白川涙舟・2
大願堂であった建物は、水害から五年が過ぎても医者に戻ることはなかった。
しかし羽振りの良かった頃を忘れられない父は、金遣いを改めることもせず、変わらず母にも冷たかった。
節郎は十歳になっていた。
色白の肌と整った顔立ち、黒目勝ちの大きな瞳が、母によく似てきた。女児に間違えられることはなくなったが、その分、美童を求める柳町の茶屋などが声をかけてくるようになった。
節郎は、はっきりと父を憎むようになっていた。母を泣かせた父の言葉が節郎の耳に残る。
「俺に文句があるなら出ていけ。行くあてがあるんならな」
ないことを承知の上での物言いなのだ。七倉の実家は、既に伯父が継いでいる。
五年前、義助のことを思い、節郎は毎日泣いていた。泥に埋もれた材木町に行くと言っては、父にぶたれた。
「義助さんは、水無月に江戸に戻ると言っていたのでしょう? もう戻っていたかもしれません、きっと戻って、江戸で元気にしています」
寿々は声を震わせて、布団を被って嗚咽する小さな体を撫でさすった。
「江戸に、行きたいです。義助さんに、会いたいです」
「そうね。いつかきっと、また会えます」
江戸に行く。それが幼い節郎の、生きるよすがになっていた。
母の決心に、節郎は読んでいた先祖の伝記を放り出した。
ずっと待っていた。
いつかこんな家、捨ててやる。
母を連れてこの家から出ていってやる。そう願い続けていたのだ。
節郎は嬉しさを隠さず、寿々の手を握る。
「やっと母さまを助けてあげられる。ここから逃がしてあげられるんだ」
「節郎……」
「わたしが母さまを幸せにします」
まっすぐな瞳で、節郎は母を見た。きりりと迷いなく、息子は応えた。
思い知ればいい。母がこの家の一切を回していたことを。いなくなってから後悔するといい。
少年の喜びは薄暗いものであったが、どこまでも純粋に母を思うものでもあった。
「行きましょう、母さま。江戸に」
節郎は、蔵に残る茶道具や反物などを万物屋に売り、金に替えた。
見栄を張りたい家人が、医者に全く関わりのないものを道楽で揃えていた散財の証である。売ることに何の罪悪感もなかった。
名家だった頃を偲ばせるものが次々と蔵から消えて、父は激怒し、節郎に平手を食らわせた。
小柄な体が吹っ飛んで襖に叩きつけられたが、大きな瞳の強い眼差しは揺らがない。
「長尾家の面汚しが!」
「父さまほど汚れてるとは思いません! 父さまは面も、腹の中も汚れで真っ黒だ!」
「出ていけ!」
「そのつもりです!」
出ていけ以上の罵倒が浮かばなかった父は、無言でもう一度、節郎を平手打ちした。
父にも大願堂にも、何の未練もなかった。未練を持つほどの愛着もなかった。
江戸に行けば母は生き直せる。
つらい仕打ちを受け続けた母に、幸せな人生を送らせたい。それが節郎の切なる願いだった。
富士講の町衆に同行して、母子は江戸へ向かった。
野代の南端から、羽州街道に入る。松並木の美しい街道である。
参勤交代であれば十一日から十四日ほどの道程だが、急ぎの旅でもないため、母子は二十日かけて江戸のひとつ手前の宿場、夕暮れの千住宿についた。
千住宿は、江戸と日光、奥州を結ぶ街道の始まりで、田舎から出てきた者らはまずここで一息をつき、江戸に入る。
宿屋の数は四十軒を超え、日暮れともなると、宿屋の女らがあちこちで千切れんばかりに客の袖を引く。
盛り場でもあり、かたくるしい決まりごとで縛られる吉原よりも、宿場の女郎屋は賑やかであった。
旅人でごった返す宿場町、節郎はぎゅっと母の手を握る。
「節郎、はぐれないでね」
「はいっ」
野代とは比べ物にならないほどの人混みに、押しつぶされる恐怖を覚えた。
幼い節郎には、壁で周りを囲まれているようで、先が見えない。
一丁目の大通りにさしかかると、軽快な調子で声を張り上げる男がいた。
「もういないか、さあいないか? 酒蔵菊鶴は大屋仲衛門、還暦祝いの酒合戦だよ!」
どっ、と見物人が道端に寄せられて、母子は押し流された。振る舞われた紅白の餅を手に、はしゃぐ子供もいる。
往来を会場に西東に分かれて、酒の飲み比べが催されようとしていた。
造り酒屋の店先では、今日の主役である白髪のご隠居がにこにこと、御本尊のように桟敷に鎮座している。賑やかな三味線にのせて声を張っているのは、飲み比べの見届け人。
「こちらにお顔を揃えたるは、美人絵の瀬川京丸先生、戯作の西塚苦楽先生、そして、千住の名医と知らぬものはない、佐治陣内先生にございます!」
絵師と戯作者がふんぞり返って手を振る横で、医師と紹介された白髪交じりの男が大あくびをしていた。
半歩下がって控えている弟子が、呆れた顔をしている。
道の左右には酒樽が並べられ、浪人や力士風の大男など、百人を超す酒飲み自慢が名乗りを上げていた。そして、それらを囃し立てる、ほろ酔いの見物人たち。
『酒は天の美禄、しかし酒ほど人を害するものは他になし』……大願堂で読んだ本の中に、そんなことが書いてあったのを節郎は思い出す。
「ねえ母さま、一度にそんなにお酒を飲んだら、体を壊すのではないでしょうか」
