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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.3―School―
24/72

School.6 波瀾

「ッ、(いた)……」

 後頭部の痛みに呻いて、アレクシスは目を覚ました。

 前後の記憶が軽く飛んでいる為に、状況の把握が出来ない。

 しかし、横たわっているのはお世辞にも寝心地がいいとは言えない場所だ。ゴツゴツとして、平らではなく、でこぼこしていて――まるで煉瓦の上に寝ているような気分だ。

 ノロノロと身を起こして見回すと、周囲は薄暗かった。明かり取りの窓から入る外部の光が、辛うじて室内を浮き上がらせている。

 最初の印象通り、部屋は煉瓦造りだった。形としては四角錐に近く、遙か遠く上部に見える小さな明かりが、明かり取りの穴だろう。どうやら、通風孔を兼ねているようだ。

(……それにしても、何であたしこんなトコにいるんだっけ)

 一体、自分に何があったのかを、必死で思い出そうとする。

「気が付きましたか?」

 すると、記憶を辿るよりも早く、横合いから声が掛かる。

 視線を顔ごと声のした方へ振り向けると、重そうな鉄の扉の上部に設えられた小窓から、見覚えのある丸い目が覗いていた。

「貴方は……」

「全く、余計なコトをしてくれましたねぇ。貴女も、リディアさんも――」

 その時、アレクシスの頭の中で、真ん丸い目の持ち主の記憶が(はじ)き出される。

「あ、貴方、まさか……!」

「驚いちゃいました? まあ、無理もありませんね。一度、会ってますものねぇ、ミズ・レヴァイン――いえ、アレクシス=グレンヴィル刑事?」

「何ですって?」

 アレクシスは、今度こそ目を剥いた。何故、自分の素性が割れているのか。

「院長に伺いました。貴女は以前、エレン=クラルヴァイン嬢の後見人として、ここへ来たコトがあるそうですね」

(院長ですって?)

 再度、反問したくなるが、それは口に出さなかった。状況がはっきりしない以上、何が墓穴を掘ることになるか分からない。

「そう言えば、エレン……お嬢様は」

「あら。この状況でレヴァインとしての演技を捨てないなんて、流石ですねぇ。まあ、いいでしょう。エレンさんなら、無事ですよ。元通り、ヴォドラーシュカ寮の六〇五号室へお連れ致しましたから、ご安心下さい」

 人の良さそうな大きな瞳が、にっこりと微笑む。

 この頃には、アレクシスの記憶も既に巻き戻しを終えていた。

 そう、確か、ティオゲネスが連絡して来た内容を踏まえて、取り敢えずエレンだけを連れ出しに来て――その後、後頭部に一撃貰って、さっきまで意識を失っていたのだ。

(油断した……!)

 疑わしいのが院長なら、それ以外に仲間がいる筈がないと思い込んでいた。というより、考えてもみなかったと言った方が正しい。

 自分の迂闊さに唇を噛み締めそうになるが、辛うじて表面上は無表情を貫く。

「……貴方も大した役者ね。あたしを最初から疑ってたなら、どうして三〇五号室に行くのを阻まなかったの?」

「院長に知らされたのはその後でしたから、正直『しまったぁ』とは思いましたけどね。ま、調べ回ったところで、何も出て来なかったでしょう?」

 事実その通りだったので、アレクシスは内心歯軋りしたい気持ちながら、口では別のことを訊ねた。

「どうして、あたしを生かしておくの」

「保険、だそうです」

「保険? 何の」

「それは言えません。後の楽しみがなくなりますからね」

 クスクスと楽しげに笑う声が聞こえて、小窓が閉じる。と思うと、またすぐにその小窓が開いた。

「あ、そうそう。逃げ出そうとか、他の不穏なコトは考えない方がいいですよ。リディアさん――もとい、アッシュが悲しまない為にもね」

「アッシュ? 誰のこと?」

 眉根を寄せて問うたが、丸い瞳の持ち主はそれには答えず、煉瓦造りの室内にアレクシスを残して、今度こそその小窓を閉じた。

 残されたアレクシスは、溜息を吐いて立ち上がる。

 改めて室内を見回すと、部屋にはもう一つ扉があった。開けてみると、そこはトイレだった。

「はぁ……まあ、準備のいいことで」

 一人ごちて扉を閉じる。

(ってコトは、敵さん、あたしを相当長居させる気ね)

