蓬莱の玉の枝・10
秋虫がひそやかに鳴く木立の中。
月の光も届かず、夜霧をまとう木々のあいだを、提灯を持つ女に導かれて刹那と次郎吉は歩を進める。
霧はひんやりと冷たい。
濡れた飛び石を照らす小さな灯りは、林の奥へ奥へと続いていた。狐火のように。
「雰囲気出てきたぜえ……」
次郎吉は、わくわくとした様子で、辺りをきょろきょろ伺っている。
「七不思議の雰囲気ですか?」
「それもういいよ。金がありそうな雰囲気だよ」
盗みに入るという目的がバレてから、次郎吉は刹那を遠慮なく相棒扱いしている。
成り行き上、助力はするが、味を占められても困る。
「せめて料亭の雰囲気ということにしませんか」
「高級な料亭、な」
未だ料亭の姿は見えない。暗い中で迷いなく足を運ぶ女に、刹那は声をかけた。
「あの、こちらはどなたが始められた料亭ですか?」
女は、頬の輪郭が見える程度に振り返る。
「あい。月から降りてきた兎が、始まりと申します」
「そういう設定なんだな」
ボソリと次郎吉が呟いた。刹那は無視する。
「今夜は、私たちの他に、どういったお客がいらっしゃるんでしょうか」
「おられませぬ」
「え?」
「一日ひと組、ひと組さまのためだけに、料理人が腕を振るいまする。雲上冥賀の膳を、ひと組さまのためにだけ」
言って、女はまた歩き出した。
刹那と次郎吉は、顔を見合わせる。
柳水亭などの高級料亭は、ひと晩で何十両という金が動くが、それは広さ三十畳もの広間で旦那衆や墨客文人が十数人、藝妓や幇間らにも酒と料理を振る舞うからである。
深川七場所は新地の料亭でも、助六と仲間との宴に他の客らも招かれ、どんちゃん騒ぎになっていた。
高級料亭はそうした豪気な客、通人と呼ばれる大金持ちが落とす金で成り立っているのだ。
それが、今夜の客は、自分たちふたりだけだという。
はたして、次郎吉の狙うような大金などあるのだろうか。
「え……狙い損……?」
「ともかく、ここまで来たら行くしかないですね」
意気消沈した次郎吉をなだめつつ、刹那は女のあとを追った。
しばらく行くと木立が切れて、急に辺りがひらけた。
そこにあったのは、見上げんばかりの高楼であった。
法恩寺の境内のはずだが、寺ではない。
何層にも重なった屋根には、青い瓦が敷かれている。その角には羽根を広げた朱雀の像だ。
柱という柱に龍が彫られ、庭の常夜灯の灯りを受けて金色に輝いていた。
楼閣の入口までは、朱の欄干の太鼓橋を渡る。欄干は赤珊瑚が擬宝珠のように生え、橋の下の曲水には大きな黒い魚影。
大伽藍かと見まがう、絢爛たる料亭であった。
「さ、三途の川? あれ極楽……?」
「……いえ、龍宮城、でしょう」
呆気にとられるふたりを連れ、女は料亭『龍宮』の軒を潜った。
目も眩むような豪奢な膳がふたり分、輪を描いて並んでいた。
通された十畳ほどの部屋は、まるで異国の地であった。
波斯絨毯が敷かれた上に、螺鈿装飾の椅子と卓。洋灯に照らされた柱は赤く、壁には草花が刺繍された絹の天幕が廻っている。
卓に並ぶのは、金の蒔絵が施された器の数々。珍しいビイドロの器もある。
椀盛りのうずらのつみれ、鴨しんじょ。焼物は小鯛のかけ塩。吸い物の裂きまつたけが赤い漆の中に浮かび、口取りは熨斗あわびと桜の葉塩漬け。
ぷるんと大ぶりの茶碗蒸しは、海老と帆立貝柱、いんげんの緑が映える。
硯蓋には鯛かまぼこ、笹さより、黒くわいの金団。
盛り交わせ菓子は、ビイドロの器に柚子のうま煮、紅葉の錦玉羹などが美しく収まっている。
