寝子屋敷
「ねぇお願いしますよぉ三養堂さん、この通り。少しだけ、一回だけェ」
朝飯時もすぎた時分、階下から中年の男の媚びへつらう声がする。二階で寝ていた弥九郎は、脂の乗った猫なで声にぞわっと鳥肌をたてて目を覚した。
「後生です、頼みますよぉ。同業者のよしみで今度だけ、ねェ?」
「お断りします」
応対する刹那の声は針のようにピリピリしていて、相当に機嫌を悪くしていると伝わってくる。面倒な医者仲間だろうか。
深川の蛤町、寺町には、三養堂を含めて医者は五軒ほどある。弥九郎は顔が広い。寺町の医者も商店もほぼ顔なじみで、使いの者らの声まで覚えている。
この、刹那にどうやら無理を通そうとしている声は弥九郎の知らない声だ。しかも何やら内容が不穏である。
「駄目です。お帰り下さい」
「床上手になりたいって男の願望、わかっておくんなさいよぉ」
「あっ、ちょっと、離れて」
「好いた娘をさあ、悦ばせてあげたいじゃなぁい」
不穏どころか変質者じゃねえか。
ざわ、殺気が沸いた。この家を脅かす不埒者を、弥九郎は許さない。
喧嘩と博打にあけくれてはいるが、身内には激甘な男である。当の身内である家主の刹那に、疫病神だの貧乏神だの散々な呼ばれかたをされていてもどこ吹く風。弥九郎自身は三養堂の用心棒を自負しているし、事実そうであった。
布団を蹴たてて跳ね起き、一足飛びに階下に降りる。
「おい! それ以上うちのもんに言い寄るん……あれ?」
ばしん、と破れんばかりに診察部屋の障子を開けたが、てっきり襲われていると思っていた刹那はまったく着衣の乱れもなく、作業机の前に正座していた。
一方で上がりかまちにいる中年男は、好いた女の物真似らしく身もだえた格好のまま、弥九郎の剣幕に固まっている。
刹那の手元には天秤と油紙、薬種が入った小皿や小壺。客が暴れたら吹き飛ぶほどの細かい粉末もある。なれなれしい来客をあしらいながら、日課の薬の調合をしていたのだ。
「ちょうどよかった、弥九郎」
接客が面倒になった刹那は、死んだ魚のような目に大きく『迷惑している』と書いて、寝坊の用心棒に話を振る。
「こちらは本所の医者で満月庵さんだ。俺が言うことは聞いてもらえない。お前が教えてやってくれ」
「教えるって、体に?」
「体に」
「よっしゃ」
「ちょ、ちょっとお待ちを! 話を、話を聞いて下さいよ!」
明らかに何のことだか解っていないにも関わらず、凄みのある笑顔で指をばきばき鳴らしだしたやくざ風の大男に、満月庵は命の危険を察して猫なで声を引っ込めた。
こほんと咳払いして高価な羽織の衿元を正し、ようやくまともな客の顔になる。
「私、本所は常磐一丁目、満月庵の主で皆川満月と申します。三養堂さんにたってのお願いがあって参ったのですよ。近頃、地黄の値段が高騰しているのはご存知でしょう?」
「ジオウってなんだっけ」
「薬」
「ふーん。で?」
薬って、と内心つっこんだ満月庵だが顔には出さず続ける。
「その原因は、本所じゅうの医者が地黄を求めているからなんですよ。薬種問屋の蔵の在庫にまで唾をつけるくらいでね。近頃、本所では『地黄丸』が大変人気でございます。買われるのはお武家様や商人、火消しまで様々で」
「深川もあおりを食らって迷惑してます。問屋が売り惜しみしてるんでしょうけど」
「へー」
丁子を丁寧にすりつぶしながら、刹那も軽く近況をこぼす。
血を補い体力をつける効能を持つ地黄は、漢方薬の代表格である。割と入手しやすい生薬なのだが、このところ品切れだの入荷待ちだのと問屋が申し訳なさそうにしている。多少高くしても本所の医者が買っていくので、売れる方へと流れていくのは仕方ない。
医者も問屋も商売っ気の多いことだ、と刹那は呆れつつあきらめている。
「待てよ、ジオウ……地黄……?」
ああ! と弥九郎が膝を打つ。
「思い出した、地黄丸。魔羅が強くなるって売り文句のやつだろ。そういや、そいつに一両出すだの二両出すだの、奪い合いが起きてるって聞くぜ」
自分が求めたわけではないが、弥九郎は手下の話で聞いていた。本所では医者が裏でやくざ者を雇い、地黄を奪った奪われたの抗争も起きているという。
「そう! その地黄がもうねェ、本所にはないんですよぅ」
ようやく本題に入れる、と満月庵は再び猫なで声に戻る。
「ここに来るまでも四件に断られました。こちら三養堂さんにも、地黄ございますでしょぉ?お礼は存分に致します。どうか僅かばかりでも、分けてほしいと参ったのでございますよぅ」
太い手をすり合わせ、ご慈悲を、と拝むように眉を寄せてくる。
