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寝子屋敷・2

 通りにかげろうも立つ季節というのに、手あぶりの上で鉄器のやかんがしゅんしゅんと湯気をあげている。

 往診用の手持ちの薬箱には、朱墨でミミズクを描いた観音開きの扉がついている。赤絵は病避けのまじないである。古い箱なのでだいぶ消えかかってはいるが。

 かんぬきを外し、薬種の名前が書かれた三十いくつもある小さな引き出しのひとつから、折り畳んだ油紙を手に取る。

「先生、私のお迎えはいつごろかね」

 料亭『柳水亭』は黒漆喰の土蔵造りの大店で、料理屋番付にも名を連ねている。庭には女将の好みで植えられた蘇鉄が、旦那の盆栽を踏みつける勢いで葉を拡げていた。

 母屋から庭を挟んだ八畳間の離れ。布団から半身を起こした柳水亭の隠居が穏やかな声で、医者には答えづらいことを聞いてよこした。

 苦労の数だけ顔中に寄ったシワが、優しげな目元をより柔らかく見せている。人を叱りつけたことなどないような翁顔だ。

 九谷焼の急須に油紙の中身を入れ、やかんの湯を注ぎながら刹那はぶっきらぼうに答えた。

「そうですね、押し入れや天袋に隠した塩豆大福が腐る前には死なないんじゃないですか」

「お前さん、隠したおやつを見つけるのやたら上手いのは何でだい?」

 ばれていたか、と柳水亭は唇を尖らせる。

 先ほどのしおらしさは病を得た老体の本音ではあるが、当人はまだしばらくは迎えられてやる気はない。病だからと、ちやほや気を回されることを嫌う老人に、刹那は茶飲み友達のように遠慮なく接していた。

