蓬莱の玉の枝・16
龍宮の厨の下を流れる川がある。万が一、龍宮が奉行所に踏み込まれたら、『不都合な材料』はこの穴に捨てればいい。
(吉次もここから流された? ……いや、違うな)
梅之助は即座に、その考えを棄てた。菜切衆が吉次を始末するなら、どこの誰かも分からなくすることができる。六本の包丁があるのだから。
吉次を殺したのは別の場所、別の人間。それは、水の流れる先にいるはずだ。
「おい梅、どこからずらかるよ?」
もの盗りのふりを続けている弥九郎が背に問いかける。さすがに六方向を囲まれては、箱の蓋だけでは分が悪い。
梅之助は「許せ、相棒」と断わると、しゅるりと弥九郎の帯紐を解いた。
「うおぉいっ!!!?」
怒号が飛んだが完全に無視して、梅之助は帯の一端を穴に垂らす。水に届いた帯は、龍宮の奥へと続く流れを示した。
もしや、と気を引き締め、囁く。
「相棒、とんずら先は龍宮の中だ」
「少しは説明しろやコラァ!!」
攻め手に備え、両手で蓋を持つ弥九郎は梅之助に鉄拳制裁できない。梅之助は穴を閉じる。
「せっちゃんが大川に浮くことになる」
「!?」
賊の片方がいきなり半裸になり、意味がわからぬ菜切衆は警戒していた。
どういう作戦だ。我らを笑わせる手筈か。甘い。チンピラの半裸ごときで隙を見せる我らではない。しかし褌派手だな。
相手は袋の鼠。勝手口さえ抑えれば、賊の逃げ道はない。四人が勝手口を、ふたりが邸内への戸を背にした。
つまり一対一だ。
「退けぇっ!!」
賊は、菜切衆ふたりに突進した。
木乃伊が薬として扱われたのは、珍しいからである。
珍しいものは仙薬と言うなら、この胡麻のおむすびも仙薬のはず。
刹那は舌先で、外道の料理屋をぶん殴る。
「そちらもお医者さまとお見受けしますが、胡麻を使った秘薬に、静神丸などがあるのはご存知でしょう。この黒胡麻おむすびの効能、貴方ならお分かりのはずです」
「それは……」
言い淀む白穂老は、もちろん胡麻の効能を知っている。静神丸も古くからある丸薬で、漢方医なら知らぬはずもない。
しかし胡麻は、庶民でも買える。珍しくも何ともない。だから魚彦にすすめたことはない。
大田屋宗雲も同様に、幼い頃から珍奇な食材を求めてきた魚彦なら、ありふれた胡麻になど興味もなかろうと決めつけた。
興味を持つ可能性を考えてもいなかった。
庶民と同じものを食さない前畠魚彦は、胡麻というものを、いま初めて知った。
自分が知らない、知らされていない秘薬がある。その衝撃が彼を大波のごとく呑み込む。
「胡麻とは、なんだ。静神丸とは?」
大田屋の背に庇われた魚彦の声が、悔しさに震える。知らない薬の名を口にした若い医者に向けて。
白穂老が「若さま、胡麻は……」と説明を横取りしようとするのを、ぎろりと睨んで黙らせた。
「貴様は、胡麻を知っていたのか」
「……」
「大田屋、貴様もか!」
知っていて言わなかった側近たちに、魚彦の信頼が崩れてゆく。
刹那は町医者として、市井の知識を前畠魚彦に披露した。
「胡麻は、おもに西国で作られる胡麻の種子を言います。静神丸とは、黒胡麻に白蜜、はと麦を加え練り上げた、不老長寿の秘薬と呼ばれるものです。弘法大師も食したと伝わります」
「へえ、龍宮のあるじですら口にできねえものを、俺らは食ってたわけかぁ。鼻が高けェや」
次郎吉のダメ押しに、前畠魚彦の矜持はぼろぼろに打ち砕かれた。