弥九郎は薬の仕入れなどからっきしなので、「分けてやらねえの?」という目線を送った。作業の手を止め、はぁ、と刹那は溜め息で応える。
「馬鹿馬鹿しい。地黄を飲んだからといって即効で魔羅が強くなるわけないことくらい、あなたも医者なら分かるでしょう。そんな思い込みにつけこんだ商売が俺は大嫌いです。うちは、体の弱ったじじいばばあの強壮のために地黄を置いてるんです。元気な奴を更に元気にするために分けてやることはしない。お帰り下さい」
「だってさ」
年寄りへの失敬はともかく、随所に医者の本分をにじませた刹那の正論に、満月庵は急に恥ずかしくなって口をへの字に結んだ。大きな駄々っ子のような膨れっ面。
生薬は本来は体に合わせて処方されるべきもので、毎日少量ずつを続けて飲むことで体の調子を整えるのが目的である。即座に効く薬があるならそれは体のことを考えない劇薬であり、場合によっては毒にもなる。医者を名乗る者が売っていいものではない。
刹那の矜持でもあり、師である陣内の教えでもあった。
「後悔なさいますよ」
自分より二回りも年下の若い医者をおとなげなくにらみつけて、満月庵は三養堂をあとにした。
(若造が、生意気な)
深川で特に評判をとっている三養堂も、ほかの医者たちにも首を横に振られて満月庵は立腹していた。地黄を入手できなかったばかりか、説教までくらっての帰路である。
(若造のくせに、私にものを教えようなどと……)
出てこなかった反論を見えぬ相手に聞かせるように、ぶつぶつと悪態が止まらない。自分より若い以外の劣った箇所を見つけられなかったことには気づいていないが。
(この私が頭を下げたというのに。籠にも乗れない貧乏医者が)
満月庵の得意先は隠居や船主などの富裕層だ。呼ばれた家に籠で乗り付け、ちょいと脈を測って葛根湯でも処方すれば薬代として一両小判を包んでくれる。
医者も人生も先輩である自分がわざわざ足を運んだのに、ここまで無体な扱いを受けるとは。
草履の下から足を刺してくる小石にも腹が立ち、蹴りつける。籠にはない不快感である。小石は仙台堀を行く舟にあたり、船頭が文句を言った。
(世渡りってもんを知らん。だから貧乏くさいんだ。みすみす稼ぎ時を逃がして、絶対に後悔するぞ。いや、後悔させてやる)
(薬箪笥があったな。あれを漁れば多少の地黄があるだろう。しかし用心棒がいるのか。賭場のゴロツキを数人雇って襲わせよう。ゴロツキ同士の喧嘩としてしまえば、物取りとは思われまい)
(それに、あの綺麗な顔を傷つけるのはもったいない。男好きの奴らに可愛いがってもらえば、喜んで地黄を差し出すやも……)
「やあ、しばらくだね」
ぶつぶつと強盗の算段を呟きながら正覚寺橋にさしかかろうというとき、正面からきた男が陽気に手を振り、声をかけた。
はっとして満月庵は顔をあげる。たぬきの悪巧み顔から福福しい医者の顔になるのは一瞬である。
「これは、お武家様」
見覚えはないが、どちら様で、とは聞かない。いま声をかけてくる若い侍など、地黄を売った客に違いないのだから。
内緒話をするように、若い武家の男は近づいて肩を寄せてきた。
「そちらで買ったアレだけど、なかなか良い調子だよ。またお願いしたいな」
(アレがないから困ってんだよ)
とは言えない。
抜け目のないことに、売れるとなったら本所では医者も戯作者も寺の坊主ですら地黄丸を作って売り出した。黒柱地黄丸、地黄猛り丸、喜陰地黄丸……意味深な名前の薬は挙げるとキリがない。
江戸は医者を名乗るのに免許はいらない。どんな薬を作って売ろうが誰の許しも得る必要はない。品薄になるのは当然だった。
ちなみに満月庵で売り出していたのは『女悦地黄丸』という。露骨な名前が受けた。かまどの灰が九割九分、ほぼ灰で出来た真っ黒な丸薬である。飛ぶように売れた。笑いが止まらなかった。
(調子が良いだって? そんな効能あるもんかい)
満月庵は腹であざけりつつ、にこやかに客を持ち上げることも忘れない。
「いえいえ、アレはお客様の元の強さがあってこそ。私どもの商品は、あのお局様の御用達でもございますれば、品質は最高級でございます」
灰の塊に箔をつけたい満月庵は、顧客の名を自慢気に口にした。男は驚く。
「え、あれはそうなのかい?道理で効きがいいはずだよ」
「おや、ひょっとしてお武家様は、お局様の……?」
「二人で飲んで朝まで、ね。内緒だよ、お局様はきっと私に惚れたよ」
(おめでたい男だ)
同じ内緒話なら何度もきいた。満月庵も何度目かの愛想笑いで返した。
