School.5 過去との対面【後編】
「お嬢様! こちらです」
図書館棟――正確に言えばその傍の、樹木が繁って森状になっている場所で待っていたアレクシスが、そう呼んだ相手がティオゲネスだと知った時、エレンは目を剥いた。
「ねっ……ねぇ、どういう意味? お嬢様って」
ティオゲネスの袖を引いてそう訊ねたが、物凄い目つきで睨まれてしまったので、エレンは口を噤んだ。
「それじゃ、後をお願い」
普段からは考えられない口調で彼がそう言い、アレクシスは黙って頭を下げる。
何が何だか解らず困惑するエレンの前で、ティオゲネスは先程エレンから取り上げた薬の袋もアレクシスに手渡した。それに関して、ティオゲネスは何事か伝えたようだったが、唇を動かしただけで内容を音にしなかったので、エレンには彼がアレクシスに何と言ったのかは分からない。
「では、参りましょう。エレンお嬢様」
エレンに向けてそう言ったアレクシスに、あたしもお嬢様? と思うと吹き出しそうになった。が、やはりティオゲネスが恐ろしい目で睨んでいるので、頷きだけを返してアレクシスについて歩を進める。
そこで、ティオゲネスとは別れた。
アレクシスも、普段とは違う姿だった。
彼女と初めて出会ったのは、あのエーデルシュタイン家のバカ息子と親バカな母親がやらかした、連続誘拐殺人事件の後のことだ。
専門カウンセラーと組んで、エレンの聴取を受け持ってくれた女性刑事の一人で、その頃は、無造作に束ねた黒髪を前へ流して、動き易さ重視のラフな格好をしている女性だった。
ここへ、エレンの後見人として訪れる際は、流石にそれよりはきちんとしたスーツ姿だったが、今はそれよりも硬い印象を見る者に与える。恐らく、きっちりと引っ詰めにした髪の毛と、きつめのメイクがそう見せているのだろう。
一体、何がどうなっているのか、詳細を質したかったが、アレクシスはこの場での質問を許さない雰囲気を纏っている。ティオゲネスには、散々『空気が読めない』だの『鈍い』だのと評されているエレンだが、そんなエレンにもこの空気は分かり易かった。
諦めてそっと溜息を吐いたエレンは、周囲に目を向ける。
アレクシスは、整備された道路ではなく、ひたすら森の中を突っ切って学院の敷地の外を目指しているようだ。
何故、普通の整備された道路を行かないのだろうか。
ティオゲネスが言っていた、『この学院は普通じゃない』辺りと関係があるのか。
詳しいことは、彼も話してくれなかったので、エレンには未だ事態が見えていない。
(何で、いつも秘密主義なのよ)
この場にいない彼に、思わず悪態を吐くが、同時に、自分も彼に話していないことがあるのに気付いた。
(他人のコトは言えないわね)
クス、と自嘲気味に笑みを漏らした瞬間、不意に後頭部に衝撃が走る。
(えっ?)
何を考える隙もない。
前を歩くアレクシスの姿が急速に色を失い、視界が反転する。何が起きたのか理解するよりも早く、エレンの意識は途切れた。
***
図書館棟の傍の森で、予め待たせてあったアレクシスに、エレンと、エレンがセシリアから受け取ったという薬の入った袋を渡し、ティオゲネスは二人の姿が見えなくなるまで見送った。
薬に関して、アレクシスとは詳しく言葉は交わさなかった。エレンがいたからだ。唇を動かしただけで、成分を調べて貰えるように頼んだが、アレクシスは理解してくれたようで、小さく頷いていた。
ある程度修羅場を潜った人間が相棒だと、本当に楽だ。
(後は、俺がどうするか、だな)
図書館棟の正門前を通って、寮へ取って返しながら、脳裏で呟く。
寮は、学院敷地の一番奥まった場所にあり、図書館からは直線距離にして八百メートル近く離れている。
本当は、寮の裏手から出れば、敷地の外とは一番近かった。が、学院の敷地は高い塀で仕切られているし、もし誰かに見られた時、外部の人間が出入りを許可されている場所でないと、言い訳が立たない。