はるか南方の果実、遠洋の魚、禁忌の食材……金を惜しまずそれらを追い求め、食してきた。この世の誰も食していないものを、自分が最初に見つけることを喜びとしていた。
いつしかそれを仙人となる修行に重ね、雲上に昇るべく美味を探求していたのだ。
『蓬莱の玉の枝』は、魚彦の望みを表した、まさに理想の料理であった。
それがどうだ。
庶民ですら、秘薬と言われるものを食していた。
あらゆる珍品を買い揃えてくれる大田屋宗雲も、元奥医師としての知識で仙薬を教えてくれた桂白穂も。
魚彦が最も欲しているものを知りながら隠していた。何が盟主か。きっと、己らだけで秘薬を食うつもりだったに違いない。
「それを寄越せ!」
前畠魚彦は大田屋の背を出ると、刹那の持つおむすびを奪い取った。
背後のふたりが止めるのも聞かず、かぶりつく。
味など知らぬ。目の前にある仙薬を、誰にも取られたくない一心で。
指に貼り付く米一粒、胡麻の一粒を、地獄の餓鬼のように貪った。
次郎吉は大笑いし、刹那は驚きつつ呆れ……
「うふふふふふふふふふ」
亀は、泣くのと笑うのを我慢しきれぬ、奇矯な声で鳴いていた。
「く、くそっ」
大田屋が茶室の入り口に迫る。
鮫皮の大小は茶室には持ち込めないため、外に掛けてある。
前畠魚彦という珍品を好む絶好のカモがいたから、大田屋は上方や長崎を結ぶ船まで造ったのだ。魚彦にヘソを曲げられては、大田屋は大打撃である。
商売を邪魔してくれた闖入者たちを、この場で始末するほかない。
大田屋の動きを察し、次郎吉が先に入り口へ飛ぶ。
「渡すかよっ」
刀を手にすべく、ふたりは茶室の外に踊り出る。しかしそれは、
「うわっ……!!」
茶室にいた全員の、強すぎる光との戦いでもあった。
回廊の幅は二歩分ほど。次郎吉と大田屋は、刀掛けの場所を手探りで捜す。眩しすぎて、どこに何があるか見えていないためだ。
がちゃ、と音をたてたのは次郎吉であった。
「これかっ」手に触れたものを掻き抱く。その次郎吉に、大田屋が抱きついた。
「この、こそ泥がっ!」
次郎吉の抱え込んだ刀を、右から左から奪い返そうと大田屋は暴れる。奪われてなるものかと、次郎吉は体を捻る。
――ばきり。
「――あ」
手摺りの折れる嫌な音がした。
細工にこだわり、頼りなくなった回廊の欄干が、男ふたりがぶつかる衝撃に耐えられなかった音だ。
刹那が目を庇いながら入り口へ顔を覗かせたとき、次郎吉と大田屋宗雲は浮いているように見えた。
爪先が回廊から外れていた。
「次郎吉さんっ!!」
伸ばした手が、うしろからの衝撃で次郎吉に近づいた。
自分も吹き抜けに投げ出されたのだと、体の重みで瞬時に悟る。ぞっとした。
「胡麻の全てを教えぬかあああ!」
前畠魚彦が刹那に縋りついていた。
吹き抜けの底は滝壺の池。だが、池の底が見えない。池は、流れていた。
池の形に床がくり抜かれた、下の川への落とし穴だ。
「せっちゃんっ!!」
「――!!」
いるはずのない声が、下から聞こえた。
顔を上げる。光で何も見えないけれど。
光の向こうにいるふたりと刹那の目は、確かに繋がった。
――弾ッ
壁が爆発したかのような破裂音、跳躍する影。
刹那の体を、再び衝撃が襲う。けれどこれは、奈落へ引きずり込むものではない。
奈落へ落ちるのを止められた衝撃だ。
「弥九郎」
「おう」
見えてはいないが、迷わず名を呼ぶ。その一瞬あとに、
どぼ、どぼん。
ふたつの水音が上がった。
ひとつは、刹那にしがみついていた重みが弥九郎に蹴り落とされた音。もうひとつは……