 まあ、飢え死にさせる気がなければ、だけど。

 考えたくもない可能性を脳裏で付け足して、アレクシスは改めて、牢屋の片隅に腰を下ろした。

(リディアが即ちアッシュってコトは……アッシュってティオのコト?)

 ティオゲネスが『アッシュ』と呼ばれていた場所を、アレクシスは知らない。

 しかし、心当たりがない訳でもない。

(まさか……ヴェア=ガングが絡んでるの?)

 組織の崩壊が、まだ完全に終結した訳ではないことは、アレクシスも知っていた。

 組織の手入れをした時、討ち漏らした者や、取り逃がした者も相当数いるし、表の世界に公表出来ないことだがCUIO内で指名手配されている者もいる。

 けれど、それが今回のルシンダ=ランフランク殺害の一件に絡んでいるとは予想外だった。

 それが最初から分かっていれば、もっときちんとした装備で乗り込むことも考えたし、間違ってもティオゲネスを関わらせようとは思わなかっただろう。

(……畜生!)

 口に出さずに、誰にともなく悪態を吐きながら、アレクシスは力任せに拳を壁に叩き付けて、次の瞬間、痛みに暫し身悶える羽目になった。

「~~~ッ、たぁー……」

 情けない呻き声を上げながら、叩き付けた右手を、痛みを逃そうとするようにパタパタと振る。

(とにかく、どうにかして逃げ出さなくちゃ)

 痛みで出た涙がまだ溜まった瞳を決然と上げると、アレクシスはおもむろに立ち上がった。


***


「……もう危険だ。すぐに離れてくれ」

 ぼんやりと目を開けたエレンの耳に、最初に飛び込んで来たのは、そんな言葉だった。

(あれ……あたし……)

 あたし、どうしたんだっけ? と思いながら、横たわったまま首を捻る。

 しかし、ベッドの枕元に設えられたヘッドボードに遮られて、誰が話しているのか咄嗟には判断できない。

「いや。今どんな感じだ」

 程なく、再度聞こえてきた声音は、ティオゲネスのそれだと分かった。けれども、その後語られた内容は、エレンには衝撃的なものだった。

 エレンとアレクシスの二人と別れた後、ティオゲネスはセシリアの襲撃を受けたという。襲撃とは何なのか、何故、セシリアがティオゲネスを襲うのか、前後の関係がさっぱり理解できない。

「ヴェア=ガングの上層部がまだ外にもいるのは知ってるけどよ。今回の一件に絡んでるなんて、聞いてねぇぞ」

(ヴェア、ガング?)

 何、それ。それは、一体何のコト?

 しかし、口に出さないエレンの疑問に、勿論ティオゲネスが答えることはない。

「……俺、ハウエルズに呼び出し食ってんだよなー。今夜、体育館の裏――もとい、院長室まで来い、だとさ」

 若干(おど)けたような口調の割には、声色が大真面目だった。

 誰かが何か言うような間を置いて、またも彼の口からショッキングな台詞が漏れる。

「……アレクの命が、儚く消えるコトになるかも知れない」

(アレクさんが……何?)

 命が、儚く消える。

 それは、一体どういう意味だろう。

「……潜入捜査の意味もなかったな」

(潜入、捜査?)