正式に面談許可を取るのでなければ、部外者が入れるのは図書館しかなかった。これも、平日は入館許可がある訳ではないので、見付かれば相当苦しい言い訳をすることになるだろうが、他の場所よりはマシだ。
時刻は、午後四時半。
授業が終わったとあって、放課後は、皆思い思いに過ごしている。
部活動に勤しむ生徒や、遊歩道をただ散歩する生徒。その脇の、要所要所に設えられたベンチに座っておしゃべりに興じる者もいる。
敷地が広い所為か、時折全く人影が途切れてしまう場所もあった。が、そんな場所ばかりでは勿論ないので、ティオゲネスは、人目に付かないように、道のない森の中を駆け足で突っ切っていた。エレンを連れて行く時は、経路は同じように森の中だったが、早足で歩いたので、図書館まで少々時間を要してしまった。
ヴォドラーシュカ寮の手前まで来た時は、図書館の脇を離れてから、五分も経っていなかった。
息も切らせずに走る速度を緩めると、森の狭間にある遊歩道に出た。そこを辿っていくと、ヴォドラーシュカ寮の側に出られるのだ。
微かに空気を切るような音が聞こえたのは、その時だった。
思考する暇も、目で確認する隙もない。
ティオゲネスは、身体が動くに任せて地を蹴った。前方へ飛び込み、地面に手を突いて一回転し、空中で身体を捻ると、さっきまで背後だった場所を正面に見る形で着地する。一瞬前まで立っていた場所が、小さく弾けて抉れるのが見えた。地面を抉ったのは、銀色の鋼線だった。
しなやかに波打って後退するそれを、目で追ったその先に立っていたのは、一人の少女だった。鋼線は、少女の持っているナイフの柄尻に収納されて、パチンという小気味よい音を立てる。
プラチナブロンドの髪を風に遊ばせている少女は、アイスブルーの瞳がどこか面白そうな光を湛えていた。
柔らかな印象を与える整った顔立ちは、ティオゲネスの記憶の端を刺激する。どこかで見た顔だ。
(どこで――)
しかし、それを記憶の中から探り当てるより先に、相手が口を開いた。
「……久し振りね、アッシュ」
「何……?」
ティオゲネスは眉根を寄せた。
『アッシュ』。
これは、組織にいた頃の、ティオゲネスのコードネームだった。この、珍しい髪の色に由来しているらしい。そして、組織にいた頃は、本名ではなく、専らこのコードネームで呼ばれていた。
だが、この名を知るのは、組織にいた人間だけの筈――
「ッ、お前……!」
その時、漸くティオゲネスの中で、目の前の人物と記憶が符合した。
「……『スティール』か?」
相手のコードネームを口に乗せると、『スティール』と呼ばれた少女は、不快そうに眉根を寄せた。
「その名前で呼ぶのは止めて。……って言いたいトコだけど、まあいいわ。あたしもあんたをコードネームで呼んだし、それでチャラにしてあげる」
「ふん、何をエラそーに」
鼻を鳴らすと、ティオゲネスは屈めたままだった上半身を、ゆっくりと起こして身構え直す。
スティール――あの頃の本名は確か、セシリア=エメリン=ハウといった。
「道理で聞き覚えのある名前だと思ったぜ。今はレアード姓なんだな。生徒会長さんよ」
「まあね。組織の崩壊の後、あたしはすぐ個人の家に養女に入ったから」
セシリアが、無表情でナイフを持った右手で髪を掻き上げる。
記憶から手繰り寄せるのに時間が掛かったのは、最後に会った時から四年の歳月分、相手の容姿が若干様変わりしていた為だ。
「あんたこそ、見違えたわ。まさか、『女子校』に潜り込んで生徒やってるなんてね」
「……うるせぇよ」
好きでやってる訳じゃねぇ。
そう付け加えて、思い切り眉を顰める。
「いいじゃない。よく似合ってるわよ」
「黙りませんか、セシリアさん」
「あはは、ごめんごめん。怒らないでよー」
セシリアは言って、カラカラと笑った。
「それで? わざわざ女の子のカッコで何やってんの?」
「こっちのセリフだぜ。再会の挨拶にしちゃ、今のは物騒だったからな。お前、何やってんだ?」
暫し、冷えるような沈黙がその場に落ちる。
少女は数瞬、無表情に目を瞠っていたかと思うと、やはりうっすらと微笑して口を開いた。
