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刹那の間に

家族続々。

「お、桜餅じゃねえか。刹那が来てるのか」

 佐治陣内は目を輝かせて、くたびれた白い作務衣(さむえ)を脱ぐより先に、皿に取り分けた桃色の餅菓子に手を伸ばす。

 この可愛い菓子が爺の好物である。

 ひと口で半分をぱくりとやれば、刻んだ桜の葉を練り込んだ皮の澄んだ香りと、こし餡の控えめな甘さが、仕事疲れの五臓六腑に染みわたる。

「ええ、今、宿の方に行ってますよ」

 洗濯済みの包帯を武骨な手で手際よく畳みながら、弟子の鉄山(てつざん)が応じた。陣内と同じ作務衣姿だが、こちらは濃い藍染めだ。

 佐治施療院は、老医師・佐治陣内が千住宿の北端に構える大医院である。専門は骨折や脱臼などの外科(がいりょう)で、江戸だけでなく近郊の村からも、大八車や戸板に乗った患者が運ばれてくる。

 陣内の四人の弟子がそれぞれ敷地内に宿屋を持ち、泊まりがけで治療を受けられる。

 四十を迎えたばかりだが、陣内の一番弟子でいぶし銀の風格を持つ鉄山は、若くして一ノ宿を任せられた男である。

「鉄、昨日の怪我人らァは、どうしてる」

 包帯の山を見て、陣内は昨日、大量に運び込まれた患者を案じた。やくざ者同士の抗争があったのだ。療養は一ノ宿がまとめて引き受けた。

「ほとんどが大した怪我じゃありません。人数多い分、怪我人も多いってとこですね。今日は刹那にも手伝ってもらおうかと思ってます」

「やくざの療養にか? 危ねえ真似さすんじゃねえぞ?」

 一つ目の桜餅を食べ終えると、陣内は心配性な爺の顔になり、やくざに囲まれる可愛い孫を案じた。

「師匠の甘やかしすぎも、どうかと思いますよ?」

 鉄山は雑用の手を止め、苦笑いの中に慈しみの篭った眼差しを宙に向ける。

「刹那ももうガキじゃない。俺の布団に潜り込んで泣くことも少なくなりましたし」

「鉄兄さんっ!!」

 ちょうどそこへ、烈火のごとく顔を火照らせて刹那が踏み込んだ。

 ここへ来たばかりの頃の恥ずかしい思い出の暴露が、運悪く聞こえてしまったのだった。

 陣内は目尻に皺をよせて、孫を迎える。

「おう、坊主。桜餅ありがとよ」

「それはいいです。それより今の、少なくなったって何ですか! だいぶ昔にやめたでしょ!」

「ああ、最近はご無沙汰だな。いつでも来ていいぞ?」

「もうしませんよ!」

「あの頃は可愛かったんだがなあ……」

 生真面目な弟弟子をからかうのは、鉄山の悪い癖であり愛情表現でもある。

 二つ目の桜餅を味わいながら、陣内は神妙な様子で諭す。

「坊主、可愛いのも大概にしろよ? やくざは可愛いくて無防備な奴が大好きだ。甘い文句で誘ってくるおじさんには気をつけるんだぞ」

「先生は俺がいくつだと思ってるんですか」

「弥九郎と梅は元気か?」

「梅はともかく、弥九郎は相変わらずですよ。どこの賭場にいるんだか。あ、お茶いれます」

「おう、濃いので頼む」

 少し変わった祖父と孫の会話を聞くともなしに聞きながら、鉄山は淡々と包帯を畳み終わると、鈴を鳴らして見習いの小僧を呼んだ。

 小僧は自分の仕事だった包帯畳みを、一ノ宿の主である鉄山がやってくれていたことに恐縮し、ぺこぺこと頭を下げる。

「俺んとこのついでにやっただけだ。各々に持ってってやんな」

 小僧を労い、包帯の山を手渡す。もう一度ぺこりと頭を下げて、小僧は二ノ宿に走っていった。

 小僧の出ていった出入口の柱に数本、横に刻まれた傷がある。刹那と梅之助、弥九郎の背比べのしるしである。

 ふたつ上の弥九郎がいつも飛び抜けてでかいので、ほかのふたりが悔しがっていつの間にか止めてしまったものだ。

 柱の傷を見るたび、鉄山はこわもての頬を懐かしく弛めるのだった。




 千住宿で母と引き離された子供。荷物持ちとして酒合戦見届け役の陣内に同行していた鉄山も、その現場に居合わせていた。

(あの野郎、ぶっ殺す)