「し、死ぬかと思った……」
「次郎吉さんですか?」
自分のすぐ横から、にわか相棒の声がした。どうやらふたりして、弥九郎の両脇に抱えられているようだ。
もうひとつの水音は、次郎吉と共に落ちた男のもの。ということは、上にはまだ、ふたりいる……
どぼん。
「え……」
誰かが落ちてきた。刹那は背筋が凍る。
「亀さんっ!!」
返事はない。だが代わりに、
「何だありゃ。……飯茶碗か?」
茶室にあった朱塗りの器、脚付き膳、莨宕根を焚いた香炉、びいどろの鉢……
雲上冥賀の料理が乗っていた器らが次々と降ってきて、弥九郎が首を傾げる。
「親のカタキみてえに投げてやがるな」
どぼ、どぼん、どぼん……
梅之助も合流し、目が見えないと話すと、尋常でない殺気を放ったのでわけを話した。
おそらく明日には元に戻る。莨宕根を直接食べるのと違い、煙を吸っただけだ。そこまで影響はないだろう。
梅之助が刹那を、弥九郎が次郎吉を背負い、龍宮をあとにする。
「そういえば、お前ら何でここにいたんだ」
「あー、せっちゃんがおめかしして出掛けたからだよ。変な男に引っかかったんじゃないかって」
「俺ら、駕籠で来たんだけど。え、駕籠を追っかけたの? こわ。変態」
「そういやぁ、駕籠屋の奴ら持たせてるだろ」
四人が法恩寺の門に近づくと、ぱあっと顔を輝かせた駕籠かきふたりが抱きついてきた。
よかった、よかったと泣き崩れる駕籠屋を交えて、六人は法恩寺門前の夜泣き蕎麦をすすり、それぞれの家路についた。
後日、横川と大川に、ふたりの土佐衛門が上がる。
ひとりは元奥医師の桂白穂老、もうひとりは大通の大田屋宗雲と分かると、辻に立つ読売は躍起になって、あることないこと書き立てた。
いわく抜け荷だ、いわくご禁制の品の横流しだ……面白おかしく書かれた中に、とある料亭の名は一度も載らなかった。
四谷の前畠家では、華々しく祝言が執り行われた。苦労してきた末娘が、前畠家と懇意の大名家の三男に嫁ぐのだという。
屋敷の片隅に、ひっそりと墓が築かれた。
人目から隠すように建てられた墓は、名も彫られず、屋敷に背を向けていた。
「あのあと龍宮に行ったらさあ、跡形もねえんだよ、あの料亭。もったいねえ」
「何しに行ったんです?」
「火事場泥棒」
あっけらかんと話す次郎吉は、深川の三養堂まで遊びに来るようになった。
千両箱があきらめきれず足を運んだが、ついぞ盗むものは見つからなかったようだ。
今日身につけているものも、あの日とはまた違った上物だ。もうひと仕事したらしい。持参した土産の団子を咥え、にかりと笑う。
まったく懲りてない顔だ。
「これも御縁だ、刹那さん。何かほしいものあったら言いな。俺が天井裏からちょちょいと盗んでやっからさ」
「天井裏ってそんな、鼠みたいな」
梅「蕎麦ごちそうさま。手元不如意につき、どうかこれで」ガチャン
蕎麦屋「食い逃げかっ?…って何だい、家紋が入った立派な器だね」
弥「売ればいい値段になっから」ガチャン
―――――
蕎麦屋「お頼み申します、皿とか茶碗を売りたいんだけどー」
道具屋「はいはい。……ってこれはぁぁあ!!(前畠家八男専用レア家紋入り飯茶碗ゴロゴロ)」
蕎麦屋「え、売ったらマズいものかい?」
道具屋「いや、是非とも買い取りたい。お代はこれで」ちゃりん
蕎麦屋「うわー、一生遊んでくらせる〜」
その後、没落した前畠家分家の家紋入りオリジナル雑貨が、プレ値もついて飛ぶように売れたそうな。