 ティオゲネスの言うことは、もう既にエレンの脳の許容量を遙かに越えている。

 更に、次の言葉には、それまでとは別の意味で心臓が止まりそうになった。

「……先に言っとくけど、俺はエレンとアレクのどちらかを選ばなきゃなんない局面に出くわしたら、エレンを優先するぞ」

 そんな場合じゃない、と思いつつも、心臓がコトリと跳ねて、キュッと縮む。

 べべ、別に、あたしはティオを男の子として意識してる訳じゃないけど、でも、あんな綺麗な顔の男の子にあんなコト言われたら、何て言うか、まるであたしが恋愛小説のヒロインみたいよね――といったことを一気に脳裏に展開し、上気した頬を、次のティオゲネスの台詞があっさりとクールダウンさせた。

「……消灯後、って言われただけで、正確な時間は分からねぇな。まあ、こっちに任せるってコトだと思うけど。消灯は、二三〇〇」

 消灯後、何があるというのか。

(……えっと……呼び出されてる、とか言ってなかったっけ)

 誰に呼び出されたかは、もうエレンの頭には残っていない。ただ、院長室、という単語は覚えていた。

 院長室に消灯後、呼び出されている。一体、誰に、何の用で?

「……さあね。保障は出来ませんが、やってみますよ、ボス」

 再度、戯けたような口調で言ったティオゲネスは、今度は随分長いこと沈黙していた。やがて、彼の頭部がヘッドボードの端から見え、顔が現れる。

 先刻、別れた時と寸分違わぬ格好だったが、表情だけが珍しく冴えなかった。

 伏せた瞼の下にある翡翠の瞳が、スイと動いてエレンの視線を捕らえる。微かに目を見開いたティオゲネスは、「起きてたのか」と驚いたように呟いた。

「……ティオ」

 やや躊躇った後に、エレンは口を開いた。

 明らかに寝起きでない声に、ティオゲネスも気付いただろう。しかし、それを取り繕うこともせずに、エレンは彼の視線を捕らえて続ける。

「『ヴェア=ガング』って何?」

 問うた途端、ティオゲネスははっきりと顔を強張らせた。

(え……何。あたし、何かマズいコト訊いた?)

 いつもはポーカーフェイスの彼が、こんな風に感情を露わにするのも珍しい。

 しかし、次の瞬間、ティオゲネスはいつもの皮肉っぽい笑みを浮かべて、「さあ、何だろうな」と言った。

「ティオ」

「そろそろ起きといた方がいいぜ。後一時間くらいで夕食だからな。二度寝すると食いっ(ぱぐ)れる――」

「ティオ!」

 明らかにはぐらかしながらベッド脇を通り過ぎようとするティオゲネスに、エレンは思わず彼の身に着けたワンピースの裾を引っ張った。

 ティオゲネスは、引き留められた体勢のまま、エレンを振り返ろうとしない。だが、エレンは構わなかった。

「何が起きてるの。あたし、さっきティオと図書館の脇の森で別れたわよね。何で、またこの寮の部屋にいるの。アレクさんはどこ? アレクさんの命が消えるかも知れないって、どういう意味?」

 必死にまくし立てるのを、ティオゲネスがどう聞いていたかは分からない。相変わらず、少年の顔は前方を向いたままだ。

 やがて、深呼吸するように彼の肩先が上がったかと思うと、下がる動作と同時にこれ見よがしな溜息が聞こえた。

「……盗み聞きなんてシュミ悪いコト、どこで覚えたんだかなぁ、このお嬢さんは」

 呆れたような声音で言ったティオゲネスは、漸くこちらに顔を向けた。見下ろす翡翠の双眸が、一見侮蔑の色を含んでいるように見えたが、その実、今までに見たことのない表情にも思えた。

 暫し見つめ合い――というより睨み合いが続いた末に、ティオゲネスが向かいのベッドに乱暴に腰を下ろす。

「どこから聞いてた?」

 なり、いきなり本題に入った。

「ど、どこって、えーと」

 エレンは慌てて記憶を辿り、「危険だから離れろ、とか何とか言ってた辺り」と答える。すると、ティオゲネスは「要するに最初っからか」と言って、また溜息を吐いた。

「出来ればお前には言いたくない――って言っても聞くか?」

 エレンは、空気を飲んだように押し黙った。

「……また隠し事するの?」

 ややあって、注意深く探るようにティオゲネスを伺うと、彼はどこか冷ややかに言い放つ。

「お前だって言いたくないコトの一つや二つあるだろが。例えば、教会に戻りたくない理由とかな」

 痛いところをピンポイントで突かれて、エレンは今度こそ息を詰める。

(……確かに、それはそうだけど)

