蓬莱の玉の枝・13
洋灯の灯りは、次郎吉には厄介なものであった。
(提灯なら、こんなに照らさねえのに!)
提灯や行灯は火が紙で覆われるので、藍色の着物は暗がりに潜めば闇に溶け込める。武家屋敷などは広いうえに灯りは見張りの者の提灯のみで、盗みは驚くほど楽だった。
だが洋灯は、ビイドロが蝋燭の灯りを拡げてしまう。部屋の隅まで灯りが届く。これではせっかくの藍が役に立たない。
(仕方ねえ。天井裏を行くか……)
次郎吉は、藍の袷を裏返して袖を通す。このあと人に見られるかもしれない表側が、埃だらけになるのを防ぐためである。
誰もいない部屋の飾り棚に足をかけ、軽業師のようにひょいと天井に潜り込んだ。
(……?)
足の下のわずかな隙間から漏れる灯りで、天井裏の異様に気づく。
梁が巡らされ、屈まねば進めないほどの高さは見慣れたものだが、その広さだ。
自分たちがいた階の部屋数と、吹き抜けを合わせた面よりも、天井裏の方が明らかに広いのだ。
隠し部屋というにはでかすぎだ。この先が龍宮の胆に違いなかった。
(こいつぁ、よっぽど貯め込んでる野郎だな)
次郎吉は金の匂いにほくそ笑む。
吹き抜けを迂回して壁や鴨居の上づたいに、身を屈め、抜き足で進む。料理を囲んだ部屋のちょうど正面、ありがたそうな山が描かれた襖の上まで来る。
天井裏には変化はない。一歩、足を踏み出す。
(……!!)
ぞくり、足裏から危険を感じた。
下が畳の部屋なら、たとえ無人でも足が届く気配があるものだ。ここは違う。降りられない、と足がすくんでいる。
後ずさり、這いつくばって、漏れる灯りで下を見た。
(なんだ、ここは!)
葡萄のような無数の洋灯に照らされた、巨大な吹き抜けであった。
三階天井から下まで床板はなく、部屋もない。黒光りする回廊だけが四辺の壁に蛇のようにぐるりと張り付いている。
もし天井板が破れれば、次郎吉は地面まで真っ逆さまだ。
(料亭だろうが。客を入れる部屋がねえなんて、どうかしてる!)
まさか回廊で飯を食わせる趣向でもあるまい。
よく見れば回廊の一角に、緋毛氈の敷かれた座敷がある。屋内なのに野点でもするのか。
ふと、水の流れる音がした。次郎吉は足の下に樋が見えて、はっとする。
(刹那さんが言ってた、三途の川とは別の水の流れ。本当にありやがった!)
浅い小川ほどの樋は、回廊から吹き抜けにせり出し細い滝を作る。滝壺は奇岩で囲まれた池になっていて、今が見頃の紅葉が黄色い枝を伸ばしている。
(なんと優雅なご趣味ですこと)
次郎吉は鼻で笑い、吐き捨てる。見覚えがあるのだ。
主の好みに池を配し山を築き、何十両何百両という金を出して珍しい石を運ばせる。庶民の長屋とは比ぶべくもない、金持ちの道楽。
この吹き抜けは、大名屋敷の庭を模しているのだ。
緋毛氈の奥に、金泥が光る襖が見えた。茶室のようだ。さざれ石の手水鉢と、刀掛けには黒鞘の大小。
勘が、次郎吉に告げた。
龍宮の主の部屋だと。
(……面、拝んでやりてえな)
いつもなら決して思わない無謀。
けれど、俺に人の目玉なんぞを食わせようとした輩だ。金を盗まれて、吠え面かくのはどんな面か、見ておきたい。
目が暗さに慣れ、やけに天井裏が良く見える。
次郎吉は吹き抜けを大きく回って、茶室の天井裏にたどり着く。だんだんと濃くなった香りは、花魁の部屋の香気に似ている。
(……?)