 全身の血が沸き立った。鉄山もまた幼い頃、母と引き裂かれた過去を持っていた。

 盗み癖で奉公先をくびになり酒浸りになった父が、働き者の母と、産まれて間もなかった妹を殴り死なせた。鉄山は、怒りに任せて父を刺し殺した。

 死に場所を求めてさまよううちに、陣内に辿り着いた。

 医者として生きる道を見出だした鉄山だが、女に暴力を振るう輩を見ると、父へ向けたと同じ憎悪が腹の底でざわめくのだ。

 鉄山の手が懐の道中脇差しを掴む。その手を、陣内の杖がびしりと打った。

「やめとけ。ありゃァ谷中の札付きだ。かかわったら戦になるぞ」

 腕の二重線の刺青は、遠島帰りの元受刑者の証拠である。手段を選ばないゴロツキを多く抱えていることで、谷中の女衒屋は有名だった。

 鉄山は脇差しを抜くことを断念した。

 生きるに困った女が遊女になるのは、何も珍しくはないことだ。そう自分に言い聞かせ、激を治めた。

「それに、まだどっちも生きてる。生きてると互いが分かってりゃあ、いつか会えることもあるだろ」

「あの子供、預かるおつもりで?」

「お前のことは拾っといて、あのちびは捨てるって選別は、俺はしねェな。なァ、鉄」

「はい」

 陣内が自分に優しさを、居場所をくれたように、自分と似た境遇の子供に温かく優しくあろうと、家族になろうと、鉄山は心に決めた。




 夜半、二ノ宿が騒がしい。

 二階の八畳間ふたつのあいだの襖を開け放ち、慌ただしく布団が敷かれた。

 二ノ宿は児医者(じいしゃ)の宿である。運ばれてくる怪我人は、下は十、上は十四ほどの男児ばかりで、痛い怖いとわあわあ泣いている。

 他の部屋に泊まる子供が何人か、襖をそろりと開けて様子を伺うが、走り回る下働きの小僧が「こら、ガキは寝てやがれ!」と一喝した。

黒熊(くろくま)さん、布団が足りねえ!」

 階段をどたどた駆け降りて、小僧こと弥九郎が叫ぶ。まだ十二歳とも思えぬ腕力で、階下から何度も往復して布団を運んでいた。

 手際よく布団を並べるが、何せ怪我人の数が多い。

大蔵(だいぞう)さんとこからも借りてくらぁ!」

「おう、なるべく静かにな!」

 宿の主である黒熊は、大柄の体をすり減らさんばかりに奉公人らと一緒に走り回る。三ノ宿へと飛んでゆく弥九郎のあとに、鉄山が顔を出した。

「熊、うちにも回せ。いま部屋を空けさせる」

「悪りいな、鉄!」

 鉄山は陣内が施術する診療棟と自身の一ノ宿、二ノ宿を走り回り、指示を飛ばしていた。

 子供たちは打撲傷が大半で、骨が折れている者も数人いた。剣術道場の稽古中の事故と聞いて、陣内は険しい顔つきになる。

「事故? そんな可愛いもんじゃねぇよ。明らかに殺しにかかってる。木刀じゃなかったら死んでるぜ。余程の手加減をした手練れの仕業よ」

 節郎は、診療部屋で陣内の手伝いを言いつけられた。見習いといえど緊急時である。寝入り(ばな)を叩き起こされた。

 佐治施療院に住み込みで医者見習いを始めて三つ月になる。

 手拭いを煮沸消毒したり、洗濯ものを畳んで片付ける程度の仕事だが、可愛い顔と、歳に似合わぬ落ち着き、そして何よりも素直さと働きぶりが医者や患者たちにも可愛いがられていた。

