三 だれ
「んじゃ、またね。玖楽後輩」
フレンチトーストを食べ終えた僕たちは、それから人気のない公園でぶらぶらしたり古本屋に入って立ち読みしたりして、時間を潰した。
またきょうもサボってしまったという罪悪感をかき消すように、ゆきちゃん先輩と色々な話をした。
ゆきちゃん先輩はRPGよりFPSが好きで、ギャルゲーを並行しながら毎日消化している、とか。
今期のアニメは不作だった、とか。
あのウェブ漫画がアニメ化するからとても楽しみだ、とか。
ゆきちゃん先輩は、話すのも上手だけど、聞くのも上手だった。
彼女と一緒にいると、あっという間に時間が過ぎていく。
「あ、あの、先輩……一つ、訊いてもいいですか?」
別れ道。
夕暮れに向かって歩く先輩の背に、かねてから気になっていたことを訊いてみた。
「どうして……ゆきちゃん先輩は、僕に付き合ってくれたんですか?」
問いかけに、先輩は困ったように笑った。
「付き合わせたのはあたしだよ」
「そ、それは……たしかにそうですけど。じゃ、じゃあ……どうして僕を、喫茶店に連れてきてくれたんですか?」
「あたしも、サボりたかったから。ギリギリまで悩んでたんだよ。きょうはサボろうか、いいやがんばって授業を受けようか、ってね。そこに」
まっすぐ……僕の目を捉えて、ゆき先輩は微笑を湛えた。
「キミがあたしの前に現れたんだ、玖楽後輩。シンプルな答えだろう?」
それだけいうと、ゆきちゃん先輩はパーカーのポケットに手を突っ込んで歩きはじめた。
それからしばらく僕は、その場から動けず、遠ざかっていくちいさな背を見つめていた。
*
「そろそろ学校から母さんに連絡行ってるかもなぁ」
時間をかけてゆっくりと帰ってきた僕は、憂鬱になりながらボロアパートを見上げた。
「……覚悟、決めるか」
一旦、懐からスマホを取り出して、ゆきちゃん先輩の電話番号を確認する。
何かあったら先輩に話を聞いてもらおう。
それをだしに、またゆきちゃん先輩と会えることができると思うと、多少の憂鬱は消えた。
「よし、行くか」
いまにも崩れ落ちそうな階段をのぼって、ドアの前。
ブレザーの胸ポケットから鍵を取り出して、いつものように、平静を装って玄関に足を踏み入れた。
「あ、おかえり蓮ちゃん。んもう、新学期早々やるわねっ!」
「え?」
居間からひょっこりと顔を出した母さんが、ニヤニヤと口許を綻ばせていた。
新学期……早々?
顔が、蒼ざめていくのがわかった。
無断欠席の件?
それとも、ばら撒かれた写真?
あるいは、その両方?
「さ、早く部屋に行きなさい。明日にでもお話しましょ? 母さん、もうお仕事だから!」
「え、あ、あ、あ」
呂律が回らない。心臓がドクドクと早鐘を打ち、視界の隅が黒く染まっていく。
連絡がいっていることは、想像できたし覚悟もできていた。
だというのに、母さんからその言葉がでてきた瞬間に、脆くも砕け散る。
バレた?
どうして?
考えるまでもなく、学校から連絡が来たのだろう。
そんなのわかりきっているのに、理解したくない。
理不尽だと叫びたい。
込み上げてくるものを堪えて、居間の隣にある僕の部屋へと逃げ込んだ。
襖をあけて……。
呼吸が、止まった。
肩にかけたカバンが、床に落ちる。
「おかえり。れん」
鈴が転がった。
きれいな声だった。
甘い匂いが、した。
ベッドの上、星鳴高校の制服を着た知らない女が、ポッキーをくわえて僕を見上げていた。
「ごめんね、ハンガー借りてる。ブレザー暑くて……。ん、どしたん? 早くこっちおいでよ。あっ、ごめんね。まずお着替えかな? えへへ、いいよいいよ気にしないから。え、でも見られながらじゃあ着替えられないって? そうだよねそっかわかったよ、お手洗い……うん、お手洗い行ってくるね。お花摘んでくるね!」
呆然とする僕の傍を通ってトイレへ向かう女。
さりげなく指先を僕の指に絡ませて、パチリと片目を閉じて。
まるで恋人にそうするように。
触れるように鼻腔をくすぐる香水から、知らない人間の匂いがした。
「お母さーん、お手洗いってどこですか?」
「玄関の横よ、アゲハちゃん」
「あっ、ありがとうございます」
……アゲ、ハ?
