七 アゲハと。。
アゲハは、立ち入り禁止のはずの屋上のドアを蹴り上げると言った。
「ん~! お外きもちぃ~! こんな素敵な青空の下で、大好きな人とまぐわうって考えるとヤバイ。語彙力が死ぬ。ね、そう思うでしょ、れんも」
「あ、の……じ、実は、僕、人に……呼ばれてて……」
せめてもの抵抗として、僕はなんとか声を絞った。絞って、めちゃくちゃ後悔した。
「うん? ダレ? 女?」
「え、と」
どうしてそれを伝えなければならないの。きみには関係ないだろ、とか。
美術部の部長さんが僕を呼んでいるんだ、とか。
喉元まで出かけたけど、噤んだ。
噤まざるを得なかった。
彼女の大きな瞳が、無性に怖かったから。
また殴られるのではないかと不安になって、
「な……なんでも、ないです」
「ふふっ♡ 素直でよろしいっ! やっぱり性欲には抗えないよねえ」
僕は悔しくて死にそうだった。
「とーちゃっく! さぁどうぞお姫様。あなたの為にお掃除しておきましたよぉ。褒めて褒めて褒めろぉ。なんなら抱いて? 私、激しくされるの好きなの」
「………」
「あれぇ? 照れてる? かわいいね、れん。愛してるよ」
立ち入り禁止の屋上で舌を貪られる僕。
ねっとりとした粘液と生物のように蠢く舌。
今にも崩れてしまいそうな蕩け顔が、視界いっぱいに広がった。
「んはぁ……。やばい、キスだけでもう……でも、まだダメ。誰にも邪魔されないように、鍵を閉めないと」
言って、アゲハは内側から鍵をかけたあと、丁寧に鎖でぐるぐるに巻き付け、南京錠をセットする。
「ふふ……はは、ふふふ。これでようやくふたりっきりぃ。ちょっと待ってね、今準備するから」
かなり昔に廃部した園芸部の倉庫に入っていくアゲハ。
倉庫の中も片付けたのか、空の植木鉢や鎌、土などの園芸用品が綺麗に並べられていた。
「んんぅ? ちょっと背が足りないぞ……?」
棚のうえにあるシートへ向かって懸命に腕を伸ばすアゲハ。
する必要もないのに小ぶりなお尻を左右にゆらして、短いスカートがギリギリのラインで踊る。
「んぅっしょ、んぅっしょ……もう、すこしぃ……」
僕が代わりにとろうか……と口をひらきかけて、やめた。
僕より身長の高いアゲハがキツイなら、僕は背伸びしたって無理だ。
そもそも、無理やり連れてこられたのに助けるギリなんかどこにもない。
視線を倉庫から、彼女が置いていったトートバッグの中に移した。
異彩を放つハンマー。
本当にハンマーを常備しているなんて、イカれてるだろ。
「ごめんね、もう少しだけ私のお尻みてて~」
「いや、みてないけど……」
とうとう跳躍をはじめたアゲハの後ろ姿を見ながら、唇を噛む。
今ならもしかしたら、逃げられるかもしれない。
あのハンマーを奪い取って、彼女の後頭部に振り下ろす。
力の弱い僕でも、五回くらい叩けば気絶させられるかもしれない。
この好機を逃すと、もう逃げられないかもしれない。
そう頭ではわかっているのに、行動できない自分が憎い。
なら、いっそのこと死んでしまおうか。
ここは屋上だ。
フェンスも何もない、遮断物が存在しないこの屋上からなら、安易に飛び降りが可能だ。
四階に位置するこの高さから飛び降りれば、難なく死ぬことができる……はず。
そこでふと、自分の言葉に疑問を持った。
安易に……飛び降りが、可能?