 診療部屋に最後に運ばれてきた子供を見て、節郎はぞっとした。死んでいると思った。診療台に寝かされてもぐったりと動かない。

 顔にも体にも痣や裂傷が無数にあり、着ているものは損傷してぼろぼろだった。

 幸い、命に関わるほどの傷はなく、陣内が処置をし二ノ宿へ運ばれていった。

 最後の子供に沈痛な顔で付き添ってきた初老の侍は、用人の雄島重左衛門と名乗った。

「我が主は御家人、雲居藤兵衛(くもい とうべえ)と申す。梅之助さまは御次男であらせられます」

「お武家のせがれが、何だってこんな目に?」

 診療部屋の隅の小上がりに通された重左衛門は、陣内の問いにしばらく言い澱んだが、やがて眉間に皺を寄せながら重苦しい口を開いた。

「先に運ばれた子供らの怪我は、全て梅之助さまとの立ち会いによるもの。しかし何とぞ、事故として口をつぐんで頂きたく……」

「おいおい、俺は手練れの人斬りの仕業と思ってたんだが」

 驚く陣内と重左衛門のふたりに、節郎は茶を運んできた。そしてそのまま、ちょこんと陣内のうしろに座る。

 自分と同じ歳くらいの梅之助が何故あんな酷いことになっているのか、理由を知りたかった。

「我が主が師範をつとめます剣術道場は、梅之助さまはじめ旗本、御家人のご子息が大勢通っておられます。しかし、小普請組の我が雲居家を侮る者も多く……梅之助さまはいつも稽古相手がおりませんでした。

 そして師範が所用で留守にした本日の夕刻、門弟たちが梅之助さまに勝負を申し込んだのだそうです。『貧乏御家人の剣術より、自分たちの剣の方が優れている』と……。

師範の許可もないため梅之助さまは断ったそうですが、その断り方が……

『道場は剣術だけでなく心技体を鍛えるところだ。私は師範から、貧乏人に喧嘩を売る侍になれとは教わっていない』と……」

 重左衛門は深刻な中にも、梅之助の啖呵を心地よく思うはにかみを見せた。陣内もにやりと笑う。

「剣も口も達者なせがれだな。俺は好きだぞ」

 鼻っ柱を折られた生徒たちは顔を真っ赤にして、梅之助に一対一の勝負を挑んだ。負けるとは微塵も思っていなかった。

 梅之助は剣術や兵法だけでなく、医学の本を読むのが好きだった。人の体の急所はどこか、非力な自分がどこを斬れば一撃で相手を殺せるかを、父と兄との稽古で常に考えて戦っていた。

 結果、道場は修羅場となった。

 梅之助の木刀で腕を折られる者、首に喰らって失神する者、腹を突かれて胃液をぶちまける者があふれた。

「助けて、殺される!」

 恐怖で逃げ出した数人が外に助けを求め、重左衛門が駆けつけた時には、梅之助は五人から袋叩きにあっていた。

「梅之助さま! やめよ、お前たち!」

 それでも怯まず、梅之助は一人ずつ確実に仕留め、全員を床に沈めた。

 助けを求めた者たちから経緯を聞いた重左衛門は、全員の家に使いを走らせた。

 たった一人の年少者に二十人で挑んで負けたなど恥でしかない。全ての家が、小人目付に知らせず事故として処理することに同意したのだった。



「負けなかった、んですか」

 陣内のうしろで聞いていた節郎は、思わず口を挟んでいた。あの梅之助という子供を素直にすごいと思った。

 貧乏御家人の息子と侮られるくだりでは唇を噛みしめ、二十人との勝負を制したところでは目を輝かせていた。

 ふたりの親父は咎めることもなく、興奮気味の子供に笑いかける。

「そなたは医者見習いかな。いくつになる?」

「十、です」

「梅之助さまもだ。怪我が治るよう、世話して差し上げてほしい」

「え、私が……ですか」

「坊主が治療しろって言ってんじゃねえ。友達になれって言ってんだ」

 陣内が慈しみの笑みで「梅之助に着いててやれ」と促す。実は心配で仕方ない節郎の胸の内を見抜いていたのだ。

「はいっ」

 師匠のお墨付きを得て、節郎は跳ねるように立ち上がった。診療部屋の中の手拭いと水桶、ついでに小上がりの戸棚から陣内秘蔵の桜餅をひっつかんで、二ノ宿へ走る。

(助けたい。あいつは絶対に助けたい)

