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寝子屋敷・3

「大久保様は温燗がお好きだよ。ちょいと温めておくれ。人肌くらいにね」

「はい、女将」

「膝がお悪いと仰ってたから、お座布団を厚いのに替えておくれ。それから肘置きもね」

「ただいま」

 本所は吾妻橋そば、水野屋敷や細川屋敷といった大邸宅の白壁を右に見ながら隅田川沿いを行くと、川の水を引き込んだ生簀を持つ黒漆喰の料亭がある。

 ここの隠居が一代で大きくした『柳水亭』は、鯉料理や鰻が名物だ。

 今宵は本所に下屋敷を持つ武家の隠居を迎えるため、女将の志づ香はきびきびと指示を飛ばしていた。

 武家はとにかく験を担ぐ。

 食べることだけでも、やれ「フグは戦場で死すべき武士の食うものではない」だの、「コノシロはこの城を食うに繋がるから食わない」だの、庶民がひそかに肝が小さいことだと鼻で笑うような決まり事が多い。

 花街で身につけた気遣いをいかんなく発揮し、慌てず気負わず凛とした姿で料亭を切盛りする志づ香を、『お局様』とあだ名したのは奉公人たちである。

 二階の大広間は五十六畳もあり、杉の杢目が美しい四畳半仕切り格天井が自慢である。濡れ縁越しに眺める庭は、たくましい蘇鉄と、夕日を吸ったように赤く燃える南国の花が咲き誇っていた。

「女将」

「まあ、信三郎さま」

 若い武士の声に、志づ香は花もほころぶ笑顔を見せた。伊勢守、大久保家の隠居お気に入りの若党侍である。こちらも涼やかな目元に笑みを浮かべた。

 饗される料理の相談などをしに、いつも訪れているので、奉公人とも顔なじみである。

 ふたりは廊下に出て、女将と客の挨拶をかわす。

「ご隠居は間もなく見えられます」

「ええ、今宵はごゆるりと」

 志づ香は袖で隠れた唇を、舌で濡らした。

 座布団を取り替えるよう言われていた男が、別のものを持って広間に戻ってくる。

 男の手元を一瞥して、志づ香は顔をしかめた。

「なんだい、見る目がないね。もっと気の利いた柄のがあっただろうに」

「いえ、厚めのものは、これしか」

「探すのが下手なんだよ。しょうがないねえ、あたしが用意するから、お前は他の仕事をおし」

 (また始まった)

 奉公人らは、内心を同じくした。

 志づ香は立場上、ひとをたしなめることが多いが、ひとこと余計だ、と奉公人らは常々思っている。

 この物言いも『お局様』と言われる要因である。

 宴の用意を始めるたびに「ぼーっとしてると、お客様が来ちまうよ」と発破をかける。悪気はないのだが、ぼーっとしている者など誰ひとりいないのだ。言われた側が面白いはずがない。