くらりと、目の前が揺れた気がした。
酒気か。いや、あれくらいで俺が酔うわけが……
だん、と、体が傾ぐのを足で支えた。
音を立ててはいけないことにすら、頭が回らなかった。
蓬莱の玉の枝は、吉次が産み出したもの。
刹那は、亀の言葉にあのおぞましき椀を思い出し、秀眉を歪めた。腹のあたりで黒い何かが吠えている。
手でさすり、何とかそれを抑える。
「吉次は何故、こちらで蓬莱の玉の枝を作ることになったのでしょう」
「あい。龍宮の主は、未知の美食に不死を求めておりまする。膳いくさにて、料理人たちは不死にふさわしき料理を饗し、龍宮の主を悦ばせまする」
「不死の、膳いくさ……」
いくさと言うからには、頂点を決めるもの。
蓬莱の玉の枝は、いくさに勝つための吉次の手札ということだ。
誰も思いつかない料理。それがおそらく、黄泉料理屋番付で優劣を競っているのだ。珍しい食材を使いたかったのだろうが、度が過ぎている。
「……不死を求める料理。私は、薬膳の類いだと思っていました。あの椀の材料を教えて頂けますか」
目玉を除けば確かに、神仙の地にある果実のような、贅沢で上品な椀物であった。
亀は感情を乗せず、応える。
「あい。採れたての龍眼を、茘枝の実で包んだもの、と聞いております」
「龍眼は、小塚原のものですか、鈴ヶ森ですか?」
「それは料理人のこだわりによるものでござります」
近さでいえば小塚原だな、と勝手に刹那は納得した。考えたくもない。
刑場で無料で採れるそれは、よくはないがよいとして、不明なのは生の茘枝を手に入れる金の出どころである。一介の奉公人が出せる額ではないはずだ。
「吉次が使うならと、こちらで茘枝を買ったのですか?」
「いえ。龍宮はどなたも贔屓はいたしませぬ」
「では、吉次は自分で茘枝を用意したと」
「あい。指を売って、金を工面されたと聞き及びます」
賭場か!
刹那の中で、吉次の行動が繋がった。
膳いくさとやらに勝つために、茘枝を買う金を手に入れるために、吉次は賭場を訪れたのだ。
博打に勝ったかどうかは分からない。勝てなかったから博徒に金を借りようと、指を切ったのかもしれない。
吉次は龍宮に来る前から、指を失っていたのだ。
「亀さん」
刹那は亀に向き直る。
「ここの主はどなたです。貴女ご自身は、不死の願いは叶うものと思っておいでですか?」
亀の応えはない。わずかにうつむくのみだ。
「貴女は龍宮の料理を、雲上冥賀の料理と仰った。腹の底から軽蔑しているように、私には聞こえました。そんなものを喜んで食べる人たちを」
「……!」
はっ、と。亀が刹那を見た。朱の唇が震えている。
初めて亀の目に感情が宿る。
嫌で仕方ないと。けれど逃げられない、と。
「やはり」刹那は得心した。
故郷での母に似ているのだ。患者や客に傲慢な態度で接する父の、隣りに並ぶ母に。
そんな態度はいけないと、たしなめようものなら、平手と罵声が飛んでくる。何を言ってもこの人には無駄と、あきらめた母の虚ろな目。
けれど、逃げられない。ここにいる以外、行き場がないからだ。
「貴女は、ここの主の元にいるしかない。行き場がない。せめて料理に皮肉をぶつけるしか」
この狭い龍宮城で、誰にも罪を暴かれることなく。乙姫の共犯である亀は、浦島太郎を返してやれない。
「貴女は知っておいでですね。吉次がどうして死んだかを」
「ご容赦下さいませ、その先は」
亀が懇願するように刹那を見つめる。
潤んだ大きな黒い瞳は、たいていの男をコロリと煙に巻ける色香であったが、医者はそこに別のものを診た。
驚愕に、刹那が目を見開く。その瞳も常より大きくなっていることを、亀が知るはずもない。
「亀さん、今までどこにいました?」
「えっ」
問われた意味が、亀は分からない。
龍宮で奉公する前にいた屋敷のことか? それは答えるわけにはいかない。
ついさっき、この青年に、廊下で会う前にいた部屋のことか? であれば……
「あ、主の部屋にござります……」
「案内して下さい、早くっ」
鬼のような剣幕で、客に手を取られる。
案内というが、寸分違わずこの客は、主の部屋に向かっている。崑崙山の襖に。
「ここかっ」
迷うことなく、刹那は崑崙の扉を開いた。
眼前に広がるのは、次郎吉も天井裏から見た、圧倒されるほどの巨大な吹き抜け。
しかし刹那の目は料亭の造作など見てはいない。
襖を開けた途端に濃くなった香気と、光だ。
怒りに満ちた視線を、龍宮に放つ。この吹き抜けにひとつしかない部屋――茶室『李庵』に。
「莨宕根で心中でもする気か、馬鹿野郎っ!」