 節郎の内に、復讐とは別の一途な感情が生まれていた。

 節郎が去った診療部屋で、陣内と重左衛門は無言で茶をすする。

「それで、何故わざわざ千住まで?」

 陣内が一段、声を落として訊いた。医者の問診のそれではなかった。

「江戸に骨接ぎの医者がいないわけでもねえでしょうに」

「患者の人数が多い。それに、町中では人目に付きますからな」

 夜とはいえ大量の怪我人を運んで行くさまは確かに人目につくが、この男が言うのはそこではないと、陣内は勘づく。

「ほう、ここなら、誰が人目に付かねえと?」

「梅之助さまを狙う刺客が、です」

 重左衛門が真っ直ぐに陣内を見た。白い作務衣の医者は、肩を揺らして愉快そうにくっくっと笑う。

「こいつは酷い。お武家さんはか弱い医者に、刺客を追い払えと仰る」

「佐治陣内どの。私の郷里は信州でして、とある噂がございましてな」

 重左衛門は目の前の男から発せられる、笑みに隠れた獣のような威圧をびりびりと感じていた。

 怪我の発端は自分たちの息子の愚かさであっても、小普請組の子に恥をかかされたと憤る家はひとつふたつではあるまい。面子を保つため、刺客を使って梅之助を始末しようとするだろうと、重左衛門は考えた。 

 仮に家一軒につき刺客ひとりとすると、刺客は二十人。梅之助を守れる者は父、兄、用人の自分だけである。用心棒を雇う金などは貧乏御家人にあるわけがない。

 重左衛門は、千住の佐治施療院、佐治陣内の正体に賭けた。

「風変わりな侠客(きょうかく)がいたと、耳に挟んでおります。その侠客が仕切る区域は盗みも人殺しもなく、赤子も安心して道を歩けると。怪我人、病人が出たなら、その侠客一家に縋れば、ただで治療をして貰えたと」

「………」

「侠客の名は、戸隠安陣(とがくしあんじん)、と聞き及んでござる。それがしは、貴方ではないかと考えております」

 聞き終えると陣内は、ふーっと長く息をつき、診療部屋の廊下にひかえていた男を呼んだ。

「聞いたか、鉄。こちらのお武家さん、俺の首に縄かけに来やがった」

「はい」

 濃い藍染めの作務衣の男は、まるで陣内の影かのように暗闇から滑り出て、鋭い目付きで脇差しを抜いた。重左衛門は慌てて平伏する。

「ご、誤解でござる! そんなことは一切、考えておりませぬ! 梅之助さまをお守り頂きたい一心! 安陣どの、いや陣内どのの医者としての腕に縋りたい、それだけにござる!」

「だろうよ。四の五の言わず治療しろ、さもなくば奉行に届け出るぞ、そんなところだ」

「誓ってそのようなことは!」

「そのようなことはないって証がねェんだよ。全員治療する分の金子は? 払えんのか? ねェなら腹切る覚悟でもあんのか? 俺と俺の可愛い息子たちを利用しようってんだ、見返りあって当然だろう」