 口に出さずに反駁して、でもそれは、言えばきっと彼が自分を軽蔑するからだと、やはり声にはせずに自分を正当化しようとする。

「……だけど、今そんなコト言ってる場合? アレクさんが危ないんじゃないの?」

 苦し紛れの反論は、しかし意外にも効果があったらしい。

 ティオゲネスは反射的に、ピクリと肩を震わせる。それまで怖いくらいの無表情だった美貌が微かに歪んだ。

「……それは、大丈夫だよ、多分。俺が、体育館裏の決闘に行きさえすれば取り敢えずは」

「何で院長室に呼ばれるの? 用があるのは、院長先生なの?」

「お前、自分が言うコト言わねぇで、自分が知りたいコトだけ聞きたいとか、図々しいと思わねぇ訳?」

 明らかに苛立ち始めたティオゲネスに、エレンは再度グッと詰まった。

「……だって」

「何だよ」

「言ったら、あんた、絶対あたしのコト軽蔑するもん」

 拗ねた駄々っ子のような口調になってしまったが、それを誤魔化す余裕はない。だが、ティオゲネスはそんな言い分にもとことん容赦なかった。

「だから、お前が言いたくねぇんなら訊かねぇよ。その代わり、こっちの事情も詮索すんな」

 ティオゲネスの言うことは、一見すると一々尤もなように思えたが、エレンは何故か無性に腹が立って来た。

「何、それ。何でそうやって、あんたはあたしのコト拒絶するのよ」

「拒絶?」

「そうよ。あたしだけじゃない、他の、教会にいるきょうだい達とも、あんたってどっか一線引いて接してるじゃない。そりゃ、最初は仕方なかったかも知れないけど、もう二年よ? もう少し打ち解けてくれたって――」

 しかし、エレンはそれ以上言葉を続けることが出来なかった。

 何とも形容しがたい鋭い音を立てて、ティオゲネスが、自分の座ったベッドに備え付けの枕を、思う様ベッドの上へ叩き付けたからだ。

 彼の視線は、エレンの方を向いていない。

 だが、その横顔は、苛立っているようにも、痛みを堪えているようにも思える表情を浮かべて、険しく歪んでいた。

「……お前、そんなこと、言える立場かよ」

「……え……?」

 喉の奥から絞り出すような、低い声が室内に落ちて、エレンは辛うじて呆然と聞き返す。

「こっちにいたって、教会へ戻ったって、お前、いられるのはどっち道、後一年くらいだろ。その間、言いたくないコトは口噤んでも仕方ないかも知れない。けど、戻るかどうか分かんねぇお前が、俺に打ち解けろとか、どの口でほざいてんだよ」

「ティオ、」

 何か言わなければ、と思ったが、彼の名以上の言葉は出なかった。

 ティオゲネスの方も、それ以上何も言わずに、どことも分からない一点を睨むように見据えている。

 やがて、ティオゲネスはもう一度拳をベッドに叩き付けると、立ち上がって大股で扉に歩を進めた。

「ティオ」

 どこに行くの? と訊くより先に、「悪い」と低い声で謝罪が落ちる。

「少し……頭、冷やしてくる」

 背を向けた彼の格好は、どこまでも少女のそれで、やはり口調とチグハグして見えたが、嗤う気にはなれなかった。

「夕食は、購買で買って来てやる。何でもいいよな」

「あ、……うん」

「誰か来ても、ドア開けるなよ。返事もするな」

 俺は自分で開けられるから、と付け足すと、ティオゲネスは部屋を滑り出て行った。


***


 大股で廊下を突っ切りながら、ティオゲネスはひどい自己嫌悪に陥っていた。

(……最低だな、俺)