屋上の鍵は開いていた。
どうやってここの鍵を開けたのかはわからないけれど、掃除をする期間を考えると最低でも三日前から、いやもっと前、一週間ほど前から開けられていたとしたら。
それは、つまり。
「飛び降りるなら誘ってよ?」
「うわぁ!?」
耳元で囁かれた声に驚いて飛び跳ねる。
いつの間にかシートを取り終えていたアゲハは、いやに真面目な顔で言った。
「れんが死んだら私も追って死ぬし、どうせなら一緒に死のう? その方がれんも寂しくないでしょう?」
「ぼ、僕が死ぬこと前提で話を進めないでください。ぜったいに死にたくないです」
「そっか、私の為に生きてくれるんだぁ。うれぴー。ちなみにれんは子どもほしい派? いらない派?」
「え、なんで急にそんな話に……?」
「いやいや重要なことだよー? これから好きなだけ、それこそ、死ぬまで私のそばにいるんだよ? ムラムラしないわけがないじゃん」
どこから持ってきたのか、敷いたシートの上のエアマットに腰を下ろし、素足を抱えたアゲハがハンマーを握る。
気のせいだろうか。みしっとハンマーの持ち手部分が悲鳴を上げた気がした。
「そもそも子孫を残すための行為だから子どもができちゃうのは当然のことだよね。性行為は愛情表現でもあって最高のコミュニケーションなんだから、セックスがない夫婦はもうただの他人。その過程でできちゃうんだから愛の結晶だとか舞い上がっちゃうのは仕方がないことでしょう。ただでさえ少子化で周囲からは執拗に迫られる時代。知ってる? 少子高齢化の弊害。みんな自分には関係ないって思ってるかもしれないけれど、どいつもこいつもくだらないバイアスにハマってて話にならない。ここで最初の質問に戻るけど、私は子どもなんていらない派。だって私とれんの間に生まれ落ちる子どもは比喩でもなんでもなくまさしく天使のような子だよ? 目移りしないわけがないでしょ、女の子なら尚更。私はねそれが怖い。私にとっての最大の敵はその子なの。その子にあなたを奪われるかもしれない。髪の毛一本、小指のさき程度の愛情ですらその子に注がれる。嫌。嫌だ無理、考えただけで腹が立つ。たぶんきっと確実に私はその子のことを、あなたの子どもを殺してしまう。だから子どもなんて作らない。少子化とかどうでもいい。私はいらない派。それで? れんはどっち派?」
卑怯だと、思った。
そんな目で、トーンで、ハンマーを何度も何度もコンクリートに叩きつけながら、無茶苦茶な持論を展開して、その上でその質問は卑怯だ。
そして前提からおかしいのに、そこを突っ込むことを許されない。
なんで僕がキミみたいなイカれメンヘラ女とこの先何十年も一緒にいなきゃならないんだよ。
僕の人生に鬱要素を勝手に組み込むなよ、ジャンル違いの売女が。
僕はもっと清純で優しくて包容力に全振りしたような、たとえば丹代さんやゆきちゃん先輩みたいな美人より可愛らしい女のコの方が好きなんだ。
「ぼ……僕も、べつに子供はいらないかな……」
なんて、気が蟻並みに弱い僕は強情を表に出すことは叶わず。
「だよね、だよねっ。うれしいな、うれしいなぁ! れんと気持ちが一緒だ! ペアルックだね! え、違うかな? まあどうでもいいや!」
はにかんで、用済みだと言わんばかりにハンマーをしまうアゲハ。
無骨なソレから発せられるプレッシャーは尋常ではない。
ぽんぽんとエアマットを叩いて、隣に来るよう催促の合図を受けた僕は身をすくませながら腰を下ろした。
「エアマット、きょうこの日の為に用意したんだ。どう、座り心地いいでしょ? もっと寄りなよ、恥ずかしがってるの?」
「あ、あの、近いです」
「いいじゃん。くっつかないとできないでしょ? ローションもあるよ?」
「な……何んで?」
「ふふ」
線の細い素足が蛇のように絡まる。
用意されてあったお弁当箱はそっちのけで、彼女の大きな瞳が蛇蝎のような鋭さに変わる。
獲物を捕まえた獰猛な獣。
肉食獣。
アゲハなんて名前をしている割に、優雅さのカケラも感じない。
「ねぇ……れんぅ……してもいい?」
「あの、な、何を、ですか……?」
返答は、彼女の美しいキス顔。
全力で顔を逸らした僕の首に歯が突き刺さり、たまらず悲鳴を上げた。
シェリダン・レ・ファニュの女吸血鬼カーミラのごとく、クビに噛みついて離れないアゲハ。
甘噛みなんてレベルではない。完全に殺しにかかっている。
引き剥がそうと抵抗するも僕より身長も手足も長い、おまけに力強い彼女にがっちりとホールドされ、なすがままに押し倒された。
首筋に吸い付く唇。
下から上に舐られ、鳥肌が立つ。
「あまり暴れないで、手元が狂っちゃう」
「な、なんのだよ!」
どうにかして逃げようと必死に思考を巡らせて、視界にお弁当箱が映った。
こ……これしかない……!
「ま、待ってアゲハ……僕、お腹が空いた。きみの手料理を……た、食べたい……っ」
屈辱ではあったが、功を奏した。
ピタリと一瞬の制止。
刹那、何事もなかったかのように起き上がるとアゲハはお弁当箱を手に取った。
眩しいくらいのいい笑顔だった。
こちらが罪悪感を抱くほどの、いい笑顔。
「私、朝に弱いんだけど、れんの為に早起きしてお弁当作ってきたの~。是非食べてみて、実はお料理教室にも通って本格的に——」
彼女がまくし立てるマシンガンに相槌を打ちながら、内心でため息を吐く。
いっそ、そこから飛び降りる勇気があればよかったのに。
あの写真のように、ひらひらと。
僕はこれから、僕を強姦しようとする女の手料理をおいしいおいしいと嘯いて食べなければならないのだ。
なんて、屈辱だろうか。
「はい、あ~~~ん」
「う、あ、あーん……うまい」
「本当に? ありがとうっ! 次はこれも食べて!」
普通にしてればかわいいのに、どうして彼女はこうも歪んでしまっているのか。
痛いことさえやめてくれれば、友達としてなら付き合ってもいいんだけど……いや、僕みたいなヤツが何を偉そうに言っているのだろうか。
次々と差し出される料理を咀嚼しながら、彼女の話に耳を傾ける。
雲ひとつない蒼穹を、僕は少し悲しく思った。