「……心得申した」

 ここがどんな輩の縄張りか。梅之助さえ無事であれば。覚悟の上で訪れたのだ。重左衛門は身を起こし、畳に太刀を置く。

「恥ずかしながら金はござりませぬ。されば、お庭を拝借つかまつります」

 脇差しを手に戸口へ向かう。陣内が眉をひん曲げた。

「お庭を、じゃねェよ。うちは医者だぞ、縁起でもねえ」

 場所を移すよう言われ、重左衛門が『はて、ではどこで』と考えたところで、「お師匠、鉄兄さん」と廊下から若い男の声がした。

 診療部屋に現れた柔和な優男は、脇差しを握る重左衛門を見とめて呆れた顔をする。

「またですか師匠。どうせ腹切らせる気なんかないくせに。兄さんも遊んでんじゃないよ」

「え?」

 重左衛門は張りつめていた気持ちが崩され、間の抜けた顔でふたりを見やる。鉄山は口元を覆って笑いを堪え、老医師は膝を打って呵呵大笑しだした。

「いやあ、はっは、見事に引っかかってくれた。俺ァ、お武家さんにこれをやるのが楽しみでよ」

「まったく人が悪い。すまないね、お武家さん。狐に化かされたと思って許しておくんな。あんたもすぐ腹を~とか言うもんじゃないよ。命を大事にね」

 師匠である陣内に古女房のような口をきく男は、重左衛門に笑いかけると、「おいでですよ」と続ける。

 未だ騙されたことに頭が追いつかない生真面目な用人に代わり、鉄山が応えた。

「何人だ、捨松(すてまつ)

「水沢口に五、六人。今のところはね」

 そこまで聞いて、ようやく重左衛門にも緊張が走る。早くも刺客が寄越されたのだ。

 陣内に目配せして場を離れようとした鉄山と捨松に、慌てて重左衛門が尋ねる。

「ま、待たれよ! ではここは、安陣どのの縄張りではないのか。それがしの勘違いであったのか?」

 腕っぷしの強い侠客が揃っていると思っていた。本当にただの医者に刺客の相手を押し付けてしまったのかと青くなる重左衛門に、捨松がにこりと笑う。

「そう思って頂けたら、助かるんですがねえ」

 施療院の主は畳の上で、キセルをぷかりと吹かせていた。



 障子の外の笹藪が夜の風にしゃわしゃわと、蝉のように鳴いている。耳慣れない音に、梅之助は重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。

