蓬莱の玉の枝・15
消えきらない香気を吸わぬよう、刹那は袖で口と鼻を覆う。煙を上げるひとつは莨宕根だが、いまひとつは伽羅だ。
富と権力の象徴たるそれを躊躇なく、刹那は汁物の椀に突っ込んだ。
灰が舞い、天井は破れ、皿の上の紅白は見る影もない。茶室の中は猫が暴れたよりも酷いことになっていた。
未熟者を見下す目つきで、青白い禿頭の老医師・桂白穂が、刹那の問いに答える。
「仙境へ至る膳が、世に数多ある生臭膳と同じであるわけがなかろう。生き死にを超えた先に、我らの求むる生がある。そなたも医者のようだが、短きこの世の生に未練を持つとは、欲深いことよ」
「……!」
怒りと呆れが頭を駆けめぐり、二の句も継げず固まりかけた刹那だが、
「はあ? 何言ってんだこいつ」
次郎吉の生意気な一刀両断が、この世に呼び戻してくれた。
「刹那さん、このじじい、あんたの問いにどう答えたんだ?」
「そうですね……『目玉を食べて、我らと共に仙人になろうぜ!』という意味になるでしょうか」
「わかりやすっ」
うさんくさい流行り丸薬の引札のような売り文句であった。
刹那の引札の才能に感心する次郎吉とは逆に、黒紋付きの男、大田屋宗雲は怒りに震えている。
「蓬莱の玉の枝を安い文句で貶めるとは、許さんぞ! これらの料理は、公方さまもお口にできぬほどの珍品。それを饗する龍宮もまた、この世にふたつとない美しさであるのだ!」
「人の目を弄り、美しくもないものを美しく見えるようにしただけでしょう」
刹那は吐き捨てた。
この世のものとは思えないほど美しい龍宮城。それはただの、珍しさに取り憑かれた大人の遊戯場だ。人の命すら食材に見えている外道の。
莨宕根、ハシリドコロがあると分かった今、吉次の末路も推測できた。
「蓬莱の玉の枝を生み出した料理人には、褒賞を与えたのですか?」
「与えようとしたのだがな」
大田屋が至極残念、と薄ら笑う。
「この茶室から出た途端に目が眩むと言い出して、それ、そこの滝から落ちてしまった」
茶室の中は、幽玄を模して灯りを抑えている。にもかかわらず、莨宕根の煙を吸ったせいで大きく開いた刹那の瞳孔は、暗い部屋を昼のように明るく見せていた。
吉次も同じだったはずだ。
ここから一歩、回廊に出たなら、吹き抜けに吊り下がる洋灯の灯りは、吉次には日の光を直視するほどに眩しかったに違いない。
「目が眩んで前が見えてない人を、崖っぷちに放り出したんですね」
「最期に極楽の光が見えて、満足だったろう」
落ちろとお膳立てされたのと同義だ。刹那の軽蔑の視線が、三人の男の顔をなぞった。
庵の入り口で、亀は美貌を蒼白に染めていた。
亀の役目は、ただ客を案内し、料理を運び、客を送り出すこと。料亭の仲居の役目である。
そこに亀の意思は存在しない。絡繰の茶汲み人形のように、同じ場所を行き来するだけの日々。
その絡繰が、今宵の客に壊された。
珍しさに感嘆した客ばかりの中で、あの青年だけが『雲上冥賀の膳』の正体を見破り、あまつさえ自分がそれを嫌っていることまで見抜いた。
そして『李庵』の存在も突き止め……亀が仲居の役目を果たせなかったことを、龍宮のあるじにさらけ出してしまった。
「役立たずめ」
上座から飛んだ冷たい侮蔑は、刹那のうしろに向けられたものだ。
刹那は、自分の背後から「申し訳ございません」という弱々しい声を聞いた。
八番目の兄に会ってはならないと、家人から小言のように聞かされ、五十鈴は育った。
末娘である彼女は、なぜ八番目の兄だけが年中行事や祝いごとに顔を見せないのか、不思議に思っていた。
母に訊くと悲しい顔をされ、父に訊くと叱られ、兄たちには話をすり替えられる。五十鈴は、八番目の兄の名前すら知らなかった。
厨で茶碗を割ってしまった下女が「粗相をしたら、本所にやられっちまうよ」と叱られているのを、一度聞いたことがある。
本所に何があるんだろう。恐ろしいところなのだろうか。
五十鈴が八つになった頃。
七番目の兄に初めての子が生まれた。家族皆で、まん丸い赤子の頬をつついた。桃みたいに、可愛い頬だった。
(兄上さまはお父上さまたちとお話しているから、あとで遊んでもらおう)
そう思い、五十鈴は毬を持って庭に出たのだ。
(あら。あれは、誰かしら)
普段は閉ざされている門が開いていて、屋敷内に豪華な駕籠が停まっていた。家紋は、五十鈴の家のものだ。
駕籠の脇に、とても凛々しい顔立ちの若侍がいた。
赤子に会えるのを楽しみにしていた五十鈴のように、その若侍もわくわくとした様子で、屋敷を見つめている。
五十鈴は、はっとした。
(お祝いにいらした、八番目の兄上ではないかしら?)