 エレンに向かって言い放ったことは、八つ当たり以外の何者でもないと解っている。

 言わずにはおれなかったけれど、いくら何でも彼女の追及を逃れる為に、あんな言い方しか出来なかった自分を、心底撃ち殺したい気分だ。実行可能な銃がこの場にないのは、幸運だったのかその逆か。

(アイツは、悪くない)

 それも、嫌と言うほど解っている。

 無神経だと思わないこともないが、それは彼女が裏の世界の存在を知らないからだ。そんな彼女の無垢なところや、世の汚れを知らない純真で温かなところに、ティオゲネスが癒されていたことは確かだった。

 けれど、それ故に、ズケズケと踏み込める遠慮のなさは、時折ひどく煩わしく感じる。

『「ヴェア=ガング」って何?』

 あの瞬間、心臓が止まるかと思った。

 まさか、エレンの口からその名が飛び出すなんて、思ってもみなかった。

 程なく、誤魔化す為の台詞が滑り出たのは奇跡に近かった。

 首を傾げて上目遣いに見つめる彼女に、全て知られてしまったような気がして、喉がカラカラに乾いていた。

『じゃあ、逆に訊くけど。あんた、もしエレンちゃんにあんたが昔「どこ」にいたのか知りたい、聞かせて、って言われたら、素直に答える?』

 不意にあの日、アレクシスに言われたことが脳裏を()ぎる。

(言えない)

 干涸(ひから)びたようになった喉の奥に、無理矢理唾液を流し込んで、歩きながら拳を握り締める。

 言えない、言いたくない、知られたくない。

 改めて強くそう思う。

 自分の意思に反して、無理矢理殺人術その他を叩き込まれたのは事実だし、それを嫌だと思っていたことも事実だ。

 けれども、六年間も戦闘の実戦訓練の中で生活する内、『嫌だ』と思っていたことが、いつしかティオゲネスには『日常』になり、『自分が生き残る為にどうすべきか』を頭でなく脊髄反射的に選択することが『常識』となりつつあった。それが、仮令(たとえ)人の命を奪う結果となる選択であっても、生き延びる為には『仕方がない』と割り切れるようにさえなってしまっていた。

 頭で分かっていても、組織で育った自分達と、一般人の感覚が、根本的にズレていると身に染みて認識したのは、組織の崩壊から一年程後のこと――心底から取り返しのつかないと感じたある『事件』を起こしてしまった、『あの時』からだ。

 所詮、人は、一度でも手を汚したことのある人間の言うことは信用しない。それまでどんなに慣れ親しんでいたとしても、事実を知った途端、その態度は掌を返したように冷たくなる。

 そういう意味では、ティオゲネスもまた、他人を信用できなかった。もしかしたら、ラッセルも、アレクシスのことも、信用していないのかも知れない。

(……アイツ、さえも)

 真っ直ぐで純粋で、正義感が強くて、他人の不正も許せないあの少女が、ティオゲネスの過去を知って変わらずにいる筈がなかった。

 彼女の隣という居場所を、失いたくないからこそ言いたくない――。

「――あら、リディア?」

 その時、不意に呼び止められて、ティオゲネスは振り向いた。

 視線の先には、初日に出会ったあのヘンリエッタと『金魚の糞』二名が立っている。

 この日も念入りに巻き込まれたツインテールは健在だ。

(あー……そういや、コイツらこっちの寮だったんだっけ)

 面倒臭いのに出会(でくわ)したな、と思いながら表面上は、知人と偶然出会った軽い驚きを表情で示して見せる。

 すると意外にも、

「どうしたの? こんな所で怖い顔して」

 と言われてしまったので、ティオゲネスは思わず、「えっ?」と聞き返した。

「あ、あの……そんなに怖い顔だった?」

「そうねぇ。花の(かんばせ)が台無しなくらいには。何かあったの?」

(やっべ……)