 しかし腐っても雇い主である。口ごたえはしないし、憎いなどとは思っても言わない。

 いつものこと、と奉公人らは腹をおさめ手を動かすが、場は無言になった。

「ささ、信三郎さま、こちらに。お茶を用意させましょう」

 若侍を伴って階下へ降りていく女将に、奉公人らは(お盛んなことで)と内心で毒づいた。

 この夜、女将の猫の二匹目が死んだ。

 猫の傍らには、「ひる」と書かれた薬の包みがあった。



 江戸市中の商店に、菊の花が並びだす。

 それらを目を細めて眺めるのは、年に二度しかない藪入りとなる奉公人たち。実家に、ご先祖様にどんな花を持って帰ろうかと楽しみにしているのだ。

 もうすぐお盆。深川にも市が立ち始めた。

 しばらくは線香や酒、花などを求める人々で賑わうことだろう。

 そんなある日、三養堂の入口に『本日休み』の墨文字が貼られた。

 灸を楽しみに来ていた近所の年寄りたちは、がっくりと肩を落とす。

 ここのところ、刹那は往診続きで不在が多い。あいかわらず本所の医者が丸薬売りに熱心なので、大店などが深川の医者を呼びつけるからだ。

「江戸に医者がいなくなっちまったのか?」と三養堂の小さな看板に野次を飛ばす親父もいる。

 その親父に一斉に非難の声が向けられた。

「余計なこと言うんじゃないよ!」

「あいつが出てくるよ!」

 あいつ、と首を傾げる親父は初診であった。

 刹那がいないとなると、いるのは『でも医者』ふたりである。

 やくざまがいと太鼓持ち。あんなのでも医者、の『でも医者』だ。

 戸口の内側にどす黒い気配を感じていると、案の定、寝起きのやくざが天の岩戸からのそりと姿をあらわした。機嫌の悪さは二倍である。

「医者ならいんだろ。なんなら、俺が出張あんまでもしてやるぜ」

 口元を不敵な笑みに歪め、腕まくりをする弥九郎に、年寄りたちは「また来るよ」と手を振って帰っていった。親父はとうに逃げている。殺されかねない。

「触らぬぅ、神にぃ、祟りなぁしぃいぃ」

 節をつけて唄いながら、梅之助は『本日休み』のとなりに『たぶん昼から』と貼り紙をした。

「さて、と」



 刹那は、朝から柳水亭を訪れていた。

 早朝に隠居の使いの手代が三養堂に来て「どうしても女将を診てほしい」と頭を下げまくったからである。

 柳水亭の母屋の廊下は、庭を囲むように奥まで続いている。ひときわ強烈な赤い花に目を奪われながら、刹那は案内の女中の背に問いかけた。

「女将の具合は、いかがですか?」

 隠居の主治医なのだから何度か見てはいるが、役者絵のようないい男を出迎えられた僥倖に、女中はあからさまに張り切っている。

「ええ、ええ、可愛がってた猫が二匹も死んで、さすがに気丈な女将も気落ちしておられますよ。お気の毒に」

「お座敷には出ていらっしゃるんですか?」

「ええ、働いてた方が、気が紛れるんだそうで。あたしたちじゃあ頼りないんでしょうねえ」

 言い方に少し険がある。

 あまり良く思われていない人なのだろうかと、刹那は女将の印象を思い返してみた。

 華やかな顔立ちの、美しい人だ。着ているものは豪華だが、それは女将を身請けしたご隠居があつらえたもので、彼女自身が贅沢三昧しているわけではない。

 番付にも載る料亭の女将として、ふさわしい貫録と気品がある人だと思う。

 ただ、と刹那の眉が曇る。

 かたや、大店の主や武家に妾にと望まれても毅然と断わる貞淑な女将の噂。かたや、間男と不貞をはたらく女将の噂。

 相反するそれらの意味するところが、刹那の心中に影を落としていた。

「こちらでございます」

 女中が、奥まった部屋の猫間障子の前で止まる。「女将さん、三養堂さんがおいでになりました」と中に声をかけると、「入っておもらい」と声が返った。すると、内からすらりと障子が開く。

 あらわれたのは武士の男だった。

 目元涼やかで、三十手前といったところか。

 男は、女中と刹那を一瞥する。ふたりは一歩下がり、礼を返した。

 立ちはだかるように足を留めていたが、男はすぐに部屋を出て行く。

「あの、お待ち下さい」

 足早に去ろうとするのを、刹那は呼び止めた。いささか不快な様子で男は振り返る。

「失礼ながら、お顔の色がすぐれません。医者に行かれてはいかがでしょうか」

 直後、まるで抜刀したかのような殺気が刹那を襲った。

(やはり、逆鱗か)