 全身に走る痛み。口の中には血の味が残っている。笹の音に混じって、隣の部屋からは人の寝息も聞こえる。ここはどこだろう、と頭を動かそうとした。

「あ、起きたのか」

 知らない男の子が行灯の薄明かりの中、ひょこっと覗きこんだ。「良かった」と続く声には、安堵が溢れていた。ずっと自分に付き添っていたのだろうか。

 ちゃぷん、と水の音がして、額に別の手拭いが乗る。熱を持った体に冷たさが心地良くて、梅之助は「ありがとう」と小さな声で礼を言う。

「ここは、医者のお宅?」

「うん。……あ、そうです」

「お前さんが私を、看病してくれたのかな?」

「あの、手拭いを、取り替えたり……していました」

「うん。ありがとう」

 屈託なく梅之助が笑う。

 節郎は、武家の者と喋るのはもちろん、同年代の子供と喋ることもほとんど初めてだった。友達になれと陣内に発破をかけられたけれど、何を言えばいいかの経験がない。

 そもそも、対等に口をきいていいものなのか。いいわけはない。

 どこか言葉づかいがちぐはぐな節郎に、梅之助がふわりと笑いかける。

「私が怖くない?」

「え、いいえ」

「たくさんの子に、怪我をさせた。お前さんも聞いてるだろう?」

 梅之助の声は幼いながらに、自嘲を帯びたものだった。

 怖い、助けてと、みんな離れていった。剣の腕を上げても、自分はただ人を怖がらせただけじゃないか。 剣を持つ意味を、梅之助は失いかけていた。

 けれど節郎は、梅之助が人を傷つけたくて剣を取ったわけではないことを知っている。

「鼠が狼に勝負をしかけて負けただけだ。狼は何も悪くない」

 梅之助は驚いた。そんなふうに自分を見る者がいるなんて。

 狼が鼠に合わせて手加減する道理などない。狼の力量をはかろうともせず、思い上がった鼠が愚かなだけなのだ。

 梅之助にとって最大の賛辞だった。もやもやとしていた胸の黒い霧が晴れる思いがした。

「ふふ。お前さんもなかなか、反骨をお持ちだね」

「だって、道場の奴らのこと聞いて腹が立ったから。……あ、ええと、だから梅之助さまは何も悪くないと思います」

「いいよ、梅之助で」

 ふたりの子供の楽しげなひそひそ話を、襖を隔てた廊下で大蔵が聞いている。

 子供たちの安全を考えて、黒熊は梅之助の部屋を分けた。そして刺客襲来の知らせを受けて、大蔵は三ノ宿を番頭らに任せ、真っ先にこの部屋に駆けつけた。

黒熊は今夜は子供たちの見回りを優先させて動けない。外を鉄山と捨松、内を大蔵が固めた。


 女衒に復讐したい子供を預かると陣内から聞いたとき、ひとり反対したのが大蔵だった。寺にでも入って心を鎮め、平穏に生きたらいいと思ったからだ。

 しかし陣内は首を横に振った。

「俺ァ、あの坊主に、家族をくれてやりてえんだ。褒めて、叱って、甘やかして、腹ン中に鬼を飼っちまった餓鬼をうんと笑わせて、怒らせて、泣かせて、喜ばせてやりてえ。そんで坊主が死ぬときに、俺たちが思い出になれてりゃあ、地獄の旅路も少しは気楽じゃねえか」

 そう言って、煙管の煙をぷかりと吐いたのだった。

 陣内の思いと、いま背に聞こえているひそひそ話に、大蔵は隻眼の目頭を押さえた。そのとき。

「……?」

 階下からどたどたと、乱暴な足音が近づいてくる。刺客のわけはない。

 最大限の警戒をして、大蔵が階段を注視する。

「あ、大蔵さーん!」

 弥九郎であった。小ぶりの小田原提灯を手に、息を切らせている。

「鉄兄さんと捨松兄さんが、外の連中ふんじばったって!」

 刺客を捕らえた、との大声が終わらぬ間に、大蔵は弥九郎の背後にもうひとつの影を見た。

 提灯の灯りが届かない距離。足の歩幅を弥九郎と揃えることで、ひとりの足音と錯覚させたのだ。

 二階の床にたどり着いた寸間、刺客は躍り上がった。

「退け」

 大蔵は寡黙な男である。弥九郎が何を言われたか聞き取れぬうちに、数歩で刺客に肉薄していた。

 ただの医者と侮っていた刺客は驚き、ほんの僅か足を緩めた。その隙を逃さず、大蔵の(はり)が刺客の眉間を貫く。治療の鍼ではない。暗器としての鍼である。

 自分から鍼に突っ込む形で刺客はその場に崩れ落ちた。大蔵はその体を支え、夜中に物音を立てることを防ぐ。

「あれ、大蔵さん……?」

 そっと襖を開けて、節郎が顔を出した。大蔵はほとんど音を立てていない。弥九郎の大声と足音を、なにごとかと思ったのだろう。

 三ノ宿の主である大蔵が二ノ宿にいるのが不思議だったのか、節郎が不安げに見上げる。

 刺客に襲撃されたことなどおくびにも出さず、大蔵は静かに節郎の小さな頭を撫でた。右目に微笑を乗せて。

「友達との語らいもいいが、もう寝ろ」



 中天に昇った月が、障子を透かして部屋を青く染めている。笹のざわめきと、それに負けじと大きくなる蛙の歌が、襲撃の音をかき消してくれていた。

 どの宿の患者も、安眠を妨げられた者はいなかった。

 黒熊の計らいで、節郎と弥九郎は梅之助の部屋に寝ることになった。節郎は梅之助の世話をしたかったし、弥九郎は用心棒だと譲らなかったのである。

 もちろん節郎は首をかしげた。

「用心棒って……誰を誰から守るんだ?」

「そりゃお前、あー……こいつに負けた奴らだよ」

「さっき、鉄兄さんたちがふんじばったって言ったのは」

「第二弾だよ! 第二弾に備えてんの!」

「……」

 宿の主たちは何も言わなかったが、梅之助は察したようで「じゃあ、夜蚊から守ってもらおうかな」とその場を収めた。

 三人、頭を寄せあうと、お喋りは止まらない。

「ひでぇな。じゃあお前、お父っつぁんの名誉を守りたくてそんな勝負受けたのか?」

「うーん……そんな立派なものじゃないよ。貧乏御家人は本当のことだし」

「でも腹は立つだろう」

「立ったのかなぁ……立ったのかもしれないなぁ……。あと、本に書いてた『ここ打つと痛い』ってとこが本当に痛いのか試したかったかなぁ……」

「お前も意外とひでぇな」

「俺もそれ読んでみたい」

「あ、貸すよ。面白いよ」

「それで、こいつに試す」

「なんで俺!?」

「こいつ、俺がここに来たその日に、俺に求婚してきた」

「は?」

「それはもう、悪かったって! だって仕方ねえだろ、女の子だと思ったし。色は白いし、おしとやかだし、そこいらの茶屋の看板娘なんかよりずっと可愛いんだからよ。あいつらは声やら身振りが可愛いんであって、顔見りゃそうでもねえんだよ」

