十 ゆき先輩と。。
一瞬、何を言っているのかがわからなかった。
笑顔が引き攣る。
充満していた感情が、一瞬にして霧散した。
先ほどまで心地よく耳に響いていた筈のギターの音色が、刹那にして雑音に変わる。
「調べてみたけど、玖楽後輩、かなり大人気みたいだね。SNSで話題になってたよ。学校の成績は下から数えた方が早いのに、才能あるんじゃないかな。あたしが言うのはアレだけど、頑張りどころ間違えてない? まあ中性的というよりかは女顔でとても可愛いし、だからかな。逆にズボンを履いているのに違和感がある。それが原因で浮いているんだよ、クラスで」
割れる音がした。
高い所から突き飛ばされたガラスが地面に叩き付けられたような、何かが終わってしまうような音。
堪らず僕は席を立って、逃げるように教室を出ようとして、見てしまった。
音楽室の戸。
確かに閉めたはずのその隙間から、アゲハがこちらを覗いていた。
ニタァ、と不気味に口許を曲げて――消えた。
「玖楽後輩?」
「く、来るな」
僕の様子を不思議に思ったのか、ギターを置いて近づいてきた先輩に告げる。
それ以上近づくな、と。
「呼吸が荒い、ゆっくり深呼吸するんだ。過呼吸の勢いだよそれは」
「く、来るなって言ってるだろ!」
悲鳴のような怒声。
我ながら脅しの利かない声音だ。案の定、先輩は思案顔で何事かを呟き始めた。
「何をそんなに怯えてる? いや、何に怯えてる? …………ああ、そうか。どうしてあたしが玖楽後輩の秘密を知っているのか。そこに怯えていたんだな」
クスクスと真顔で笑い声をあげると、一枚の写真をカバンから取り出した。
それは、新学期初日に屋上からばら撒かれた僕の女装写真だった。
化粧をして、スカートを履いて、自分よりも十以上も年上のおじさんと腕を組んで歩く、僕の姿が、そこにいた。
「親切に、この写真とその詳細が記された手紙が一緒に送られてきてね。きょうの朝だよ、下駄箱の中に入ってた。キミと出会った次の日の朝に。だから午前中のうちに片手で数えられるぐらいしか居ない友人に頼んでキミのことを調べてもらったんだ」
主に、バイト関係を。
淡々と、目の前にある資料を朗読するかのように、僕を買った大人たちのレビューを読み上げる先輩。
「へえ。あのメーカーのCEOと三回も。あ、この社長の会社の株を持ってるよ。体育の岡部教師も……これは率直に気持ち悪いな」
吐きそうだった。
視界の隅で、黒いモヤが瞬く。
そこまで調べられているなんて、思わなかったしどうやって調べたんだよ。
「周知の事実なんだろう? どうしてそんなに怯えているんだい? あたしが、知らないと思ってた?」
「先輩には……だって、知られたく、なかったですから……」
何も知らない。それはつまり、正常な僕という面を視れる人。
その唯一の人なら、僕の居場所になってくれると思っていた。
だから。
ふぅん、と意味深に頷いたゆきちゃん先輩は、言った。
「あたしは別にキミを変な目では見ない。何故かも問わない。困りきって疲弊しているキミを、どうして傷つけられようか。だからこそ、知ってほしかった。あたしはキミの秘密を知っているということを。
それと、ごめんなさい。浅はかな発言だった。キミを傷つけるのは承知の上だったのだけれど、そこまで取り乱すとは考えていなかったな」
そして右手を差し出してきたゆきちゃん先輩は、当然のように仲直りの握手と言った。
「キミがあたしを拠り所にするのなら、あたしもキミを拠り所にしよう。お互いが希望であって絶望だ。中々にロマンチックな関係性だろう? 俗にこれを、友達という。さ、どうする?」
「とも……だち」
僕の瞳を覗き込むゆきちゃん先輩。
この人も、卑怯だ。
こんなの、断る方がどうかしてる。
僕は、恐るおそるその手を握った。
初めて触れたゆきちゃん先輩の手は、とても小さくて、温かかった。
「契約成立だ。よろしく、蓮。あたしのこともゆきと呼びたまえ」
ぎこちなく笑ったゆきちゃん先輩。
どこか安堵したようなその顔は、どこかで見た覚えのある顔だった。
「キミとは話が合いそうだから、仲良くなれると思った。だから、その前の儀式的な感じで爆弾を投下した。知られたくない秘密を先に知っておいた方が後ろめたさを感じなくて済むし、離れられないだろう?」
「ゆき……先輩の好感度は、ゼロからスタートですけどね」
「ふふ、ギャルゲーは得意分野だよ。好感度の逆転なんておての——」
瞬間、背後から僕の耳を掠めて何かが空を唸った。
「え、あ」
ガラスが大きな音を立てて砕け散り……。
ややあって、元凶である野球ボールがバウンドをしながら床を転がり、僕のつま先にぶつかった。
「先……輩?」
崩れ落ちた先輩の頭部には、きれいな赤い花が咲いていた。
「だ、誰か」
「うん、呼んだ?」
声に振り返って、一寸遅れて乾いた音が盛大に響き渡った。
頬を打たれたのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
「あ……ぅ、え……?」
「え? じゃないよ何してるの寝ぼけてるのバカなのいい加減にしてよ」
一発、二発、三発……乾いた音が反響する。
ネクタイを掴まれ、引き寄せられた僕はそのまま唇を奪われ、倒れた先輩の真横で舌を舐られた。
僕のワイシャツを引きちぎり、アゲハが唇を近づけて下から上へと舌を往復させた。
すぐ隣で、赤い血を流しながら倒れているゆき先輩。
その横で、狂った女に馬乗りにされて首を絞められている僕。
なんだこれ。
「ほら、見せつけてやろうよ浮気相手に。私たちが愛し合っている姿を。って、ねえ聞いてる? おーい、れ~ん~? あぁ、ダメだ完全に放心してる。ちょっと痛いけど我慢してね、れんの為だからね~」
「いぅッ、ぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「嘘、れんの血が飛び散っちゃった! ああああ、勿体ない!!」
ぐらんぐらん、ぐらん。
机と椅子を巻き込みながら暴れまわる僕と、床に飛び散った血を舌で拭うアゲハ。そして、頭から血を流して倒れているゆき先輩。
最高にラリッた光景を最後に、僕は意識を失った。