 梅之助が言うには、本所の地黄騒動は、柳水亭の女将の複数の不倫相手が地黄を求めたのがはじまりらしい。

 町人にまでそれが拡がったのは、何人もの若侍が地黄を買っていくのを商機と見た、かの満月庵が『腰のもの、小も大と成るなり』と地黄丸の宣伝を打ったからに他ならない。

 暗に武士を揶揄する売り文句に、当の不倫相手たちはまさか満月庵を無礼討ちするわけにもいかず、憤懣を溜めていたことだろう。

 この男もか、と探りを入れた刹那は、今まさに不倫相手と対面したのであった。

「お前も、医者か」

 汚いものでも見たような、蔑む声だった。医者と名のつく者を嫌悪しているのだろう。

 刹那は動じず、低頭したまま挨拶を返す。

「こちらのご隠居様の主治医をしております、深川の三養堂と申します」

「その若さで、良い客を持ったものだな」

 客、というあたりに嫌味を感じる。取り入ったとでも思っているだろうか。

 男は顔色を案じた青年に礼を言うこともなく、女中の見送りも拒んで柳水亭をあとにした。

「今のかたは」

「大久保伊勢守様のご家来のかたです。いつもは柔和なかたなんですけど」

「伊勢……」

 刹那に引っかかるものがあったが。

「どうぞ、先生」

 入室を促す声に、その背を追うことはやめた。

 六畳のこじんまりとした部屋は、柳水亭の女将の私室というには狭いものだった。

 枕元に蒔絵の美しい薬箱と、角盆には湯飲みと急須。他は化粧道具もなければ、調度品も瀟洒な花入れのみ。気落ちし、弱った彼女のために特別に空けさせた部屋なのだろう。

 床から起き上がった志づ香と、刹那はふたりきりになる。いらぬ誤解を避けるためか、女中が猫間障子の小障子を上げていった。

 障子の下半分を上げ下げして、戸を閉めたままでも猫が出入りできるようになっている。風が入るので夏にはちょうどよい。

 刹那は開いた障子の先に目をやる。

「仲良く、並んでいますね」

「ええ」

 外からの微風に、志づ香は落ち窪んだ目でふわりと微笑んだ。

 猫間障子を上げると、庭にふたつ並んだ土饅頭が見えた。こんもり盛られた土が、まるで猫が丸くなっているようだった。

「私たちは、お墓を頂けるようなご身分じゃなかったから」

 志づ香が懐かしく、寂しげに零した呟きが、刹那の胸の奥に重く沈んだ。苦界と言われる場所を生きてきた人の凄絶さが滲んでいた。

 そんな場所に最愛の人を追いやった自分を、未だに刹那は許せないでいる。

 障子をくぐり、白斑の猫が一匹、部屋に入ってきた。志づ香はその喉元を優しくくすぐる。

「私たちは猫のようでしょう、先生」

 寝乱れた後れ毛を耳にかけて、志づ香は刹那の手をそっと撫でる。

「こっちを向かない人にはツンとして。可愛がってくれる人には愛想よくすり寄って。男の脚のあいだで戯れてるの」

「…………ああ、すみません。母のことを考えていました。いま何を仰ってましたか」

「先生って女心を分かってませんわね」

「はい、分かることから逃げて、医者になりましたので」

 女心、の解釈がずれているのだが、どちらも気付かず会話が成立してしまった。

 あの時、自分を捨てた母を。否、自分を助けてくれた母の心を、刹那は分からない。分かりたくもない。愛情ゆえのことだと納得してしまったら、それは母を見捨てることと同義になる。

