九 ゆき先輩と。
「——ぁ」
窓から吹き抜ける心地よい風に踊らされるカーテン。
半透明な布に包まれるようにして、小兎姫ゆきちゃん先輩はそこに居た。
風に流される黒髪が陽に当たって、まるで黒水晶のように煌くのを見た。
一瞬で、目が奪われた。
「やぁ。また会ったね玖楽後輩。六時限の授業をサボってあたしのライブを観に来るなんて、随分と殊勝な不良だね。なにか良いことでもあったのかな?」
弦が震える。相変わらず眠たそうな瞳のゆきちゃん先輩は、視線だけで僕をそこへ座るよう促した。
戸を閉めて音楽室に入った僕は、近くのイスに腰かける。ゆきちゃん先輩は、静かに目を伏せて六つの弦を爪弾いた。
そして奏でるのは一昔前に流行った秋の歌。
澄んだ秋の夜空に愛しい人との思い出を綴る——そんな詩。
今は春先で季節は違うけれど。
スゥっと汗が引いていく。
入れ替わるように、肌が粟立つ。
外界に触れ気体となって昇華していくドライアイスのように、あるいは口に放り込まれたチョコレートが解けていくように、先輩の喉から発せられる透き通った言の葉は染み渡るように消えていく。
きれいだ、と思った。
陳腐でいてありふれた言葉だけれど、僕の用いる語彙を絞りにしぼった結果でてきた言葉が、それだった。
ゆきちゃん先輩の喉は、いま膝元で弾いているアコースティックギターと同じ楽器なのかもしれない。
使えば使うほどいい音が出る。
精巧な職人の手によって生み出された楽器。
小兎姫ゆきという名の楽器が、鳴く。
「……。ふふ、恥ずかしいな。こんなこと、初めてだから」
さっきまで続いていた悪夢を忘れてしまうくらいに、僕は彼女の歌声に魅了されていた。
「とても……上手でした。きれいでしたよ、ゆきちゃん先輩」
僕の薄い褒め言葉に、彼女は童顔に似合わぬ大人びた雰囲気で頬を掻いた。
「ありがとう。キミもなかなかのものだったよ。よもや【Homerus】を知る人間に出会えるとは思いもよらなかった。さっきは途中で終わってしまったから、ぜひ続きを歌ってはくれないかい? 次は本気で、遠慮なく」
「ぜ、絶対歌いませんから。人前で歌うの苦手なんですよ。それに、あんなクオリティの歌声を聴いてから歌うなんて、できません」
顔の前で手を振って拒否する僕に、先輩は笑みを浮かべながら【Homerus】の前奏を鳴らす。
「てっきり歌いたくてこの場に来たのかと思ったのだけれど、違ったのかな?」
「違います」
「ふぅん? ま、いいけど」
気にした様子もなく目を伏せた先輩は、歌い始める。
五年前に発売されたRPG【Thanatos】の、とあるキャラクターとの戦闘時に流れるBGMを。
知名度はそこそこで、ゲーム性も凡庸。
ありきたりなシナリオで数あるRPGに埋もれるようにして消えていった作品だけれど、僕はそのゲームが大好きだった。
どこに惹かれたのかと言われれば、たぶん、あのシーン。
先輩の歌声に触発されて蘇る、朝焼けのグラデーション。
愛しき少女の胸元に突き立てた聖剣が大地と縫い付けられる。
「メアはきっと幸せに死ねたと思うんだ」
歌い終わり、開口一番に先輩はそう言った。
僕は、否定する。
「そんなはずないです。やっと見つけて再会できたのに、あんな結末は酷すぎますよ」
「その結末が彼女の願いだったんだと、いちゲームプレイヤーであるあたしはそう解釈しているよ。Homerusの意味を知ってる? ホメロス、それは付き従う者という意味もあるんだ。プロローグから後半まで、主人公を陰ながらサポートをしていたテルミドールという謎のキャラクターがいるでしょ? メアが死んだ直後から現れなくなった彼女とメアには共通点があるの。それは、リナリアという花が咲くステージで邂逅している。つまりテルミドールはメアだったのではないか、ってのがあたしの推測。まあほぼ確定だよ。ちなみにリナリアの花言葉は【この恋に気づいて】。これも裏付ける要因ね」
先輩はゲーム内で流れるBGMをギターで弾きながら語る。
「それで、それでね。テルミドールは主人公がピンチになった時必ず助けてくれていたよね。けどもう助けてはくれないの。何故か。メアが死んでしまったから。じゃあ誰が殺したの? 無論、主人公。
きっと彼、一生彼女のことを背負って生きていくよ。宿で、ギルドで、故郷で、戦闘で、愛剣を目にするその度にメアを思い出して後悔する。その時に、彼女は生き返る。彼の心の中で、一生。
付き従う者ホメロス——彼女の願いは、死ぬことにより叶う」
——ま、彼がテルミドールの正体に気が付いたら、の話だけど。
続けて、先輩は言った。
「こうして美化されなければ影が極端に薄い彼女を、果たして鈍感な主人公が気付ける筈なんかない。確かにきみの言う通り、不幸だね彼女は。そんな男を好きになるなんて」
大きな欠伸をしながら目をこする先輩。
涙目になった先輩は机の上に置いてあった鞄の中から水を取り出すと、一口呑み込んだ。
「テルミドールのチート性能に頼ってたおかげで、後半は苦労しました。レベル上げしようにも、主人公の状態が【鬱】のせいでパーティメンバーに入る経験値も半減されますし」
「その章のボスが一番苦労したよね。突然の鬱展開にボス攻略難易度がラスボス並のせいで心折れて、そのままクリアできず終わっていく人が多いんだよ。だからレビューがすこぶる悪い」
「わかります。でも【Veronica】っていう鬱ゲーで耐性ついてたので、割とすぐに突破できましたよ」
「昨日から思ってたけど、意外とゲーマーだよね。【Veronica】を知っている人、なかなかいないんだよ。やっぱり話が合うね」
「ゲーマーなんて呼ばれるほどじゃないですよ。ゲームは好きですけど、買うお金があまり無くて。代わりにゲーム実況とかよく見てます。たまに欲しくなって、買いに行くんですけど」
「ふぅん?」
目をぱちくりさせた先輩。
興味津々といったような相貌がなんだか嬉しくて、不思議な気持ちが湧き上がってきた。
嫌なことを忘れさせてくれる、例えば、そう、友達と一緒にいる時のような。
「何に使っているの?」
当初よりも砕けた口調で、あやふやな質問を先輩は投げかけてきた。
「何に……とは?」
「お金。キミ、パパ活で大金を稼いでるようだけど」
「……、……え?」