「………………」

「そこらでやめた方がいいみたいだよ」

「絶対試してやる」

「おすすめはね、肘から三寸下に腕がビリっとするツボがあるんだけどそこを金槌で」

「いらねえこと教えんな!」

「こォら、お前ら」

 廊下の襖が開いて、黒熊がぬっと顔を突きだした。こわもてに加えでかい図体だが、子供にだけは優しい男だ。山脈のような体はよく子供らが登っている。

「梅之助は怪我人なんだぞ。お前ら医者見習いなら、ちゃんと寝かせてやれや」

「はーい」

「すみません」

「どうも、お世話になります」

 くすくすと笑いあう三人に疑いの目を向けて、黒熊は見回りに戻る。

 ふと見れば、節郎が手を合わせて何かを祈っている。「何してるの」梅之助の問いに、節郎は真剣なまなざしで答えた。

「梅之助の怪我が、刹那の間に治りますように。……俺には何もできないから、神頼みしないと」

「せつな? って何だ?」

 仏教の言葉で『ほんの僅か』の極みである間を、節郎は祈った。

 梅之助が痛みに苦しむ間なんかなくていい。明日には治れ。今すぐ治れ。そう願いをこめた。

「……せっちゃんはさ、そういう医者になりなよ」

 梅之助は嬉しくて涙が出そうなのを、薄暗がりに隠してごまかす。

「私だけじゃなくて、たくさんの怪我の人や病気の人を、刹那の間に治すような医者になってよ。そしたら私は人を怪我させ放題だから」

「患者増やしてるじゃねえか。……いや待てよ。俺が悪い奴を足引っ掻けて転ばすから、梅が斬って、刹那に治せば」

「かまいたちじゃないか」

 薄暗がりの部屋に、珠のような笑い声が弾けた。



「やめろ、やめてくれ!」

 大の男の悲痛な叫びが、一ノ宿の診療部屋を震わせる。

 男の腕は鉄山に関節と逆方向に捻られて、今にも折れんばかりにミシミシと音を立てていた。

 一ノ宿がまとめて引き受けた怪我人たちは、千住の町はずれの廃寺を根城に賭場を設け、近隣の町衆を借金まみれにしていた博徒たちだった。亭主が、隠居が、息子が、人が変わっちまった、夜逃げするしかない……そんな嘆きの声が施療院にも届いていた。

 その賭場で昨日、乱闘騒ぎがあった。丁半にイカサマだと因縁をつけた余所(よそ)者たちが、廃寺の博徒たちをこてんぱんに伸したのだ。

「ちくしょう、ここは医者だろうがよぉ!」

 半分べそをかいている男は、ただでさえ顔の半分が腫れ上がり、背中を痛めて歩くのも容易でない散々な容態だった。

 喧嘩の中、余所者のひとりは頭の上まで博徒たちを持ち上げちゃあ投げ、持ち上げちゃあ投げ、板場に叩きつけていたらしい。派手な小袖の、とんでもない怪力の若造であったとか。

 鉄山は涼しい顔で、なおも腕を締め上げる。

「あんたが賭場の元締めだと聞いたんだが、間違いねえですかね?」

「間違いねえ、ねえよ! 痛てえ!」

「どこから流れてきたゴロツキかは知りやせんが、八州廻(はっしゅうまわり)の旦那にはもう話ついてますんで、ご到着までゆっくり療養してって下さい。ま、それまでに金の流れとか諸々吐いて貰えると有難てェんですが。どこの香具師(やし)に流れてるのか、とかね」

