吉原門外の変・7
陽が落ち、吉原に向かう客で賑わう堤で、梅之助と弥九郎は主が消えた茶屋を畳んでいた。鍋や火鉢などを乱雑にまとめながら、弥九郎がわめく。
「俺はわざと負けてやったんだよ! 茶屋のうしろで小便するように仕向けたのは俺だろ」
「そうかなぁ。お前さんと私は、皆より先に西瓜食べてたから、単に一番小便近かっただけじゃないの?」
「俺が負けるべくして負けたってのか」
「ま、手柄には違いないと思うけどね」
「手柄だろ、大手柄だ」
「ところで弥九郎」
塩の竹筒や茶碗を風呂敷に包んで背負い、梅之助が不必要に声を張る。
「帰りは花川戸を通ろうか」
「おう」
それは弥九郎にではなく、隣の茶屋にたむろする連中に聞かせるためのものだった。
日本堤から永代橋、深川に向かうには、屋形船の行き交う隅田川添い、花川戸を通るのが一番近い。
浅草寺の荷揚げ場や蔵などが建ち並ぶ一帯は、夜には人通りがまばらな寂しい通りである。辻斬りも多かった。
「見てたぜ、てめえら」
荷物をがちゃがちゃ鳴らしながら帰路についていた梅之助と弥九郎は、花川戸で浪人の集団に囲まれた。日本堤の茶屋からずっと尾行してきた連中だった。
六佐と共にいた、河内屋の用心棒だ。人数は五人。
梅之助は、狭い茶屋に隠れるため大の男が鮨詰めになっていた後ろ姿を思いだし、口元が緩んだ。それを挑発ととったらしい男が、激昂して刀を抜く。
「てめえ、毒を盛りやがったな!」
「毒ではないらしいよ」
「とぼけるな!」
「ずっと見てたんでしょう? 何であの人を、衰弱するまで放っておいたんです」
浪人達は言い返せなかった。腹を下している男に誰も近づきたくなかったのと、騒ぎを起こせば吉原大門にある面番所から、十手持ちが飛んでくるからである。
そのせいで六佐を見殺しにした。奉行に六佐の身元が割れて悪どい女衒であることが知れれば、河内屋に手入れが入ることになる。
浪人達の食いっぱぐれは決定的だった。その腹いせの襲撃なのだ。
「ひとの不幸が飯の種……医者も一緒だけどね」
梅之助の自嘲的な独り言に反応することもなく、浪人達は次々、刀を抜いて距離を詰めてくる。錆びた刃を屋形船の灯りが鈍く照らした。
「梅」
弥九郎が、持っていた荷物の中から、細長いすまきを差し出す。
梅之助がその中に手を突っ込む。浪人達の耳に、鯉口を切る音が聞こえた。
「!!」
一瞬であった。
すまきの中から清水が迸ったかのように滑らかな銀線を描き、梅之助の刃が浪人のひとりを袈裟懸けに斬っていた。
肩口から血を噴き上げ、何が起きたかも知ることなく男は絶命した。
浪人達は皆、弥九郎の方を警戒していた。体格もよく、六佐に喧嘩を売った度胸もある。連れの方は単なる幇間程度にしか見ていなかったのだ。
その太鼓持ちが一刀のもとに、武芸自慢を斬り捨てた。浪人達が明らかに狼狽する。
「私も、刀を持つことが許される身分に生まれた者でね」
『私も』は浪人達への同調だったが、梅之助の言葉など彼らの耳に入ってはいない。白刃の次の動きをひたすら凝視していた。
「刀を持つ者は、刀を持てない者のためにこそ刀を振るうべきだ。……他の人は知らないけどね。私はそう思っている」
梅之助の声は柔らかく、決して威圧はしていない。なのに浪人達は、うすら寒さを覚えた。
他人に恐怖を与えるのみで、自分が恐怖させられることを知らない武芸自慢たちは、今すぐ目の前の恐怖を葬り去りたかった。多勢に無勢など、もう誰の頭にもない。
「私が人を救えるのは、人を斬ることでのみ。だから、迷いはないよ」
来る、と思ったときには遅かった。
ひとりは刀を構える前に喉を一文字に裂かれた。続いた男は刀を弾き飛ばされ、眉間を貫かれる。
残りふたりも刃を交えることすらさせてもらえず、首を飛ばされた。
流派も型もあったものではない。確実に絶命する急所だけを狙った、兇悪な殺人剣。
『人斬り』。
刹那の前では絶対に見せない、梅之助のもうひとつの顔である。
血生臭い花川戸とは対照的に、何艘もの華やかな屋形船が舳先の提灯もゆらゆらと、隅田川を上ってゆく。行き先は浅草か、吉原か。
梅之助が刀の血を払う。土に染みてゆく赤に、西瓜の色を思い起こし、弥九郎は珍しく寂しげに呟いた。
「あの親父、どこまで行ったかなァ……」
大川で土左衛門が上がったと刹那が聞いたのは、五日後のことだった。
見物人の話では、腹にしっかりと位牌を巻きつけて、女物の着物の端切れで両足首を縛った男だったという。
安い女郎が着るような、花火の柄の端切れだったので、見物人は「宿場の女郎と心中した男だろう」と噂していた。
「位牌の墨も流れちまってて、ほとんど読めなかったそうだが……なつ、って書いてたらしいぜ」
眉を歪めて、その一報を刹那に知らせた弥九郎は「お前に教えていいもんか、迷ってよ」と、自分はもっと早く知っていたことを漏らした。
「身元がわからねえってんで、奉行所が顔見知りを探してる。お前、行くか?」
「……ああ……」
自分が行くのが筋であるとは、頭ではわかっている。けれど。
奉行所の土間でむしろに横たわっているのは、未来の自分だ。
本懐を遂げ、満足な死に顔をしているはずの茂吉に、刹那は合う勇気がなかった。合わせる顔がなかった。
茂吉は全てを捨てて本懐を遂げた。自分に同じことができるのか?
死ぬことに臆病になっている自分に。
「……俺は、命根性の汚い奴だな……」
刹那の頬を涙が伝う。哀しみの涙か、悔し涙なのだろうか。
梅之助や弥九郎と生きることと、本懐を遂げることを、刹那はずっと天秤にかけている。
答えを先延ばしにし続けている。卑怯なほどに。
「何が、生きるよすがだ……」
いつも勝ち気な幼なじみが、無力感と自己嫌悪に打ちのめされる姿に、弥九郎は慌てた。
「ええ!? あっ、えーと、こら、泣くな! 俺が行ってくるから! お前はよくやったから! 自分のせいで死んだなんて思うんじゃねえぞ!」
あたふたと自分の袖で涙を拭ってやり、頭をぐしゃぐしゃと撫でて、弥九郎は三養堂の戸口からまろび出た。
初夏の永代橋の下、うろうろ舟が西瓜を載せて川を上って行った。




