四 僕と
どれだけ走っただろうか。
無我夢中に、取り乱しながら。
振り返ると、すぐ後ろからあの女が追いかけて来ていそうで、一度も周囲を確認することなく必死になって走った。
ようやく余裕を取り戻したころ、学校の校門が目に入った。
夕焼けが消え、藍色の帳が空を覆うなか、僕はゆっくりと呼吸を落ち着かせながら走るスピードを落とす。
ゆき先輩と過ごした喫茶店を通り過ぎ、迷路のような路地裏を抜け、気が付けば住宅街を彷徨っていた。
どこか、休める場所が欲しい。
家には帰れないから。
あの女が、居なくなるまでどこかに隠れていないと。
倒れそうになる体に鞭打って、僕はようやく見つけた公園の、トンネル状になっている遊具の中に隠れることにした。
ギシギシと、今にも踏み抜いてしまいそうな階段を数段上がり、トンネルの中に入ってうずくまる。
ここならば、万が一にあの女がここを通ったとしても見つからないだろう。
「はぁ……っ、はぁ……はぁ」
自分の荒い息が、いやに大きく感じる。この息を辿って、もしかしたらここに隠れていることがバレるかもしれない。
頭を抱えて膝の中に埋め込み、必死に息を殺す。
『どうしてって、れん。彼女が彼氏の家に来ちゃイケナイ理由なんてあるの? あ、でも、そういえば、私初めてだもんね。れんの家に上がるの。初めての、お家デート……えへへ』
ふわっと浮いた漆黒のショートボブ。
左の目元に浮いたほくろ。
着崩した星鳴高校の制服。
一学年上を表す赤色のネクタイ。
ベッド。
『パパ活、だっけ? そんなことしてお金を稼いだらダメだよ。私も悲しいし? そもそも、前提としてキミは男のコ、でしょ?』
僕の部屋。
充満する、甘ったるい香水。
鼻で笑いながら言い放った言葉。
あげは——アゲハ、アゲハ?
瞼の裏に焼き付いて離れない女の名前に、なにか引っかかるものを感じた。
むかし、聴いたことが……ある?
それとも。
記憶の糸を辿ってみても、思い返されるのは我が物顔で自室に居座る女の姿と、冷めた双眸。
「……誰なんだよ」
雨が、降ってきた。
傘は持ってきていないから、帰りはずぶ濡れだ。
きょうの夕食はなんだろう。
あしたは学校に行けるかな。
——ゆきちゃん先輩には、会えるだろうか。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、気を紛らわせるためにスマホを起動した。
暗闇の中に灯るブルーライト。
時刻は十九時十分。
水面から浮かび上がってくるように、新着メッセージが画面を埋め尽くした。
「ひっ……!」
不在着信が二百八十件——すべて、知らない番号からだった。
嫌な予感がする。
もしかしたら、あの女が?
そのとき、手の中でスマホが振動した。
手の平で暴れるスマホのディスプレイには、二百八十一件目になる着信がきていた。
スマホをスリープ状態にして、祈るように目を閉じる。全身をバイブのように震わせて、着信が切れるのを待った。
だれか。
だれでもいい。
だれか、僕を助けて。
『名字は、ちいさいうさぎのお姫様って書いて小兎姫。んで、ゆきはひらがな』
僕の目を覗き込む眠たそうな瞳が、輪郭が、瞼の裏でうっすらと微笑んだ。
気がつくと着信は止まっていた。
トンネルを叩く雨水だけがこの世界を支配している……そう錯覚させるほどに、静かだった。
雨音しか聞こえない。
プラスチック製の四角に切り取られたちいさな窓からは、月の光が闇を払拭するように差し込んでいた。
あの女はもう、帰っただろうか。
それとも、まだ僕の部屋に居るのだろうか。
そもそも、あの女は一体誰で、どうして僕を知っている?
いや……僕を知らない人間は、知らない人の方がきっと少ないはず。
僕がかわいくて有名人だからとか、そんなポジティブな理由ではなくて、あの事件のせいで。
ゆき先輩はサボりの常習犯と自称していたから、やはり当時もサボっていたのだろう。
それが、何よりも救いだった。
あの先輩なら、何事にも無頓着そうなゆき先輩なら、きっと……僕のことを知っても受け入れてくれる……だろうか?
わからない。けれど、今は、無性に彼女に会いたかった。
連絡したら、助けを乞うたら、先輩は僕を助けてくれるだろうか。
連絡先から彼女の名前を見つけ出して、いざメールを送ろうとしたその瞬間。
ふと、光が消えた。
「……え?」
窓から差し込んでいた月の光が、パッと消えた。
雲に隠れたのだろうか?
一気に周囲が暗くなったことで、不安に駆られる。
大丈夫、すぐにまた明るくなる。
メールを打つことをやめ、膝に顔を埋めて瞼を閉じた。
暗闇の世界に響き渡る雨水。
トンネルを叩きつける雨が、少々強くなったような気がする————あ、……雨?
どうして、雨が降ってるのに月の光が……?
呟いて、得体の知れない何かに全身を舐られたような恐怖に陥る。
雨なのに、こんなに強い雨が降っているのに、どうして月が出てるんだよ。
瞬間、思い出したように月の光が窓から差し込んだ。
雲が晴れたんじゃない。
雲が晴れたんじゃなかった。
あれは、あの光は——
「懐中……電灯……?」
口の中の水分が無くなり、喉が異常に乾く。
もしかして、いやきっと違う。
近所の子どもたちが懐中電灯を持って遊んでいるだけだ。
——こんな……雨の日に?
——窓を、まるで集中砲火するかのように、ただ一点だけを?
どんな遊びだよ。
ここに住み着いたホームレスへの嫌がらせみたいじゃないか。
諸々と出てくる否定の言葉の中から、必死に都合のいい答えを探す。
そして、最悪の答えを悟ってしまった時。
スマホが、揺れた。
メールが一件。
宛名不明のメールが一件、届いた。
「右……窓……?」
漢字が二文字。
『右』
『窓』
とだけ件名に書かれたメール。
右を向いてみると、そこには四角いプラスチック窓がひとつ。
「ぅっ……」
気持ち悪さに口許を抑えた。
鼻息が荒い。
見てはいけない……そう本能が警告しているのに、僕の体はそこへ向かって四つん這いに進んでいく。
窓を射抜く光が、点滅を繰り返す。まるでモールス信号のように。ここを覗けと。
恐怖……というよりかは、もはや諦めに近い感覚で、僕はそっと窓を覗き込んだ刹那。
ブー、ブー、と手元のスマホが震えた。
窓の下。
スマホを耳元に当て、懐中電灯を点灯させながらにっこりと不気味に微笑むアゲハが、そこにいた。
咥えていた棒付きキャンディを噛み砕き、懐中電灯をその場に落としたアゲハは、雨に濡れて冷たくなった右腕の人差し指を僕に突きつけると、言った。
「――みぃぃぃぃぃつぅぅぅぅぅけたぁぁぁっ、れぇぇ~んぅ♡」




