ほどの少女が興奮した様子で何かを訴えていた。こちらを指さしている。
たぶん、助けたことについて話しているのだろう。
男は少女の言葉を静かに聞き終えると、ゆっくり竜司の前まで歩み寄ってきた。
鋭い目だった。だが攻撃的な視線ではない。値踏みする目だ。
男は竜司の顔を見つめ、それから黒髪へ視線を落とした。低い声で何かを話しかけてくる。
当然、分からない。アラビア語でも英語でもない。まるで聞いたことのない響きだった。
「……すまん。何言ってるか全然分からん」
竜司が思わずそう返すと、男の片眉がぴくりと動いた。やはり通じていないらしい。
男は数秒、黙って竜司を観察した。その視線が妙に鋭い。
まるで、馬体のコンディションを見抜こうとしている調教師みたいだと、竜司はふと思う。
やがて男は小さく息を吐き、背後の兵士たちへ短く命じる。
途端に空気が変わった。槍先が下がる。だが包囲は解かれない。
兵士たちが左右へ広がり、竜司の退路を自然に塞いでいた。
あ、これ捕まったくね?
竜司はようやく察した。ただし妙だった。手荒に確保もできそうなものだが、兵士たちは妙に丁重だった。危険人物というより、恩人に接するように距離を取っている。
少女が竜司の袖を軽く引いた。ついて来い、ということだろうか。
通りの奥には、黒塗りの大きな竜車が停まっていた。兵士に囲まれながら歩かされる。
逃げようと思えば逃げられるか?いや無理だな、と竜司は冷静に判断した。
言葉も土地勘もない。そもそもドラゴンが飛んでる世界で生き抜ける気がしない。
竜司は諦めて肩を竦めた。
「まあ、扱い優しいしな……この子可愛いし、ちょい服エロいしな……最高だな……」
ピンチでも感想が俗物である。そしてもちろん日本語なので誰にも通じない。言いたい放題である。
少女だけが、きょとんとした顔でこちらを見上げていた。
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遥か上空。
騒動を見下ろしていた賭け事の神ニチャ・ヌケテールは、ようやく安堵の息を吐いた。
「いやぁ〜危なかったぁ……」
あと少し兵士が早く槍を投げていたら。
あと少し飛竜の鎮静が遅れていたら。
あと少し少女の飛び出す位置が違っていたら。
高橋竜司は、転生初日に死んでいただろう。
ニチャはげんなりした顔で頭を掻く。
「イキのやつ、”竜司が再就職しやすい場所”に飛ばすとは言ってたけどさぁ……普通あんな危険地帯に落とすかか!?」
だが結果として、竜司は暴竜を鎮め、権力者の目に留まり、この世界で生き残るための“最初の庇護”を手に入れた。言葉も通じぬ異世界人など、この世界では珍しくない。だからこそ、価値もない。
身元不明の流れ者など、奴隷落ちすれば運がいい方だ。
その最悪の分岐を、竜司は自分の技術だけで回避したのである。
ニチャは豪快に笑った。
「ま、でも」
空の彼方で、巨大な飛竜たちが旋回する。
「天才騎手の第二レースにしちゃ、上々のゲート出かな」