本所は武家の下屋敷が並び、裕福な商人の隠居なども居を構えている。それらの妾にと望まれたほどの美貌の持ち主が、料亭『柳水亭』の女将、志ず香であった。
志ず香は、元は花魁であった。
気品にあふれ情が細やか、芸事も教養もすばらしく、五匹の猫を可愛がっている。身請けしてくれた二十も歳上の旦那によく尽くし、『柳水亭のお局様』といえば男女問わず憧れの存在として、小名木川を越えて深川でも有名だ。
未だに言い寄る者も多い。貞淑なお局様に相手にされているかは本人にしか分からないが、我こそがと吹聴してあるく男はたまにいる。
そして満月庵に内緒話をしていくのだ。
「ほかのも試したけど、やっぱりおたくのアレにはかなわないね。さすが実績が違うよ。お局様のひいきも分かる」
「恐れ入ります。今後も満月庵をどうぞごひいきに」
さっさと切り上げて三養堂を襲う計画を運びたいのだが、武家の男はにこにこと話を終わらせてくれない。
この手の客は「地黄丸がもう少し安くならないか」「他の客にやる分を自分に売ってくれないか」ばかりだが、そういった無理を言うわけでもない。
腹の底の見えない男に、満月庵の嫌な予感が少しずつ増していった頃だった。
「ところで、アレって何だい?」
「へ?」
問われた意味が分からなかった。本所の男どもは今、アレの有る無しに浮き足立っているというのに。
そういえばこの男は、一度でも地黄などと言ったか? 一度でも自分を満月庵と呼んだか? いや、聞いていない。
ようやく満月庵は、目の前の男に不気味さを覚えた。
「え、あの……地黄丸の話をされていたのでは……?」
「ああ、地黄丸のことだったのか。最近高騰してると聞くね。それと柳水亭のお局様が、どう繋がるんだい?」
カマをかけられた、とは気づいた。けれど何のためかが分からない。分からないのが怖い。
変わらず男は笑顔である。だのに笑みから通常は感じるはずの穏やかさはまるでない。ぎらり、満月庵の背に冷たい刃が突き付けられた、そう感じるほどに嫌な笑顔だった。
「もしかして、地黄欲しさに深川の医者に押し込みに入ろうとしているのかな?」
ぎくり、心の臓が凍りついた。
この男は。
あの用心棒と同じ、いや、それ以上に危険だ。
満月庵は自分の命と地黄を天秤にかけた。もはや抜き身の刀を喉元に当てられているに等しかった。
全力でへりくだる、それしか保身のすべはない。無理やり笑顔を作った。
「とんでもございません。確かに地黄をお譲りくださいと願いはしましたが、深川を荒らして私に何の得がございましょう」
「お局様の差し金ではないのかい?」
「いいえ、逆で。柳水亭へ通う皆様が、こぞって地黄丸をお求めになるのです。お局様のお相手をなさるために」
十徳羽織は医者羽織とも呼ばれる。深川に医者は数あれど、いかにも金の匂いのする黒い十徳を召して歩く医者は、梅之助の記憶にはない。
刹那は小さい時分から地味な色味の安物しか着ないし、弥九郎は博打に着ているものも賭けるので他人の着物も平気で着ている。派手好きなので柄に好みはあるようだが。梅之助自身も貧乏武家の見本のような着たきりすずめである。
正覚寺裏から出てきた身なりの良い男を、深川の外の医者だと梅之助は一目で見当をつけた。
籠にも乗らず、商売道具を持った弟子や小僧もおらず、虫の居どころが悪い顔でぶつくさ歩いてくる。
顔が利くと自負している医者が思い通りにならなかったのだろう。
(こてんぱんにやられたのかな?)
蛤町のほかの医者なら穏便に済ませそうだけれど。
思い上がった横っ面をひっぱたき、鼻っ柱を折って塩を撒いて追い返しそうな医者なら一軒しかない。
(恨みを買ってそうだな)
ただし、この男が塩を撒かれるようなことをしたのに違いないと確信してもいる。
この男は三養堂を脅かす。梅之助は弥九郎と同じ理由で満月庵の前に立った。昼行灯の顔に殺気を隠して。
「何故、どうして……何故、どうして!」
女の悲痛な叫び声が柳水亭の母屋をつんざく。夜のお座敷に上がろうとしていた芸子や幇間が、なにごとかと渋い顔で母屋を伺う。
志ず香は半狂乱で、目の前の麗しい医者へと泣きついた。口から泡を吹いた息も絶え絶えな三毛猫を、胸に抱きながら。
「この子を助けて下さいまし、刹那先生!」
かはたれ時、夕闇のせまる縁側にぼたりと置かれた死にかけの猫。
「ろくでもないのが、いるようで」
呪詛とも見紛う陰気さに、刹那は背に冷たいものが走るのを感じた。同時に、怒りも。
「どいつもこいつも、薬を何だと思ってる」
何故だ……何故そっちの話になるんだ……
見きり発車ダメ絶対(痛感)