「……別にいいじゃない。何だって」
「いいわきゃねぇだろ」
ティオゲネスの顔からは、逆に表情が殺げ落ちる。
「たまたまここに入っただけならそう言う筈だし、第一『あんな』挨拶噛ます理由がねぇ。……となると、答えは一つしかねぇ気がするんだけどな」
何の感情も映っていない極上の翡翠に見据えられれば、普段その瞳を見慣れている者でも、別人のような目つきに背筋が凍る。組織にいた頃は、『氷の翡翠』などと揶揄されていた。
「ふぅん? もう全部解ってるみたいな言い方するじゃない」
けれど、目の前の少女は動じた様子を見せずに、嫣然と微笑む。
「あんたの考えを言ってみなさいよ。聞いてあげるわ」
「いいのか? 正解言い当てられて吠え面掻いても知らないぜ」
ティオゲネスも、唇の端だけを持ち上げて不敵な笑みを漏らすが、その目だけは笑っていない。
「さあ、どうかしら。吠え面掻くのはあんたの方かも知れないけど?」
「なら、単刀直入に訊く。ルシンダ=ランフランクを殺したのは、お前だろ。スティール」
わざとコードネームの方で呼ぶと、セシリアの片眉がピクリと震えた。
「そうよ、なんて言うと思う?」
「思わねぇな。けど、証拠はまだお前が持ってる筈だぜ」
「どういう意味?」
「ヒントはコレで充分だろ。詳しく教えてやって、証拠隠滅でもされたら敵わねーかんな」
ティオゲネスは、クス、と嘲り混じりの微笑と共に肩を竦める。
「まあ、いいわ。じゃあ、今度はこっちの質問に答えて。あんたは、ここで何やってるの?」
「ノーコメント。ところで、こっちももう一つ訊きたい。この学院内で薬が出回ってるらしいな。ルシンダの遺体からも、薬物反応が出たって話だけど」
「……知る訳ないでしょ、そんなコト」
セシリアから、どんどん余裕が失われるのが解る。
先刻まで貼り付いていた、面白そうな笑みは、いつの間にか消えていた。代わりに、苛立ったような表情が濃くなっていく。
実年齢はセシリアの方が上だが、組織に引き取られた年齢はティオゲネスの方が早い。つまり、潜った修羅場の数は、ティオゲネスの方が多いということに他ならない。
実戦に於いては分からないが、こういった言葉を使った駆け引きに於いては、彼女はまだ場をこなさない内に組織が崩壊したらしい。
内心、優位を確信したティオゲネスは畳み掛けた。
「オーケー。じゃあ、最後の質問だ。何で、俺がここに潜り込んでるって分かった? ここの生徒数って、確か六百人前後だったよな。まあ、それを差し引いても、編入生が目立つのは分かるけど、偽造した情報を一々分析するっておかしくねぇか? 生徒会長としても、明らかに越権行為だろ」
すると、セシリアは俄に余裕を取り戻したように、唇の端を吊り上げた。
「院長先生よ」
ティオゲネスは、セシリアを上目遣いに見ただけで沈黙を返す。
「ここの院長先生は、二年前からハウエルズ教官にすり替わってる。彼女は、あんたが編入の挨拶に来た時から、あんたのコトをご存じよ」
それを聞いても、ティオゲネスは驚かなかった。
編入の翌日、あの夢を見た時から、院長の正体は見当が付いていたからだ。――出来ることなら、当たって欲しくはなかったが。
セシリア曰くの『ハウエルズ教官』とは、フルネームをシャロン=ヴァイオレット=アン=ハウエルズと言って、ティオゲネスの育った組織『ヴェア=ガング』の副総帥を務めていた女だ。
ダークブロンドの巻き毛と、奥の見えない濁ったブラウンの瞳が特徴的な女で、ティオゲネスも時折彼女に付いて訓練を行わされていた。
一方、言葉でのリアクションのないティオゲネスを、暫し無言で見つめていたセシリアは、持っていたナイフの刃を柄に畳んだ。それを制服のポケットにしまうと、ティオゲネスに向かって歩を進める。
警戒を解かないまま、ティオゲネスも近付いてくるセシリアを見据えた。
「院長先生が、あんたをお待ちよ」
擦れ違い様、セシリアが口を開いた。
「一度ゆっくりお話がしたいって」
「断る、と言ったら?」
「エレン=クラルヴァイン」