なんで、そんなふつうに、母さんと話しているんだ?
部屋に充満した甘ったるい香水の匂いが、無性に気持ち悪い。
まるで塗り替えられてしまったかのようだ。あるいは、他人の部屋に招かれてしまったような。
ここはもう、僕の部屋じゃない。
「あれ、まだ着替えてないの?」
帰ってきたアゲハと呼ばれた少女が、僕の顔を覗き込んだ。
鼻と鼻が触れ合う距離。
普通なら、ご褒美とも言えるような甘い展開だけれど、なぜだか恐怖しか感じなかった。普通ではないから。
僕は咄嗟に後ろへ下がって、窓ガラスに背をくっつけた。
「何に緊張しているのかわからないんだけど、とりあえず座りなよ。ね? ほら、こっちおいで、れん。ほ~ら、ポッキーもあるよ?」
当然のように、あらかじめ決まっていた定位置かのように僕のベッドに座ったアゲハは、隣をポンポンと叩きながらポッキーをくわえる。
僕は首を振って、絞り出すように、当然の疑問を投げかけた。
「き、きみは、誰なの? どうして僕の部屋に……?」
「どうして?」
きょとんと、彼女は小首を傾げた。
なにかおかしなことを……言っただろうか。
「どうしてって、れん。彼女が彼氏の家に来ちゃイケナイ理由なんてあるの? あ、でも、そういえば、私初めてだもんね。れんの家に上がるの。初めての、お家デート……えへへ」
にへらと、だらしなく顔を歪ませた女を目の当たりにして、背筋に冷たいものが走った。
「つ……付き、合ってる? なんのはな——」
「そういえば、れ~んぅ? きょうはどこ行ってたの? 昨日も休みだったよね?」
言葉を遮るように、わずかに声のトーンを上げたアゲハ。
反射的に、隣の居間に居るであろう母さんの方へ目線が向いた。
脈拍があがる。
息が詰まる。
目の前の少女が、人とは思えない、僕とは違う存在に見えた。
「ダメだよー、ちゃんと学校行かないと。お母さん知ったら悲しませちゃうよ。母子家庭なんだから、れんがしっかりしないと。あぁ、それと」
少女がポッキーを噛み砕いた。
凍てつくような冷めた双眸が、蛇のように恐ろしい視線が、僕を射抜く。
「パパ活だっけ?」
「っ」
「そんなことしてお金を稼いだらダメだよ。私も悲しいし? そもそも、前提としてキミは男のコでしょ?」
きゃははは。
女の声が鼓膜を揺さぶる。
言葉がでなかった。
頭がまっしろに塗りつぶされていく。
不快な感覚が脳髄を駆け巡った。
あってないような襖の向こうには、母さんがいるというのに。
アゲハは声を落とすことなく、落ち着いた声量で、秘密を暴く探偵のような面持ちで事実を突きつけた。
「あ……あ、あ……ッ」
「れん?」
自分の部屋なのに。
唯一安心できる世界だったのに。
衝動に身を任せて、僕は逃げるように家を飛び出した。
「あれ、どこか行くの、蓮ちゃん——?」
母さんの呼び止めに、僕ではなく、正体不明の女が返答した。
「学校に財布を忘れたみたいで、慌てて行っちゃいましたぁ♡ 私も追いかけます」