 普段は意識して無表情を心掛けているのだが、こんな素人に分かるくらい表情に不機嫌さが出ていただろうか。

(ホント、とことん平和ボケして来てるよな)

 自身を戒めるように脳裏で呟くと、その内心はやはり表情に出さずに、柔らかく微笑して見せる。

「心配掛けてごめんなさい。ちょっとこちらの寮の友人の所へ行っていたのだけれど、行き違いがあったものだから」

「そうなの」

 それで納得する辺りが、見た目通りの単細胞だ。

 ティオゲネスの返答にあっさり首肯したヘンリエッタは、早々に話題を変えた。

「ところで、そろそろ夕食の時間よ。よかったら一緒にどう?」

「ごめんなさい。今日は購買で買って食べてみようと思ってたの。この学院、購買の方もメニューが豊富でしょ? 父が帰ったら、自宅へ引き上げることになってるし、今の内に食べてみたいの」

 付け入る隙を一切与えず、それでいて印象の悪くならない返答に、ヘンリエッタ達も頷かざるを得ない筈だった。が。

「まあ。じゃあ、私達の部屋で一緒に食べない?」

「え?」

「実は、私達も今日は購買で買って、部屋で食事しようと思っていたの。月に一、二回はそうするのだけど。今日は、リディアもいらっしゃいな」

 まずい、それは困る。

 何せ、エレンに夕食を買って来ると言って出て来たのだ。

 それを差し引いても、今彼女から目を離すのは、色んな意味で危険極まりない。

 そこまで考えて、迂闊に彼女の部屋から離れてしまったのを、今になって猛烈に後悔したが、今更言っても始まらない。

「でも……お邪魔じゃない?」

 暗に、一人で食べたいと訴えてみたが、「そんなコトないわ」と返されてしまった。

「それに、あんなお部屋で一人で食べるなんて、良くないわ。あのお部屋って、ルシンダさんが亡くなったお部屋だもの」

 早く変えて貰えるといいわね、などと付け加えながら、ヘンリエッタは満面に笑みを浮かべて踵を返す。

 大方、自分は怖い部屋で一人きりで食事する友人を救ってやる優しい少女だと勘違いしてでもいるのだろう。

 金魚の糞の二人も、「ほら早く」と言って、動こうとしないティオゲネスを急かした。

(……仕方ねぇな)

 止むなく彼女らについて歩を進めたティオゲネスは、何か都合を付けて中座することにした。宿題が残っているから部屋に帰るとでも言えば、自己中の彼女らも考慮してくれるだろう。

 後々エレンに持って行く為、やや多めに食料を購入するティオゲネスに、ヘンリエッタは不審の目を向けた。だが、「部屋へ戻って、宿題する時の夜食にするの」と言うと、彼女は例によって「そうなの」と言ったきり、特に追及しなかった。


 けれども、彼女らについて来たのは返って収穫だったと思えたのは、ヘンリエッタの部屋へ招じ入れられて程なくだった。

「ね、リディアはまだ知らないのよね」

 そう、ヘンリエッタが口を切ったのは、皆がそれぞれ、勉強用の机とベッドに腰を下ろして、各々が買って来た夕食を広げた頃だ。

「何の話?」

 主語を言え、主語を! と内心では苛立ちながらも、表面上はあくまでもきょとんと問い返す。

「今度の休み、ちょっとお小遣いを稼がない?」

「お小遣い?」

 一体、どういうことだろうか。

 すると、今度は、黒髪のマーサが口を開いた。

「いい考えね! リディアは綺麗だから、店番してくれるだけでもお客が増えるわ」

「やだ、下品よマーサ」

 軽く窘められて、マーサが小さく首を竦める。

「でも、マーサの言うコトは一理あるの。勿論、売り上げはリディアにも配分するから、少し付き合ってくれないかしら」

「どういう意味なの?」

 少し警戒するようにソロリと伺うと、ヘンリエッタは説明を始めた。

「この学院ね、月に二回くらい、院内で生徒主催のフリーマーケットをやってるの。お客様は外部からも来て下さるし、勿論、生徒が買ってもいいのよ。売り上げは、半分が自分達のお小遣いで、後の半分は学院の運営資金に回されるの。まあ、参加は強制じゃないけどね」

