六 アゲハと。
「玖楽君、夜之先輩からご指名だよ」
ニヤついたクラスメイトの呼び掛けに、僕と丹代さんが同時に首を傾げた。
夜之先輩?
聞いたことのない名前だ。
そもそも、僕と知り合いの先輩なんて小兎姫ゆきちゃん先輩しかいない。
「夜之先輩と知り合いなの?」
「丹代さんは知ってるの?」
丹代さんが怪訝な顔で僕を見ていた。
気のせいだろうか、声のトーンが低い。
「うん、同じ部活だから」
「えっと……美術部だっけ?」
「そ。夜之先輩は部長なの。でも珍しいな、先輩。あまり人と関わるの好きじゃないのに……」
どうして玖楽君と。
そう表情を落として、丹代さんは言った。
美術部部長、か。見たことはあるし、何度かすれ違ったこともある。
ボサボサの長髪に牛乳瓶のような丸くて大きいレンズの眼鏡が特徴的な、地味な先輩だった筈だ。
特に接点はないし言葉を交わしたこともない。
だというのに、どうして僕に指名が入ったのだろうか。そもそも、指名ってなんだよ。
「よくわからないけど、行ってくるよ」
ニワトリとタメを張るレベルで頭の悪い僕なんかが考えたところで仕方ないので、席を立った。
「玖楽くん」
「なに?」
「気をつけてね」
「え?」
独り言のような抑揚で投げかけられた言葉に首を傾げながら、僕はドアをスライドした。
「ポッキー食べる? おいしいよ。あ、キャンディもあるよ。どっちにする? そ、それとも……私? きゃっ、こんなところではダメだよ~う♡」
瞬間、口許に差し出されたポッキーと棒付きキャンディ。
観察しなくともチョコがぎっしり詰まっていることがわかる細棒と、ディスコボールのような球体を先端に陣取らせたキャンディが、僕の口へと押し込まれた。
ふぐ。
そんな吐息というか呻きというかよくわからない音を漏らしながら、僕は喉奥に差し込まれた異物に吐気を催した。
甘い。甘いっす。両方とも違う種類の甘さでシュガーだよ。
いや、違うって。
お菓子に吐き気を覚えたのは本当なんだけど、そんなことは正直いってどうでもよかった。
ゴクリと唾を飲み込み、彼女を凝視する。
あわよくば、夢であってほしかった。
冷や汗が、じんわりとワイシャツに染みるのを感じながら、僕は無意識のうちに呟いた。
「ア、ゲハ……」
実際には、声にもならない声だったわけだけれど、ニュアンスは伝わったのか眼前の彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「うれしいなぁ。名前、覚えていてくれたんだぁ」
左目が痛む。
昨晩の記憶がよみがえって体が震えてきた。吐きそうだ。
そんな僕の下がり続けるSAN値を無視して、うりうりと二つの棒を喉と奥の間を出し入れする彼女は、もう片方の腕をカバンの中から抜いた。
「忘れてたらハンマーで思い出させてあげようと思ったんだけど、必要なかったね」
「は、ハンマー……?」
「あはは……どうしたの? ビルの屋上からでも突き落とされた?」
その喩えはよくわからないけれど。
頭上から冷水をぶっかけられたかのように、動悸が激しい。息が、うまく吸えない。
どうして彼女が……アゲハがここにいるのだろうか。
僕は夜之先輩に呼び出されたはずで……いや、もしかして、彼女が夜之先輩なのか……?
でも、僕の記憶の中にある先輩は、地味で牛乳瓶のようなメガネをかけていて……。
記憶の中の夜之先輩像と目の前の彼女とが、結びつかない。
「あ、あ、あの、どうして、ここに……?」
口の中を犯すお菓子を無理やり外して、僕はやっとの思いで声を絞り出した。
彼女は、何を今さらとでも言いたげな表情で口角を上げた。
真冬のような寒さが僕の体温を奪っていく。全身の震えに腹筋が痛くなってきた。
彼女の目の動き、呼吸、髪の毛一本の揺れでさえ、今の僕には恐怖の対象だった。
「どうしてって、一緒にお昼ご飯を食べるため……だよね? あ、もしかして食事前にお菓子は控えるタイプ? ごめん、忖度がなってなかったわぁ。でも忖度ってこういう使い方するのかな? さいきん流行ってるらしいから便乗して使ってみたんだけど、使い方間違ってたらごめんね。てへっ」
あざとらしく片目をつぶって舌を出したアゲハ。
いつそんな約束をしたのだろうか。ツッコミたいけど、喉元で言葉が詰まって出てこない。
「じゃ、行こっか」
僕の涎で濡れたポッキーを一気に噛み砕き、キャンディを口に咥えると僕の腕をぐっと引き寄せた。
あまりにも強い力にバランスを崩す。
狙っていたかのようにアゲハの華奢な肢体が僕を受け止め、衆人環視の中で抱き合う形になってしまった。
周囲から刺さる視線など御構い無しに擦り寄ってくるアゲハに、純粋な恐怖を感じた僕はとっさに押し退けようと両腕に力を込めた。
刹那、視界がパチパチと光った。
脳がドロドロに蕩けてしまいそうになる甘い香水の匂い。まるで異国の地に飛ばされてしまったかのようなエキゾチックな香り。
そして蘇る昨夜の悪夢。
自分の血と涙と悲鳴と、彼女の狂気と恋と甘美に彩られた一幕。僕はそれらを思い出して、石像になってしまったかのように動けなくなった。
昨夜のように。
「さ、行こ。続きはまた屋上で、ね?」
子供を諭すように僕を胸に抱いて、耳元で囁く。
「昨日は気持ちよかったでしょ? また喘がせてあげるから、ね?」
「ッ!!?」
耳の穴をヌルッとした感触が襲いかかる。次いで、鼓膜を舐る吐息と水音。
頭からつま先まで、鼓膜を通して電流が走るような感覚に不快感を覚えながらも、僕は抵抗できず固まったまま。
そんな僕の様子を見て満足気にアゲハは笑うと、
「ふふ、へへへ、うへへへ。まずは一回目ぇ。さ、第二ラウンドしに行こうよぉ。れんのキス顔は誰にも見せたくないの」
恍惚と瘴気に満ちた顔を隠すことなく堂々と、大股で階段へ向かうアゲハ。その後ろを、引きずられながらついていく僕。そのさらに後ろで、黄色い悲鳴が廊下を揺らした。
その中に、丹代さんもいた。
丹代さんは、なぜか悔しそうに唇を噛みながら僕を睨めつけていた。
ああ、僕の唯一の陽だまりだったのに。
これからは、どんな顔をして彼女と会えばいいのだろうか。
なんてことを考えながら、上へうえへと引き摺られていく。