 数年前にぎっくり腰になった柳水亭が、千住の佐治施療院を訪ねて以来の顔見知りである。

「好物に祟りなしとは言いますが、(たま)なくしたくなければ減らすことをお勧めします」

「囲碁の仲間が見舞いに持ってきてくれるんだよ。食べないと申し訳ないだろう?」

「貴方が全部食べる必要はないでしょう。女将さんなり女中さんがたに差し上げたらどうですか。はい、そんなことより飲んで下さい」

 夏風邪は安静にしているのもつらいものである。何しろ寝ているだけで汗だくになる。

 金銀花、陳皮、甘草を合わせて淹れた熱い茶を、ふうふうしながら柳水亭はちびちびと口を着けた。

 刹那も自分用に女中が淹れてくれた玉露をすする。こちらはだいぶ冷めたので飲みやすい。

「ときに、先生、私の女房を抱いたかい?」

 玉露でむせた。

 世間話の軽さで柳水亭は、女将と医者の不貞を問うてきた。

 刹那にとっては幸いなことに、吹いた茶は薬箱にはかからず自分の着物を濡らすだけで済んだ。淡々と腰を浮かす。

「大福を没収します。犬にでも食わせてやる」

「真面目な話、真面目な話だから!」

 必死に袖にすがり付く年寄りに、刹那は無言で説明を促した。

 自分を指名して往診を願ったくせに、まさかの間男扱い。不名誉にもほどがある。

 腕組みして閻魔大王のごとく睨み付けてくる医者に、患者はもごもごと白状する。

「最近、志ず香がますます美しくなってね。花魁の頃もかくやというほどだ」

 ひいき目だと一蹴するのは簡単だが、とりあえず老人の言い分を聞くことにする。女の美醜を口に出すほど刹那は馬鹿ではない。

「若い燕がいるんじゃないか、とね、囲碁仲間が言うんだよ。一番私に怪しまれずに女房と会えるのは、先生、あんたくらいだ」

「残念ですが」

 刹那は語気を強める。

「女人を罪人にするくらいなら、俺は腹を切ります」

 橋のたもとで、どこぞの女房と間男が並んで晒し者になっているのを、刹那は腹が煮える思いで見る。

 武家ならば手打ちも許されているほど、不義密通は罪が重い。ただし遊女はこのかぎりではない。

 刹那の言葉の裏にどんな過去があるかなど、柳水亭は知らない。

 もとより、本心から刹那を疑っているわけでもない。ただ女房のわずかな変化を誰かに聞いてほしかっただけである。

 自分が起こした変化でないことは、分かりきっているのだから。

「いや、すまんね先生。年寄りの暇潰しだよ。堪忍しておくれ」

 この歳になると下世話な話題が好きでね、と変わらず優しく微笑み、苦味のある薬湯をすする。

 気鬱も夏風邪を長引かせているのだろう。

「養生して下さい」

 刹那は老人のために用意してきた油紙の包みを、枕元の蒔絵が美しい箱に並べ、蓋を閉じた。





 泡を吹いている猫の横にあったのは、『あさ』と書かれた油紙。

 柳水亭の主のために、刹那が毎食後に飲むよう油紙のおもて面に『あさ』『ひる』『夕』と書いたうちのひとつだった。

 隠居の薬箱を開けて包みをひとつ持ち出して縁側で飲んだ、なんてずいぶんと人間臭いまねをする猫だが、女将の溺愛する猫を殺すほど恨みのある女中も奉公人も出てこない。

 不幸な事故だということになり、半刻後には女将は平静を取り戻して座敷の客に微笑んでいた。

「で、猫はどうなったの?」

 夕餉の蕎麦をずるずる言わせながら、梅之助が刹那の災難に目をしかめる。

「駄目だった。炎症も嘔吐も酷くてな。庭に土饅頭を作ってきたよ」

 夜鳴き蕎麦の屋台はとっくりを傾ける客で賑わっていて、猫の変死話に耳障りな顔をする者はいない。

 三人はひとつの床几を占領して柳水亭の騒ぎについて語っている。弥九郎が蕎麦に七味を追加しながら、不可思議という顔をした。

「石見銀山が入ってたわけでもねえんだし、どっかで毒でも盛られたのか? にしてもなあ……」

 薬の包みは刹那が用意したものだ。主を殺すつもりだったのでは、と料亭の誰もが医者の毒を疑った。

 しかし隠居が「刹那先生ならもっと苦しまずに死なせてくれるよ」と庇ってくれたこともあり、番所にも届けられず早々に帰宅を許されて、こうして夕餉にありつけている。

 家人たちの自分を見る目は忘れられないが。

 刹那は行儀悪く、箸で弥九郎のとなりを指した。

「毒なら、ほら、それにも入ってるぞ」

「え?」

 三人の目線が集中する。刹那の箸の先には、七味唐辛子の竹筒。今まさに弥九郎が蕎麦に振りかけたものだ。

 確かに毒まがいのものが入ってたことはあるが、と剣呑な顔で梅之助と弥九郎は竹筒を凝視した。

陳皮(ちんぴ)、というのが七味に入ってる。俺もご隠居に処方した。蜜柑の皮なんだが、恐らく原因はそれだ」

「陳皮? 生薬だよね、それが毒なのかい?」

「猫には、な。人には何ともないんだが」

 七味唐辛子に紫蘇の実、山椒などと一緒に加わる陳皮は、古ければ古いほど効能があるとされる蜜柑の皮である。

 羽柴藤吉郎が主人の草履を温めたのはよく知られているが、主人が食べた蜜柑の皮も、陳皮の原料として売って金に変えていたと言われる。

 人にはまったく無害だが、蜜柑は猫や犬には毒になる。特に皮は危険で、皮膚の炎症や下痢嘔吐を引き起こし、時に命を奪う。

 しかし猫が蜜柑を嫌うかというと、そうでもない。

「人懐こい猫は、主が食べさせてくれるものを疑わない。主が分かってないなら、悪意もなく蜜柑を食わせてしまっても不思議じゃない」

「でも、今回のは違うよね」

 梅之助は一段、声を落とした。

 不幸な事故の割には悪意を感じるのだ。人が関わっているなら「隠居を殺そうとした」と刹那に罪をなすりつける所だし、陳皮が猫に毒だと知っていて、なおかつ薬に陳皮が入っていることを承知で猫に食わせている。

 だが犯人がいるとしても目的が分からない。猫を殺したかっただけなのか。刃物を用いれば一瞬で済むだろうに、わざわざ手間のかかることをしている。

 何にしろ真相は闇の中だ。

 三人はほぼ同時に蕎麦を食べ終えて、口の中のしょっぱさを帰って白湯で洗い流そうと思いながら、ふう、と息をつく。

「まあ、俺を犯人にしたかったのかもしれないが、失敗したな」

「思わぬ方向からだけど無実を証明されてよかったよね、せっちゃん」

「持つべきものは常連だよな」

 うすら寒さは感じるものの、柳水亭は今宵も上客をあげて宴が入っていた。辰巳芸者と粋な三味線、暗い話は似合わない。

 ご隠居の気鬱が増さないと良いが。

 刹那は老齢の友人の優しさを、夜空の柄杓星に案じた。



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