出し抜けにエレンの名を出されて、ティオゲネスは微かに瞠目する。
「彼女があんたのアキレス腱ね?」
「何言ってるんだか、理解できねぇな」
動揺は、虚勢の中に綺麗に包み込みながら嘯く。
そうは言ったところで、エレンは先刻、とっくにアレクシスに託して学院を脱出させた。ここで何があっても――仮令自分がどうにかなったとしても、エレンに危害が及ぶことはない筈だ。
しかし、それを読み取ったかのように、セシリアがクスリと小さく笑った。
「彼女なら、さっき学院内に戻ったわ」
「何?」
それは一体、どういう意味だろう。
不覚にも動揺を押し隠すのに失敗したティオゲネスは、思わず、既に背後にいたセシリアを振り向いた。すると、悠然とこちらへ顔を向けた彼女と、視線が絡む。
「大丈夫。彼女に指一本触れるコトはしないわ。あたしも、院長先生も、他の仲間もね。ただ、あんたが院長先生と話をしてくれれば、それでいいの。院長先生からの伝言――その気になったら、今夜、消灯後に院長室まで来て?」
ほんの一、二分前までのティオゲネスの優勢は、完全に逆転していた。彼女が言葉での駆け引きに慣れていないなど、とんでもない話だ。
「あ、そうそう。一緒にいた女刑事だけど、彼女については保障出来ないそうよ。あんたが、言うコトを聞かない場合はね」
「待て!」
髪の毛を掻き上げながら、その場を去ろうとするセシリアを、ティオゲネスは反射的に呼び止める。
一度背中を向けていた彼女は、ピタリとその場に足を止めて、ティオゲネスを振り向いた。
「二人をどうした」
余裕を失ったティオゲネスの声が、低くその場に落ちる。
無表情にティオゲネスを見遣ったセシリアは、それが癖なのか、柔らかく髪を掻き上げる仕草をしながら、また一つ、クスリと笑った。
「エレンは、元の部屋に戻ったわ。ヴォドラーシュカ寮の六〇五号室。でも、女刑事さんについては内緒。あんたが変な動きした時の保険にね」
まあ、今のところは無事だとだけ言っておくわ。
そう付け加えると、セシリアは今度こそ踵を返す。
遠くなっていくプラチナブロンドを、射殺せそうな鋭さで睨み据えて、ティオゲネスは爪が食い込む程に拳を握り締めた。
***
ヴォドラーシュカ寮の六〇五号室に駆け込んだティオゲネスは、ベッドの上でいっそ安らかと思える寝息を立てているエレンの姿を確認して、ホッと息を吐いた。
安堵のあまり、その場にへたり込みそうになるのを苦労して堪えると、部屋の鍵を掛けて家捜しする。
エレンが、この学院に来てから使用している携帯端末を捜し出し、未だ学院の外に止めた車で待機している筈のラッセルの番号を呼び出すと、彼にアレクシスが行方不明になったことを告げた。
『何だって? アレクが行方不明!?』
「悪い……読み違えた。完全に俺のミスだ」
暗くなり始めた外を見つめながら、ティオゲネスはその整った容貌を険しく歪ませていた。
外を見ていながら、その景色はティオゲネスの脳裏には映っていない。
「とにかく、そこはもう危険だ。すぐに離れてくれ」
車を動かす為に、ラッセルは必要な操作をするから待ってくれと言い置いて、暫く無言になった。
恐らく、スピーカーフォンにして、運転しながら話す為だろう。
『悪い。待たせたな』
「いや。今どんな感じだ」
『外から見た分には、変わりないぜ。今のとこ、誰か怪しい連中が襲ってくるでもないし』
けど、どうなってんだ? と訊ねるラッセルに、ティオゲネスは、二人と別れてから起きたことを手短に話した。
「ヴェア=ガングの上層部がまだ外にもいるのは知ってるけどよ。今回の一件に絡んでるなんて、聞いてねぇぞ」
八つ当たりだと分かっていても、言わずにおれなかった。
もし、CUIOが五年前の時点でヴェア=ガングを完全に崩壊させていたら、今回の一件は起きていなかったかも知れないのも事実だからだ。
『その点については、返す言葉もねぇよ。けど、院長がハウエルズだって分かったのは収穫だ。ヴェア=ガング崩壊事件に於いて、CUIO内で極秘指名手配中だったんだからな。急いでアクセルソン州支部に出動を要請する』