 男は肝が冷えてゆく。寺は同心には踏み込めない博徒の聖域だが、寺から放れた博徒は別だ。

 間違いない。あの怪力の若造らと、ここの医者はグルだったのだ。博徒を喧嘩で一網打尽にして医者に押し込め、そのまま八州廻同心に引き渡すつもりだ。

 男はなけなしの愛想笑いで、鉄山に許しを乞う。

「な、なあ、八州廻は金でお目こぼししてくれんだろ? あんたから旦那に口きいてくれよ。たかがゴロツキの喧嘩じゃねえかよ。誰に迷惑かけてもいねえ。千住からも出ていくから見逃してくれよ、な?」

「そいつぁ無理だ。俺は、女を泣かす奴が死ぬほど嫌いでね。……ああ、間違えた。殺してェほど嫌いなんですよ」

 口調は丁寧だが、鉄山の声は冬のつららのように冷たく鋭い。

「亭主が博打に狂っちまったって泣く女がいる……それで、誰にも迷惑かけてねえ、と?」

「お、俺が泣かせたわけじゃねえだろ!」

「俺は、女の恨みを変わりに晴らしてやりてェのさ」

 鉄山がぐっと力を込めると、男はいよいよ痛みに悪態をつき始めた。なぜ俺がこんな目に、と喚き散らす。

「このド腐れ医者が! てめえら絶対カタギじゃねえだろ! 俺がこのまま大人しくしてると思うなよ! へへ、ここの宿にいた、綺麗な顔した兄ちゃん、あんたの弟弟子か何かか? 尻撫でてやったが、奥もさぞ具合が良いこったろうなァ。今ごろ俺の仲間にひん剥かれて硬てェもん突っ込まれて、あんあん泣いてるかもなあ?」

 自暴自棄に近い挑発に、鉄山は深い深い溜め息をついた。男の耳元にぽつりと呟く。

「あーあ。余計な色気出さなきゃァ、死なずに済んだろうに」

 腕を絡めていた組手を、するりと首に組み換える。ごきり、嫌な音がして、首がおかしな方向に折れて男は動かなくなった。



「鉄兄さん、八州廻の旦那がおいでですよ」

 翌日、縄で数珠繋ぎにされた博徒たちが庭に据えられた。

 労せず転がりこんできた手柄に同心たちは満足顔で、「ご苦労」と何の感謝も籠らない礼を言った。

 陣内は陣内で、診療が忙しいからと同心の相手を面倒くさがり「鉄、お前やっとけ」と弟子に応対を放り投げたのだった。

 博徒が『白状した』金の流れ先や別の隠れ家などを書き付けた書類を、刹那が同心に説明し、引き渡しの責任者として鉄山が立ち合う。形式的なものなので、特に両者に信頼関係はない。同心も医者の協力を、かゆいところに届く孫の手程度にしか考えていなかった。

 書き付けを見て、刹那は首を傾げる。施療院に運び込まれたのは賭場を設けた方の博徒だけで、因縁をつけた余所(よそ)者はひとりも治療していないのだ。

「喧嘩に勝った方は全員逃げたんですね。金も取ってないし、ただ暴れたかったのか……猪みたいな奴らだな」

「……そうだな」

 猪はお前の家に帰ったぞ、と言えない鉄山は拳で口元を隠し、笑いを堪えるのに必死だ。

 根が田舎者の刹那は、陰謀だの策略だのには、とんと疎い。裏で誰かが糸を引いているかも、とは思いもしないのだ。

 医者のことには賢く利発だが、無垢で世間知らず。人の善意を無防備に信じる弟弟子が、鉄山も施療院の皆も可愛いくて危なっかしくて、放っとけないのである。

「刹那、今晩、一杯やらねえか」

「はい。明日には帰るつもりなので、軽い酒なら付き合えますけど」

「柿色暖簾の店でな」

「え?…………ええっ!?」

 女郎屋への誘いだと気付き、刹那は書き付けを握りつぶして耳まで朱に染めた。いぶかる同心の目線も気にせず、今度こそ大笑する兄弟子だった。

 可愛いからこそ、からかいたくなる。

(俺も大概、ガキみたいなことしてやがる)

 刹那の中の鬼を消してやれたら。思い切り可愛いがって、困らせて、怒らせて……笑わせてやれたら。鬼の棲家を、自分が奪ってやれたら。

 それが鉄山の、兄弟子たちの願いなのだった。

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