「ふぅん」

 で、何を売るの? と訊けば、ヘンリエッタは、自分の机の引き出しを漁って、掌サイズの小瓶に入った液体を取り出した。液体は薄い緑色をしており、向こうの景色が見えるくらいに透き通っている。

「私達は、これに飾り紐を付けて売ってるの。値付けはシスターがやってくれるけど」

 生徒主催の割に、値付けは生徒じゃないのか。

 その疑問をぶつけると、ヘンリエッタは笑って言った。

「だって、生徒に任せたら、どんな高値を付けるか、分かったものじゃないじゃない?」

「特に、卑しい孤児連中はね」

 アメリアが、そばかすだらけの顔を嫌らしく歪めて笑った。

「そう……」

 いい加減、孤児を差別するのを止めたらどうだ、と言いそうになるのを堪えて、辛うじてそれだけを口にする。

「で、どうする? リディア、来てくれるのよね」

 最早、ティオゲネスは客引きに決定しているらしい。すんなりと言いなりになると思い込まれていると思うと、何だか面白くなかった。

 けれども、鼻先で笑って退けたい衝動を、ティオゲネスは苦労して押さえ込む。

「少し、考えさせて貰える? 何せ、私、昨日来たばかりだし。休みの日って色々やるコトもあるから」

「……そう。それもそうね」

 自分の言う通りにならないことに、微かに苛立ったのだろう。だが、意外にもそれをストレートにぶつけないだけの分別も持ち合わせていたらしいヘンリエッタは、眉尻を下げることで、眉間に刻み掛けた皺を誤魔化して見せた。

「ところでそれって、中身は何なの? 香水とか、化粧水とか?」

 何気なく問うたティオゲネスに、ヘンリエッタが口に乗せたのは意外な答えだった。

「ううん。薬よ」

「薬?」

 鸚鵡返しに口に乗せて、ティオゲネスは内心眉根を寄せる。

「そう。っていうより、サプリメントって言った方が近いかしら。美容にも、滋養強壮にもいいんですって。この液体タイプは注射針使うからちょっと難しいんだけど、粉末タイプもあるわよ。粉末タイプは何か、食べ物に混ぜて使っても効果があるの」

「他にもサプリメント売ってるグループはあるけど、今、私達のグループが一番売り上げが出てるのよね」

「でも、美容って点では、リディアには必要ないかも知れないわね。こんなに綺麗だし、色も白いし、スタイルもいいし」

 ヘンリエッタの説明に補足したマーサに続いて、アメリアが羨ましげに言う。そばかすの浮いた顔に、コンプレックスがあるのだろう。

 しかし、アメリアの視線に、ティオゲネスは既に構っていられなかった。

 そうやって口に出して説明してて、お前ら何も気付かないのか。

 すんででそう怒鳴りそうになったが、これも理性で押さえ込む。

 注射に粉末。これだけでティオゲネスにはピンと来た。

 勿論、彼女らも『麻薬』という単語を知らない筈はない。

 ただ、出所によっては、効能を説明する言葉を額面通りに受け取るだろう。それとなく問い質してみると、やはり元は院長だった。彼女らにとっては、学院の責任者である、『シスター・ウォルジー』という女性に過ぎないのだろうから、額面通りに受け取っても不思議はない。