そう言って振り向いた。
握っているはずだった手は、いつの間にか、離れていた。
人波の中、見知らぬ男が、母を力ずくで連れていくのが見えた。
「母さま!」
節郎の全身が総毛立った。
爆発的な怒りが、見知らぬ土地という小さな恐怖をかき消した。無我夢中で、人波を掻き分けて追いすがる。
「お願いいたします、離して下さいませ! お願いいたします……」
寿々は抵抗するが、男はものともしない。ほろ酔い客を邪険に突き飛ばしながら、混雑を抜けようとしていた。
「母さま!」
一丁目を抜けた辻、ひと気の少ない旅籠の裏路地に入って、男はようやく立ち止まった。節郎の声がやっと耳に届いたのだ。
拳を握り、目を吊り上げて節郎が叫ぶ。
「母さまを離せ、人拐い!」
「なんだよ、餓鬼がいたのか」
あからさまに落胆した顔を見せた男は、ずい、と顔を突きだし、節郎の目を捉える。
「女の値打ちはよ、事細かに決められてるんだよ。餓鬼がいる女がどれくらいの値打ちか、わかるか?」
「……?」
頭に血が上っていることに加え、全く答える気にもならない問いかけに、節郎は無言を通した。
視線だけは外さなかった。男は淡々と、性薄に続ける。
「若くて見目良い女は三両八分。年増でも見目良い女なら二両六分。それが餓鬼がいるとなっちゃあ……若くて見目良い餓鬼持ちは二両、年増の見目良い餓鬼持ちは、せいぜい一両だ」
それが、この男が母につけた値段だと理解した瞬間、節郎は男に飛びかかっていた。怒りで言葉を失っていた。
何も知らないくせに。母さまがどれだけつらい目にあってきたか、何も知らないくせに。
これ以上、母さまを傷つけるな。言葉の代わりに涙が溢れた。
「節郎、やめなさい」と母が叫んだが、聴こえてはいなかった。
男の足や胸、届く箇所を手当たり次第に蹴り、殴った。しかし人を殴ったことなどない幼い節郎は、簡単に手を絡め取られ、板壁に押し付けられた。
男の肘の下に、二重線の刺青が見えた。
残忍と好色が入り交じった笑みで、男が迫る。
「母親似の可愛い顔してるじゃねえか。お袋より先に、お前を仕込んでやろうか」
じたばたと暴れる節郎の着物の裾を、男は器用に足で割り開いた。
「母さまを離せ!」
「安心しな、俺は男もいける。具合が良けりゃ芳町に口きいてやるよ。まだちっと歳が足りねえが、二年もすりゃ立派な陰間になるだろ」
節郎の帯がほどけて土に落ち、白い足があらわになった。寿々が叫んだ。
「私を、私だけをお連れ下さいませ! どこへなりと参ります、この子はご容赦を!」
毅然とした叫びであった。非力なたおや女と侮っていた男は、意外なその声に気圧され、節郎の着物を剥ぐのを止めた。
幼さゆえに無知な節郎は、自分が何をされるところだったかを知らない。母の叫びに耳を疑い、呆然とした。
母に助けられた、それだけは解った。
けれどそれは、母を犠牲にしてのことだ。
母さまを助ける、母さまを幸せにする。それだけのために、ここまで来たのに。
「母さま、いけません! 身を売れということなら、わたしが」
「大馬鹿者! どこの母親が、我が子を食らって生き延びたいと思いますか!」
今まで母に諭されたことはあっても、叱られたことはなかった。その衝撃に節郎は打ちのめされた。
母は、幸せになる道を捨てたのだ。
わたしと生きる道を、捨てたのだ。
「話はついたな」
刺青の男は節郎を解放し、懐から何やらを取り出して足元に放った。一両小判であった。
先に男が示していた、寿々の値段である。
「餓鬼が持つには過ぎた金だ。せいぜい達者で暮らしな」
男は寿々を伴って、酒合戦の喧騒に紛れて夜に消えた。
寿々は一度だけ振り返った。
別れの言葉はなく、ただ、強い意思の黒い瞳に我が子の姿を焼きつけた。
節郎は、離れていく母との距離に、現実か夢かも判断できないでいた。
足が棒のように冷たく、動かない。追いかけることも、泣くこともできなかった。
「坊主、お袋さんを恨むんじゃねえぞ」
華やかな喧騒を裂いて、低い、しわがれた男の声がした。
立ち上がれない節郎の背後に、白髪交じりの総髪、黒い十徳羽織の男が立っていた。
酒合戦の見届け役の医師、佐治陣内という爺だった。
陣内は、いかつい、だが優しさの籠る口調で、節郎に言い聞かせる。
「お前ら、職を求めて江戸に来た口だろう。あいつは谷中の女衒……まあ、宿屋の仕事を請け負ってる奴さ。お袋さんは、奉公先を見つけたんだ。お前はひとりでも頑張れる、って信じてな」
母を追うなと、言外に言っていた。
もっと幼子だったなら、陣内の言葉を鵜呑みにしたかもしれない。
しかし節郎は運悪く、船運で栄えた港町の子だ。花街に薬を届ける手伝いもしたことがある。女衒の意味を知っていた。
「母さまは、あいつに買われたんだ。奉公なんかじゃない」
自分を庇って、母は地獄へ堕ちた。
失言に顔を歪めた陣内の目の前に、節郎は一両小判を突きだす。
「あなたは、医者ですか」
「そうだ」
「俺を」
涙を堪えた大きな瞳には、地獄へ堕ちる決意が炎となって、どす黒く燃えていた。
「この金で、俺を弟子にして下さい。医者なら堂々と、あいつを殺せる」