毬を持ったまま、五十鈴は若侍に駆け寄った。
兄に会ってはならないと言われていたが、向こうが来たのだから、会いにいったことにはならないだろう。
声を弾ませて、五十鈴は兄を迎えた。
「八番目の兄上さまですか?」
若侍は、にっこりと、日の光のように笑う。
「そうか、お前が私の妹か」
「お祝いにいらっしゃったのですよね」
「そうだよ。でも」
若侍は、笑顔はそのままに、箱入り娘に手を伸ばす。
「お前がいいな。おいで」
五十鈴は兄に、一緒に駕籠に乗るよう誘われた。
何の疑いもなかった。家族が自分にいやなことをするわけがない。
「どこへ行くのですか、兄上さま」
「私の龍宮城だよ」
初めて会った兄と、少しお出掛けするだけだ……。
前畠家は哀しみに突き落とされた。
庭に毬を残し、五十鈴が消えた。誰も五十鈴が連れ去られたところを見ていないのだ。
毬は、普段は忌み嫌うために使われない東門――本所の方角にある門の前に転がっていた。
まさかと思い、父は本所の八男の屋敷を探させたが、ついぞ末娘の姿は見つけられなかった。
神隠しにあったのだと、前畠家は、踏ん切りをつけざるを得なかった。
五十鈴は、龍宮城の美しさに目を輝かせた。
お話にある通りだ。綺麗な女の人がいて、豪華な着物、可愛い帯やかんざしを、毎日、五十鈴に着せてくれた。
珍しくて美味しい料理が、特に五十鈴は好きだった。兄と食べるご馳走は何でも美味しいけれど、兄とお喋りできるのが一番嬉しかった。
家では、父や兄たちと膳を囲むことはなかったからだ。
八番目の兄は、この料理がどんなふうにできあがったのかを、面白おかしく五十鈴に聞かせた。
百人の船乗りが海に挑んで、やっと釣り上げた巨大な魚の鰭の煮物。
南蛮の国の果実、足長国の酒……
「だが、私が切望し、手に届くところにありながらも、食べることが叶わなかったものがあるのだ」
心から悔しそうに、兄が嘆く。
こんなにも博識で、食べることに貪欲な兄上が、手に入れられなかったものがあるなんて。
どんな美味しいものだろう。五十鈴はわくわくと、兄の口から聞ける言葉を待った。
「産まれたばかりだった、お前の生き肝だよ」
かくして五十鈴は、龍宮城に囚われる。
兄の切望を妨げた罰として。龍宮に仕え『雲上冥賀の膳』を運ぶ、ただそれだけの役目を与えられ。
「不老不死の膳、ですか。大層な材料を使うようですが、そんなもの私でも作れます」
「え?」
次郎吉は、相棒の言葉を疑った。そんな特技は聞いていない。もちろん龍宮の面々は、毛ほども信じていない顔である。
亀だけは、刹那の言葉の真意に気づく。
この青年は、『雲上冥賀の膳』を作ろうとしているのだ。私の大嫌いな、『誰も箸など伸ばす気も起こらぬ、くだらない料理』を。
刹那は袖を袂に押し込むと、酒で手を濡らし、ひっくり返った膳に乗っていた茶碗の白飯を手に取った。黒胡麻をふってあるところを割り、「次郎吉さん、ちょっと」と足を上げさせる。
天井から落ちてきたとき次郎吉が踏んだ何かを、足の裏からこそぎ取る。
「ちょ、くすぐってえって」
「勢いよく踏みましたよね。何ですかこれ」
「ぐちゃっとしてたぜ」
もやっとした橙色。鮟鱇の肝和えのようである。畳にも飛び散ったそれを、刹那は丁寧に掻き集める。
闖入者の奇怪な行動に、龍宮の三人はあっけにとられ、しかし意味するところは感づいていた。皮肉にも程があるものが、出来上がろうとしている。
ぎゅっ、と三角にかたく結んで、刹那は大きなおむすびを三人に突き出す。
「どうぞ。この世にふたつとない『泥棒が踏んだ鮟鱇の肝和え入り黒胡麻むすび』です」
「食えるかあああ!!」
三人の男の拒絶は、綺麗に揃った。が、いかにも理解不能といった様子で、刹那が首を傾げる。かたわらで次郎吉が腹を抱えていた。
「何故です? 公方さまさえ召し上がることはない、珍しい料理ではないですか」
「これの、どこが不老不死の食か!」
大田屋は、美食に対するこれ以上ない侮辱に、破裂しそうなほど顔を煮えさせている。
刹那は嫌味なほど自信満々に、胡麻の講釈をたれた。
「この黒胡麻が見えないのですか。胡麻は古来より仙薬と呼ばれる、不老長寿の秘薬です。腎を補う黒胡麻、肺を補う白胡麻、ともに五臓六腑を潤す天下の良薬。雲上冥賀の膳になど頼らずとも、我ら庶民は常日頃より、朝飯に弁当に不老不死の秘薬を食しているのですよ」
こうしたときの刹那の黒い笑みが師匠にそっくりだと、梅之助がいたら言うことだろう。
(言ってくれた……! 私が、ずっとずっと言えなかったことを、この人が……!)
龍宮の、兄の威容に首をすくめるしかなかった、かつて五十鈴と呼ばれていた少女の目に、涙が光る。
このあとの青年の安全を思えば不純ではあるが、亀には青年が、待ち望んだ玉手箱を開けてくれる存在に思えてならなかった。
龍宮のあるじたちは皆、夢幻に取り憑かれた爺にすぎぬ、と。