 自分の人生は、母の幸せを取り戻すことにある。かたくなに、そう信じる刹那は、据え膳など食う気もなければ眼中にすらない。

 もっとも、患者が据え膳に見えること自体が、彼にはありえないのだが。

 何故かちょうど良いところに患者の手がある、と思っている。

「お脈を拝見します」

 志づ香は珍獣を見る目つきで旦那の主治医を見た。

 強くはない、遅い脈。皮膚は艶がなく、乾燥気味。爪にも艶がない。手足が冷たい。

 舌苔は白っぽくて薄く、冷えや悪寒がする。顔色は青い。睡眠は浅く、寝起きが悪い。陰の体質、と刹那は見立てた。

 ミミズクの薬箱を開く。桂皮、丁字、乾姜、そして地黄の包みを取り出す。急須に入れて湯を注ぎ、煮出す。

 そのまま飲んでも良いが。刹那は、控えていた女中を呼んで言付ける。

「先生、それは?」

「甘酒です」

 通りにいる甘酒売りから買ってきてもらった。板場から砂糖も分けてもらい、湯飲みに入れる。甘さを加えた方が飲みやすいだろうとの、志づ香への配慮だ。

 湯飲みに甘酒と薬湯を半分ずつ注いで、志づ香へ勧めた。

 桂皮の爽やかさと、丁字の甘い香りが湯気にのって部屋を満たす。体を温め、補う薬湯である。

「美味しい……」

 志づ香はひとくち飲んで、ほうっと息をつく。

 滋味深く、優しい味だった。温かい甘味が体にも、心にも染みわたり、浄化していくようだった。

「病を治すものではありません。気持ちを落ち着かせるための、手助けのような薬です。ですので……」

 ぎり、と唇を噛む。

 離れに住まう、老齢の友人の優しい顔が脳裏に浮かぶ。

「非礼を承知で申し上げれば……無理にお子を望まれなくとも、よいのではと……思います」

「……!」

 志づ香が息をのんだ。刹那の顔に苦渋が満ちる。

 言葉にしたくなかった。女の切なる願いに土足で踏み込む行為だ。

 しかし、医者の自分が、願いのあまり弱っていく女を助ける言葉をためらうなど、あってはならないと決断した。

「どうして……」

 志づ香は医者の暴言に、目を潤ませて固まっている。

 どうして分かったのか。どうして子を望んではいけないのか。非難を滲ませ、そう言っている。

「申し訳ございません、私は医者です。薬を見れば、その人の悩みを知り、その人を見れば、何の薬が必要かを知ります」

 枕元の薬箱の中身を見て、刹那は全てを察した。そこに入っていたのは、海馬(タツノオトシゴ)。子を授かりたい人の御守りのような生薬である。

 地黄騒動はおそらく、子を望む彼女の願いで引き起こされたのだ。

 柳水亭の隠居には子供がいない。先妻は子ができず、失意のまま病で亡くなったと聞いている。

 養子を迎えることもできただろうが、身請けしてくれた隠居のために、何が何でも自分が子を成そうと志づ香は考えたのでは、なかろうか。

 例えそれが、夫以外の男の子であっても。

「あの人は、優しいから」

 泣きそうな、自嘲を込めた笑みで、志づ香は庭の先、八畳間の離れを見る。

「私が産んだ子を、あの人は自分の子だと、言ってくれるでしょう?」

 誰の子であってもか。果たしてそうなのか。

 それは刹那には理解の及ばない話だ。

 けれど。人は血縁よりも深く繋がることができると、他ならぬ刹那自身が知っている。

「女郎上がりが子を望むなんて、おかしいとお思いになりますか?」

「思いません」

「嗤いませんか?」

「嗤いません」

 どこまでも真剣で、誠実な声だった。

 洒落っ気もなく、江戸っ子らしい言葉遊びもできない野暮な青年の、真心だけがそこにはあった。

 この人は信じられる。無条件に身を預けてもいい、赤ん坊のようにすがっていいのだと、そう思わせる声だった。

「ご隠居は、お優しいかたです。貴女が、子ができなくて悩んで無理をしていることを、きっと分かって下さいます」

 志づ香は溢れる涙に顔を覆った。

「養生して下さい。お体を大切になさって下さい。誰も、貴女を責めたりしません」

 部屋の外の廊下からは、隠れた女中の嗚咽も聞こえる。

 白斑の猫が飼い主の膝で丸くなり、にゃぁ、と甘えて鳴いた。


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