「どれくらい掛かる?」
『すぐに動いてくれるかどうかは保障できない。なるべく急いでみるが……』
「俺、ハウエルズに呼び出し食ってんだよなー。今夜、体育館の裏――もとい、院長室まで来い、だとさ」
若干戯けたように言ったが、声色が大真面目だったので、冗談には出来なかった。
実際、電話の向こうのラッセルも、瞬時空気を飲んだように黙り込む。
『ちなみに、行かなかった場合の罰則は?』
「アレクの命が、儚く消えるコトになるかも知れない」
再度、短く沈黙が落ちる。
『……アレクの居場所は、分かってねぇのか』
「悪い」
肩を竦めて短く返すと、ラッセルは『いや』と言った。
『お前は悪くないさ。こっちの調査不足と、CUIOが組織の事件を終わらせてなかったのが原因だからな』
「潜入捜査の意味もなかったな」
苦笑すると、ラッセルも電話口の向こうで同じように苦笑した。
『敵がこんなに早く動くなんて、それこそ予想外だからな。仕方ないさ』
「先に言っとくけど、俺はエレンとアレクのどちらかを選ばなきゃなんない局面に出くわしたら、エレンを優先するぞ」
『分かってる。アレクも警官の端くれだ。いざとなったら、自分で何とかするだろうさ』
「そう願うね」
口ではそう言いながら、ティオゲネスはそれも難しいだろうと思った。
何しろ、ヴェア=ガングは、その名が『武器庫』を意味する、武装組織だった。人殺しの術に長けた人間と、いざという場面で人質の命を慮る警官となら、間違いなく組織の人間に軍配が上がる。
そして、ティオゲネスもそうは言いながら、本当にどちらか一人しか助けられないとしたらどうするか、自分でも分からなかった。そうなったら、頭で考えるより身体が動くに任せるしかない。
『それで、その有り難くないお呼び出しの時間、正確には何時なんだ?』
「消灯後、って言われただけで、正確な時間は分からねぇな。まあ、こっちに任せるってコトだと思うけど。消灯は、二三〇〇」
『了解。日付が変わるギリギリまで引き延ばせるか』
「さあね。保障は出来ませんが、やってみますよ、ボス」
クス、と乾いた笑いを零しながら、再度肩を竦める。
『分かったよ。こっちも全力でやってみる。じゃあな』
健闘を祈る、という言葉を最後に、ラッセルは通信を切った。
ティオゲネスは、通信の切れた端末を、暫くぼんやりと見つめていた。
(グッド・ラック……か)
クス、と苦い笑いが漏れる。
本当にラッキーでも起こらない限り、今回この状況を打破出来る自信はない。
自分一人だけが生き残ることを考えていればよかった組織時代は、いっそ気楽だったと思う。守らなければならない誰かを抱えて戦うことは、時に煩わしく、全てを投げ出してしまいたくなる衝動に駆られる。だが、一時の衝動に任せて、仲間を見殺しにすれば、生涯忘れることの出来ない後悔を抱え込む羽目になることも、ティオゲネスは経験則で知っていた。
(敵は……何人いる?)
端末に目を落としたまま、自問すると同時に、セシリアの言葉が脳裏を過ぎる。
『彼女に指一本触れるコトはしないわ。あたしも、院長先生も、他の仲間もね』
(アイツと、ハウエルズだけじゃないってコトだよな)
他にも、この学院にいるということだろうか。――組織から解放された筈の、子供達の中の、誰かが。
(……こりゃ、相当厄介だなー……)
はあ、と溜息を吐いて、春用の薄手のカーテンを閉めると、ティオゲネスはエレンの眠るベッドに足を向ける。端末をベッドのチェストへ置いて、彼女の方へ視線を向けると、薄暗がりの中、パッチリ開いた若草色と目が合った。
「……起きてたのか」
呆然と問う声が、彼女に向けて落ちる。
「ティオ……」
明らかに寝起きでない声を出した彼女は、緩慢な動きでベッドの上に身体を起こすと、若干乱れた髪を直しもせずに、ヒタとティオゲネスを見つめた。
次に彼女の口から出たのは、ティオゲネスにとって爆弾発言以外の何者でもなかった。
「……『ヴェア=ガング』って何?」