あまりの豪華さに、刹那も次郎吉も、椅子に着くのも忘れて見惚れた。
「ごゆるりと、お過ごし下さいませ」
指をつき、部屋を辞そうとする女を、次郎吉が呼び止めようとして「あ、えーと」で止まる。
「あんたの名は?」
「亀でございます」
「あ、そうなんだ……」
確かに龍宮城にいざなう役は、亀なのだが。
部屋を照らす幽玄な洋灯の灯りで見る女は、この世のものとは思えないほど美しい女である。亀はもったいない。
「じゃあ、亀さん、料理を食べつつ、龍宮の中を見物してもいいかい?」
料亭は、庭や調度も手をかけて、客の目を愉しませるものである。
この三階の部屋に来るまでにも、虎を抜いとった絨毯や、吹き抜けに果実のように垂れ下がる舶来の洋灯が見事であった。
もちろん次郎吉のそれは下心である。金がありそうな場所の下見をする気なのだ。
刹那ならそれと分かるが、分からないはずの亀は、首を横に振った。
「なりませぬ」
「え、何でだよ?」
もしや警戒されているのかと、次郎吉の声が強張ったが。
「今宵最上の一品を、これからお持ち致しますので」
「これ以上のものが、まだあるのかよ!?」
次郎吉は懐具合が不安になってきた。
十両あれば足りるだろうと、親父のへそくり箱からくすねてきた。が、卓の内容と、料亭のしつらえから、この膳のかかりはとんでもないことになると感じていた。
さらに、まだ上があるというのか。
「亀さん。それはいったい、どんな料理ですか?」
次郎吉の顔色の悪さから察して、刹那が助け舟を出す。あまりに値が張るようなら断るつもりであった。のだが。
「あい。不老不死の仙薬、と申しておきます」
断る選択肢は消えた。
まさに刹那は、それを食べに来たのだから。
「楽しみです」
「そ、そそそそうだな!」
次郎吉の奢りである。江戸の男に二言はない。
刹那はゆったりと、次郎吉は親の仇のように、椅子へと着席した。
「今宵の客は、運が良いのう」
黒光りする回廊に設けられた、二畳ほどの茶席。室内だが、野点のようにも見える。
白糸の滝が降り下る音を背に、緋毛氈に座する身なりの良い男が、碗の中の茶を回しながら、目を細めた。
柔和だが、人をくったような目をした三十路ほどの男だ。
「『蓬莱の玉の枝』を饗する日に参るとは」
「まことに。なかなか材料が揃いませぬからなぁ」
その傍らの壮年の男が応えた。
黒小袖の紋付、鮫皮の大小を腰にしているが、髷は武士ではない。
「大田屋、そなたの船の手柄よ」
「有り難く存じます」
三十路男の賛辞に、黒小袖の男……大田屋が頭を垂れる。その大田屋の前にも、茶碗が置かれた。
茶をたてているのは、青白い禿頭、黒い十徳羽織の老爺である。老爺が大田屋に訊く。
「こちらの席は、今宵は我ら三人だけですかな?」
「今宵も、な、白穂どの。どうも皆の舌は、我らの舌とは出来が違うらしい」
「貧乏舌め」
三十路男が吐き捨てるが、腹を立ててはいない。
「まあ、お陰であの冥賀の味を、我らだけで愉しめるのだが」
「左様でございますな」
大田屋がゆっくりと茶を飲み干したところへ、
「お伝え申します」
和のものではない山水図の襖が音もなく開いた。白糸の滝の水音にまぎれて、鈴の鳴るような女の声。
吹き抜けを挟んだ対岸の回廊で、亀が深く頭を垂れた。
「御膳の用意が整いました」
「うむ」
大田屋が頷きかえす。
白穂老が、風炉の炭を花鳥柄の陶器壺に入れ、火を落とす。
緋毛氈から腰を上げた大田屋が、三十路男の履き物を揃えて、頭を下げた。
「では、不死の宴に参りましょう――前畠さま」