 ティオゲネスは、用意していた中座の理由を口に乗せ、程なく席を立った。その際、小瓶を一つ、しっかりとくすねるのを忘れなかった。


***


「あら。こんなところで会うなんて、奇遇ね」

 ヘンリエッタの部屋を辞して、エレンの部屋へ向かうべく急ぎ足に歩いていると、またも会いたくない顔に出会した。

 セシリアだ。

「……ええ、ホントに。貴女もこの寮だったんですね、レアード先輩」

 ヴォドラーシュカ寮の廊下のあちこちには、人の目がある。

 今は既に午後七時半を回っているが、夕飯の時間は少し長く取られているから、これから食堂や購買に向かう生徒もいるのだ。

 そんな場所で素の口調で喋る訳にはいかず、リディアの仮面を被って返すと、セシリアは瞬時そのアイスブルーの瞳を見開き、次いで危うく吹き出しそうな顔をした。

 人目がなければ、透かさず足払いでも掛けているところだ。

 周囲の人間に不審に思われない程度に軽く深呼吸して、笑いの発作を収めたらしいセシリアは、ツイとティオゲネスに肉薄すると、耳元で囁いた。

「意外ね。てっきりお姫様に張り付いているモノだとばかり思ってたのに」

 セシリアがティオゲネスの耳元へ唇を寄せたことで、必然的にティオゲネスの方も彼女の耳元で話せる体勢になった。

「安心しろよ。わざわざ嫌味垂れられなくたって、ちゃーんと体育館の裏には行ってやるから」

 低く声を落として、元通り素の口調で返してやる。

 しかし、次に彼女が放った台詞は、人目を忘れるような一言だった。

「従順で結構よ。今後はもっと慎重に行動するのね」

「何?」

「もう下手な真似しない方がいいってコト。でないと、大事なお姫様も目の届かない場所に隔離しなくちゃならなくなるわ」

「どういう意味だか、さっぱり分からないね」

 すぐさまラッセルに連絡を取ったことがバレたのかと、一瞬肝を冷やす。思い当たることは、それしかないからだ。

 けれども、相手がはっきりと言わないのにボロを出すのは、愚の骨頂である。

 反射で知らぬ振りを装うが、やはり彼女はその勘が当たっていたことを裏付ける言葉を落とした。

「あたしのコードネームの由来は知ってる筈ね。見逃すのは、これが最後よ」

 クスリ、と小さい笑い付きで囁くと、セシリアはそれ以上何も言わずに立ち去る。

 だが、ティオゲネスは凍り付いたように、暫くそこを動くことが出来なかった。

 セシリアのコードネーム――『スティール』。

 彼女は、暗殺組織の中では変わり種で、『あらゆるモノを盗む』ことが得意だった。

 単純に、金品を盗むだけではない。ハッキングを掛けて情報を盗んだり、電話の盗聴もお手の物だ。単に盗み聞きするだけでなく、彼女に掛かると、本当に会話を丸ごと盗まれてしまう。

 しかも、種明かしされなければ、被害に遭った本人が盗聴に気付くことは出来ない。盗聴への警戒を、まるで嘲笑(あざわら)うように(ことごと)く躱し、欲しい情報をかすめ取っていく。

(ラス……!)

 (ほぞ)を噛むとはこのことだ。

 今となっては、彼に連絡を取ることさえ出来ない。もし、警告を与える為に連絡を取ったりすれば、エレンとアレクシスだけではなく、ラッセルにまで危険が及ぶ。

 完全に袋小路に追い詰められた気分で、ティオゲネスは唇を噛み締める。

(どうする)

 廊下を行く少女達の訝しげな視線が向けられ始めたのに気付き、ティオゲネスは慌てて歩を踏み出す。

 平静を装いながらも、脳内はフリーズしていた。頭が回転しない。どうしていいか、分からない。こんなことは、組織にいた時だってなかった。

 即座に考えなければ、次の瞬間には命がなかったから、それは当然のことだった。だが、次にどうするかを考えずとも行動に移せたのは、自分一人を守れば良かった頃の話だ。

 周囲にいる人間を、見殺しに出来ない。それが、今のティオゲネスにはとんでもない足枷になっている。

 組織が崩壊してから初めて、勝率が低い戦いに巻き込まれたことを、ティオゲネスは嫌でも理解せざるを得なかった。


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